2009年11月26日

TRPGで忙しかったというのはBlogをサボる理由になるのかしら

 どうもお久しぶりです。
 この2ヶ月間、ひたすらコンベンションに出向いてはTRPGをプレイしました。最新のゲームもあれば古いゲームもあり、GMとして新しい場所で卓を広げることもあれば、1ヶ月以上も討議して作ったパーティでダンジョンアタックをしたりと、およそTRPG者としてできることは貪欲に挑んできました。
 ちなみに、ここ2ヶ月で…、

・D&D3.5版
・戦国異聞録KAMUI
・TORG
・門星明華学園RPG
・ダブルクロス3rd Edition
・シルバーレインRPG

 …をプレイ。何年かぶりにTORGプレイできましたよ。
 KAMUI、門星明華学園辺りは感想書こうかなとも思っています。

 おかげで忙しくてBlog書く暇ありませんでした。
 TRPG系Blog界隈のことは浦島太郎です。
 
 どうにもプレイ環境が充実するとBlogを書くエネルギーを、シナリオ作ったりルール憶えたり、ロールプレイのお座敷芸を考えたりする方向に向けちゃうんですよ。
 んで、今は若干燃え尽き状態。
 
 そんなわけで生存報告。
 つーか、毎週のようにコンベンション出向いてたわけなんだし、生存も何もないですわな。
 
ラベル:TRPG
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2009年10月19日

僕は床屋がとっても苦手 〜TRPGに敷居の高さを感じている人たちへ〜

 僕が苦手な場所の1つとして床屋があります。
 とみに故郷の床屋。子供の頃からお世話になっていましたが、かれこれ20年ばかし足が遠のいています。
 理由はただ1つ。
 あれこれ詮索されることにあります。

 理髪師というのはどうしてこう人の近況について聞きたがるのか理解できない所があります。それも平日に行ったら今日は仕事がないのか、休日に行ったら今日は外出の予定がないのか、まるで他に使うべき時間がないのかと言いたげな質問ばかりしてきます。
 身だしなみのことなんだから、スケジュールを都合して来ているに決まっているでしょうに。

 故郷の床屋も、結局は子供の頃から知っているもんだから、あの子が今はこんなにと成長を見守っているかのように詮索してくるわけです。だから、うまくいかなくて思い悩んでいた時期に行かれなくなって、それっきりです。

 そりゃ誰とも親身に接したいという気持ちは分かります。
 けどね、自分の近況を床屋なんかで訥々と語るには僕はまだ達観できる齢ではありません。まだまだ思いや悩むことは多い。床屋の親身程度で晴らせる鬱憤ではないかもしれません。ましてや、本来なら教誨師やカウンセラーが取り組むべき懊悩が飛び出たとして、その床屋さんは対処できるでしょうか。その覚悟あっての詮索でしょうか。

 ないと思ってますから、詮索されれば野球の話などでごまかしてます。

◆◆◆

 TRPGも対面です。
 それも他人の前で夢想を曝し出す遊びですから、世慣れしてない人には辛い遊びです。対面するのが怖い、アウェーに立つのが怖いからとTRPGを忌避する意見はよく耳にします。

 それに対してTRPG者は常に警戒を解いて参入することを促し続けてきました。いかにTRPGは楽しいか、TRPGはこんなに素晴らしい経験を与えてくれるかと勧誘、誘惑の一手を続けてきました。それも餌(例えば「彼女ができる」「頭がよくなる」とか)で釣るような勧誘よりも、誠心誠意、趣味・娯楽としてのモチベーションに訴えています。

 今や年配のTRPG者の多くが問題だらけのイベントで苦労を重ねた者たちだらけなわけで、彼らは驚くほど親身です。
 そして、それでもTRPGへの不安や敷居の高さを指摘されるたびに自分たちの努力の至らなさを悔やんでいます。そうした無私で親身で、TRPGがもっといろんな人を楽しませる遊びであってほしいと考える人は、あちらこちらで喧伝される「TRPGの問題児」たちよりもずっと多いのです。

 彼らの誠心は敬服に値します。
 だが、敢えて言わせてもらえばTRPG者の見せる誠心、親身など所詮は床屋が見せる親身と同レベルのものであって、不安や敷居の高さを訴える人の心には届かないのではないでしょうか。

 なぜか。
 それは床屋に対する僕の不安感と同じ。
 彼らアウェーな人たちにはTRPGに入る前に経験すべきことがいっぱいあるのです。

 社交家なのにTRPGだけにはアウェー感を感じるという人は少数でしょう。社交がうまくいける人なら、TRPGの場でも普段通りの社交を見せればいいわけで、こちらも彼の普段通りの社交でうまく行くよう平静に努めればいいだけのこと。
 ことさらに偏見や先入観を顕わにする人は論外。

 TRPGに限らず、トータルに人付き合いが苦手な人、楽観を貫くには意志が強くない人、まっすぐの一本道でもあると思っていた道標がなかったりしたら足が進まなくなる人……そうした人に必要なのは説得ではなく日々の環境です。

 外を歩くのが怖いと感じる人は、自分の後ろで笑い声がしたら自分が嘲笑されたと思い身構えると聞きます。では自宅で自分がテレビに背を向けている時に笑い声が放映されたら、同じように身構えるでしょうか。
 もしテレビの声には身構えないというのなら、それは自分とは関係ない笑いであることを学習しているからでしょう。僕の実家には4歳の姪がいますが、2歳ぐらいまでは身構えてました。まだ実音とテレビの音との区別がついていない時期だったのでしょう。

 街頭の笑い声をスルーできない人も、まだ雑多な声に満ちあふれた街頭という場で過ごす日々が不足しているだけかもしれません。すなわち環境に適応していない。彼にとって街頭はまだ非日常なのです。
 
 TRPGのプレイでも同じことがあります。
 慣れない初体験のゲーム、筋書きの見えないシナリオ、話の展開が上手でないGMなど、不安要素が多くなるとプレイヤーは臆病になります。まるで自分のHPが1しかないように振る舞い、依頼やNPCを警戒し始め、テーマも設定も無視してシナリオを無難に切り上げようとします。
 システムに慣れ、ゲームの世界観を把握し、プレイの要領を得て、はじめてプレイヤーはフルスペックなキャラクターを駆使できるし、大胆な活劇をロールプレイできるようになるのです。

 もしTRPGに敷居の高さを感じる人、アウェー感が拭えない人がこのBlogに流れついたならば、思い悩む前にまず人と付き合う日々を重ねるべきです。
 慣れるというのは、同じ道を何度も歩くことです。
 勇気があれば何でもできるなどバカげてます。いつも通る道から道標がなくなっていても、狼狽せずに迷わず行けるだけの日々の積み重ねが自信の源じゃないでしょうか。
 勇気は嘘のようになくなりもするものですが、積み重ねた日々に嘘はありません。

 今、TRPGができないと泣けてくるなら、1年後でも10年後でもいい。後で見直せばいいじゃないですか。
 
 そして慣れてみれば、TRPGは夢を語りますが、語る人は神でも超人でも、別世界の人間でもない、世知辛い現実社会に生きる凡人ばかりであることに気付く時が来るでしょう。
 
 僕のBlogは決してTRPG者に対してポジティヴなことばかりを書いているわけではありません。むしろネガティヴな言説が多く、悪影響があるのではと眉をひそめられてもいます。
 だが、TRPG者は完全無欠、幸せの国からの伝道師ではありません。
 他の世の人と同じように思い悩み、問題を抱え、自分たちの行き先に怯えながら、TRPGのある日常を過ごしているのです。その事実に真摯に向き合わずして何の人生なのか。
 Blog読者には素のTRPG者というものを見てもらいたい。
 欠点だらけで素晴らしい人格者にはほど遠い、未熟で愚かなTRPG者を見てほしいのです。何ら変わりはしない。床屋が苦手な辺り、少し人付き合いが苦手です。

 TRPGはあなたたちをネバーランドに連れて行きはしません。
 現実の、この世知辛い世の中で欠点だらけの人間同士が肩を寄せ合い、共に酌み交わす酒なのです。さびしくなって飲みたいって人にそっと差し出せばいいじゃないですか。

 それでも、最後に。
 僕はもう少しここで踏ん張っています。
 なのでいつか、コンベンションで。
 
ラベル:TRPG
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2009年10月01日

お座敷芸の完成と、劇団の完成 〜『ガンメタルブレイズ』にみるシステム化によって生じる問題〜

 この前、『ガンメタルブレイズ』をプレイしてきたのですが、とても楽しかった反面、なんか色々と考えさせられることもあって複雑なプレイでした。
 
 ガンメタはカードに記された演出手引きをロールプレイで演出することによって、特殊能力を使えるポイントを得ます。特徴的なのは、ロールプレイのカード(シチュエーションカード)は複数枚を手札として渡されますが、基本的には現在登場しているキャラのプレイヤーにカードを渡し、演出を斡旋する形で行使されるということです。

 要するに、プレイ中に突如、他のプレイヤーから
 「君はこのシーンでこんなロールプレイをしたらポイント獲得だよ」
 とシチュエーションカードを渡され、その演出を即興でロールプレイするのがガンメタにおけるロールプレイなのです。

 ちなみにその時はPC1枠でヒロインNPCとの絡みがテーマだったから、何度も「2人の世界」のカードが来てNPCとばかり物語が進み、結局クライマックスまで他のPCと接点持てずに合流苦労しました。

 このシステムに対する僕の感想は、
 「お座敷芸としてのロールプレイのひとつの完成」
 を見た思いです。
 ロールプレイはTRPGにおけるコミュニケーションの道具ですが、TRPG活動自体が遊び手の歓楽を得るためのパーティであると目的を限定すれば、ロールプレイもパーティの興を盛り上げる歓談の道具に用途が限定されます。
 つまり、その場その場でみんなを笑わせるユニークな話や、みんなを唸らせるカッコイイ話を思いついては物語るのが「お座敷芸としてのロールプレイ」なのでしょう。
 『笑点』そのままです。
 ガンメタはロールプレイのお題が記されたカードをやり取りし、お題に沿ったロールプレイをすることで特殊能力という座布団を得る、まさにTRPG笑点ともいうべきゲームでした。

 この笑点システムは『番長学園RPG』が有名ですが、演出のお題をデザイナー側が提示することと、演出の評価が決められていることなど、よりデザイナーの意に沿った笑点をするという意味でガンメタは番長学園の後継ゲームと云えるかもしれません。

◆◆◆

 ここからは問題点。

 ガンメタはロールプレイの報償として特殊能力を使えるポイントを得るシステムですが、それは裏を返せば、ガンメタにおけるロールプレイはすべてポイントを得るために行われるということです。

 要するに、ポイントを得るためにいかに合理的にカードを回すかがテクニックとなり、ロールプレイがゲーム世界やキャラクターの演出といった物語のためにではなく、カードに記されたポイントをより多く獲得することを目的とした「勝つための技術」に変質してしまったことです。
 笑点だと時々歌丸師匠や他のメンバー、山田君をからかったりして座布団を没収されたりするボケがあって、それも場を盛り上げる重要なアクセントになってたりします。しかし、ガンメタの笑点はクライマックスというガチの場(「互角」という意味ではなく、遊び手がPCの性能をリミッター解除する場としてのガチ)があるだけに、そういったボケは存在しません。ひたすら実入りのいい座布団を無駄なく得ようとします。
 
 言ってしまえば、ゲームに詳しくなるほど、テクニックに裏打ちされた最適解通りのロールプレイしかしなくなるってことです。経験を積めば積むほど、そのプレイヤーは確実に額面通りのプレイしかしない退屈な奴に堕すってわけです。

 もちろん、「コイントス」みたいなカードはまず使われない。

 さらにカード渡しの合理化が進めば、たかだか50枚のカードですから「どのシーンで、どのPC枠に、どのようなカードを渡すか」が完全にパターン化され、そのパターンに従って機械的にカードが回されるようになります。
 ガンメタも予定調和を旨とするF.E.A.R社のゲームです。PC枠という物語上の役割分担を求めるゲームですから、他のゲームではパーティの成り行きで決めていた役割分担も、ことF.E.A.R社のゲームでは「誰かから与えられ遵守するものであり、互いの領分は侵犯しない」と誓約した上で楽しむ予定調和が不文律として存在しています。

 すなわち、経験者ばかりでプレイしたなら、もうPC枠が決まった時点で各プレイヤーが使用するシチュエーションカードも決定してしまうってことです。
 そして、「どのシーンで、どのPC枠に、どのようなカードを渡すか」がテクニックとして成立している以上、あらゆるプレイヤーはゲーム中、カードを渡すタイミングを見計らうという、それはそれは忌まわしい「空気を読む」ことをしろってことになります。

 冗談じゃない。

 けど、そんなディストピアなTRPGをセッション後の打ち上げで、本気で討論してましたからなぁ。しかも、否定しなくちゃいけないはずの人が何らアクションしてなかったし。

 なんかがっかり。
 そんなんだったら、もう一定の数値だけブレイズトリガー(座布団)渡して、ロールプレイはカードなんか用いない方がお決まりの行動に終始せず退屈しないセッションができるのではないでしょうか。

 つーか、PC枠が決まったら、もうクライマックスまでの間、喋ることまで事前決定していますってプレイヤーが無理して人間である必要などどこにあるんですか。

 ひょっとしたら、ロールプレイの完成がお座敷芸などではなく、「劇団としてのロールプレイの完成」なのかもしれません。予定調和によって完全にコントロールされたTRPGは演劇に等しい……。

 やだやだやだ。

 ガンメタに関しては、こんな馬鹿げたテクニックや予定調和に惑わされず、純粋にゲーム世界やキャラクターを演出することを楽しみたい人とプレイしたいですし、GMとしてもクライマックスまでファッションショーでいいかなと考えています。

 もちろん、最適解を求めるマンチなプレイ自体を批判するつもりはありません。つーか、「システム化とは、遊び手の行動に巧拙の審判をつける行為」であり、「システム化すれば、行動には合理的か無駄かのパターンが生じ、最適解を解くパズルが生まれる」のは腕比べが目的のゲームにおいては宿命でして、それを批判するのは道理が分かってないことになります。
 そして「パズルが生まれる環境では、パズルを解く楽しみがゲーム本来の目的とは別に目的化する」、「ゲーム本来の目的が巧拙の審判から遠ざかれば、巧者ほどパズルを解く楽しみの方にモチベーションを見いだす」のもまたゲームの原理であると僕は考えています。

 すなわち、TRPGとていかに楽しい腕比べをさせるかというゲーム活動そのものに関わる命題には答えを出さなければならないし、そこにデザイナーの腕の見せ所があるのではと思います。
 どんなゲームにもギブスンの『クローム襲撃』にある短編『ドッグファイト』の主人公・ディークのようなドッグファイターはいるものでして、彼らがクズとして孤立しないようコントロールしなければならないのです。

 もちろん、TRPGは遊び手カスタマイズしてデザイナーの提示した通りではない遊びを提供しても問題ないゲームですから、原本だけでは不満な要素があったとしても、ただ不満をぶつける扇動者となるだけしかないCRPG愛好者とはアクションが違ってきます。

 素のままでダメなら、やりやすいように改造するべし。
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2009年09月28日

ルールブックをPDF化するには 〜TRPG電子媒体化への道・前編〜

 TRPGで遊ぶにあたって、1つ問題なのはルールブックが重たい本だということです。A4版200ページ前後のルルブは大抵、重量にして700g〜1kgぐらいあって、結構重量感があります。
 もちろん、サプリメントを使用するシステムとかだとその分も加算されますし、コンベンションだと卓決め抽選があったりして、当日どんなゲームがプレイできるのか分からない場合もあるので複数のルールブックを持参してくることもあります。

 そうなると総重量は5kg近くになることもあります。
 もはやカートで引いてくるレベルの重量であり、そこまでして来る人なんてそうそういるもんではありません。実際コンベンションではルルブを持参しない手弁当な参加者も結構いますけど、何をプレイできるか分からないという不確実な所がある以上、そう責められる問題ではありません。

 そこで考えついたのがTRPGの電子媒体化。
 電子媒体にして持ち運びをすれば重量はかなり軽減されるのではと考える人がいたっていいはずです。

 そんなわけで、今日はTRPG電子媒体化について、まずはPDF化への道です。

◆◆◆

 TRPGは大抵が書籍です。
 書籍を電子媒体化するには書面をスキャニングし、PDFファイルで保存するのが一般的です。国産TRPGでPDF販売されているものは知っている限りではないので、電子媒体にするには自力でスキャニングをするしかありません。

 今回、この記事を書くにあたって書籍のスキャニングをしている業者に依頼して、実際にルルブをPDF化してもらいました。

本をスキャンし電子化するスキャニングサービス-ペパレス

 今回依頼したのは、現在絶版中のルルブ1冊と、現在も販売中のルルブ1冊。ともに200〜350ページ。重量は絶版中のが約1kg、販売中の方が約750gです。

 なお、具体的なシステム名はお伝えしませんし、PDFでの見本はお見せできません。会社さんのホームページにある見本を見て参考にしてください。
 

 この会社では、スキャンするに当たって2つの選択肢があります。

1:本の背を裁断してスキャン。料金1000円。
2:本を裁断せずスキャン。料金2500円

 1番は本を背中から5mmぐらいの所でばっさり裁断。全部バラバラにして連続スキャン。2番は1ページずつ手作業でコピー機みたいにスキャンします。1番のメリットは裁断するため、2番よりも本の内側までスキャンできるのに対して、2番は本を破損しないかわりに本の内側がスキャナーに届かなくなる恐れがあります。
 
 今回は絶版中のルルブを2番。販売中のルルブを破損覚悟の1番で注文しました。作業費1000円、配送費450円と併せて4550円の出費がかかりました。

 見積もりから作業終了、書籍とデータが送られてくるまでに5日ほどかかりました。

 今回は200dpi24ビットカラーによるスキャンでしたが、絶版中のルルブ(約350ページ)はPDFにして約150MB、販売中のルルブ(約200ページ)は約65MBほどの容量に収まりました。
 今回のスキャンの結果ですが、非裁断にしたルルブも一番内側の文字がギリギリ写っており、使用には何ら問題ありませんでした。

 ただ、オプションサービスにあるPDFのOCRソフトによる文字のテキスト化は文字化けが著しく、およそ役には立ちません。会社さんに校正を依頼すればそれこそ1ページいくらの世界なので、今回はしませんでした。

◆◆◆

 次回はPDF化したファイルを持ち運ぶにあたって、はたして本を持ち歩くより手軽なのかについて。

 なお、ルルブをPDFする行為が著作権上問題がある行為なのかについて、個人的用途での使用である以上問題はないと思っています。当然ながら、作成したPDFファイルを配ったりするのはダメなので、暗号化などの管理が必要になるでしょう。
 ルルブを破損する行為自体もかつてHOBBY JAPAN社がRPGマガジン誌にて自社製ファイルケースの宣伝記事にてルルブを裁断する記事があったことだし、問題はないかと存じます。


ラベル:TRPG PDF ペパレス
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2009年09月20日

ゲームブック的遊びにはロールプレイは余興に過ぎないのか

 連休です。
 僕も実家に帰省するにあたり、念願のネットブックを購入しました。
 これで「電子媒体だけでオフラインTRPG」という道に近づいたかと思ったのですが、色々問題もありまして…。
 これに関しては現在検証中。
 
 今日はTRPG内AVGとゲームブックとの関連性についてのノート(自分の思索を書き綴ったチラ裏)です。

◆◆◆

 TRPGで、いわゆる情報収集と呼ばれるTRPG内AVGは大抵がGMが考えた物語の筋書きをジグソーパズルにしてゲームの舞台にばらまき、ひたすら情報の断片というピースを拾い集めては筋書きを読み解くというゲームをしていると思います。

 この遊びはいわば「選択肢を自分で考案するゲームブック」であり、ゲームブック好きとTRPG好きはファンタジー好きの物語文化圏の中でも近しい位置にいるだけに、TRPGで物語を扱う場合の定番になっていると言ってもいいでしょう。
 僕自身はゲームブックにはそんなに馴染んでなかったので、この遊びにはそれほど執着していないのですが、今日はそれは置いときます。

 僕が考えているのは、このゲームブック遊び自体には「キャラクターを物語の登場人物として演出するためのコミュニケーション技術」としてのロールプレイは必要ではないのではということ。
 
 言わば、プレイヤーのゲームブックをもっと自由な展開で遊びたいという欲求と、GMのゲームブックのような物語を提供したいという欲求の合致によってこのゲームブック遊びは成立し、そこにはプレイヤー自身とGM自身との非ペルソナ状態というゲームの構図がある…。
 すなわち、間にキャラクターが立っている意味がない。
 プレイヤーとGMとのチャットに過ぎないのではないか…。

 もしTRPG内AVGの本質がゲームブック遊びであるならば、ロールプレイを「キャラクターを物語の登場人物として演出するためのコミュニケーション技術」だとした僕の見解は無用、もしくは別次元の話ということにもなります。
 物語を作るというゲームにおいて、主役はゲームブック的遊びをしたいプレイヤー本人であって、キャラクターを物語の登場人物として仕立て上げるような遊びではない…。

 実際、僕がこのゲームブック遊びと呼ぶことにしたTRPG内AVGにおいて、ロールプレイは演出というより小芝居であり、コミュニケーションというより座興のために行われるものに僕には見えます。
 いわゆるキャラクタープレイと呼ばれるものですが、ゲーム上の機能は皆無で、とにかくパーティを盛り上げる宴会芸としてのみ機能しているのではないでしょうか。

 そう考えると、ゲームとしてのロールプレイを考察すること自体が馬鹿馬鹿しく思えてくるのですよ。「ロールプレイはお座敷芸であり、ゲーム上の役割はありません」しいうのがロールプレイに関する一番目的に適った説明になるのでしょうか。

 それは違うと言いたいが、それには確固としたゲームモデルが必要です。少なくとも、ゲームブック遊びの中ではロールプレイは必須の技術ではありません。

 実の所、僕自身はあまりゲームブックとは縁がなくて、ゲームブック遊びにも必要性を感じていません。むしろコンシューマーゲーム、ライトノベル、アニメにPCゲームとキャラクターメディアに強く影響されていますから、キャラクターを立てるという遊びに慣れ親しんでいるのです。それがSLG、MWG、ボードゲームにゲームブックといった遊び手本人のゲームセンスを競う遊びに慣れ親しんだ上の世代との間でギャップがあるわけです。

 もちろん、全くの妄想からロールプレイへの着想を得ているわけではありません。
 そこらへんは『サイバーパンク2.0.2.0』や『トーキョーN◎VA』、
『TORG』といった演出としてのロールプレイがテーマとして、あるいはシステムとして搭載されているゲームが強く影響しているのかもしれません。
ラベル:TRPG
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2009年09月12日

種明かしセッションは憂鬱だ 〜GMによる手作りTRPG内AVGの問題点〜

 TRPGのアドベンチャーパートは選択肢のないゲームブックみたいなものです。
 スタートとなる依頼のシーンから始まり、ゴールとなるクライマックスの種明かしで終わりますが、GMによっては途中の道筋がまったく立っておらず、とにかくプレイヤーがシナリオ展開に必要なキーワードを思い浮かべるまで、当てもなく街をさまよう展開になることもままあります。

 物語の展開方法がシステム化されていないTRPGでは各GMがハンドメイドでAVGを作ってくるものですが、大抵が家庭用ゲーム機の推理AVGの手法に近いものが用意されるものです。
 すなわち、

・依頼者の元に集められる。パーティが置かれた現在の立場を確認し、事件の存在を告げられる。パーティの行動範囲が定められ、漠然とした目標が提示される。
 
 ↓

・事件の現場に行く。事件の概略を示すキーワードが提示される。

 ↓

・プレイヤーはキーワードから、シナリオを展開させる新たなキーワードがある場所を推理する。捜査がキーワードに合致すれば、GMは新たなキーワードを与える。
 キーワードに合致しない推理は無駄骨となる。

 ↓

・パーティがクライマックスに到達できるだけのキーワードを獲得していると判断したら、パーティの了承を得てクライマックスに入る。GMはここで事件の全容を種明かしする。

 ↓

・パーティがクライマックスをクリアしたらエンディングに入る。ここでパーティが獲得できなかったキーワードが提示され、GMは全ての真相を明らかにする。

 ……という展開です。
 要は「GMが考えたキーワードがどうすれば得られるのかひたすら推理する」のがTRPG内のAVGです。重要なのは、実際に行動するのはプレイヤーとは違った人格を持つキャラクターであるというゲーム上、キーワード自体の推理は目星に過ぎないってことです。

 例えば、殺人事件の捜査で犯人はナントカ氏だとプレイヤーが推理したとします。だが、それが真実だとしてもシナリオは何の展開もしません。プレイヤーが「キャラクターはどこをどの手段で捜査すれば、ナントカ氏が犯人であるというキーワードを見つけ出せるのか」を推理し、それが有効手であるとGMが判断してはじめてシナリオが展開します。
 すなわち、

・キーワード自体の推理
・キーワードを得られる場所の推理
・キャラクターがキーワードを得られる手段の推理
・キャラクターがキーワードをある場所に行き、得るための手段を講じるための的確なロールプレイの考案とGMへの説得

 ……の4つの推理、説得を成功させてはじめてGMは物語を展開するためにダイスを振る許可を与えてくれるのです。

 TRPGはキャラクターを操るロールプレイを楽しむゲームですから、遊び手同士の知恵比べよりキャラクターを操作する楽しさの方が常に優先されます。上述の難しいキーワード探しも、プレイヤーが推理するのではなく、キャラクターが物語世界の中で推理に勤しむ光景を楽しむのがゲーム活動の目的であるがための手段です。

 こうして理念はあるし、およそよくいるGMが用意してくるAVGの展開も、大体の常道は上述の通りにあります。ただ、それがうまく機能しているとは限りません。
 むしろ、「ロールプレイができなかったらどうする」という問題をうまく解決できないGMは多くいます。上述の4段階思考法はこの記事をまめとるために僕が急遽考えたものであり、問題を抱えるGMの多くはこうした思考法に無頓着です。

 TRPGはロールプレイをするゲームですから、キーワードさえ与えればプレイヤーは自ずとキャラクターを操作してキーワードを得られる場所や手段を特定し、見事なロールプレイをしてくれるだろうという期待はGMとして当然抱く感情です。
 ただ、それには難しい思考法を習得してはじめて可能になります。
 ロールプレイというキャラクターの操作方法に習熟する必要もあれば、その操作に不自然がないようGMを説得する論理力も要求されます。
 ゲーム世界でのキャラクターの「可能・不可能」、「常識的・非常識」に関して深い理解があり、あくまでもキャラクターが理にかなった行動を取ったようロールプレイをしなければ、ゲーム世界の提供者であるGMを満足させることはできないでしょう。
 ロールプレイを楽しむTRPGたるもの、遊び手は良きゲーム世界の再現者でならなければならないし、少なくともそのゲームが好きだと自認している人はそう振る舞うことを喜びとします。

 この「TRPGの遊び手はロールプレイをしてゲーム世界を再現する」という考えが行き過ぎると、まず的確なロールプレイをしなければ、キーワードすら提示しないという、推理の機会すら奪う暴挙をしでかすGMが出てきます。
 
 事件現場に向かって、プレイヤーがすることは「キーワードを得るにふさわしい的確なロールプレイをする」ことであり、これがGMの意に適していなければ、何の情報も与えないこともあります。GMとしてはプレイヤーは的確なロールプレイをあれこれしてくれるものと期待していますから、意に介さないロールプレイを「はずれ」としても問題を感じないのです。

 だが、上述の通りロールプレイは難しい思考法が必要なのです。
 そんなに器用にできる人などそうそういません。
 どんなゲームだって、その世界での「可能・不可能」、「常識的・非常識」の領分などルールブックを読んだだけでは理解できるものではなく、十分に経験を積んだ一部の古強者だけが悟れる境地です。

 普通のファンタジー世界でも、街の裏事情を調べるにはまず盗賊ギルドを発想し、そこが該当する裏事情に精通しているかを考え、それがどこにあって、PCが問題なく接触するにはどうような手段をとればいいのか……これらのことを咄嗟に思いついて説得できなければ、GMは判定の機会すら与えてはくれませんでしょう。

 大抵がやっとのことで1つか2つアイディアを出して、それが通用するか恐る恐るGMに打診するのが精一杯。それが無効手だと判断されれば、もうプレイヤーは途方に暮れるしかありません。

 下手なGMはこうして何度もプレイヤーに自分の意に適わぬロールプレイをさせては途方に暮れさせて、セッションが停滞したので渋々と強制展開をしてはキーワードを種明かしし、釈然としないまま戦闘でお茶を濁すものです。

 『シルバーレインRPG』サプリメント、『メガリスクライシス』には拡張ルールとして、偶然の力で物語を展開させるリール判定があり、『まじしゃんず・あかでみぃRPG』には行き詰まった時に強制展開させるカオスチャートなるデータがあります。
 これらのシステム、データはシナリオに行き詰まった場合の救済処置なのですが、これらのシナリオが生まれたこと自体が、TRPG内AVGの最大の問題が行き詰まりにあることを浮き彫りにしているのではないでしょうか。
 少なくとも、僕は行き詰まり救済システムは使ったら負けかなと思っています。

 こんな僕ですから、プレイヤーが何1つ自力で物語を展開させることができず、GMが終始種明かしをして進むセッションは憂鬱でしかないのです。
 GMが思い描いた物語を忠実に再現することだけがロールプレイではないというのに……。

 かく言う僕も、今の今までそうしたプレイヤーにキーワード探しをさせるシナリオばかり書いてきたわけで、他人を叱るよりまず自分を改善したくて仕方がありません。
 つーか、それが当たり前だと思っていて、自分の目指すセッションと摩擦が起こったので初めておかしいと感じたわけでして……。

 僕はシナリオ展開の主導権はプレイヤーにあり、ロールプレイはプレイヤーが物語を自分好みに書き換えるための道具であってほしいと常々思っています。
 海賊を討伐するシナリオで、海賊船を乗っ取って自らが海賊になってもよいとするのがTRPGの自由です。それを実現するためにも、GMに主導権がありすぎる現行のTRPG内AVGの常道を再検討すべきなのではと考えています。
ラベル:TRPG
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2009年09月01日

消失した「なりきり演技」論 〜「語る」技術としてのロールプレイの黄昏〜

 TRPGもそうですが、MMORPGなんかだと「人生すべてを賭けている。俺は偉大だ」と自負する廃人ゲーマーがよくいるものです。遊びなのに「遊びのつもりで参加するな」といきり立つ人ならTRPGにもいて、僕みたいなルーニーはよく白眼視されます。
 こういう人たちを僕は「最前線に立っている」と表現しています。
 彼らは戦っているのです。最前線に立つ者の自負のみを支えに。
 
 今日はロールプレイについてまた再考しました。

◆◆◆

 TRPGでロールプレイをする楽しさって何でしょう。
 今までは物語に参加する楽しさ……幻想的な物語世界を舞台に、自らが物語の登場人物となるキャラクターを操り、GMや仲間との語らいの中で楽しい物語を作り出していくことが楽しみと言われてきましたし、それは間違いではありません。

 でも、それだけでは何か足りない気がするのです。
 事実、ロールプレイをしたからといって、必ずしも楽しめる結果が返ってくるとは限りません。TRPGはゲーム以前に人付き合いですし、円滑なコミュニケーションなしには成り立たない遊びです。コミュニケーションがうまく取れずに消化不良になったセッションなど何度もありますし、相手のロールプレイを不快に感じたこともあれば、その逆もあります。もちろん、喧嘩別れになってしまったことすらあります。

 同時に、コミュニケーションがうまくいってロールプレイが活かされた時の快さは「物語への参加」という言葉では表現不足なのかもしれません。ぶっちゃけ、TRPGは遊び手個人の夢や空想を発露する場ではないのです。成功したセッションでは尚更。

 ルールブックではまず販促として個人がロールプレイをする楽しみから語りますが、ロールプレイをする楽しさはゲームを成立する楽しさより下位ですし、最上位としてパーティとしてのゲーム活動を成功させる楽しみがあります。GMや遊び仲間との交友に成功しなければ、実際何も楽しめません。
 セッションに臨めば、そこには自分と同様にロールプレイを欲する遊び仲間がいて、その上に自作の物語を提供するGMがいます。誰もが自分なりの物語を持っていて、限られた時間の中で対話を重ね、時には諦め、時には妥協し、想定外の役をふられる時もあれば思わぬ屈辱を受けることもあります。
 その中で各自が得意分野を確認し合い分担をして、共同作業でシナリオを解決するのがTRPGのセッションです。決して、争いをして勝った者が決裁するのではなく、誰もが好き勝手放言して欲求を満たすだけでもありません。
 合作こそTRPGが30年以上かけて培った遊び方の伝統であり、TRPGは個人の夢や空想を叶える場ではなく、個人の夢や空想を持ち寄って「みんなの物語」を合作する場なのです。

 今までロールプレイの技術と言えば、いかに自分が物語の作家として事故の夢・空想を演じていくかとか、いかに言いくるめをして口プロレスを制するかとか、自己実現の道具としてしか語られていないという懸念を僕は抱いています。
 現実のセッションはどうでしょうか。
 そんなに毎度、技巧を駆使してまで我を通してますか?
 口プロレスなんて大層な話芸がそれほど必需ですか?

 繰り返しますが、TRPGはみんなの物語を作るのが楽しいのです。
 そしてロールプレイはみんなの物語を作るために合作をするための手段であって、自己表現の手段ばかりではないのです。

 合作の手段としてのロールプレイは決して「語る」ためだけにある技術ではありません。それと同じくらい、遊び仲間のロールプレイを「聞く」技術も必要なのです。自分のキャラクターを活かすのと等価値に、遊び仲間のキャラクターを活かす技術があり、そしてGMのシナリオを活かす技術があり、ゲーム世界を活かす技術がある…。

 ロールプレイは話芸でもディベートでもなく、コミュニケーションのための技術です。一方的に相手を論破しやり込め、自分の意のままにして場を掌握するなど、そんなもん遊びに持ってきて何を得たいというのでしょうか。
 そりゃ昔はTRPG界隈はヲタクのサロンで、サブカルで教養人ぶりたい書生くずれが清談で妍を競いあっていたものですけど、今はヲタクのサロンなんかじゃない「多くある趣味の1つ」。
 何か真剣になる所を間違えてるような気がします。

 昔、ロールプレイを「なりきり演技」と評しての批判がまかり通った時期がありました。その時期は、ロールプレイに好意的な意見も批判的な意見も、ロールプレイそのものは個人の欲求を通すための、個人のための技術であるという認識では一致していたのかもしれません。

 結局、時代が進み物語文化が発展して、強烈な個性的キャラクターを表現できるシステムやテンプレートにあふれた現代のTRPGではなりきり演技をしてまでキャラクターを表現する必要性も薄れ、なりきり演技の論題はすっかり影を潜めてしまいました。

 今までの「語る」ことのみに重点を置いてきたロールプレイの技術は、TRPGの実際を顧みない独善的な技術であるばかりか、現代のTRPGではなくてもよい古びた技術になったのではないのかもしれません。技巧を尽くしてまで「語る」ことが必要なゲーム環境ではなくなったし、ゲームの方も語って勝つのがよいというものではなくなりました。

 ロールプレイをする楽しさに関しては、合作のためのコミュニケーション技術であることを踏まえて、その意義や目的を再検討する必要があると僕は考えています。

 

 
 
 
ラベル:TRPG
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2009年08月25日

ライフパスの存在感が薄すぎる

 4月から生活のサイクルが変化して、夜中0時以降に起きてるのがとてもツラくなりました。健康のこと、何よりもコミケでぶっ倒れないために夕食後ウォーキングを始めたのですが、きっちり運動していると23時以降は眠たくて仕方がありません。

 まったく、Blogを書く時間が取れなくてすみません。
 
 では今日もコラム。
 今日はライフパスの役割について。

◆◆◆
 
 ライフパスとは「PCはどのような生まれなのか」「冒険に出た経緯は」など、PCの物語的背景・立ち位置を設定するデータ群であり、多くのはチャートにまとめられています。

 僕が初めてライフパスに触れたのは『サイバーパンク2.0.2.0』だったんですが、自分の想像を凌駕するほど劇的なパンクを作り出せるライフパスは当時かなり衝撃的でした。自分のキャラがどこまで有能になるか、はたまた手ひどい仕打ちを受けるのか…、2.0.2.0のキャラメイクはエキサイティングであり、プレッシャーを感じ、そして盛り上がりました。

 2.0.2.0日本語版が出た当時ライフパスと言えば『トラベラー』というのがあり、これのキャラメイクもとても楽しめたゲームでした。18の若者からスタートして、選んだ経歴に従ってキャリアを無事積めたかで判定して、成功すれば能力値や技能を積める…。これを1判定4年で行って中年以降になってピークになったらキャラメイク完成……なんだけど、キャリア途中で死んだりしてやりなおしとか、このゲームも劇的な不良中年ばかりできて盛り上がったものです。

 2.0.2.0のライフパスとトラベラーの経歴。
 この2つのゲームでのライフパスってのは、プレイヤー本人の発想では及びもつかない別次元に生きるプロでありパンクを作るものであり、それをキャラメイク時にみんなでワイワイやりながら、「うわっ、俺こんなひどい生い立ちになったよ」と盛り上がるためのツールであったと僕は考えています。

 つまりライフパスは劇的であることが第一。
 そして仲間を面白がらせるユニークさがあってこそが華であり、ライフパスを作る目的はコミュニケーションのためにあるのではないでしょうか。

 そう考えると、ここ何年かに出た何作かのTRPGにあるライフパスは何かと物足りなく感じ、なんか無駄な要素に思えてくるのです。

 例えば、2.0.2.0より劇的な設定である『ダブルクロス』や『エンゼルギア』なんかだと、オーヴァードだったりシュネルギア適応者だったりと、PCの大本の設定自体が十分劇的であり、「両親を亡くした」だの「施設で育てられた」だのいったライフパスの設定がちっとも劇的に感じません。むしろこれから遊ぶシナリオの方がPCの人生としてはずっと劇的でしょう。
 同じ現代伝奇でも『シルバーレイン』になるとライフパスの各項目ごとに能力値のプラス修正があって加算されるものですから、ライフパスが単なるブースト(強化)のための数値修正が目的であり、物語的背景などはただの端書きに過ぎません。

 国産の現代伝奇物TRPGはPCの存在自体に劇的な設定がなされており、それこそPC全体の設定とキャラクタークラスの設定だけで、十分キャラクターの個性を演出できてしまうものです。これらの設定に比べてパンチ力が弱いライフパスは別に演出する必要はなく、演出しても盛り上がることは少ない「端書き」になってしまっているように思えます。
 
 劇的な設定がいる伝奇物でもそうですから、プレイヤーにとって劇的なPCが出来る必要がないファンタジーでは、それこそ無理してライフパスを設定する必要があるのか甚だ疑問なのですよ。

 設定した側も、その設定を目のあたりにする側も共に「ふーん。そうなんだ」程度にしか盛り上がらないライフパスのデータ群はコミュニケーションの道具としての役割を失さており、単なるルールブックの穴埋めに成り下がったと言っても過言ではないでしょう。
 ライフパスが単なるキャラクターシートの余白部分を埋める端書きに堕すのは、かつてライフパスで盛り上がっていた僕からすれば実にもったいないわけで、何らかしらのアイディアを以て改善したいものです。

 システム面で面白いギミックを入れるのも解決策ですが、普段のプレイでも例えば冒頭でいきなり開陳するような野暮は避け、プレイの幕間にPC同士のロールプレイをする際に一定条件下で演出できたら何らかのボーナスを与えるとかいった工夫などしてみたら面白いかもしれません。
ラベル:TRPG
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2009年08月06日

銃の時代の戦士 〜TRPGにおける「初心者は戦士」の鉄則への疑問〜

 もうじきコミケです。
 今年も非電源に行きたいのですが、2日目でしょ?
 コミケは朝並んで10時からたっぷり楽しむのがいいんですけど、2日目ってあの東方があるんですよね。前回、それと知らずに電車乗ったら初日よりも人が多い上に、明らかに危険なのがワンサカいて心底嫌になってるんです。
 つーか、改札脇の鉄柵乗り越えるのは引いたというより、止めろ。

 今日はファンタジーTRPGにおける戦士=初心者向けという通例への疑問を投げかけてみます。

◆◆◆

 ファンタジーTRPGでは「初心者は戦士を選ばせろ」というのがセオリーとされてきました。魔法使いや僧侶など、ゲーム中にデータを駆使するクラスは初心者の事務処理速度ではプレイに支障をきたし、盗賊などの技巧クラスをプレイさせるには機転がきかない…。しかるに、武器と防具を与えれば後は攻撃の一手で済む戦士が一番簡単である……というのが、従来の論点でした。

 でも、昨今のTRPGを見れば『D&D 4th』にしろ『アリアンロッドRPG』にしろ、『ソード・ワールドRPG2.0』にしろ、「戦士=初心者向け」というセオリーはもう時代遅れの認識かと思えてきます。

 なぜなら、初心者に戦士を推す理由は、

1:キャラメイクにおいて取捨選択するデータが面倒でないこと
2:プレイ時に管理するリソースの管理が面倒でないこと

 という2点にありますが、この3作品を含めた昨今のTRPGでは戦士系がデータの選択やリソースの管理において格段に面倒かつシビアになっているからなのです。

 今や多くのTRPGで技能および特技に類する、かつてスペルキャスター(呪文などの特殊データを使えるクラス全般)のみが扱っていた特殊データをどのクラスでも扱えるようにしています。

 とみに戦士系の技能、特技は戦闘における数値修正およびダメージ量のみに集約される……要は「いかに攻撃力、命中確率を上げて大ダメージを与えるか」、「いかに防御力、回避確率を上げてダメージを防ぐか」という目的に絞られてデザインされますし、遊ぶ側もその一点に集中してキャラメイクをします。
 
 まこと、戦士とは武器と防具の機能こそが存在意義の全て。

 従って、きちんと数値を計算し尽くして最善手を打ったキャラと、数値の見立てをせずに設計したキャラとではキャラの性能が段違いになります。
 これが攻撃魔法から幻術、占術まで存在意義が幅広い魔法使いや僧侶なら、攻撃魔法特化とか占術専門とか、活躍の場面が一様でないだけに最善手は一概に決められない所があります。すなわち、どこかで「使える」要素があり、優劣の物差しでは計れないってことです。
 ところが、戦士は「敵にダメージを与える」「敵のダメージを防ぐ」にデザイン、プレイともに目的が集約されてますから、データの選択には自ずと最善手が生まれ、選択の巧拙が生じるのです。

 要するに、技能・特技が搭載された昨今のTRPGでは、役割が単純な戦士系はデータの選択がシビアなのです。算数が得意でないと昨今の戦士は務まらないのです。
 
 さらに戦闘特技にMPの消費など使用回数制限を設けるTRPGもあり(上記3作品にはある)、かつて戦士がただ攻撃の一手で済んでいた理由である「リソース(管理資源)を気にしなくていい」という時代は終わりました。戦士も他のクラス同様、リソースの管理を義務づけられたのです。
 
 武器は剣のままだが、使用回数制限によってTRPGの戦闘は剣の時代から銃の時代に進化したのです。戦士は常に弾丸の残量を気にしながら戦う必要に迫られているのです。
 戦闘において弾丸は打ち止めもダメですが、出し惜しみという選択もただダメージを受ける機会を増やすだけでダメ。しかも常に前線に立つので攻撃の判断は毎ターン求められ、後方で好きに戦機を窺える他のクラスと比べて、リソースの管理がより頻繁に発生します。

 銃の時代になった昨今のTRPGでは、戦士は全クラスの中でもリソースの管理が頻繁になり、事務管理能力が未熟な初心者には高負担のクラスになったのです。

◆◆◆

 データの選択がシビアになったこと、頻繁な事務管理が要求されることなど、銃の時代に生まれたTRPGでは戦士は資源管理、状況把握、取捨選択に精通した熟練者向けのクラスとなっていますし、役割が単純なだけに上手い下手の差が如実に現れてしまいます。

 こんな時代で初心者に戦士を任せようなら、先輩の指図を受けまくった、自分で考えたのはそれこそ名前だけというお仕着せのキャラメイクをする。戦闘ではどう特技を打てばいいのか分からずに毎ターンまごつく。自分のキャラを操作するのに忙殺されているからパーティ全体に目が行き続かず、気がつけばHPが激減していたりする……。

 要するに、初心者を役立たずにしてしまうってことです。

 TRPGの熟練者はいずれもアドバイス大好きですから、初心者が役に立てなくてまごつくのを喜ぶ人もいることでしょう。だが、どうしていいのか分からずにまごつき、1から10まで先輩のアドバイスに従ったセッションをした初心者がTRPGについて評価することなどできるでしょうか。

 そして、「よく分からなかった」「狐につつまれた」「実感が湧かなかった」という感想を抱いた初心者が取る行動など、愛想笑いで誤魔化して2度と近づかなくなるに決まっています。

 初心者がプレイを継続するようモチベーションを維持させるのに必要なのは、熟練者の親切心などではなく、初心者自身のゲームへの実感に他なりません。初心者自身が自分の行動によってゲームを動かした、役に立ったという実感を与えなければ、そのゲームは「プレイ」ではなく「ガイダンス」に堕してしまうのです。

 かつての初心者は戦士の時代においては、データ選択、リソース管理という役目を免除、軽減されるという「思考しなくてよい」という意味で「簡単」が用意されていました。思考しなくても、ダイス1つで実感の湧くプレイは出来たのです。
 だが、誰もがデータ選択、リソース管理を求められる銃の時代のTRPGにおいては、その役目を免除、軽減できるという方向で初心者向けという事態は存在しません。

 本記事で戦士を熟練者向けとした理由は「データ選択がシビアであること」、「リソース管理に余裕がないこと」です。ならば初心者に向いているクラスは「データ選択に多様性があること」、「リソース管理に余裕を持てること」が条件だと僕は考えています。
 そう考えると、僧侶や吟遊詩人などの支援・援助系キャラが今の時代には初心者向けなのではないでしょうか。
 
ラベル:TRPG
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2009年08月03日

ご都合主義は残念プレイなのか

 とりあえず生存報告。
 つーか久しぶりに週1ペースでセッションだったので、Blog書いてる余裕ありませんでした。Blogを書く重要なモチベーションとして「プレイができない鬱憤」がある以上、色々GMの支度をしてたりするとどうしても鬱憤が溜まらないものでして…。
 いや、リア充になることはブロガーにとってよくないことです、ハイ。

 そんなわけで、今日最近プレイしているシルバーレインからつらつらと。システムのおさらいもしますから、知ってる人には冗長だけどそこはご了承下さい。

◆◆◆

 ここ最近は『シルバーレインRPG』をGM、プレイヤーともよくプレイします(PBMには参加していません)。僕としては以前プレイしていた『特命転攻生』の後継として取り組んでいますが、システムとしてはかなり優れているだけに特命のような一発屋キャラゲームになりはしないかと不安を感じてはいます。

 さて、このゲームは能力値として《気魄》、《術式》、《神秘》の3種があり、それぞれ体力、知力&技能、運勢&ご都合主義を司っています。シルバーレインはこの3種の能力値の中から1種を用いて、「私はこういう手段で判定をする」と手段を講じてから判定をします。

 例えば「必要な情報を入手する」なんて判定でも、

《気魄》:地道な聞き込み。歩き回って探す。etc…。
《術式》:資料を揃える。検索をする。etc…。
《神秘》:実はその道に詳しかった。偶然情報が舞い込んだ。etc…。

 …などと手段を宣言してから判定をします。
 判定は数値の書かれたカード(各プレイヤー複数枚所持)を2枚まで出し、さらに補助としてほかのプレイヤー2名までが1枚ずつ出すこともでき、出たカードの数値を積算して判定値とします。
 この時、判定に参加したプレイヤーは出したカードに書かれた推奨ロールプレイを行うことで、山札からカードドローが出来るポイント(「運命の絆」)を獲得できます。

 プレイヤーとしてはこのシステムはかなりクセがあるけど、とても楽しめるシステムです。ただGMとしては、システムに馴染めないプレイヤーがいて、楽しめるよう教えるのはいささか苦慮しています。

 それというのも、判定の基準となる「手段を講じる」というのが中々考えがつかないという人が意外といるのです。
 よくあるTRPGだと判定は「《筋力》で判定します」などと使用能力値をストレートに明示して、それでダイスロールをするのが通例です。ダイスを用いたTRPGだとダイスロールが判定のロールプレイよりも楽しいからか、ロールプレイを冗長と見て省略する傾向がよく見受けられます。

 そういうTRPGに慣れた人にとっては、シルバーレインのまず判定のロールプレイを考案するというプレイに戸惑うのかもしれません。シルバーレインはダイスロールがありませんし、カードドローでは運試しでの白熱は共有できませんので、他のゲームよりロールプレイで楽しむ要素が強いのです。
 だけど、発想を得るための能力値がこのゲーム、分かりづらい。
 《気魄》に《術式》、《神秘》…。このTRPGの中でも独特なワードからアイディアを練ろって言われても、咄嗟に出るもんじゃありません。

 とくに《神秘》での判定は他の2つに比べると格段に出る頻度が低い……プレイヤーとしてはアイディアが出ない能力値と言えます。

 「手段を講じる」ということは、その手段についてアイディアを出し、それがGMに手段として認められなくてはなりません。
 その場面において、偶然やカリスマ性、ご都合主義を司る《神秘》を用いての手段は他の2つに比べて格段に理不尽で納得のいかない手段になりがちであり、GMに手段として認知させるのが困難なのです。

 言ってしまえば、「はぁ?」なのです。

 「実は知っていた」だの「偶然情報が舞い込んできた」だのいうご都合主義は普通のTRPGでは「そんな都合のいい展開など認めるか。この邪気眼持ちがぁっ!!」と突っぱねるのが当然の対応であり、ご都合主義を乱発するプレイヤーは困ったちゃんとして向こう10年陰口の対象になることすらあります。

 「ここはお前のチラ裏ではない」と言う通り、自己完結なロールプレイはTRPG界隈ではトラブルを避ける鉄則であるわけで、《神秘》判定を用いるプレイヤーはその個々の作品を超越した不文律を考慮しなければなりません。

 なにしろこの界隈は、他人のプレイを「残念なプレイ」として陰口を叩きまくることが一種の話芸として熟練者のステータスにもなっている業界です。悪評を立てられないよう、なるべく穏当なプレイをすることも僕みたいなコンベンションゲーマーにとっては必要な才になっています。

 ご都合主義=残念なプレイとされがちな環境では、《神秘》での判定は遠慮されがちになるのは当然かもしれません。それ以前に、どうGMを説得し、残念なプレイとして禍根を残さないよう穏当なアイディアを工夫しなければならない《神秘》判定は他の2つに比べてスピードが遅く、そもそも判定に使われないのが現状なのです。

 そりゃ「地道に聞き込みします」とか「インターネットで検索します」なんて手段は誰でも思いつきますし、TRPGでGMする程度の頭の人ならすぐ認知できるでしょう。誰でも思いつく手段など「残念なプレイ」として語り継がれるほどのパワーはありません。

 結果、《気魄》と《術式》の判定ばかりがアドベンチャーパートでは判定に用いられ、《神秘》は戦闘まで温存されるのが、僕の環境下におけるシルバーレインの通例となりつつあります。
 そうなると《気魄》と《術式》メインのキャラを持つプレイヤーは、戦闘シーンで《神秘》カードばかりが溜まり、捨札に固まった《気魄》や《術式》カードを得るために苦戦する(捨札を再シャッフルするためにひたすら山札を消費しなければならない)光景がよく見かけます。

 逆に言ってしまえば、《神秘》メインのキャラはアドベンチャーではひたすらアシストに回って《気魄》と《術式》カードを回し、《神秘》カードを溜め込む方が得策だと言えます。戦闘シーンはアドベンチャーと違って攻撃もしくは特技の使用と状況説明のロールプレイはコマンド化されますので、問題なく《神秘》判定ができます。

 シルバーレインに関して言えば、《神秘》メインのキャラはアドベンチャーではアシストの一手であると見て宜しいでしょう。結果としてシステムを殺す方向ですが、それが穏当であると僕は考えています。

 ご都合主義そのものに関しては、

1:不条理性が高く、卓の合意を得るのが難しい
2:風評被害など、合意を得られなかった場合の危険が高い

 という問題があり、システムとして消化するのが中々難しいとも言えます。『ドラゴンーハーフRPG』などハチャメチャな展開こそが世界観だというコンセンサスのゲームを除いて、多くのTRPGでは「他人に理解されないロールプレイは問題のあるプレイ」というのがコンセンサスになっているかと思いますし、まずはその前提に対処しなければ生かすのは危険であるかと存じます。
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2009年07月05日

失態恐怖症 〜TRPGで無視されている遊び手の不対等な立場〜

 夜中の0時から記事練り上げるのは大変です。
 今日セッションなのでまとまらないままですけどご了承を。 
 
 今日は失態恐怖症の話です。

 失敗恐怖症は確かに怖い。
 この回転翼もまだこのHNを使っていなかった頃、現在ゲームデザイナーとして活躍している著名なある人とセッションした事があるのですが、すっかり萎縮して「この人の前で失態はできない」と思うあまり、ダイス目をごまかして大目玉を食った経験があります。

 とかく不慣れな初心者・新参者は「みんなで楽しく遊ぶ」というお題目など実感できるものではなく、とにかく目の前にいる熟練者のご機嫌を損ねないように振舞うのが精一杯。ゲームの成功・失敗などよりグループの一員として合格なのか不合格なのかの方がすごく大事なのです。

 僕はシステムを正しく運営できたかの成功・失敗なんてあまり気にしてないんですけど、ヒューマントラブルに関しては過敏な所があります。
 失敗恐怖症というより、失態恐怖症。

 小学生からプレイしてましたって人はコンベンションでも散見しますが、僕からすればあまり自慢にはならないのではとも思えます。年齢・見識・経験・成熟ぶりのすべてがどうやっても追いつけない年上相手に長年プレイを重ね続けて、まともなゲーム感覚が養われているかどうにも疑問なのです。
 実の所、僕が同年代もしくは年下の世代の人たち中心にTRPGをプレイするのが普通になったのはここ5年ほどのことで、それ以前は小学生の頃からリタイアする20代前半の頃まで一環して年上の世代とプレイしていました。
 
 5年前と言えば丁度このHNで活動し始めた頃ですけど、要はようやく先輩・後輩のしがらみが途絶えゲーマーとして自由になれたというのが執筆活動の一因であったとも言えます。
 
 結局、不慣れな初心者・新参者を相手に熟練者風を吹かしている環境では、初心者は先輩方の足手まといにならないようにと、ダイス目のごまかしから能力値のチートまで軽率なマネをしでかすことがあることを僕は学びました。
 少なくとも僕自身はやりまくった。
 今後、自分がやられることも考えなくてはなりません。

 TRPGはゲーム以前に人付き合い。
 そこが対等でなければ、萎縮した者が足手まといを怖がって失態をやらかす…。それを失敗と呼ぶのなら、失敗を防ぐために初心者を萎縮させないよう務めるのは熟練者としてあるべき姿勢だと思います。
 
 だけどこんだけ多くゲームが出ている現状だと、初心者が混じっていない卓が立つ方が稀なわけで、結局は初心者教育セッションばかりになってしまうのも現実。ゲームは自分の意志で選べても、遊ぶ相手を選べるのはこのご時勢では贅沢なこと。
 熟練者の不満も分からなくもないです。
 初心者はプレイアビリティの低下でしかないのですから。

 初心者の初心者たる所は不慣れであること。それはシステム運用の処理速度が悪いってこと。熟練者が初心者に一番多く感じる不満ってのはやっぱり処理が遅いってことなんだろうと思います。ダイスロールもロールプレイも意志決定も。

 熟練者はゲームで人間関係がこじれはしない余裕があるから、自分が欲することをそのままゲームで処理できます。しかし、初心者はゲームで熟練者のご機嫌を損ねる危険に怯えながらプレイしているわけですから、何をするにも熟練者の顔色を窺ってしまい処理が遅れます。
 
 原因が自分が発するプレッシャーであることに気付かぬ熟練者はイラついて態度に表すものだから、初心者は萎縮して遊び手の立場を放棄してしまう。ズルをするのはもちろん、河嶋陶一朗氏いわく「コマンダー問題」という熟練者の言いなりになってしまう問題を起こす。

 だからTRPGは厄介なのです。
 初心者と熟練者は処理速度がぜんぜん違うのです。
 ボードゲームはルールの把握のみだから是正は早いけど、TRPGはイーブンな立場での信頼と余裕という人間関係の構築もしなきゃならないから、セッションが終わるまでに間に合わないことも多々あります。

 僕から言わせてもらえれば、慣れない人に萎縮するなって方が無理。
 初心者と熟練者との間にある発言力の壁は小賢しいテクニックで崩せる甘いものではないのです。初心者は熟練者に睨まれるのが怖いし、何が原因で睨まれるのかも分からないのです。

 僕が目指している低責任TRPGの観点から言えば、これはゴールデンルールとかいう以前にコンセンサス(合意事項)の問題なのです。
 TRPGは対等の人間同士で遊べるゲームとは限らず、主従的立場に立たされてプレイすることもありうる…。そしてTRPGは環境からなる人為的要因によってもプレイアビリティに差が生じるのです。

 そんなの現場の努力だけで補えってのは無理。
 ましてや、最終的には初心者が熟練者に追いつく方向でセッション運営をしようなんて求めるのはバカバカしいはずなんですけどね。
 ぶっちゃけ、「最終的には初心者が熟練者に追いつけ」、「つーか、初心者は熟練者の機嫌を損ねるな」ってのが現在のコンセンサスなんでしょうね。ルールブックは熟練者のレベルでしか書かれていませんから。
 
ラベル:TRPG
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2009年06月20日

誠実な者同士でもダメプレイは生まれる 〜TRPGにおける配慮の行き違いから起こる消化不良〜

 せんだって、カオスフレア2ndをプレイしたのですがGMさんが初心者にシナリオ展開を分かりやすくしようと、とあるアニメの展開を基調としたシナリオを組んできたのです。ところがプレイヤーは僕ふくめて誰も(GMがアニメ的展開を期待して用意した)ヒロインにはタッチせずPC同士で熱いロールプレイに終始。結局、誰も元ネタが何であるか窺うこともしないまま淡々と終了しGMさんを少し落胆させる結果になってしまいました。

 お互い消化不良だったんですけど、この状況は互いの感情が悪い方向に行く危険があり、セッションとしては失敗以上に望ましくない結果とも云えるでしょう。

 何がマズかったかというと、GMとプレイヤーの双方がお互いが善意から気遣いを見せたのに、その配慮の尺度が違っているものだから行き違いが発生したってことです。
 互いに善意から取った行動で気まずい結果を生んだのにも関わらず表面的にはシナリオは達成したので、後味の悪さだけが残る。こういうセッションは後で互いが陰口叩いたりして、静かに関係が悪化する事態に発展しがちなのです。

 今回はアニメネタなのでBlogという場では(ヲタクの同属嫌悪から)
GMの分が悪いのですが、GMが分かりやすいよう配慮して作ったシナリオがプレイヤーの真面目にゲームやりたいという気持ちを殺ぎ、逆にプレイヤーの真面目にゲームをやるのが誠意だという気持ちがGMには配慮を無視したと写るなんてケースがあって、結局どっちも悪意はないけど問題が起こるのです。

 僕が初めて『キャッスルファルケンシュタイン』をプレイした時も、GMさんがどうやったらこのゲームを分かってもらえるか苦慮した挙句、バイエルン王国とは関係のないダンジョンシナリオを用意したのです。ところが、セッション内容を知らないプレイヤーが選択したキャラは音楽家とか竜の貴族とか、悪の組織のボスとか到底ダンジョンが似合わぬ都会派ぞろい…。
 正直、あまり面白くありませんでした。
 かと言って、宮廷陰謀物やりたかったと言っても仕方がない。GMさんはそれはプレイヤーにとってとっつきにくいだろうと配慮してのダンジョンシナリオだったのですから…。

 結局、GMとプレイヤーが善意を感じる配慮の尺度が異なるからこんなすれ違いが起こるわけで、それも互いが進んで配慮を示す良心的な遊び手の場合においてはそれが顕著に現れるってことなのでしょう。

 良心的なGMほど、ゲームのプレイアビリティを引き出すことよりもパーティの成功に心配りをする傾向にあります。TRPGの成否はあくまでもGMとプレイヤーとの交友の成否にあり、そのためにゲームを薄味にするのはいい配慮だと思うわけです。複雑なゲーム設定でプレイヤーが苦慮する事態は(プレイヤーが望んでいるとしても)避けるべき無配慮と感じるわけです。
 逆に良心的なプレイヤーほど、ゲームに真剣に向き合うのがGMへの誠意だと思うものです。キャラクターはパーティバランス重視、ロールプレイはシナリオ展開のためのみに行い、とにかくゲーム活動を損ねるのはマズいと考えるのです。
 
 こうして特に問題のない普通のゲーマー同士が、互いを異質な存在だと嫌悪して、静かにTRPGそのものへの印象を悪くして距離を置きだす事態は好ましいこととは言い難いでしょう。

 僕としては、GMはゲームが難しいと思うのであれば、安易に誰でもわかるネタに走るのではなく、そのゲームの世界観が求めている王道テーマをぶつけるべきだと思いますが、それにはよくルールブックを読んで王道を見出すことが肝心です。

 王道の基準は期待を裏切らないことと言いますが、まずシステムとしてキャラクターのデータが十分活用できることと、世界観としてキャラクターの設定がロールプレイに合致していることが重要なポイントなのだと僕は考えています。

ラベル:TRPG
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2009年06月15日

結局、メソメソして1日が終わった

 
 一日が経過しました。
 死を悼むなどと殊勝なことをせず、ただ一日メソメソしてたような気がします。こんな日はコンベンションに飛び込んで、ひたすら熱弁とダイスを振ってクリティカルに湧いてファンブルに笑ってくるべきだったのに、何やってるんでしょう。

 一夜明けたNOAHの会場では遺影に向かって対戦相手の斉藤選手が土下座したそうですが、彼自身も苦難の人生続きの中ようやく掴んだ“死神”ギミックでの脚光が、まさかこんな大厄を背負うことになろうとは因果が残酷すぎる。断じて、斉藤選手を終わらせてはなりません。

 このBlogでプロレスラーの追悼記事を書くのはこれで3度目です。
 エディ・ゲレロにクリス・ベノワ、そして三沢光晴といずれもプロレスファンに多大を夢を与えてくれたのに、それを返しきれてないというのにリングを去ってしまいました。
 あと1試合。せめて1試合。

 僕はプロレスに関してはヲタクと冠する資格もないただのファンに過ぎません。リスペクトを受けるに相応しい見識などなく、ただ試合を見て楽しんでいる何の一家言もない人間です。
 今回の事故に対して何かアクションを取ろうと考えても、三沢光晴というレスラーを忘れないこと、そして残ったレスラーたちに変わらない応援を送り続けるしかないわけで、たぶんそれが一番賢明なのでしょう。
 それでも軽躁な連中は責任問題などと叫んで彼らを責め立てるでしょうし、僕にしたって「人死にが出る危険なショーを擁護する腐った連中」といった謗りはメッセージを発した以上、当然のように受けるでしょう。
 僕だってプロレスファンでなければ、「明らかな過失」「刑事責任を問え」「厳しく規制すべきだ」などと口にしてしまうかもしれないほど、今回の事故は心理的に深刻なのです。今の所、そんな声に怯える心配はないので杞憂に終わってくれればいいのですが…。

 今回のメッセージも、何か書かずにはいられなかったのに、それでも謗りを受けるのはイヤで、いっそ風化するまで沈黙すべきなのかと思って、結局自分は弱いということを痛感し、彼の強さと素晴らしさを余すことなく伝えられるプロレスファンの方々には申し訳ないと思いながらやっぱり書いてしまったわけです。
 
 プロレスが好きなのです。三沢選手も斉藤選手も素晴らしいレスラーです。まだ彼らがくれた恩に報いていないのです。
 だからこれからも好きでありたいのです。

 いずれにせよ、昨日をもってレスラー・三沢光晴は伝説へと歩みはじめたのでしょう。虎とエメラルドの名を冠した技と肘鉄にその名を残して…。
ラベル:三沢光晴
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2009年06月14日

天は無情なことをする…

 PC買い換えました。
 ここ2週間ほどはデータの移動してたり、ゲームマーケットでボドゲしたし、GMも2度したし、まぁとにかくゲームしてたりゲームしてたりゲームしてたりしてました。すまぬです。

 正直、今日はBlogどころじゃないのです。

 プロレスラー三沢光晴さん、試合中に倒れ死亡(asahi.com)

 こんなことがあってなるものでしょうか。
 冥福とか云う以前に、嘘であってほしい。

 今はただ天は無情なことをすると顔を覆うばかりです。
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2009年05月25日

5時に終わるゲームと7時に終わるゲーム 〜TRPGにおける終了時間のズレ〜

 メインPCが悲鳴を上げています。
 3年半ですからDellのスリムにしてはよぉ頑張ったかなと思いますけど、逆に言えばうるさいと評判のDimension 5150Cをよくまぁ3年半も我慢して使っていたなとも。
 今年に入ってDVDドライブが壊れたので、HDDが無事なうちに買い替えをしなくては…。

 そろそろまた新しいゲームでGMがしたくなりました。
 去年はアヤカシを何度かしましたけど、今年はまよキン、シルバーレイン、エンゼルギア2ndあたりが自分としてはやりやすい位置にいるのかなぁ。
 だが、確かに面白いゲームなんですけど、プレイヤーとして1つ共通した問題を感じていて、GMやるとならば工夫の必要性があるのですよ。

 それは終わるのが早いということ。

 それぞれ理由は違うけど、戦闘以外のパートが比較的淡白……余計な遊びをせずとも十分楽しめるので、その分時間が短縮されるのです。まよキンは表振ってるだけでハチャメチャな展開楽しめるし、シルバーレインはアクトワードを使いこなせばロールプレイへの欲求がほぼ解消する人がいてテーブルトークが少なめになる。エンゼルギアはNPCとの2人芝居がテーマだし。
 要するに3作とも結構無駄がない。
 ロールプレイでキャラクターを表現したいという欲求がシステムを運用するだけでもかなり解消されるので、プレイヤーは脱線しようとせず、むしろ展開を早送りにする傾向があります。

 下手すると、4時半〜5時というコンベンションでは中途半端な時間にセッションが終わってしまいます。コンベンション閉会は大抵が6時なので、他の卓より1時間以上も早い解散をすることとなります。他の卓がクライマックスで白熱している中、閉会前にそそくさと解散するのは、そんなにいい気分ではありません。

 この3作でGMをするなら、1時半スタートとして6時前後に終われるよう4時間半をうまく使いきれるよう時間配分を考えなくてはならないでしょう。2時間の軽いシナリオを2作とか。

 ともかく、昨今のコンベンションではあるゲームのおかげで全卓終了は遅れがちになるので、そのゲームに合わせれば遅すぎるということはないかもしれません。

 その遅くなりがちなゲームと云えば、ずばりアリアンロッドです。

 ともかくARAはスタートが遅いしゲーム終了も遅い。
 とみに「今日はシナリオを持ってきていません。ダンジョンアタックをします」などという卓は閉会後も撤収寸前まで粘っていることが多々あります。閉会式後にクライマックス戦闘始まるよって卓もあったりして、お前らどれだけ頑張ってるんだよと。
 結局、ダンジョンアタックともなれば全員が時間の許す限りキャラクターの性能を練り上げ、ベストな戦力で臨もうとするからキャラメイクに時間がかかる。D&Dほどには死にやすいゲームではないのに、GMがシビアで容赦なくとどめ刺しますよとするから、みんな行動が慎重になるくせにしぶとい。

 クイックスタートにしますって言ったら卓が立たないという愚痴も聞いたことあります。それくらい、やるからにはガチがいいって人が選ぶゲームってことでしょう。

 そんな調子だからARAの立つコンベンションで6時にきっちり全卓終了することはARA卓パーティが迂闊でない限りまずありません。

 んで、時間ギリギリまでダンジョン漁りした挙句疲労困憊のARA卓の人たちしか撤収を手伝う人がいなくなる……残りはみんな6時に終わって解散……のも、コンベンションを運営する側からすれば不公平なことなのかもしれません。

ラベル:TRPG
posted by 回転翼 at 09:01 | TrackBack(0) | TRPG雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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