今日はScoopsRPGに投稿予定の記事から一部を抜粋して掲載します。
題して「TRPGがたどった問題点たち」です。
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黒田幸弘氏の『D&Dがよくわかる本』では、DM技術上達の方法を段階的に示しています。
始めは市販のサプリメント……この時代では「モジュール」と称していたものをプレイすることから始まり、そこからモジュールの改造を経て……
Lv2:自作ダンジョン作り
Lv3:物語的なシナリオを絡めたゲーム作り
Lv4:NPCの操り方
Lv5:世界観と連動したキャンペーンの方法
と言った具合に徐々にマスタリングの裾野を広げていくよう薦められています。これはガイギャックスが『ロールプレイング・ゲームの達人』で示したRPGの達人への道を具体的な形にしたものかと思います。
『D&D』が絶妙な点として、DMが必要とされるマスタリング技術と、プレイヤーが自らの管理資源(HPとか)に見合った“できること”の範囲……ゲーミングの範囲がうまく比例している点があります。
赤箱レベルのパーティは青箱レベルパーティがやらかす「村を襲って財貨を得る」とか、緑箱レベルパーティがやらかす「村々を襲撃して財貨を得る」とかいう“あこぎな遊び方”ができるほど強くありません。せいぜい10フィート棒をつついて洞窟を歩き、グールをやりすごす手段を考えることぐらいしかできない戦力です。
すなわち、赤箱レベルでは「Lv2:自作ダンジョン作り」ぐらいができればDMとして合格なのです。この段階から「Lv5:世界観と連動したキャンペーンの方法」を修得する必要はDMにはなく、プレイヤーもまたそこまで踏み込める状態ではありません。
僕が『D&D』を初心者向けTRPGとお勧めしているのは、DMとプレイヤーがともに初級技術しか扱えない状態からスタートして、ともに慣れていくにつれて技術の幅……DMはマスタリング(NPC、モンスターなどのGM資源と、迷宮などの仮想ゲーム盤を管理し、プレイヤーのゲームプレイングを公正に処理する)とストーリーテリング(世界観の管理とシナリオの運営で、プレイヤーのゲーミングを扶助する)の2つの技術を修得し、プレイヤーはゲームプレイング(HPや能力値などのPC資源を管理し、ゲーム終了までにゲーム目標を達成して配当を得る)とゲーミング(物語的な能動的行動によってシナリオに介入し、世界観をPCたちの行動に絡めて構築する)の2つの技術を修得することができるゲームだからです。
だが、
僕はD&Dも胸張って推薦できないチキンです で告白した通り、屈託なく『D&D』を薦めることに不安を感じているのも事実です。それは、「僕はD&Dも〜」で述べたように、当時隆盛していた『ソードワールド』の愛好者と、『D&D』愛好者との意識の乖離を埋めるような器用さを僕が持てなかったこともありますが、上で述べたような『D&D』流のプレイスタイルが他のゲームでは通用しないというのがあります。
例えば、『ソードワールド』は『ドラゴンマガジン』を母体としていただけに、非常に物語慣れした人が参入してきています。彼らの厄介な所は、初プレイの前からTRPGにはライトノベルみたいな物語を追体験できる物語再生装置としての側面があることを認識し、それを期待して参加してくるということです。黒田氏のレベルで言えば、初っ端から「Lv3:物語的なシナリオを絡めたゲーム作り」段階でのプレイを望んでくるのです。
これは『コンプティーク』を母体としていた『ロードス島戦記コンパニオン』や『マル勝スーパーファミコン』を母体にしていた『ダブルムーン伝説』とて同様でしょう。
ゲームプレイングなんかてんでできないひよっこがです。
『ソードワールド』は意外にシビアな戦闘バランスだと言われていますけど、『D&D』赤箱ほどシビアではないですから、作りたてのキャラでも「Lv3:物語的なシナリオを絡めたゲーム作り」に対応できるほどの戦力にはなります。プレイヤーは初歩的なゲームプレイングを学ぶ「ノービス期間」なんかナシにプレイが可能なのです。そして、ストーリーメディア参入者は自分はゲーミングがしたくて、GMにはストーリーテリングをしてもらいたくてウズウズしている状態です。
したがって、自然と初期レベルが「Lv3:物語的なシナリオを絡めたゲーム作り」となり、たとえ本日初GMの人でもLv3以上の技術が要請されるのです。
もちろん、ゲームプレイングがなっていないプレイヤーも、マスタリングがなっていないGMもシナリオを楽しむ以前に自分の資源管理に失敗するのが関の山です。大抵が、どちらか佳境前に資源を使い果たして……プレイヤーの場合はキャラが死に、GMの場合はNPCやモンスターが死ぬ……トラブルを起こすわけです。
競馬などで言えば、本日のメインレースを前に前座のレースで持ち金を使い果たしてしまった状態でしょう。金と違ってTRPGの資源はすべて仮想のモンですから別の人が貸すわけにもいかず、大抵がメインレースを指をくわえて見守るしかないです。これがGMだと厄介で、メインレース前に馬を出し尽くしてしまったりして賭けの胴元としての機能を果たせなくなる状態になるのと同等の行為をしでかしてしまいます。何人もの客が騒ぎ出すのは火を見るより明らかです。
だが、だからと言っていきなりLv3以上を求める『ソードワールド』がダメなゲームだったと言えばそうでもなかったのが現実です。ストーリーメディア参入組は確かに物語再生装置としてのTRPGを強く求めましたが、プレイヤーのゲームプレイング技術とGMのマスタリング技術を競わせるダイスゲームとしてのTRPGについてはさほど関心がありませんでした。
だから、GMとしてはマスタリングはプレイヤーがいい気になる程度にすれば充分で、プレイヤーに気持ちよく剣を振らせる雑魚敵と、協力して何か目標を達成したような気にさせるボス敵を出せばこと足りるのです。プレイヤーとしてもその程度でゲームプレイングは満足する程度しかゲーム感覚が養われていません。
それにより、幹事役のGMが講釈でプレイヤーを囃し立てるパーティゲーム的なTRPGスタイルが形成され、一時は『D&D』のスタイルを陵駕したものです。
こうなるとプレイヤーの方は徹底的に物臭になるもので、ゲーミングの必要性すら認識することができず、TRPGなんてGMが面白い物語を提供してくれるものだからと、何の事前準備もしない「聴衆」プレイヤーが出てくるのです。
彼らが「マジックショーの観客」程度しか動かないのは
インタラクティブの居場所で指摘した通りです。ゲーマーとしてはとても移り気で飽きっぽく淡白です。彼らはTRPGにマジックを見るような刹那的面白さしか要求しませんので、いくら熟練のGMでも糠に釘を刺すような反応しか得られません。
現在、TRPG業界で一定のシェアを得ているF.E.A.R社のスタイル……PCの物語的な立ち位置を固定することにより、シナリオを整然と進める機械的物語再生装置としてのスタイルと解釈すればいいのか……は、上で挙げた経緯の中から、従来のTRPGにあった2つの問題点を解決しようとして生み出されたスタイルかもしれません。
2つの問題点とは、
1:プレイヤーのゲーミング偏重・ゲームプレイング不足、GMのストーリーテリング偏重・マスタリング不足が引き起こす乖離によって、どちらか乃至双方がゲーム資源の中途枯渇を起こしゲーム続行が困難になることから発生するトラブル(第1期トラブル「乖離」)
2:プレイヤーの能力不足・意識低下から引き起こす吟遊詩人GMと観客プレイヤー状態が引き起こすGMのストレス増加、それに伴うGM人口の低下というトラブル(第2期トラブル「空洞」)
です。
もちろん上述のF.E.A.R社のスタイルはあくまでも「基調」に過ぎません。『トーキョーN◎VA』は「キャストが物語に与える影響」をメインとした立ち位置分けをしているのに対して、『ナイトウィザード』は純然にバトルでの役割が立ち位置分けの基準と言えましょう。
F.E.A.R社のスタイルが解決策に選んだ手法は「予定調和」と言えます。
従来プレイヤーの能動的行動によっていくらでも変化するのがゲーミングというものでしたが、F.E.A.R社のスタイルはゲーミングやストーリーテリングの展開に明確なゴールを設け、遊び手は各自ゴールに向けて「それぞれの手段(プレイヤーのゲーミング、GMのストーリーテリング)」で発進しなさい。ただしゴールは1つ。
言わば、海賊船に乗り込んで海賊を討伐するシナリオを、海賊を臣従させて乗っ取ってしまうのが従来のゲーミングなのに対して、F.E.A.R社のゲーミングは「沈む海賊船」が予定されており、各自がそう予定された「結」に向かって自分のキャラの立ち位置を基点に演出をしなさいというものなのでしょう。
このスタイルは黒田氏のレベル分けでは解釈できません。
なぜなら、初歩から「Lv5:世界観と連動したキャンペーンの方法」までを、すべて初心者に求めており、しかもそれは成功しているからです。なぜ成功するかと言えば、F.E.A.R社のゲームは「1タイトル1キャンペーン」が基本で、キャンペーンをすれば全国津々浦々、どこの卓でも同じ目標に向かって進むからです。『ナイトウィザード』ならエミュレイターから地球を守り、『アルシャード』ならシャードを守ってアスガルドを目指すという「王道」から外れないのです。
参加者全員が「王道」を進むのだから、プレイ技術のレベル上達はとても早くなります。その反面、予定外行動における多様性はまず発生しません。従って、そっちの方向での成長はF.E.A.R社のゲームでは望めません。
この「王道」プレイはおそらく『TORG』の影響かもしれません。
このF.E.A.Rスタイルは一見完璧に見えます。
だが、参加者全員が予定調和に忠実であることを求めるこのスタイルは、「邪道」ができない空気を生んでいることですでに第3期トラブルを抱えています。
端的に言えば、キャラクターを作り終えた時点で、どんなキャラクターでも「どうように行動し、どのような活躍をするか」が決まってしまうのがF.E.A.R社のキャラクターです。後はその「期待」に沿えるか沿えないかだけがプレイの基準であり、残りのキャラクターの個性などは刺身のツマ、プレイヤーが勝手にのまもうていていいよな箇所に過ぎません。
『トーキョーN◎VA』を扱っているWebサイトは多く見受けられますが、どのサイトも山のようにキャストを掲載しています。1人のプレイヤーが用途にあわせて5、6人のキャラを持つことなんてザラです。
それでも、プレイ中ともなるとニューロやトーキーを急遽ゲストで作らんといかん展開になるし。どうして毎度毎度、妖魔退治をしている武道家の少女(カタナ、カブト、チャクラがキーでバサラ、マヤカシがペルソナ)ばっかりやりたがるんだ皆さん。
異常です。
これも1つのキャラができることが終始固定されているゲームの宿命でしょう。
いっそ、1プレイヤーが1パーティを基調として5人程度のキャラクターをシーンごとに交換してプレイさせた方が物語の完成度はアップするのかもしれません。
これはこれで面白そうだから、次回RPG日本さんの研究会で持ちかけてみようかな。 よって第3期トラブルとして、
3:予定調和による「王道」を目指すプレイスタイル故に、1回のプレイでてぎる多様性の幅が狭く、遊び手は「色々なことをしたい」という欲求を消化しきれずにどん詰まりを起こすトラブル(第3期トラブル「王道」)
F.E.A.R社のゲームに対する不満も、結局の所ドラクエをそう何度も繰り返してプレイできるかというコンシューマーRPGの不満点と一緒なのでしょう。物語としての完成度を求めるあまり、多様性を失いかけているのでしょう。コンシューマーの方は物言わぬ機械相手だから何を言ってもムダですけど、人間相手のTRPGなら何か言えば対応してくれるのではないかという期待感を持たせてくれますので中々表面化しないだけです。
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今日はもう4時なのでここまで。
続きはScoopsRPGに投稿予定の「Web投稿版」にて。
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訂正:投稿日時間違っちゃった。訂正します。