2009年07月05日

失態恐怖症 〜TRPGで無視されている遊び手の不対等な立場〜

 夜中の0時から記事練り上げるのは大変です。
 今日セッションなのでまとまらないままですけどご了承を。 
 
 今日は失態恐怖症の話です。

 失敗恐怖症は確かに怖い。
 この回転翼もまだこのHNを使っていなかった頃、現在ゲームデザイナーとして活躍している著名なある人とセッションした事があるのですが、すっかり萎縮して「この人の前で失態はできない」と思うあまり、ダイス目をごまかして大目玉を食った経験があります。

 とかく不慣れな初心者・新参者は「みんなで楽しく遊ぶ」というお題目など実感できるものではなく、とにかく目の前にいる熟練者のご機嫌を損ねないように振舞うのが精一杯。ゲームの成功・失敗などよりグループの一員として合格なのか不合格なのかの方がすごく大事なのです。

 僕はシステムを正しく運営できたかの成功・失敗なんてあまり気にしてないんですけど、ヒューマントラブルに関しては過敏な所があります。
 失敗恐怖症というより、失態恐怖症。

 小学生からプレイしてましたって人はコンベンションでも散見しますが、僕からすればあまり自慢にはならないのではとも思えます。年齢・見識・経験・成熟ぶりのすべてがどうやっても追いつけない年上相手に長年プレイを重ね続けて、まともなゲーム感覚が養われているかどうにも疑問なのです。
 実の所、僕が同年代もしくは年下の世代の人たち中心にTRPGをプレイするのが普通になったのはここ5年ほどのことで、それ以前は小学生の頃からリタイアする20代前半の頃まで一環して年上の世代とプレイしていました。
 
 5年前と言えば丁度このHNで活動し始めた頃ですけど、要はようやく先輩・後輩のしがらみが途絶えゲーマーとして自由になれたというのが執筆活動の一因であったとも言えます。
 
 結局、不慣れな初心者・新参者を相手に熟練者風を吹かしている環境では、初心者は先輩方の足手まといにならないようにと、ダイス目のごまかしから能力値のチートまで軽率なマネをしでかすことがあることを僕は学びました。
 少なくとも僕自身はやりまくった。
 今後、自分がやられることも考えなくてはなりません。

 TRPGはゲーム以前に人付き合い。
 そこが対等でなければ、萎縮した者が足手まといを怖がって失態をやらかす…。それを失敗と呼ぶのなら、失敗を防ぐために初心者を萎縮させないよう務めるのは熟練者としてあるべき姿勢だと思います。
 
 だけどこんだけ多くゲームが出ている現状だと、初心者が混じっていない卓が立つ方が稀なわけで、結局は初心者教育セッションばかりになってしまうのも現実。ゲームは自分の意志で選べても、遊ぶ相手を選べるのはこのご時勢では贅沢なこと。
 熟練者の不満も分からなくもないです。
 初心者はプレイアビリティの低下でしかないのですから。

 初心者の初心者たる所は不慣れであること。それはシステム運用の処理速度が悪いってこと。熟練者が初心者に一番多く感じる不満ってのはやっぱり処理が遅いってことなんだろうと思います。ダイスロールもロールプレイも意志決定も。

 熟練者はゲームで人間関係がこじれはしない余裕があるから、自分が欲することをそのままゲームで処理できます。しかし、初心者はゲームで熟練者のご機嫌を損ねる危険に怯えながらプレイしているわけですから、何をするにも熟練者の顔色を窺ってしまい処理が遅れます。
 
 原因が自分が発するプレッシャーであることに気付かぬ熟練者はイラついて態度に表すものだから、初心者は萎縮して遊び手の立場を放棄してしまう。ズルをするのはもちろん、河嶋陶一朗氏いわく「コマンダー問題」という熟練者の言いなりになってしまう問題を起こす。

 だからTRPGは厄介なのです。
 初心者と熟練者は処理速度がぜんぜん違うのです。
 ボードゲームはルールの把握のみだから是正は早いけど、TRPGはイーブンな立場での信頼と余裕という人間関係の構築もしなきゃならないから、セッションが終わるまでに間に合わないことも多々あります。

 僕から言わせてもらえれば、慣れない人に萎縮するなって方が無理。
 初心者と熟練者との間にある発言力の壁は小賢しいテクニックで崩せる甘いものではないのです。初心者は熟練者に睨まれるのが怖いし、何が原因で睨まれるのかも分からないのです。

 僕が目指している低責任TRPGの観点から言えば、これはゴールデンルールとかいう以前にコンセンサス(合意事項)の問題なのです。
 TRPGは対等の人間同士で遊べるゲームとは限らず、主従的立場に立たされてプレイすることもありうる…。そしてTRPGは環境からなる人為的要因によってもプレイアビリティに差が生じるのです。

 そんなの現場の努力だけで補えってのは無理。
 ましてや、最終的には初心者が熟練者に追いつく方向でセッション運営をしようなんて求めるのはバカバカしいはずなんですけどね。
 ぶっちゃけ、「最終的には初心者が熟練者に追いつけ」、「つーか、初心者は熟練者の機嫌を損ねるな」ってのが現在のコンセンサスなんでしょうね。ルールブックは熟練者のレベルでしか書かれていませんから。
 
タグ:TRPG
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2009年06月20日

誠実な者同士でもダメプレイは生まれる 〜TRPGにおける配慮の行き違いから起こる消化不良〜

 せんだって、カオスフレア2ndをプレイしたのですがGMさんが初心者にシナリオ展開を分かりやすくしようと、とあるアニメの展開を基調としたシナリオを組んできたのです。ところがプレイヤーは僕ふくめて誰も(GMがアニメ的展開を期待して用意した)ヒロインにはタッチせずPC同士で熱いロールプレイに終始。結局、誰も元ネタが何であるか窺うこともしないまま淡々と終了しGMさんを少し落胆させる結果になってしまいました。

 お互い消化不良だったんですけど、この状況は互いの感情が悪い方向に行く危険があり、セッションとしては失敗以上に望ましくない結果とも云えるでしょう。

 何がマズかったかというと、GMとプレイヤーの双方がお互いが善意から気遣いを見せたのに、その配慮の尺度が違っているものだから行き違いが発生したってことです。
 互いに善意から取った行動で気まずい結果を生んだのにも関わらず表面的にはシナリオは達成したので、後味の悪さだけが残る。こういうセッションは後で互いが陰口叩いたりして、静かに関係が悪化する事態に発展しがちなのです。

 今回はアニメネタなのでBlogという場では(ヲタクの同属嫌悪から)
GMの分が悪いのですが、GMが分かりやすいよう配慮して作ったシナリオがプレイヤーの真面目にゲームやりたいという気持ちを殺ぎ、逆にプレイヤーの真面目にゲームをやるのが誠意だという気持ちがGMには配慮を無視したと写るなんてケースがあって、結局どっちも悪意はないけど問題が起こるのです。

 僕が初めて『キャッスルファルケンシュタイン』をプレイした時も、GMさんがどうやったらこのゲームを分かってもらえるか苦慮した挙句、バイエルン王国とは関係のないダンジョンシナリオを用意したのです。ところが、セッション内容を知らないプレイヤーが選択したキャラは音楽家とか竜の貴族とか、悪の組織のボスとか到底ダンジョンが似合わぬ都会派ぞろい…。
 正直、あまり面白くありませんでした。
 かと言って、宮廷陰謀物やりたかったと言っても仕方がない。GMさんはそれはプレイヤーにとってとっつきにくいだろうと配慮してのダンジョンシナリオだったのですから…。

 結局、GMとプレイヤーが善意を感じる配慮の尺度が異なるからこんなすれ違いが起こるわけで、それも互いが進んで配慮を示す良心的な遊び手の場合においてはそれが顕著に現れるってことなのでしょう。

 良心的なGMほど、ゲームのプレイアビリティを引き出すことよりもパーティの成功に心配りをする傾向にあります。TRPGの成否はあくまでもGMとプレイヤーとの交友の成否にあり、そのためにゲームを薄味にするのはいい配慮だと思うわけです。複雑なゲーム設定でプレイヤーが苦慮する事態は(プレイヤーが望んでいるとしても)避けるべき無配慮と感じるわけです。
 逆に良心的なプレイヤーほど、ゲームに真剣に向き合うのがGMへの誠意だと思うものです。キャラクターはパーティバランス重視、ロールプレイはシナリオ展開のためのみに行い、とにかくゲーム活動を損ねるのはマズいと考えるのです。
 
 こうして特に問題のない普通のゲーマー同士が、互いを異質な存在だと嫌悪して、静かにTRPGそのものへの印象を悪くして距離を置きだす事態は好ましいこととは言い難いでしょう。

 僕としては、GMはゲームが難しいと思うのであれば、安易に誰でもわかるネタに走るのではなく、そのゲームの世界観が求めている王道テーマをぶつけるべきだと思いますが、それにはよくルールブックを読んで王道を見出すことが肝心です。

 王道の基準は期待を裏切らないことと言いますが、まずシステムとしてキャラクターのデータが十分活用できることと、世界観としてキャラクターの設定がロールプレイに合致していることが重要なポイントなのだと僕は考えています。

タグ:TRPG
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2009年06月15日

結局、メソメソして1日が終わった

 
 一日が経過しました。
 死を悼むなどと殊勝なことをせず、ただ一日メソメソしてたような気がします。こんな日はコンベンションに飛び込んで、ひたすら熱弁とダイスを振ってクリティカルに湧いてファンブルに笑ってくるべきだったのに、何やってるんでしょう。

 一夜明けたNOAHの会場では遺影に向かって対戦相手の斉藤選手が土下座したそうですが、彼自身も苦難の人生続きの中ようやく掴んだ“死神”ギミックでの脚光が、まさかこんな大厄を背負うことになろうとは因果が残酷すぎる。断じて、斉藤選手を終わらせてはなりません。

 このBlogでプロレスラーの追悼記事を書くのはこれで3度目です。
 エディ・ゲレロにクリス・ベノワ、そして三沢光晴といずれもプロレスファンに多大を夢を与えてくれたのに、それを返しきれてないというのにリングを去ってしまいました。
 あと1試合。せめて1試合。

 僕はプロレスに関してはヲタクと冠する資格もないただのファンに過ぎません。リスペクトを受けるに相応しい見識などなく、ただ試合を見て楽しんでいる何の一家言もない人間です。
 今回の事故に対して何かアクションを取ろうと考えても、三沢光晴というレスラーを忘れないこと、そして残ったレスラーたちに変わらない応援を送り続けるしかないわけで、たぶんそれが一番賢明なのでしょう。
 それでも軽躁な連中は責任問題などと叫んで彼らを責め立てるでしょうし、僕にしたって「人死にが出る危険なショーを擁護する腐った連中」といった謗りはメッセージを発した以上、当然のように受けるでしょう。
 僕だってプロレスファンでなければ、「明らかな過失」「刑事責任を問え」「厳しく規制すべきだ」などと口にしてしまうかもしれないほど、今回の事故は心理的に深刻なのです。今の所、そんな声に怯える心配はないので杞憂に終わってくれればいいのですが…。

 今回のメッセージも、何か書かずにはいられなかったのに、それでも謗りを受けるのはイヤで、いっそ風化するまで沈黙すべきなのかと思って、結局自分は弱いということを痛感し、彼の強さと素晴らしさを余すことなく伝えられるプロレスファンの方々には申し訳ないと思いながらやっぱり書いてしまったわけです。
 
 プロレスが好きなのです。三沢選手も斉藤選手も素晴らしいレスラーです。まだ彼らがくれた恩に報いていないのです。
 だからこれからも好きでありたいのです。

 いずれにせよ、昨日をもってレスラー・三沢光晴は伝説へと歩みはじめたのでしょう。虎とエメラルドの名を冠した技と肘鉄にその名を残して…。
タグ:三沢光晴
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2009年06月14日

天は無情なことをする…

 PC買い換えました。
 ここ2週間ほどはデータの移動してたり、ゲームマーケットでボドゲしたし、GMも2度したし、まぁとにかくゲームしてたりゲームしてたりゲームしてたりしてました。すまぬです。

 正直、今日はBlogどころじゃないのです。

 プロレスラー三沢光晴さん、試合中に倒れ死亡(asahi.com)

 こんなことがあってなるものでしょうか。
 冥福とか云う以前に、嘘であってほしい。

 今はただ天は無情なことをすると顔を覆うばかりです。
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2009年05月25日

5時に終わるゲームと7時に終わるゲーム 〜TRPGにおける終了時間のズレ〜

 メインPCが悲鳴を上げています。
 3年半ですからDellスリムにしてはよぉ頑張ったかなと思いますけど、逆に言えばうるさいと評判のDimension 5150Cをよくまぁ3年半も我慢して使っていたなとも。
 今年に入ってDVDドライブが壊れたので、HDDが無事なうちに買い替えをしなくては…。

 そろそろまた新しいゲームでGMがしたくなりました。
 去年はアヤカシを何度かしましたけど、今年はまよキン、シルバーレイン、エンゼルギア2ndあたりが自分としてはやりやすい位置にいるのかなぁ。
 だが、確かに面白いゲームなんですけど、プレイヤーとして1つ共通した問題を感じていて、GMやるとならば工夫の必要性があるのですよ。

 それは終わるのが早いということ。

 それぞれ理由は違うけど、戦闘以外のパートが比較的淡白……余計な遊びをせずとも十分楽しめるので、その分時間が短縮されるのです。まよキンは表振ってるだけでハチャメチャな展開楽しめるし、シルバーレインはアクトワードを使いこなせばロールプレイへの欲求がほぼ解消する人がいてテーブルトークが少なめになる。エンゼルギアはNPCとの2人芝居がテーマだし。
 要するに3作とも結構無駄がない。
 ロールプレイでキャラクターを表現したいという欲求がシステムを運用するだけでもかなり解消されるので、プレイヤーは脱線しようとせず、むしろ展開を早送りにする傾向があります。

 下手すると、4時半〜5時というコンベンションでは中途半端な時間にセッションが終わってしまいます。コンベンション閉会は大抵が6時なので、他の卓より1時間以上も早い解散をすることとなります。他の卓がクライマックスで白熱している中、閉会前にそそくさと解散するのは、そんなにいい気分ではありません。

 この3作でGMをするなら、1時半スタートとして6時前後に終われるよう4時間半をうまく使いきれるよう時間配分を考えなくてはならないでしょう。2時間の軽いシナリオを2作とか。

 ともかく、昨今のコンベンションではあるゲームのおかげで全卓終了は遅れがちになるので、そのゲームに合わせれば遅すぎるということはないかもしれません。

 その遅くなりがちなゲームと云えば、ずばりアリアンロッドです。

 ともかくARAはスタートが遅いしゲーム終了も遅い。
 とみに「今日はシナリオを持ってきていません。ダンジョンアタックをします」などという卓は閉会後も撤収寸前まで粘っていることが多々あります。閉会式後にクライマックス戦闘始まるよって卓もあったりして、お前らどれだけ頑張ってるんだよと。
 結局、ダンジョンアタックともなれば全員が時間の許す限りキャラクターの性能を練り上げ、ベストな戦力で臨もうとするからキャラメイクに時間がかかる。D&Dほどには死にやすいゲームではないのに、GMがシビアで容赦なくとどめ刺しますよとするから、みんな行動が慎重になるくせにしぶとい。

 クイックスタートにしますって言ったら卓が立たないという愚痴も聞いたことあります。それくらい、やるからにはガチがいいって人が選ぶゲームってことでしょう。

 そんな調子だからARAの立つコンベンションで6時にきっちり全卓終了することはARA卓パーティが迂闊でない限りまずありません。

 んで、時間ギリギリまでダンジョン漁りした挙句疲労困憊のARA卓の人たちしか撤収を手伝う人がいなくなる……残りはみんな6時に終わって解散……のも、コンベンションを運営する側からすれば不公平なことなのかもしれません。

タグ:TRPG
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2009年05月10日

コンベンションに行くのが億劫だって人は行かないのが正解

 ネット開闢以前からTRPGコンベンションの荒んだ話は絶えることなく語られ続けています。どこどこのサークルは男女問題で揉めている、どこどこのコンベンションには極めつけの問題児がいる、そもそもTRPG界隈にはコミュニケーション欠陥が著しい、エトセトラエトセトラ…。
 
 結局は「だからTRPGコンベンションやサークルは危険だ」という結論に達するのが流れですけど、かつては井上純弌などプロが率先してやっていたことだし、今でも歴戦のゲーマーが得意気に語ることなど別に珍しいことではありません。
 
 実際、たかだかゲームの集まりにそこまで人間関係こだわってるのって本人もかなり粘着質だってのに、言質を裏返せばそんな荒んだ界隈で舵取りをしている自分はなんてタフなんだという自慢があるわけで、ある種の武勇伝になっている所があります。

 だからコンベンションの荒んだ話など話半分、語り手も粘着なんだしあんまり気にすることはないと言っておきます。ただ、ブロガーとしては荒んだ話はホント注目が集まりやすい。ネタに困るとつい釣り糸を垂らしてしまうのです。

 そもそも、そんなに危険なら「まともな神経をした者の来る所じゃない」「TRPGをしなかった君たちは賢明である」と結論するのが良心ではないでしょうか。どんな荒んだ話を連発する粘着でも、いくら警告しても来るやつは来るんだし、どうせ来るなら面の厚い奴の方が好ましい、そもそも大事なねぐらをよく分かっちゃいねぇ素人に荒らされちゃ居心地が悪いから適当に悪評撒いて擬装せねばという読者への「信頼」が根底にあります。
 正直、心底TRPGに幻滅し、1人でも多くTRPGから離れるよう心から願っている人間などそうそういるもんじゃありません。粘着すれば注目引くし、ぶっちゃけ話は誰にとってもスッキリするもので、大抵はその程度のもんです。

 さて、僕もTRPGの荒んだ話でBlog活動してます。
 僕も所詮は武勇伝を垂れたい粘着ですけど、誰を挑発し誰を擁護するかは選んで垂れたいと思っている粘着です。そんな僕がBlog読者に対し、コンベンションはどんな所かと聞かれますと…、

 断じて行くべきではありません。
 コンベンションに来ないことはあなたにとって最良の選択です。

 専門誌で興味ある連中相手にやってたのとでは、時代も環境も違うのです。ネットではTRPGは多くある趣味の1つに過ぎないし、読者だってTRPGに積極的に関わっている人たちばかりではない。
 穿ってしまえば、武勇伝をマヂ信じてる情報弱者なり、人前に出るのが怖い引きこもり性質の人なりがいて、それよりずっと多数派として単に休日にコンベンションに出向くこと自体が億劫でHPが足りずに休養するしかないって人ばかりがネットにたむろして、TRPGコンベンションの荒んだ話を聞いて溜飲を下げてるってのが現実じゃないんですか?

 それはどこの趣味でも不変の現実。
 「外に向かう言葉を放とう」と宣言するのはたやすいが、業界の動向にアンテナを張ってくれる人の多くが「何だかんだ理由をつけて参加しない“興味だけ”の人」である現実を趣味文化の伝道者は見失ってはならないと思います。
 そして、その現実を前に「積極的に伝道している自分たちはエリートだ」と思い上がる趣味文化は伝道者が燃え尽きることによって滅ぶのではないでしょうか。

 コンベンションにネガティヴな発言するのは悪影響与えると危惧する良心家が出ることは分かっています。ただコンベンションは楽しいものだ、素晴らしいものだと一面だけを取り上げようとしても、光と影の何たらか、荒んだ話が絶えることはないでしょうし、情報に踊らされる人はまだコンベンションで楽しむには早すぎます。

 分かっちゃいない人たちの緩やかな黙認は、伝道師の熱弁に勝る効力があると僕は信じています。だからコンベンションに行くのが億劫な人たちを擁護したい。気力がない人、自信がない人は参加する必要ありません。黙認し、居場所を確保していただければ十分です。

 少なくとも、僕自身はただ自分がタフであることを自慢したいがためだけに荒んだ話をしているつもりはありません。そういう連中が増殖して荒んだ話の価値が下落するのはご免ですから、できれば潰しておきたいとは思っています。
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2009年05月05日

過去の思い出話でしかTRPGはアンテナを張ってもらえないのか

 
 TRPG Innovation 2009に参加してきました。
 22卓120名という久しぶりの大型コンベンション。会場の江東区文化センターもとても便利な施設で、ユニークなGMさんのもと心置きなく楽しんできました。

 何がプレイできるか分からなかったので何作か鞄に入れて来場したのですが、『スターオーシャンTRPG』なのに『スターレジェンドTRPG』を持っていってしまったのはご愛嬌。
 でも今回のコンベンションはすべてが2000年以降に新発売もしくは改訂されたゲームで占められ、半数近くが去年から先月にかけて登場した新作・改訂版ゲームでした。『ソード・ワールドRPG』がもう発売20周年ですけど、20年…いや、10年前に出ていたTRPG作品もほとんどが改訂もしくは後継ゲームによって作品としての使命を終えているのだと痛感しました。
 20年前も、そして未来もオンリーワンであり続けるであろう『クトゥルフ神話TRPG』を抜かして、第1版から数えても10年に満たない若いTRPGだけのコンベンンションに120名ものプレイヤーが集うという現状は、TRPGは未だ若さがある趣味文化だと見ていいのか最近思う所があるのですよ。

 はたして120名は多いのか。それともショボイのか…。

 去年ガイギャックスが亡くなり、先月にはアーンソンが後を追って、TRPGは1つの時代を終えました。それで、彼らの訃報記事に連なるはてなブックマークなどを見ても、TRPG関連を抜かしたネットのユーザーコミュニティは2ちゃんにしろはてなにしろ、2000年以前のまま時が止まっている人たちの声がとても多く、なんとか現役にしがみついている僕としては寂しくもあり、孤独を感じるのですよ。

 TRPGを過ぎ去りし思い出として言及した彼らにとって、彼らが知りもしなかったゲームで120名ものゲーマーが楽しんでいるという現状は彼らの認識を改めるだけのアピールになるのか…。
 それとも、もう見向くこともないであろう「残滓」でしかなのでしょうか…。

 彼らが回顧する古きTRPGの時代こそが現なのか…。
 それも新世代のゲームに興じる100人以上のリアルこそが現なのか…。

 僕は現役のTRPG者であると同時に、TRPG系ブロガーとして彼らネット住人相手の活動もしています。現場とネットとでTRPGに携わる人たちの世代が分かれ、両者の認識が決定的に断絶しているとするならば、その間で活動している僕は一体どちら寄りにすればよろしいのでしょうか。

 現場で楽しんでいるがままに、新しいデザインによる新しいゲームを軸にコラムを書き続けても、古き時代のゲームへの思い出でしかアンテナを張っていないネット住人の注目は集まりません。
 逆に10年以上前の思い出を軸にコラムを書いてても、現役ゲーマーとしての現在の自分との乖離は間違いなく起こります。正直な所、「昔TRPGはこんなに荒んでいたぜヒャッハー!」なんて武勇伝を1つかましゃ、注目を受けることは割合簡単なのではないでしょうか。でもそんな昔話で識者ぶるのはやはり「老害」と云えましょう。

 結局は、より多くの人がコンベンションに参加してTRPGの現在を知ってもらうのが一番なのですが、ネット上での活動は読者がどうしてもインドア志向の人に優しい空気の中で行うものですから、アウェー感は拭えないのですよ。

 表に出ろ、ほど過酷な要求は突きつけ辛い場ではあります。
タグ:TRPG
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2009年04月27日

MOEシステムだって!? そんなことより数値修正をだな… 〜あまり推奨しないエンゼルギア2ndのプレイ前批評〜

 『エンゼルギア 天使大戦TRPG』の2nd Editionが発売されました。
 Melma!で活動していた時代に珍しくプレイ前批評をして、その後プレイして大いに触発された思い出深いゲームなだけに、いつかこの2ndもプレイしたい所。

 んで、1stをプレイした時の相棒は伊音だったんですけど、クーデレさんな伊音さんのデレシーンである「角(デコ)を触られて照れ怒る」がダーザインLv3から4に格上げされてるんです今回。
 システム面の変化はまだ分からないけど、そんなことは人に聞けばいい…。旧版の批評で「公式NPCとちちくりあうゲーム(そんな表現使わなかったけど、まぁそんなこと)」と評した僕としてはこの微妙な変化に興味が湧くのですよ。全体的にケシカラン度も上がってるし。

 いや、このゲームは戦闘に詳しくなることよりも、ちちくりあいの方が大事だと思いますよ。他のゲームでも似たようなことはいくらでもできることと、他のゲームでは味わえない独特のシステムとでは後者の方が興味津々。

 もちろん、読者の皆さんはちちくりあいなど目もくれず戦闘で卓を圧倒する研究に専念していただきたい。Yes、間違っているのは僕1人。戦力としての性能こそがTRPG第一。マンチキン誉め言葉。セッションは戦闘コマンドを研究し尽くし、最も優れた数値修正を弾き出した者が勝ち誇るだけに存在するのである…!
 ……いや、そんなお調子者がいないと知識盗めないし。
 
 AGはアガペーの規定値オーバー=退場というシステムですから、競技ゲームとしてはなるべく特技の使用のためにアガペーは抑えておきたい所。だけどシーンに出てよいロールプレイをしないことには強化ルールの源たるパトスチップが獲得できません。
 だから、そのシーンで確実に絡めるPCのみが登場してソロでロールプレイをし、シーンの演出から空気になってしまうようなPCをなるべく登場させないってのが賢きアガペー制御術になるでしょう。AGは他のF.E.A.R社ゲームのシーンよりも独演が多くなります。
 んで、何がよきロールプレイになり、何がPCを空気にしてしまうかはシーンに登場しているNPCとの関連性の深さ、NPCへの発言する権利の重さによって決まるかと。逆に言えば、NPC1人との関わりはPC1人が独占するのが望ましいということでしょう。
 当然ながら、PC同士の関わりもなるべく省略……システムとしては処理しないテーブルトークで消化するようにしなくちゃならないでしょう。これはプレイヤー同士がロールプレイを掛け合う機会はあるべきじゃないって方針が根底にあるのかもしれません。

 AGをNPCとちちくりあうゲームと評したのは、このゲームはNPCというイメージ相手にプレイヤー1人1人が独演する立場の中でどうロールプレイをするのかが攻略の鍵だと目しているからです。

 それでも数値修正こそが正しいTRPGである、NPCとちちくりあうなど痛い真似はしたくないという方は多かろうと思います。僕も推奨プレイとは言いません。
 
 つーか、みんなちちくりあいに期待して伊音さんの奪い合いになったらどうするんですか。みんなが戦闘性能だけを考え、秘伝の数値修正を見せ付ける。僕1人MOEに走って伊音さんとちちくりあう。みんなは帰宅して1人どうしようもなく痛い奴がいたと己の武勇伝に新たな1ページを加える…。
 僕が手に入れるものは…言うまでもないでしょ。


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2009年04月21日

東洋的スタンスって何だろ?

 ここ半月、Blog執筆をお休みして『ブルーフォレスト物語』を私的に再構築すべく、当作品が表現しようとしていた東洋的世界観がどのようなものなのか、インドや東南アジア関連の書物を精読しています。
 
 でも逆に考えれば東洋的の対句になる西洋的って何じゃいって考えにもなり、昔のようにファンタジーとは中世ヨーロッパが云々と説明していたけど実際は『指輪物語』を軸にアメリカ人(デーブ、まだ早いよ…)が考えた原型を、日本でグループSNEと出渕裕が『ロードス島戦記』として結実させた「純ゲーム世界」なわけで、それと対比させて西洋的、東洋的というのも何だか馬鹿馬鹿しく思えてきます。

 ひょっとすれば、当時のプレイ現場においては伏見氏のデザインとは関係なく、東洋的=非D&D・ロードス的ファンタジーとして受け入れられていたのかもしれません。
 D&D・ロードス的ファンタジーのスタンスは現在も『D&D4e』、『ソード・ワールドRPG2.0』、そして『アリアンロッドRPG』に継承されているようですし、今プレイするにしても要はこれらの作品がならないようなことをやらせるべきなのでしょう。

 話折るけど、『ウォーハンマーRPG』はダークファンタジーではないと思います。最後は混沌が勝つ世界で局地的勝利のために頑張るってのがスタンスですけど、混沌に勝つってよりはガザ地区みたいなグダグダな世界で苦難に負けず生き抜こうってゲームであって、ダークファンタジーが演出しようとしている終末への不安ってのはあまり感じないんですよ。不安どころかすでにヲワタな世界? パンク?

 話戻すけど、D&D・ロードス的ファンタジーと言ってみたけど、それがどんなスタンスかと云えば、リプレイの『ロードス島戦記』であったり、『スレイヤーズ!』などの当時はやったラノベであったり、あるいは『D&Dがよくわかる本』のリプレイであったりした、旅の風来坊たちが酒場で困った人から依頼を受けてよし迷宮に潜るか、ゴブリンどもを成敗しようかという「冒険者」のスタンスなんだと思います。

 この「冒険者」なるスタンスも根は七人の侍から水戸黄門、三匹の侍へと継承されている時代劇お馴染みのマレ人が到来するスタンスが染み付いているだろうし、そう考えればとっても純和風なスタンスなのかもしれません。
 そう考えると、東洋的とは西洋的ではないけど和風でもないってこと? もっとも伏見氏はツクダ版青森の末尾にて忠臣蔵の時代ではないと時代劇を批判しつつも、ゲームの原風景として日本の山野をイメージしていると記してあります。

 結局、物語のスタンスは各遊び手が好みの味付けにするものだから、プレイヤーに分かる範囲内なら各人が型にとらわれないよう語り口を考えていることでしょう。型の問題だから、一般論にはしづらい所もあります。

 でも僕としては和風ファンタジーとして形成された冒険者というスタンスは青森にはどうも似つかわしくないし、『深淵』のような運命主義的なのも違う、『ウォーハンマー』のようなパンク世界でもなく、『ナイトウィザード』のような選ばれし勇者ってのもしっくりこない…。
 
 インド、東南アジアの文献を読んでいるのも、時代劇めいた純和風な曖昧さが基調のファンタジーでもなく、騎士道物語のような使命と宗教的潔癖さを基調としたファンタジーでもない、僕自身が納得できる形で東洋的なるスタンスを模索しているのです。

 
 
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2009年03月29日

忘却したコミュニティ 〜ブルーフォレスト物語のプレイモデル〜

 かつて僕が楽しんだゲームの1つに『ブルーフォレスト物語』(通称:青森)があります。伏見健二氏がデザインした東洋的世界・シュリーウェバでの冒険を楽しむファンタジーRPGです。伏見氏はその後小説としてもこの世界をテーマにし、いわば伏見氏のライフワークともいえる作品です。
 去年、グランベール社によってリバイバル版が再販され、PDF版ルール及び二次使用可能な基本システムが盛り込まれたCD-ROMが同封されるようになりました。これによってルールサマリーの製作などの手間が軽減され、GMをする身としてはありがたい道具となりました。

 ところで、このグランベール版青森の後書きにて、伏見氏はまた新しい青森を製作中であり、この再販はいわば布石であるという内容の文章を載せています。
 伏見氏の意気込みは今後も見守るとして、この旧版青森自体は現在手に取って見ると、はたして現在現場で盛んにプレイされている『ソード・ワールドRPG2.0』、『アリアンロッドRPG』などといったファンタジーTRPGと競う中、十分なプレイ環境を得られるのか自信がありません。1度や2度なら、物珍しさに集まるかもしれませんけど、純粋にゲームシステムの魅力から見てそう何度もプレイしたい作品ではないと思うのです。

 僕自身は思い入れがあるわけで、個人としてはまだ終わっていないと言えます。だが、90年代半ばに展開した価値モデルは崩壊しており、本格的ファンタジーTRPGが乱立している2009年において青森が一定のシェアを獲得できるのは至難の技だと考えています。

 そんなわけで、今日は90年代半ばに行われた青森の価値モデルについて。

◆◆◆

 旧版たる青森・ツクダ版は1990年発売の古いゲームです。
 当時はまだTRPGがまだ新型MWGとして、SLG愛好者の間でプレイされていた時期でした。やがて90年代中ごろまでにはゲーム総合情報誌、ライトノベル誌などでの販促によってTRPGが物語文化のプラットホーム的立場になると、青森もライト寄りのファンタジーTRPGとして定着するようになりました。

 この時代、伏見氏は青森をTRPGだけではなく、小説版、コンシューマーゲーム版(PCエンジン)、読者参加ゲーム版とマルチメディアとして展開していきました。しかも読者参加ゲームが草創期、コンシューマー版が過去、TRPG版が現代、小説版が未来とシュリーウェバの世界観を分離しての活動です。
 つまり、『ロードス島戦記』がリプレイ小説から小説版、アニメ版へと販路を拡大したの同じ角川メディアミックスの手法を取ったのです。

 ただ、ロードスは水野良氏の小説と高山浩氏のリプレイ小説の2枚看板であったのに対し、青森は伏見氏の個人ブランドである以上、伏見氏個人の活動の範囲で展開していきました。
 
 だが、個人の力でメディアミックスを仕切るには、規模としては個人商店レベルであり、伏見氏以外にゲームデザインに関わる人間がいなかった以上、伏見氏が活動を終えれば青森もまた生産終了品となる運命でした。
 現在、小説版は古書を探すしかなく、読者参加ゲームやコンシューマーゲームでどのような展開がなされていたのか、詳細な記録を探すのは1ゲーマーの手に余る作業です。

 要するに、2009年現在青森がどのようなゲームなのか改めて知ることができるメディアはほとんど残っておらず、2000年以降に参入した遊び手は青森がどんなゲームかを事前に知ることはまず無理だということです。そして青森はメディアミックスによる販促で好きになった遊び手たちの支持を基に価値モデルを作っていたゲームです。

 ゲームシステムとしての青森はサプリメントでも際立ったシステム拡張をせず、終始ベーシックルールを踏襲した遊びに徹底していました。代わりに世界観は歴史の縦軸をベースに拡張を広げ、ゲームとしてより物語再生装置としての幅を広げていきました。

 これによって、青森のプレイスタイルはシステムの工夫よりも物語を体感することを楽しむ方向に進み、GMが物語を披露しプレイヤーがロールプレイを披露する歓談の道具として支持されるようになったのです。

 言ってしまえば、青森は「青森の世界が好き!」という愛好者が集まって、シナリオを肴に青森世界を楽しく語り合うのがプレイスタイルのゲームだってことです。

 青森の世界を好きになる手段に乏しくなれば、自ずとゲームへの魅力を失うわけで、残されたTRPGのルルブを見ても今となっては同人TRPGと大差ない六日の菖蒲とも云えるベーシックルールでしかありません。

 もう一度、伏見氏が青森の世界でブームを起こさない限り、旧版青森が脚光を浴びることはなく、このままでは『パワープレイ』同様、使命の終わったTRPGとして記念碑にのみ残る作品となってしまいます。
 
◆◆◆

 TRPGがファンタジーメディアのプラットホーム的な立場を失った現在、TRPGをプレイする人たちは単体の趣味文化としてのTRPGを支持している人です。
 TRPGにはTRPGならではの魅力があり、例えば「本来はラノベが書きたいけど、文章力がないし表現者の気分を味わうだけでいいから」など言った他の期待感を満たすための道具とは思っていません。やはりゲームとしてのTRPGを支持し、イベントとしてのTRPGコミュニティに参加しているのです。

 現在現役のTRPGはそうしたプレイ環境に適応し、販促に期待しない作りをしている作品ばかりです。いきなり参加してもTRPGそのものが好きな人ならば順応できるよう、世界観を体現できるゲームシステムを多く搭載したゲームが主流と言えます。
 青森も現代のプレイ環境に沿った、あるいは次世代を見据えたデザインにリニューアルすれば、再生する可能性は十分にあるでしょう。

 だが、一番のネックはやはり青森がまだ伏見氏の個人ブランドであり、現在も伏見氏待ちの状況だってことです。個人ブランドのゲームは様々な人間のイマジネーションを包括するだけの母体がないだけに、迂闊に独自活動しづらい所がありますからね。

 もし僕が自分のプレイ環境でも適応できる改良版を作ったとしても、それはあくまでもフリーシステムである2DRシステムを基にした「青森っぽい」ゲームであると、こっそり身内で楽しむ程度に留まるでしょう。

◆◆◆

追伸:はてなキーワードにおいて、グランペール版青森の情報は未記載です。僕ははてな市民ではないので、どなたか記載していただければ幸いです。


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2009年03月15日

オードリーや超新塾の笑いは美少女アニメやゲームの萌えに通ずるのかも

 この前、NHK『爆笑オンエアバトル』の第11回チャンピオン大会B組予選を観ました。結果は超新塾、フラミンゴ、我が家など定番のネタを披露したグループが上位でファイナルに進出し、逆に多彩な芸を持ち今回はシュールネタで来た井上マーは最下位に終わりました。

 僕はお笑いには疎いのですが、仮にこの結果が最近の潮流だとしたら、超新塾や我が家といった「いかなるボケをかますのか」、大まかなキャラクター付けされた芸人がテンポよくボケを連発し続ける芸風が舞台ではよく受けるのでしょう。昨年末からブレイクしているオードリーもキャラクター&テンポの芸風がよく計算されているコンビです。

 逆に井上マーは芸の幅が広く、色々な種類の笑いを引き出せる人なのですが、それ故に彼の芸は客に「読む」ことを強いているのかもしれません。いわゆる「じわっとくる」芸であり、後々数寄者たちの間で「これこれ、この芸どう思う?」と話題になることでじんわりと真価が発揮される芸なのでしょう。瞬発的にこみ上げる笑いが重視されるオンエアバトルの舞台では、今回のネタは少し鈍重だったのかもしれません。

 今回の予選で勝ちあがった5組とA組の5組が決勝にて珠玉のお笑いを発揮できることを期待したいと思います。もちろん、敗退した者たちにも幸あれかし、と。

◆◆◆

 さて、今回のオンエアバトルを見て僕はこんな発想をしました。

 「美少女ゲームやアニメに見られる“萌え”の境地は、超新塾や我が家の笑いと共通するものがあるのではないか…」

 お笑い芸人を美少女キャラ、笑いを愛嬌へと変換すれば、なるほど萌えとは瞬発的な愛嬌を見せる舞台芸であると解釈できます。

 先程、お笑いにも瞬発的な笑いを出すタイプと、読み解くことによってじわっと笑いを発想させるタイプがあると言いましたが、メディアによる表現活動そのものも、直感的認識に訴える感性タイプと、思考に訴える理解タイプの2種類があると僕は考えています。
 そしていわゆるヲタクメディアでは、アニメとゲームが感性タイプ、漫画や小説が理解タイプに分類されると思います。

 アニメやゲームなどの感性タイプメディアは基本的には読み返しをせず、展開を一気に流す不可逆的な要素があります。アニメやゲームは画像と音声を同時に発することにより、思考よりも視覚・聴覚による直感的認識を以て表現とする体感型メディアであると云えます。
 感じる能力に訴える感性型メディアは、人が社会生活を営む中で学んだ経験則によるものの良し悪しを計る感情……好感度を刺激することによって支持を得ます。感性型メディアへの許容を示すのは「好き」「嫌い」だってことです。
 そして、人類は長い歴史の中で「笑い」や「愛嬌」「セックスアピール」などを好ましいと位置づけています。これらを好感覚と呼べば、感性型メディアとは好感覚を喚起することが媒体としての影響力であると云えます。

 もちろん、人間が直感的に認識できる感覚には限界があります。
 そこで好感覚が瞬時に引き出せるように「パターン」や「記号」といった好感覚の詰め合わせが発明されるようになりました。感性型メディアは基本的にパターン・記号を見せることで発揮されます。
 
 対して小説や漫画など理解タイプのメディアは読者が自由に読みたい箇所を読み、自分のペースで理解することで楽しみを得ます。感性タイプは云わば様々な認識が交錯して頭が混乱している、衝動時に発揮されるメディアなのに対して、理解型メディアは情報が整理され、頭が平静な状態の時に発揮されるメディアです。
 共に根源は感覚に訴えてはいますが、理解型メディアには人類が快適さを得るための集合知が加味され、空間認識に関する集合知としての「美」が理解型メディアの判断基準になることが多々あります。
 
 簡単に言えば、人間が知的生命体故に備わっている想像力、イメージする能力に訴えるのが理解型メディアだってことです。「美」「物語」「哲学」「ジョーク」などはイメージとして好ましく享受できる感覚なので、思考による理解が必要です。

 ここまで難しいこと言いましたけど、アニメやゲームに出てくる萌えの境地はイメージではなく、パターンであり記号です。ツンデレ、ヤンデレと云ったパターン、メイドや巫女と云った記号によってヲタクの好感覚を刺激して、体感として影響させるのが萌えアニメ、萌えゲーの手法なのです。第1話で通学中にすれ違う出会いも、7話ぐらいで海やプールで水着祭り→縁日で浴衣祭りになるのも、すべてはパターンであり記号なのです。

 オードリーのコントも「ズレた会話をする気色悪い男」と「平凡だが奇獣の扱いに慣れた男」がパターンとして定型化されたコントを見せることによって、笑いを体感させる芸をしています。記号としても、いつもピンクのセーター姿の春日をはじめ、超新塾、我が家など常に同じ格好をしています。

 なるほど、春日はヲタクにも受けがいいわけです。

◆◆◆

 ここまで考察すると、萌えがアニメを駄目にしたという意見にもきちんとした理由があるのだなと思います。とみに漫画、ラノベ原作のアニメ、ゲームはレイプとまで言われるのにも同様の理由があるのでしょう。

 漫画、ラノベは理解型メディアですから愛好者は芸風を読み解き、イメージとして愛好しているものかと思います。ところがアニメ、ゲームは感性型メディアですから、イメージは製作者側の手によってパターン、記号として勝手にまとめられてしまってます。

 レイプという言葉が全てを物語っている通り、理解型メディアの原動力たるイメージは性行為ではオナニーに当たります。それが自分のオカズが他人のイメージによって感性型メディアたるポルノに仕立てあげられたら、なるほど寝取られ感はあるでしょう。

 漫画、ラノベ原作のアニメ、ゲームが難しいのはファンサイトが理解型メディアで形成され、イメージを読み解いてファンになっているのに感性型メディアではイメージが及ばないパターン・記号として演出がされている。すなわち自分のイメージが介入する余地なし。
 しかもアニメ、ゲームから入った感性型メディアのファンは思考ではなく、ハイな状態から直感として「好き」と言っているだけ。自分のように平静な状態から「美しい」と理解するような事はしない…。

 う〜む。
 繰り返しますが、僕はお笑いには疎いので推測することしかできませんけど、井上マーの笑いが好きだって人はオードリーや超新塾、我が家のようなコントは嫌いなのかもしれません。

 今日はここまで。
 
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2009年03月05日

本格的なTRPGがあふれている

 TRPGでの気力の消耗が最近著しいのです。
 今年に入ってからプレイしたのが、『ウォーハンマーRPG』、『D&D4th・フォーゴトンレルム』、『ソードワールドRPG2.0・ミストキャッスル』と波乱に富んだ危険続きのファンタジーばかりなので当然と云えば当然なのですが、こうも緊張感あふれるゲームばかりプレイしてては虚脱感も一入です。

 考えてみれば、昨今プレイされているファンタジーTRPGは、上述の3作品を含めて『アリアンロッドRPG』、『六門世界RPG2nd』、『迷宮キングダム』など、どれも濃密なデータに趣向を凝らした独自のシステム、遊び手を油断させない緊張感ある世界観と、本格的なゲームばかりです。もちろんシステム自体も堅牢さ、シンプルさなど安定感は昔よりずっとあります。

 これら本格的なゲームはシステムの妙味、世界観の奥深さなど没頭すればするほど深みが増す、いずれも10年TRPGになりえる性質を持っています。僕がお相手したGMさんも熟練の伝道者ぞろいで、旧版を含めると10年以上伝道をし続けている人もいました。もちろん、一緒にプレイしたプレイヤーさんもいずれも一家言ある前のめりな人たちばかりです。

 おかげで三十路なのに一番初心者状態がもう何ヶ月も続いてます。
 正直、僕は今まで何をしていたのだと圧倒されることも何度かあります。5年前にコラム活動を始めた当時の不満や疑問、要求もここ1年ほどで随分解消されているような気がするのですよ。
 そう思えてくるのも、僕自身前のめりにプレイしすぎなんでしょうけど。

 しかし、こうも前のめりな情熱を使うゲームばかりだと、ゆるりと物語を満喫できる気軽なゲームはあるのか…。あったとしても需要があるのか少し心配です。そういうゲームは気軽だけどやり甲斐の少ないゲームなわけで、物足りなきを感じる要素があるのかもしれません。
 例えば、去年改訂版が出た『ブルーフォレスト物語』も本格的というよりは雰囲気の良さで遊ぶゲームでして、古いゲームなだけにシステムも古めかしい所があります。こういう今となってはパッとした目新しさのないゲームを雰囲気だけで集めることができるのか…。

 本格的なゲームが必ずしも難解なシステムではないように、雰囲気の良さで選ぶゲームも必ずしもシンプルなシステムが受けるとは限らない…。むしろ気軽に遊べるゲームだからこそ、すぐゲームの面白さが分かるように完成度の高い競技ゲームを仕込むべきなのでしょうか。

 まぁ、要は今の時代に青森が受けるにはどうすりゃいいんべと。
 
タグ:TRPG
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2009年02月22日

飛行機から空を飛びたい発想を知る 〜日米ロールプレイの出発点〜

 今日はこの記事から。

 TRPG議論のルールブック/読む価値のあるロールプレイ論まとめ(G&G, Inc. blog)
 
 改めて読むと、ロールプレイ論は往々にして迂遠です。
 本来ならTRPGというゲームを遊ぶために必要な情報であるはずのロールプレイ論なのに、あたかも人類がロールプレイを行うに至った社会的行動原理を解明するかのような壮大な論文になってしまっています。

 はたして、本当にゲームするのに必要な情報なのって首を捻ってしまいます。もちろん、TRPGの遊び手が総じてこんなロールプレイ論の学徒であるわけではありません。むしろ圧倒的少数。

 そんなわけで、今日はなぜロールプレイ論はTRPGの現場から遊離して学問化してしまったのかという話。

◆◆◆

 そもそも新型MWGの合間にゲーム世界を肴に歓談していたのがファンタジー文学好きに受けて、いつしか「ゲームで作る伝承物語」の形となって様式化したのがロールプレイだと、TRPG黎明期の変遷を研究した僕は考えています。
 要するに、TRPGは最初からロールプレイを前提としたゲームではなく、ゲーム内歓談がゲーム活動の中で物語を作るという目的を持ちゲーム化されたのがロールプレイであるのです。そこから僕は、ロールプレイはあくまでもゲームプレイの中から生まれたゲームシステムの一種として認識するに至りました。

 だが、馬場秀和氏や俵ねずみ氏がロールプレイ論を論じていた時点では、ロールプレイはまたルーツ不明な舶来文化であり、遊び手は輸入されたゲームシステムを言われるがままにプレイしていました。誰もMWGで発生した歓談からロールプレイに至るまでの変遷を体感していないまま、試行錯誤なき完成形のロールプレイを与えられたのです。
 云わば、日本人ゲーマーにはロールプレイの思考プロセスが欠如していたのです。

 これは飛行の欲求を想像し、グライダーから飛行機へと発想を実現してきた欧米文化と、空を飛ぶという発想すらなかったのにいきなり飛行機が輸入された日本人との意識差と一緒です。

 当然ながら、日本人は「なぜロールプレイをするのか」悩むようになります。アメリカでは最初に『指輪物語』があり、物語をゲーム化する方向でプロセスが進みましたが、日本人はゲーム化されたロールプレイの根源を探るというアメリカ人とは逆方向に進みました。
 これはアメリカ人が幾多の形式がある物語をゲームシステムに集約したのに対し、日本人はロールプレイから欧米人の「ロール」「プレイ」に集約された比較文化を果てしなく網羅し解題する方向へと拡散していくことを意味しました。 

 そして医学、心理学、社会学、比較文化論、演劇論などの学問が総動員された日本のロールプレイ論はゲーム活動の枠組を超え、社会文化活動としての役割と意義から説かれる壮大かつ迂遠な性質を帯びるようになりました。まさに「ロールプレイ社会学」です。

 結果として、日本において語られるロールプレイはロールプレイ社会学の研究論であり、ゲームシステムではなくなりました。ロールプレイ論の用途はゲームのためではなく、アカデミズムへの立場からTRPGを研究しようする教養人、ヲタクのために使われるようになりました。

 それが悪いわけではありません。繰り返しますが、日本人ゲーマーはロールプレイに至る思考プロセスが欠如しているのです。物語をしたいという発想なくしてロールプレイを始めた民族なのです。
 ロールプレイから彼ら……ガイギャックスやアーンソンらは一体何がしたかったのか、彼らの根底にはどんな文化が宿っていて、その文化を体感するにはどこまで淵源をたどればよいのか…。暗中模索の中で解題されたのが和製ロールプレイ論なのです。

 次はようやくアーンソンの地点まで戻った道を、彼らが歩んだのと同じように、いかに日本人が語りたい物語をゲーム化していくかのプロセスを進めばよいのです。
 
 飛行機を渡されて、彼らが空を飛びたいと思ったから作ったのだと理解するまでがこれまでの解題の成果でしょう。次は我々も空を眺め、この空を飛びたい、飛んで何がしたいのか発想する番なのです。

◆◆◆

▼参考記事
ミニチュアウォーゲームからTRPGになるまでの間にあったゲーム要素の転換

GMは娯楽文化としての立場のために負けなければならない

なぜドラゴンはTRPGの主役になりえたのか

アーンソンのプレイリポートから 〜TRPGにおけるデザインとしての戦闘と、テクニックとしての物語〜
タグ:TRPG
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2009年02月19日

嘆きの碩学世代2009

 ネットブックが欲しいのです。
 そりゃもう猛烈に。だけどケチな上に臆病な性質ではなかなか思い切った散財はできせまん。とみに電化製品は本当に必要なのか、ついつい悩んでしまう癖がついていて厄介なことこの上ない。

 今日は昔の記事がTBされたので、現在の見解を。

◆◆◆

 続・嘆きの碩学世代

 もう3年半前の記事。
 この時期はまだ仲間内でプレイしてたんですよね。
 環境は随分変化しましたし、TRPGに対する姿勢も当時とはかなり異なってきているのかなと思います。
 阿波踊りも引っ越したんでもう参加してないし。

 つーか、3年半。
 そんなに時間があって見解がまるっきし変わってないとしたら、お前どんだけ停滞してたのかよということになります。不満な点はプレイで1つ1つ検証して、現状が不満だったらまず自分を変えてみる…。

 結局、僕は世論をどうこうしたいのではなく、自分の環境が改善されれば事足りるのです。オピニオンリーダーとして敬意を受けるのはそれなりに嬉しいことですが、どこの誰か知らぬ人が勝手に僕の見解をコピぺして、さぁ我もTRPG通なりとやってしまうような影響力は正直、迷惑この上ない。

 さて、3年半が経過して、僕が永遠の敵と名指した衒学プレイヤーはどうなったのかと云えば、僕自身がそんな粘着なお付き合いをしなくなったので、現場ではトンと縁遠い存在になりました。

 実の所、TRPG界隈ごどきで教養人ぶって偉ぶる似非エリートはもはや田舎の書生崩れ程度にまで存在感は下落したものかと思います。昔と違ってネットという「大海」があって、衒学者どもが一説ぶった所で「そういうことはネットでやれ」で片がつきます。

 ゲーム総合情報誌が全盛だった80〜90年代、TRPGはファンタジーに関連する物語文化愛好者が集う場を提供しており、TRPGサークルがサブカルのサロンになっていた時期もありました。
 そこへ自己顕示欲と名誉欲に駆られた教養人崩れがサブカルでお山の大将を気取らんと入り込むことは十分ありえることでして、そういう連中の手によってTRPG業界は肥育されていったのです。

 業界としては野心的な層を飼うことは拡大に繋がるし、専門知識を揃えられる大学生ヲタクの知識はゲーマーとして一目置かざるを得ない貴重なものでした。
 何よりも物語を重視するTRPGは知識人崩れに共通した「口だけ」という性質の持ち主でもそれなりにのし上がれる業界でした。何しろゲームと云ったらドラクエ、ファンタジーと云ったらスレイヤーズやロードスしか知らないお坊ちゃんお嬢ちゃんが大量に参入してきたのが90年代の『ソードワールド』ブームです。彼らから薄っぺらい尊敬を受けることはさほど難しいことではありません。
 彼ら教養人崩れの衒学者にとって実に居心地のよい環境であったことでしょう。
 
 しかしながら、ファンコミュニティが未成熟なまま拡大した日本TRPG業界において、ゲーマーとして小集団を超えてのし上がるシステムが整えられなかったのが、彼らを堕落させる原因になったかもしれません。
 
 今もそうですけど、どんなに見識を深めてゲーマーとして完成度を高めようとも、日本のTRPGはデザイナー集団が彼らとは縁なき場所で勝手に展開します。アメリカの『D&D』のような、ファンコミュニティの手によって展開がなされるような環境は日本において無きに等しいと云っても過言ではありません。
 要するに、どんなにゲームのために勉強をし、ゲーム活動を精力的に行おうがTRPG業界ではせいぜいサークルの幹部として10〜20人程度に重宝される程度の名誉しか手に入らないのです。それが嫌なら、何とかデザイナー個人とコネを持って、彼の丁稚としてイベント等で下働きをするしかありません。

 その結果、栄達の道を断たれた衒学ゲーマーたちは一気に野心を失い、少人数相手にみみっちい権威を振りかざすお山の大将へと成り下がりました。
 僕が激しく嫌悪した衒学ゲーマーは、この野心を失って本当に崩れてしまったゲーマーなのかもしれません。結局、彼らお山の大将も長くサークルを維持することはできず、次々と僕の目の前から消えていきました。

 もし日本のTRPG業界がファンコミュニティを整備し、熱心な投稿者たちの手で展開していたら世紀末前後の冬の時代は回避できたでしょうか…。
 まぁ、2chゲーム板でよく上がる「こんなRPGがしたい」なんてスレを見る限りでは、コアゲーマーの意見をまともに聞いていたら、「船頭多くして船山に登る」の諺通りに迷走するだけかもしれませんけど。

 翻って現代、インターネットの登場によって似非教養人が「口だけ」でのし上がる環境はネット世界へと移動しました。野心的な層がいなくなったTRPGは別に遊んでいようが何の実益も実害もない「多くある趣味の1つ」に落ち着きました。

 もう以前のように、野心を失ってお山の大将に崩れてしまった衒学ゲーマーがたむろしやすい環境ではないでしょう。それどころか、野心的に活動するコアゲーマーすら不要とされているかもしれません。

 現在はデザイナーが与えたままのものを、遊び手はそのまま消費していくコンシューマーゲームの関係はTRPG業界でも完成されています。
 かつてはデザイナーのデザインを上回らんと志すコアゲーマーがシステムや世界観を改造・補完し、デザイナーが示したままよりも面白いゲームを提供しようと躍起になったものです。ですが、今のTRPGはそれほど野心的な層を飼う必要などない業界になっています。

 多くある趣味の1つであるTRPGに、デザイナーと面白さを競おうとするほどの価値など、他にいくらでも楽しみがある一般ゲーマーなどありゃしないのですから…。

 確かに腐った連中が消えたことは喜ばしいことですが、野心的なゲーマーの活動を昇華させ報いるような仕組みをまだTRPG業界が見出していない現状を省みれば、根本的な解決はまだ先送りされたままです。

 
 
 
タグ:TRPG
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2009年02月08日

どこで面白いと実感できるか 〜TRPGとボードゲームが与える期待感の差異〜

 前回、TRPGのルールブックは読み物であり、TRPG者はまず読者として1人の世界からTRPGを想定するものだと述べました。それが集団遊戯であるTRPGにとっては齟齬を生む一因になっていると、批判的な見解も示しました。

 だが、欠点があれば利点もあります。
 TRPGはプレイをせずとも、読み物として興味を引かせればTRPGを「面白そうなもの」として認知させることができます。他の非電源ゲームにはそのような期待感を誘発する仕組みに乏しく、TRPGの特性として記すべきものといえましょう。

 そんなわけで、今日はTRPGが読み物である利点について。
 あるいは、TRPGとボードゲームが与える期待感の性質の違いについて。今回はTRPGのみならずボードゲーム(以下ボドゲ)をも批評の対象にし両者を比較するのですが、ここはTRPG系Blogなので公平さに欠く懸念があります。TRPGを擁護するがために、無用にボドゲを卑下する意図はないことを了承いただきたい。

◆◆◆

 TRPGとよく比較されるゲーム媒体として、同じ非電源ゲームであるボードゲームが挙げられます。
 TRPGもボドゲもゲームである以上、プレイすることを前提として作られているのは当然の事。ですが、共に1人で遊べるゲームではありません。機会がなければ、TRPGのルルブもボドゲの駒・盤・チップ類もゲームとしての役割を果たせない「道具」になる点で両者は共通しています。

 だが、TRPGはゲームであると同時に読み物であるのに対して、ボドゲの小道具類はゲーム以外に使う役割を持っていません。せいぜい眺めたりいじったりする程度で、プレイ時以外にもゲーム活動に関われる機会をボドゲは与えてくれません。むしろ、散逸を避けるために収蔵されるのが定め。
 要するに、ボドゲの小道具類は競技ゲームとしての専門化・抽象化が進みすぎて、それ以外の用途がまるでないってことです。プレイ時以外にはただの置物同然なのです。

 対して、読み物であるTRPGはゲームである以前に読書をして楽しむことができます。TRPGのルールブックはシナリオを着想して物語を引き出せるように、自らが物語のTip集になっているからです。事実、ルールブックを読み解き、システムを理解したりイメージを発想する読書活動もまた、ゲーム活動にとって大事なこととされています。

 これがいかなる差を生むでしょうか。

 ボドゲへの期待感は対戦者が想定できることが大きく影響してきます。何だかんだ云って、ボドゲは競技ゲームですから対戦者がどう行動し、対して自分はどう行動するのか、常に対戦者を通してゲームの面白さを計ります。
 これは特にサークルやイベントに出入りしているわけではなく、対戦者のことなど思い浮かべずに、ただ面白そうだからと買ってみた人にはボドゲが与える期待感は驚くほど短命だってことを意味します。

 すなわち、ボドゲは対戦者が常時確保できる人でなければ、事前に面白いだろうなと意識することすら困難なのです。

 TRPGはいつでも取り出して、物語を楽しむことができます。
 TRPGはプレイをしていなくとも、物語というプレイに直結した楽しみを遊び手に伝えることができます。
 TRPGの面白さはプレイをせずとも伝えることが出来、例え生涯プレイする機会に恵まれずとも、購入者には何らかしらの収穫を与えることが可能なのです。

 プレイしなければ面白さを伝えられないボドゲと、プレイをしてない1人の時でも本質ではないが面白さは伝えることができるTRPGとでは、遊び手に与えるモチベーションは完全に異なるのです。

 ボドゲは買ったらすぐプレイして、競技を楽しむ環境を整えなければすぐに熱が冷めてしまいますが、TRPGはプレイをせずともじわりじわりと遊び手の中に物語が作られ、プレイするまで期待感が増え続ける性質を持っているのです。

 その代わり、ギミックもゲーム目標も単純なボドゲはゲームを成立させるコンセンサス(合意)が少なく、ルールに忠実でさえあればゲームが成立します。
 対するTRPGは前回述べた通り、読み物として1人でイメージした内容と、ゲームとして複数で行われるプレイとの間にギャップが発生してトラブルが絶えないという欠点があります。

◆◆◆

 TRPGは物語を取り入れることによって、情報媒体に宣伝をするメディアとしての力を得ました。TRPGを原作とした漫画、アニメ、小説など多方面に宣伝を行い、単なるゲームコミュニティの幅を超えた物語文化の旗手として様々な趣味趣向の持ち主を受け入れてきました。
 その結果、TRPGがどのようなゲームなのか自体、その時代ごとの環境によって劇的に変化するようになりました。かつてMWGの派生でしかなかったTRPGは物語の再現が重視され、フロアタイルやミニチュアも必須の道具ではなくなり、ストーリーテリングを基調とした対話ゲーム中心の作品も登場しました。

 対して、単体では情報を提供することができないボドゲの世界は『D&D』が登場した当時のまま、劇的な変化を遂げることなく孤立した環境を維持しています。

 ボドゲの世界からTRPGを見ると、その宣伝力は羨ましい限りです。
 ボドゲはどんなに素晴らしいゲームがあろうとも、ボドゲ自体が面白いと理解している人しか興味を示さない……愛好者だけの本当に趣味の世界でしかありません。
 TRPGはボドゲから来た人、MMORPGから来た人、ライトノベルから来た人など色々なバックボーンを持った人が集う総合文化になっています。その遊び手の多様性はボドゲでは引き出せません。

 プレイリポートなどで楽しさを伝えることは可能ですが、ボドゲを知った所でコミュニティの外にいる人にとっては遊ぶ相手がいなけりゃただの置物。遊び手を捜さなければ面白さを実感することもできません。
 物語を与えることで1人でも楽しめるTRPGに比べれば宣伝力が弱いわけで、市場の拡大には大きなネックとなっています。

 あるいは、劇的な変化などボドゲ界隈は忌まわしいと思っているのかもしれません。『クルード』など50年以上前のゲームが未だに現役でいる界隈ですから、文化など大きな看板など背負うことなく、愛好者だけでガラパゴスを築くのが丁度よいのかもしれません。

 逆にTRPG界隈は、物語文化に触れ合える交流の場を作るプラットホームとしての役割が大きくなりすぎて、もうガラパゴスには戻れないかもしれません。仮にすべての副次的な宣伝を止め、すべての物語要素を廃した無地のシステム群のみでTRPGを売り出したとしたら、市場規模は非電源の同人サークル1つ分ぐらいにまで縮小するでしょう。

 物語のないTRPGなど、盤の駒の装飾やイラストを廃した無地のボドゲをプレイするのと一緒です。そんなもん、面白いと分かっている人しか興味を示さないのです。
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