TRPGを語るにあたって、難しい問題の1つに「資質論」があります。
プレイヤー本人が判断力・洞察力に優れた賢者ならば、TRPGでも優れたプレイができるという論です。それが進んで、TRPGではルールブックを勉強して経験を積むより自分自身の素の資質を磨いた方が上達するとか、TRPGは判断力・洞察力など人間の資質が磨かれる知的遊戯だという論を展開する人もいます。
要するに、TRPGが上手くなるには勉強するより前に天才になれってことです。
平たく言えばバカなことと映るでしょうけど、この業界にはそういう資質論に走るゲーマーが結構います。そして、彼らは畏敬を受けることはあれ、批判されるということはありません。
例えば能力値の格差問題。
能力値の格差の問題ともなると決まって「低い能力値は智恵と戦術でカバーするのがゲーマーだ」と精神論を主張する人が結構います。TRPGは能力値の優劣で遊ぶゲームではない、機転とアイディアで危機を乗り越えてこそ醍醐味ではないかというのがその理由なのでしょう。
一見正論だけに、多くの人が頷いてしまいます。
「きっとこの人は能力値が低くても機転やアイディアが自在に浮かぶすごいリーダーシップの持ち主なんだ」という幻惑を植えつけるには充分な主張です。後輩を威圧するにこれほど便利な言葉はないです。
「高い能力値の奴は機転やアイディアがなくとも有利な数値修正だけで寄り切ってしまうから気に食わないとでも言いたいのか」というツッコミは通用しないでしょう。いわんや、本当に機転やアイディアが必要な事態……プレイヤーの資質が直に試されている事態に能力値が高いからって何の説得力があるのだろうかなんて問いかけは虚空に消える宿命なのかな。
よく迷宮に謎かけの罠しかけるGMいるけど、知力ロールで代用させてくれと言って認めてくれたGMさんなんてTRPG歴31年のJosh・H・Grenに聞いても「いない」と答えましたぞ。
さて、僕の先輩には確信犯的に資質論を持ち出す人がいまして、その人は「自分は正しい過程を経経て上達したTRPGのエリートであり、君たちはヨソから興味本位で割り込んできた雑草なのだ」ということを思い知らせるために資質論を展開し、その道具としてウォーゲームの経験をことさらに披露していました。
ウォーゲーム出身で勝負勘・戦略眼主体のダンジョンゲームこそTRPGだとする人と、ライトノベル読者出身で想像力主体のストーリーテリングこそTRPGだとする人とでは資質以前に志向が違います。
だが、先にゲーム環境を整えてしまった者の強みで、先輩と後輩という縦社会のメンタリジーをたてに、ウォーゲーム出身者は何ら遠慮することなく自分のプレイスタイルこそが正道だと主張することができます。
後進の世代は、自分自身の資質や経験とか以前に、サークル内の発言力の問題で先輩に対して異議を唱えることができないのです。
僕の先輩はそれを確信していた上で、物言えぬ後輩に「TRPGは独学しても上達しない。僕のような熟練者を見習うことが上達の道だ」と明言し、自分の取り巻きを得ていました。彼は危険なほど狡猾な人間でしたが、その詭弁が通用しない……下手でも経験を積んで上達できる人には敬意を払っていました。決して自惚れない慎重さを持っていたのです。
そして、彼が一概に悪人と言えないのは、自分の取り巻きにきちんとレクチャーをして自分なりの手段で上達するよう指導していたことです。派閥を作りこそすれ、自分のグループの中では協調性を重んじた人物でした。
だが、世の中には本気で自惚れているバカもいます。
迂闊に信じて、この人についていけば冒険は安泰だと思ったら地獄を見ます。
自惚れたバカってのは協調性ってのが微塵もありません。「低い能力値は智恵と戦術でカバーするべき」を口にするのは、大抵が
相手が死んだ時で、智恵や戦術を駆使する以前に連携ができていない。
高い能力値の連中を盾にし、見殺しにした言い訳として、「君には智恵も戦術もない。高い能力値に慢心したからだ」と嘯くわけです。
都市で社会生活をしているのだから、社会との協調性が有益なことぐらい判断できるはず。
それが想像できていない。だからバカと言える。
だが、本人は決してバカだとは思っていない。
彼らは協調性が欠如しているわけでなく、斬り捨てているだけかもしれないのです。
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資質論は他にも幾つかありまして、「PCの交渉技能の数値が話力ではない。プレイヤーの交渉技術が左右するのだ」とか「PCの魅力など意味はない。プレイヤー本人の魅力があればそれでいいのだ」とか云ったのがあります。
ちなみに、「PCの戦闘能力はプレイヤーの実戦感覚が影響する」という過激な方向に行ったのがかつて僕がいたサークルでして、一流の格闘家、剣術家、兵士であってこそTRPGで高い戦闘能力を扱う資格があると大真面目に論じたものです。それを証明するためにゲーマー同士が試合をするしかなかったわけで……。
「お前はTRPGで戦士をプレイするに相応しい戦士としての資質はあるか」という問題提起のためにゲーマー同士がサバゲーをしたり、ガチンコでバーリ・トゥードで試合をしたりしたのはやはり
救いがたきバカでした。
現在はもっと過激に、「能力値など問題ではない。プレイヤー本人の信仰心の深さが奇跡を起こす基準となるべきだ」と主張したって資質論的には問題ないと思います。プレイ中に高々と神を賛美し祈りを捧げ、説教をし懺悔を求め、しまいにはジハードを宣告する……。
これぞまさに資質です。
きっと「真に敬虔なる信徒は邪悪をよせつけない!」などと言ってアメリカのTV伝道師みたいに蛇や毒サソリとか手にするんでしょう。蛇が噛まないほどの清らかさがあってこそ、初めてターンアンデッドが起こせるのかもしれません。
戦闘能力や信仰心はともかく、判断力や洞察力、話術や容姿はプレイヤーが比較的引き出しやすい資質です。
なんでこんなに資質論を言う人が多いのかといえば、プレイヤーの資質は「際限がない」のと「システムによる拘束がない」ことが原因です。能力値のような制限もなく、HPなどの消費資源のように枯渇することもない。HPを管理したり、能力値から行動を割り出したりするよりも簡単ですし、とても潤沢です。
そして、プレイヤー側は3人以上の人間が協議したり、時間をかけて思考したりすることが可能ですが、GMは1人だしマスタ
リングの方に神経を集中する必要もあります。資質勝負となれば最初からプレイヤーが有利なのです。
それを突き止めれば、結局の所資質論の根底は「ディベートでGMを納得させれば何だってできるのよ」という何とも浅薄な考えに至るのは目に見えてます。
そんなものはもはやゲームではありません。
そうなると、「TRPGは一概にゲームと言えない」などと言い出す連中までいる始末。
もはや彼らの中に出来上がっているものは「TRPM(テーブルトーク・ロール・プレイング・メディア)」なのかもしれません。自己表現がゲーム活動より優先されるなんて考え、どう考えたってゲームではなくメディア活動です。
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以上が、サークル社会の枠組みの中から見た資質論批評です。
TRPGを取り巻く環境は大きく変化しており、資質論に関する背景も大きく様変わりしています。その理由をこれからざっと考察していきます。
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僕は「資質論」の背後には、TRPGゲーマーの個別化が影響していると考えています。
インターネットでの二次活動(このBlogも然り)やオンラインセッションもそうでしょうし、それ以前にコンベンションの普及により、組織ではなく個人から成り立つゲーム感覚を養った人が多く登場するようになりました。集団でのチームプレイからTRPGを構築するのでなくスタンドプレイを成す個別のゲーマーから自分のゲーム像を組み立てているわけです。
そしてTRPGのプレイスタイルもまた、役割分担によるチームプレイではなく個別の活躍を集約させたスタンドプレイ主体の手法が主流となってきています。『TORG』がその起点であり、その後継者たるF.E.A.R社のゲームも然りです。
云わば、現在のTRPGはスタンドアローンな個人が意思疎通によってつながりを持つP2P(ピアツーピア。複数のコンピュータが1対1の対等な接続状態にある形態)社会だと言えます。これに対して、80年代までのサークル主体のTRPG活動は上位下達からなるサーバ社会でした。
TRPGのP2P社会化はTRPGを他人に伝達するための方法を一変させています。
これまでは上位下達で、サークル内で一定の勢力を持った人間のプレイスタイルを後輩が継承する形でTRPGを教育していきました。だが、P2P社会化したTRPGでは「多数」という観念が存在しませんから、誰のプレイスタイルも継承しないし、誰のプレイが正しいかの判断基準も存在しません。ゲーム感覚を養うには多数の個人の意見を集約させる必要があります。
このような社会では、確かな判断基準はサークルではなく、2ちゃんねるやTRPG系Blog群と言った個別の意見の集合体によって形成されます。サークルで得た「実感」ではなく、ネットで形成された「世論」が自分の判断基準となるわけです。
だが、TRPGはアナログメディアですから、実感抜きに世論だけで自分のゲーム感覚を養うことはできません。2ちゃんねるで集約された世論をBlogに掲載して、それで自分は一流ゲーマーになれたかと云えば、一流のBlog書きになれただけです。
ところが、P2P社会化されたゲーム環境では、今プレイしているTRPGが社会で構築された世論とリンクしているのかという不安が常に付きまといます。今、プレイして身につけた経験が世論と違っていたら、自分はスタンドアローンに陥ってしまうのではないかと気にするわけです。
すなわち、現場でのプレイ経験がTRPG上達の手段であるという認識が薄れてきているということです。組織社会のつながりがないスタンドアローンのゲーマーたちは、次々と卓からネットに飛び、自分と共通認識を持つクラスター(同一集団)を求めるわけです。
今プレイして身につけた経験がクラスター世論から見て正しい経験かどうか分からない。
だけど、クラスター世論がいつどこでプレイ現場で確かめられるかも分からない。
P2P社会化によって個別のゲーム感覚を養ったゲーマーは、クラスター世論とプレイ現場との乖離に苦しむことによって、TRPGの扱い方に自信が持てなくなっています。自分がよしとする扱い方が、他人とはかみ合わないのではないかと思ってしまうのです。
もはや一緒にプレイすることが不可能なぐらいに。
資質論は、こうした社会の変化の中でクラスター世論なしにプレイヤー同士が共通認識を持てる取っ掛かりになっているのかもしれません。システムの解釈やプレイスタイルではおいそれと共有はできない。だが、人間が持つ本質的な資質の面だったら、同じ人間同士分かり合えるのではないか……。
そういう背景で資質論が出るというのなら、これは狡猾なサークル権力者の計略とか、自惚れたバカの妄言とか云ったレベルの問題ではありません。TRPG業界は従来のサークル社会での上位下達型の継承方法ではなくて、P2P社会における個と個のリンクという仕組みを通しての流通手段を考えなくてはならないのです。
現場でのプレイ経験と、P2P社会で培われるクラスター世論との関係の溝をどう埋めるかが、ゲーマーが個別化したTRPG業界に求められていることではないでしょうか。
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参考にしたBlogのTBを忘れていました。
スタンドアローンとP2Pについてはほぼここが起点です。
mutter away 「スタンドアローン・コンプレックス」