TRPGのシナリオが物語と違う点ってのは、読み手…TRPGでは遊び手の欲求を裏切るような展開が難しいことです。例えばハードボイルドよくあるビターな顛末…、「俺はベストを尽くしたし最良の結果を出した…。だが、祝杯を上げる仲間はもうどこにもいない」なんてほろ苦い演出をしたところで、ハードボイルドのノリを知らない
プレイヤーからすればなんて冷酷なGMなんやとブーイングが来ます。
ビターエンド(造語)はハードボイルド…とみに『マルタの鷹』のノリをSFで継承したサイバーパンク物に多く、『サイバーパンク2.0.2.0』ではサプリメント『レフリーズ・アクセサリィ』に掲載した短編小説2作がいずれもビターエンドで締めくくっています。
ビターエンドがサイバーパンクにとっていかに大事なのかは同サプリででピーター・クリスチャンがコラム『現実に直面して キャラクターの行動結果』にて提示しています。
肯定的引用、いわんや虎の威引用はしたくないんですけど、少し引用しますね。
『サイバーパンク』においては、手に入れられる報酬のほとんどすべてに、代償が課せられる。命、友人、人間性、そして資産の喪失である。プレイヤー・キャラクターたちは、戦利品を満足そうに眺めたり、友に向かって勝利を叫んだりするべきではない。彼らは、それでもまだ友人が残っていることを、ラッキーだと考えるべきなのだ。 実は僕が『サイバーパンク2.0.2.0』をやり始めてしばらくは、クリスチャンのコラムの真意はまるで分かりませんでした。それまではファンタジーや『蓬莱学園の冒険!』などが主体で、サイバーパンクはまったくの畑違い。ただ、RPGマガジンのリプレイ、『振り向けば死』でのキャラクター描写が痛烈で、それに魅せられてはじめたのが契機です。
だから暴力的な近未来ゲームという認識はあれど、サイバーパンクの真髄には気付かないままにサイバー&バイオレンスを繰り返していました。言葉は悪いがサイバーD&D、具体的には『バイオレンス!』とまったく同じようなことをしていたのです。
だが、それしかしようがありませんでした。
誰も彼もが、サイバーパンクの思想的背景を知りえていなかったのですから。
『サイバーパンク2.0.2.0』も古いTRPGですから、ロールプレイ技術に関するルールは未開発です。ロールはクラス、サイバーウェアやプログラムは近未来の魔法、ナイトシティは近未来ダンジョン…、そう当てはめればこのゲームはやはりサイバーD&Dと呼ぶに相応しいダンジョンTRPGに似通ったシステムです。
だからビターエンドなど、サイバーパンクのノリを展開するにはシナリオによるアナログな手法を取るしかなく、遊び手もそれを心得る教養がなければなりませんでした。僕はなるべく『マルタの鷹』や『重力が衰えるとき』を読んでもらい、できれば感想を書いてノリを実感できた段階でプレイしてましたけど、コンベンションではさすがにそれを要求するのは無理です。従って、サイバー&トリガーハッピーな『バイオレンス!』的キラーシナリオをやらざるを得ず、えらくB級なゲームになりました。
B級は『サタスペRemix+』が担っているノリだから、そっちに任せればいいんです。『サイバーパンク2.0.2.0』は格調高いハヤカワ文庫のノリなんです。ちなみに『攻殻機動隊』も源流は『シュレーディンガーの子猫』が当たりそうだし、それは『トーキョーN◎VA』の方がいいかもしれません。 色々な小説、映画、漫画などエンターテイメントを勉強して知識を研鑽しろっていうゲーマー上達の技法ってのは、要は原始的な作りのTRPGにおいて、ジャンルが持つノリをうまくゲーム世界の中で活かすためってのがあります。
ムアコックを読まなければ『ストームブリンガー』のノリは掴めないし、ラヴクラフトを読まなければ『クトゥルフの叫び声』のノリも掴めません。昔はそうやって勉強したノリを共有してプレイしていました。
実際、井上純弌氏や速水螺旋人氏ら30代デザイナーの多くが知的研鑽で得たノリをゲーム世界に活かすということが好きな人でしたし、『アルシャード』や『エンゼルギア』、『サタスペRemix+』も原典ノリを心得てこそロールプレイが光り輝くようなデザインがされています。
ところが、実体験から言えば20代以降のプレイヤーはそういうノリが大っ嫌いです。
知的研鑽はしているんですけど、どこか自分のオリジナリティ…創作意欲に対する自負というか優越感みたいなものを持っていたのが20代プレイヤーでした。自分の作るシナリオが提供するエンタメの方が凡百の物語より優れている、自分の演じるキャラクターの方が凡百の登場人物よりも魅力的だという「萌え」、悪く言えば思い上がりがありました。
僕自身がそうでした。
原因を挙げれば、1にコンシューマーゲームをたくさんプレイしている(当時)20代のゲーマーは主人公という感覚が無意識に発達してて、自分の行動が主体となって進む物語に慣れすぎてるというのがあります。自分の行動に主体性があれば、ゲーム世界がどうなろうか知ったことではなく、ましてや原典ノリなんか唾棄したってなんら痛痒には思わないのです。
もちろん、30代ゲーマーも経験先行で、技術を体系化して後進を育てるということを怠ったのも原因の1つでしょう。彼らの「一見ゲームとは脈絡がなさそうな原典話」をヲタクのキモい衒学だとしか見做せなかったのも、原典ノリをゲーム世界に活かすって発想がなかったからです。
まぁ、突き詰めれば学校教育での才能教育、個性教育でなんか自分がクリエイターの才能があるんじゃないかと漠然とインプットされているってもありますけど、教育の問題は断定できまん。
こういう「オリジナリティ思考」のゲーマーは中身の多寡に関わらず、人からノリを強要されることを嫌います。とにかくエンタメに対して優越感抜き出しで、「俺のエンタメへの素質は凡百のクリエイターの作品なんか唾棄できるほど高貴なものだ。俺が作品をリスペクトするのは、作品の質を評価したのではない。キャラクターに萌えただけだ」なんてのをプンプン漂わせている人なんてゴロゴロいます。
アニメなんか、作品や作家をボロクソにコキ下ろしながら、自分の好みに合致したキャラや、好みの声優が演じるキャラになると鼻の下伸ばして「萌え〜」なんていう輩がとても多い。僕はアニメの『魔法先生ネギま!』も楽しんで観ているのに、なんだ本屋ちゃん(正確には、その声優である能登麻美子さん)だけリスペクトしやがってからに。 これも実体験で語るけど、こういう手合いはTRPGでは長続きしません。
自分の表現欲…、実際には極上のエンタメが表現できると思い上がった意識の肥大化…意識デブと呼べるもんですけど、TRPG始めてしばらくはサークルやコンベンションなりで、始めはキャラクタープレイから、そしてシナリオへと才能を披露(意識デブの発散)をします。
ところが、やがてはゲーム活動にすぎないTRPGのゲーム環境において、自分の表現活動がなんら報われないことに絶望します。それ以前に、表現欲が枯渇して独創的な閃きが完全になくなっているのに、世間にあふれるエンタメへの歪んだ優越感だけがべっとりと残ってしまい、人間としてダメな状態に陥ることもあります。
そして自分自身の底の浅い限界と、根拠もやり場もない優越感から一気に鬱になり、結局はゲームを、そしてゲームに打ち込んでいた自分自身をも否定・拒絶してゲーマーの道を閉ざしてしまう人がいました。
僕の周りにも「もうTRPGなんか見向きもしたくない」という人はいまして、彼らが神社に呪われた品を奉納するかのようにルールブックを置き捨てたもんですから、僕もちょっとしたルールブックリッチです。
馬場秀和氏の一連の論文もまた、そうした意識デブな人たちの駆け込み寺として機能した側面もありました。悪いのは自分ではない、自分の表現欲に応えてくれないゲームが悪い、ベンダが悪いんだと。いわゆる信者(熱烈な支持者)とアンチ(熱狂した批判者)とに分裂して論議を呼んだとされる馬場理論…この表現、嫌いなんですけど本人が使っている以上使わざるを得ない…ですが、部外者の僕から見たら「馬場理論を既成TRPGへのアンチテーゼとして掲げ、自分の歪んだ優越感を糊塗しようとした人たち」と、「馬場理論をバッシングすることで、自分のゲーム感覚が凡百の及ばぬ高みに達したと主張したがる人たち」との汚らしい意識デブ戦争に見えてくるのです。
現在、馬場理論は多くの人にとってゲーム技術の体系ではなく、インターネット論争のネタとしか利用されていないのが現実と見ていいでしょう。自分のゲーム環境に活かして使うという観念を持とうとしないから、いつまでも考えが成長しない。過去の論争にあったログをコピペしているに等しいことをいつまでも繰り返し、その都度自分はゲーマーとして高みに昇ったと思い上がる。
同じScoops RPGでコラムニストとして活動している身の上である以上、馬場氏に振りかかった火の粉の幾分かはこちらにも飛び火してきます。『僕はTRPGが好きではありません』執筆時には「ひょっとして、君にトラウマを与えた先輩ゲーマーとは馬場秀和ではないのか」なんてメールすら戴きました。
意外かと思われますけど、僕は馬場氏とは面識すらありません。
僕ですらまだ、彼は遠い異世界の人です。
自分の表現欲が一番大事、あらゆるメディアは自己表現のための肥やしだと、自分がクリエイターとしての才覚を秘めていると思い上がる自意識過剰ぶりは、やがて凡人が凡人を忌避しようとして崩壊するがままに、絶望して深刻な自己否定への道に至ります。
僕自身がそうやってTRPGに絶望し、一時期TRPGに目を背けてきただけに、自意識の弊害ってのが痛感できるんです。だからなにかを穿つときも、自分のゲーム感覚なんかこれっぽっちも信用しちゃいません。
◆◆◆
話を原典ノリに戻しますと、「知的研鑽」と「萌え」の区別がつきづらいってのもTRPGにおけるノリの難しさの一因と言えます。
簡単に言えば、知的研鑽ってのは跡で他の人と共有する共通認識として憶える情報ですけど、萌えってのは本人の脳内にある「お気に入りフォルダ」でしか確認できない非具体的な情報です。
TRPGが勝手知ったるプレイ仲間でも、コンベンションでの一期一会の付き合いでも、複数の人間と時間を共有して楽しむゲームである以上、TRPGに必要な情報は共通認識を溜め込む知的研鑽の方がしっくりきます。
ところが、これもゲームメディアの発達が原因なのでしょうか、萌えのために情報を溜め込む人は年々多くなりこそすれ、減ることはないです。他人と共有しない、自己満足のために映画を観て、漫画を観て、アニメを観ます。
自己満足ですから客観視する要素が何もなく、漠然とした「好き・嫌い」の主観のみが情報を分別する基準となってしまいます。こういう人に他人の評論など真摯に受け止めるような感覚はまったくなく、好きだから追従萌えし、嫌いだからバッシングする。
情報に対して、追従萌えするかバッシングするしか湧かない脳ですから、とても原典ノリを共有してプレイをしていくなどできっこありません。せいぜい、自分の萌えをキャラ萌えで吐露するか、人様の共有感をキモいと蔑むか程度でしょう。
本質的には、自惚れと他者蔑視で成り立っている「萌え人」ってのは自意識が肥大化した意識デブなんですし、やがては変人扱いされ消えていく運命が待っています。
TRPGのために情報を溜め込むのは有益なことです。
だが、それは他のプレイヤーと共有し共通認識として昇華させてこそ活きるのであり、自分のお気に入りフォルダに入れて萌えても、自分を腐らすだけで何の益ももたらさないのです。
「萌え」はやはり「燃え」に通じます。
いずれ萌え尽きて灰に成り果てるものです。
追伸:声優さんの名が出たのでちょっと触れますけど、去年だか生天目仁美さんの読み方を聞いたらバカにされました。「“なまてんもく”じゃないよね?」と聞いた僕
もバカでしたが、その後鬼の首を取ったように嘲り囃してきたので思わずバイオレンスな手法を取ってしまいしました。ったく、萌え人ってのはホンマに幼稚です。 追伸のさらに追伸:バイオレンスな手法ってのは『サイバーパンク2.0.2.0』の戦闘でオープンダイスにしただけです。リアルで殴っちゃいませんので通報なんかしないでくださいね。