2006年01月29日

彼とは今、ガチ

 どうにも恨まれたものです。
 
 とりあえず、今日は彼の要約に勘違いがあるのでそれに反論を。
 要約に勘違いがあれば、その後の論理も食い違うでしょうから。
 いいよね? 僕の考えの要約なんだから。

 要約1に関しては大体は合っています。
 ただ、対象の碩学は間違った判断をしていることを留意してください。

 問題は要約2.

2.しかし、TRPGに置いて「碩学」であることと、TRPGにおいて重要である「状況判断や発想力を発揮する」ということは、必ずしも一致しない。同様に、「TRPGに上達すれば、現実における状況判断や発想力もそれに伴って上達する」という発想も幻想に過ぎない。なぜなら、TRPGに用いる状況判断は、現実におけるそれとあまりに食い違い、相互に応用させることが難しいからである。

 まずは要約文を訂正させていただきます。

2. しかし、TRPGにおいて「碩学」であることは「TRPGに上達すれば、現実における状況判断や発想力もそれに伴って上達する」ことには結びつかない。「碩学」がTRPGにおいて優れた状況判断や発想力を発揮できるのはメタ知識が豊富で判断材料や発想のイメージが具体的だからだ。現実には別の判断材料や発想のイメージが必要であり、TRPGのメタ知識は多く点在する「状況」の中のほんの一状況に過ぎない。現実における判断力・発想力の向上はTRPGの非意識時を含めた、その人のトータルな「状況」における熟達が必要である。

 「TRPGに関するメタ知識とそれに基づく状況判断・発想力」は人生におけるわずかな時間にのみ有効な「頭のよさ」であって、それのみで人生における様々な状況判断に遍く発揮できる資質を語れるかと云われれば、違うのではということです。

 現実における状況判断や発想力は、TRPGに取り組んでいる時もそうでない時も、意識ある時はいつでも様々な状況の中で分析し判断した、人生そのものの中で培われた判断力・分析力であって、TRPGにおける判断力などは人生経験で培った資質のほんの一角にすぎません。
 だから、敢えて「TRPGこそが僕の資質を高めてくれた」というのは偏った物の見方です。TRPGをプレイしなくても、貴方の資質の向上に貢献してくれた機会は幾らでもあったわけだし、それらはTRPGの機会と等価であっても以下ではありません。
 
 いくらTRPGのために知識を研鑽した所で、それは人生の中で多く学んだことのほんの一角に過ぎないのです。TRPGのために研鑽したことのみが資質を形成しているのではないのです。

 だから碩学が「自分たちに比べて最近のゲーマーはバカになった」というのは間違い。最近のゲーマーは碩学とは違った「状況」の中でそれぞれ判断力・分析力を養っているのです。FEAR社のゲームがキャラクタープレイのために複雑な仕組みをしているのがその証左でしょう。

◆◆◆

 続いて要約3。

3.その経験的な証拠として、TRPGで状況判断の研鑽を積み、社会的成功を収めているという人間を見たことがない。本当にTRPGに現実の成功を約束するメソッドがあるのなら、事態はまるで逆であるはずだ。したがって、「状況判断、意志決定を養うことにより洞察力がつく」とか「ロールプレイによりコミュニケーション技術が上がる」といった事は虚妄である。TRPGはそのような社会的に有意な能力を一切提供しない。 

 そもそも「TRPGは社会的に有意な能力を一切提供しない」などとは名言も示唆もしていません。これは明らかに白河堂氏の誤解に基づく妄想です。これには率直に謝罪と訂正を要求したいです。

 この要約の主題は「TRPGは実社会の役に立つか」です。

 僕はその主題自体が愚かしいと考えています。僕が「そんな人間見たことない」と論じているのは、TRPGのメタ知識から編み出した「一状況下での判断力・発想力」で別の社会でも成功した奴は見たことないということです。
 「TRPGを通しての人生経験で培った判断力・発想力」が実社会で通用するか否かは別問題です。白河堂氏は要約2から3に移行する間に、「判断力」の意味を「メタ知識から基づくTRPGプレイという一状況下における限定的な判断力・発想力」を、「TRPGを通しての人生経験で培った総合的な判断力・発想力」に置き換えて論じているのです。
 そして、対象の碩学もまた同じように「判断力」の意味を置き換えています。

 あくまでも、別社会では通用しないのはTRPGのメタ知識であって、人生経験からなる判断力・発想力は別の社会でも役に立つ資質に間違いありません。

 そのことを踏まえて要約3を訂正します。

3. 実際にはTRPGプレイという一状況下における状況判断・発想力とその源であるメタ知識で、別の社会でも社会的成功を収めたという人を見たことがない。人間的資質が伸びるか否かは、TRPGを通して培った人生経験の成長に依る所であり、TRPGのプレイそのものは一状況下における限定的な資質を伸ばしているに過ぎない。

 僕はTRPGの社会的な地位向上、価値ある趣味文化としての強度を高めるためには、まず遊び手1人1人が「TRPGのある人生」の中で有意義であれと思っています。 TRPGは実業界への足掛りでもなければ、反社会的集団に至る獣道でもありません。人々の営みの中で行われる健全な文化事業です。
 僕たちは政治集団でも技能集団でもなく、金稼ぎ集団でも快楽集団でもありません。娯楽に携わる文化集団なのです。権力も技能も、金も快楽も提供はできない。けど、娯楽は提供できます。
 TRPGの集まりが「娯楽を提供する文化集団」であるかは別の機会にするとして、そうであると主張している僕としては、まずは文化集団として娯楽を提供する行動を堅持し、伝統としていくのが大事だと考えています。

◆◆◆

 最後に要約4。
 これに至っては白河堂氏の反駁に依る所が大きいので、要約の訂正とかいう以前の問題です。
 それでも一応、訂正しておきましょう。言葉の背後にある思想まで説明する必要があるから、えらくゴツい訂正文になることをお許しいただきたい。

・原文
4.こういった虚妄に惑わされるのは、知識人志向の大学生・大学院生・大学ウン年生である。彼らはTRPGを教養の一端として捉える傾向がある。そして同時に、TRPGがバカの遊ぶゲームだと思われたくないという傾向がもある。バカでも勉強して経験を積めば熟練ゲーマーになれる環境が存在することを彼らは酷く嫌う。強烈なケガレ意識と呼ぶしかない。

・訂正文
4. そもそも「TRPGで頭がよくなるか」や「TRPGは社会の役に立つか」などが問われるのは、本来なら技能を求め提供し合う技能集団である学生層が主体となって活動しているからだ。彼らは学校と同じく、TRPGも教養を提供する技能集団として捉える傾向がある。それ故、何の教養も習得することなく(その認識すら誤解だが)娯楽に興じているだけの遊び手に対する嫌悪感を持つ傾向もある。技能集団としての自覚がない「バカ」でも勉強すれば熟練ゲーマーになれる環境が存在することを彼らは酷く嫌う。娯楽に対する強烈なケガレ意識と呼ぶしかない。

 これは「TRPGに価値なしと判断できれば、いつでも全てを売り払うだけの準備はしています」という白河堂氏の宣言を聞いて、確信した考えです。彼は現在のTRPGが自分に価値あるものを提供しなくなった……技能集団として機能しなくなった時点でTRPGからすっぱり「卒業」できる人間のようです。
 ともすれば、彼のゲーマー人生は大学を卒業した時点でひとまず終了ですね。
 社会人になれば、TRPGの価値探しをする暇すらなくなりますから。「TRPGに価値なし」なんて判断する以前に、「俺はTRPGの価値探しすらできない奴なんだ」と膝をついて絶望する可能性大です。

 僕がよく言っている「自己の限界から来る陥穽」です。
 
 社会人を甘く見ないでもらいたいです。
 何しろ時間がありません。仕事に集中しなければなりません。仕事が終わる頃には図書館は閉まってます。家庭の事があるので本屋に立ち寄る暇もありません。日々の疲労感と、あちこち異常を訴える肉体。学生の間は当たり前のようにできたことすら億劫になる。そして気がつけば、下の世代の学生たちがガンガン飛ばして自分は時代遅れになったと鬱になる。
 TRPGゲーマーとしての社会以上に大事な社会を持った「労働者」という身分のゲーマーが学生に比べてどれだけのハンデを背負っていることか。「TRPGのための研鑽」なんてやりたくても出来ないし、それ以前にモチベーションを保つことすら困難です。
 
 学生には学生のスタンスがあるように、社会人には社会人のスタンスがあります。社会人にとって学生のように問題意識と自己改革が日々発生する進取に富んだTRPGは胃にもたれます。学生からすれば陳腐であろうとも、ストレスを発散させるために変わらぬ娯楽を提供してくれる伝統が社会人ゲーマーには欲しいんですよ。

 そこんとこは『更年期障害と倦怠期 〜TRPGゲーマーの体力とモチベーション〜』で率直に語っているのでぜひともご一読願いたいです。20代ゲーマーの皆さんは、こういう世代との同居を迫られているのですよ。
 
 僕としては、技能集団として日々資質を高め合うことには正直尻込みします。それ以上に、文化集団としてこれまでTRPGが培ってきた娯楽の真髄を伝統として次代に繋げる活動の方に集中さぜていただきます。
 
 白河堂氏にとってTRPGは日々新しい価値を授けてくれる日進月歩の世界かもしれません。だが、僕にとってTRPGは20年、30年と長いスパンの中で少しずつ蓄積していくものです。
 彼は価値なくなれば辞める、真剣に向き合うことが大事なんだという心構えですが、僕は長い人生幾らでも疲れや飽きがありモチベーションは高低して当然だと考えています。「千里の道も一歩から」というわけで、自分の「道」に対して自然に構えるのが僕のやり方です。

 僕はTRPGに価値など求めないと名言したことあります。
 第一、「TRPGは社会的に有意な能力を一切提供しない」ことが実証されたとしても、TRPGは本当にヒッピーを生み出すゲームだったとしても、それで一体何が崩壊するというのでしょうか。
 役に立たない木は伐採されないから木にとっては利点であるのと一緒。社会的に有意な能力を一切提供しないということは、有意な能力欲しさに群がる有象無象も、彼らを誑かして金をせしめようという山師詐欺師も現れない。マスコミに持て囃されることもなければバッシングを受けることもない。ホリエモンみたいな人が登場することもない。
 好いことだらけじゃないですか。
 そんなに毛嫌いすることでもないでしょう。

◆◆◆

 以上、彼の恨み節に対する僕の返答でした。
 正直、これは論理の勝負ではないですよね。彼の結論も相当、感情入っているし。客観的であろうとしてはいるけど、要約を読み違えているようじゃ腹の底は相当激しているんでしょう。彼の半年間の「落胆」はすべて僕への「失望」だったわけで、それを「唖然とした」の一言で見事に吐露してくれました。

 彼、一応お詫びの手紙書いているんですよ。
 内容は伏せておきますけど、現在の心境とは違う所もあるだろうし、一応これはチャラにしておきます。

 今回の記事は、久々に燃えました。徹夜何するものぞ、です。
 僕と白河堂氏との仲は実はとっても良好なんだなとつくづく思うわけですよ。
 だって真剣に殴り合える仲に進展しているんですよ。馬場秀和氏を見てみなさい。何度挑戦しても暖簾に腕押し。未だ人物像が見えてきません。これほどつれない人、もう相手にしてやりません。

 今年は絶対、彼と会わないと気が済みません。
 忙しくならないうちに、まずはAマホ。

 彼とは今、ガチ。
posted by 回転翼 at 04:46 | TrackBack(2) | TRPG雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年01月26日

緑の騎士が訪れたなら 〜TRPGの共同幻想〜

 ただ今、Pendragon 5thを少しずつ読んでいます。
 3rdにはなかった格闘戦が存在したり、女性騎士の作り方などがあったりして結構難儀してます。2月にはセッションを催す予定なので、それまでには大体のイメージは掴んでおかないと。

 実はPendragonは初GM。
 参考になるかとWhite Wolf社のHP掲載のショートシナリオを読んでみたけど……少し違うかなという感じがしました。いわゆる一本道シナリオなんですけど、これを例えば僕がGMしたとして、Pendragonの醍醐味を出せるかなという疑問があります。

 これがアメリカなら、アーサー王物語を追体験できるだけで満足いくプレイが期待できます。だが、日本のプレイヤーにはアメリカ人ほどにはアーサー王物語もケルトの民族伝承も浸透していません。これはゲーム世界への「共同幻想」が十分に発揮できないことを示唆します。
 例えば、旅先で知り合った騎士がガウェインだったらPLは「おおっ」と歓声を上げるかもしれません。だが、PCの騎士たちの居城に緑色の服を着た男が現れて、「これから首切り競技をしよう。この斧で私の首を刎ねたまえ。ただし、その一年後に今度は私がお主の首を刎ねる」などと宣告したとしたら、PLたちは同じように歓声を上げるでしょうか。
 たぶん、呆然とした後気味悪がるだけでしょうね。

 緑の男云々は、『ガウェインと緑の騎士』という文献の中にあるエピソードで、Pendragon 4thの出版社がGreen Knight社である通り、アーサー王通には有名な物語だそうです。
 だが、さほどアーサー王通ではない僕はつい最近まで知りませんでした。おそらく徒手空拳でプレイに臨んでいるであろう普通のゲーマーの関心の低さはそれ以上でしょう。

 共同幻想って言葉を出しましたけど、TRPGにおいてゲーム世界の魅力を引き出すには遊び手全員の共同幻想が不可欠なのでは最近思うんですよ。緑の騎士のエピソードにしても、アーサー王伝説やケルトの民間伝承に通じていれば、「緑の男」「斧」「首切り競技」というキーワードを聞いただけで萌えてくるものです。そうした追体験のキーワード……イベントフラグではなく、「アーサー王物っぽい」とか「ケルトっぽい」情景や仕草を読み取って、遊び手が一体になってゲーム世界に感情移入するってのがTRPGの共同幻想なのではないのでしょうか。

 Pendragonでは少しイメージ弱いとするならば、例えば『トーキョーN◎VA The Detonation』で「事件現場に残された赤い弾丸」というキーワードから「この事件はマーダー・インク絡みか?」となりますね。ここでN◎VA幻想のある人なら、有名組織と絡めることに萌えるものを感じますが、N◎VA幻想のない人にとっては物騒な暗殺結社と関わるなんてご免だと感じるでしょう。
 幻想ってのはリスクを楽しむって所もありますから、もし「マーダー・インクの腕利きと対決する自PC」って幻想を構築できる人なら冒険のスリルに挑むかもしれません。だが、幻想ができないPLの場合、一介の庶民に過ぎないPL本人の世界から抜け出せず、本能的に冒険を避けてしまうかもしれません。
 N◎VAに限らずサイバーパンク物ってのは物騒な喧嘩文句が多いから、怯えて何もできない人ってのが結構いました。女の子に人気がないってのも、女の子はハードボイルドなんかはなかなか読んでいないから、その世界観に萌える幻想がないんですよね。

 今までTRPGで知識を研鑽する意味ってのがどうにも曖昧で、衒学趣味などの表立ったトラブルを通して懐疑的な立場であった僕でしたが、ゲーム世界を構築する共同幻想を作るためとすれば、その効能は1つ具体的になるかもしれません。

 だけど、幻想を個人レベルで発揮させようとすると他者の幻想との衝突が発生するし、みんなが幻想していない中1人幻想していればアブない妄想と捉われるし。それ以上に、自分1人の幻想に凝り固まって他者を攻撃でもし出したら、それこそ害虫の所業です。
 
 FEAR社のゲームを「萌えキャラ品評会」と評したことある僕ですけど、個人の孤立した幻想から来るトラブルを回避するために、幻想を生み出す装置をシステムに搭載しているのかもしれないって感じもします。何か「私がこのキャラにこういうイメージを抱くのは、システム的に合理性あることだからなのよ」てな感じで。

 現在のTRPGは事前の知的研鑽によって幻想している人が参加するという形式です。だから傍から見れば陳腐なシナリオであっても満足がいきます。だが、必ずしも遊び手が望んだ形で幻想してくれないのが現実で、冷めた素の状態のまま参加する人や過剰で独りよがりな妄想に発展してしまう人もいて、ゲーマーに丸投げという形式ではうまくいかないようです。
 もし共同幻想をTRPGにとって不可欠なものだとするならば、集団的なイメージトレーニングがTRPGのプレイの中で必要なのかもしれません。
 
posted by 回転翼 at 09:01 | TrackBack(1) | TRPG雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年01月22日

対戦という名の夢魔 〜非電源ゲームのご近所付き合いを通してのTRPGの「勝敗」〜

 東京は雪でした。
 積雪9cm程度なのに雪かきでヒィヒィ言ってるようじゃ軟弱ですな。

 今日はベルスポTODAY-tabloidさんの話題をちょいとTBです。とか言っても、批評とかじゃなくて人様のお話に便乗して自分の考えをまとめてみただけですけど。

 お題は「TRPGの勝敗って、一体どこからそんな発想が来るのか」です。

 TRPGに勝敗はあるのかとは、彼是30年ぐらい長く問われ続けてきた問題です。
 それくらい、明瞭な解答が出ていないことなのでしょう。1つのゲームにはそれぞれ1つの公式見解があるし、1つのゲーマーにはそれぞれ1つの願望があります。

 実の所、TRPGの勝敗には狭義と広義があります。
 「狭義の勝敗」とは、TRPGに近い立場にいるボードゲーム、カードゲームなどの競技ゲームの領域から見た勝敗。「広義の勝敗」とは人間の営みの中での収穫、達成感、満足感などの幸福を得たか失ったかという具合です。

 今回は「狭義の勝敗」です。前世紀ではもっぱらこの領域が問われました。
 おそらく「広義の勝敗」で論じているTB先のがちゃさんに申し訳ないんだけど、僕は今まで非電源ゲームの領域からTRPGの勝敗を見ていたわけで、ボードゲームやカードゲームなどの「TRPGとのご近所さん」との付き合いを意識せずには語れないんです。

◆◆◆
 
 競技ゲームとしての勝敗とはどんなもんでしょうか。
 簡単に云えば「腕比べ」であり、ある競技企画のもとに同じ立場で力量を競い合い、競技者の順位をつけるのが競技であり、その順位の優劣が競技ゲームの勝敗となります。基本はデュエル(決闘)と同質であり、力量の優劣が競技者の生存よりも重視されます。

 だから、競技ゲームでは参加者は対立関係にある必要があります。
 
 TRPGは参加者が対立関係にある必要がありません。
 むしろ徒党を組むのが基本で、対立どころか反目ですらトラブルであるという認識が一般的です。「あるPLが別のPLのキャラを殺した」などいう例は稀であり、多くの人は否定乃至シナリオ上の必要悪ならしぶしぶ許容でしょうが、それを賞賛・奨励する人は皆無でしょう。
 だが、そのTRPGに、「PC同士が戦い合い、最後に生き残った人が勝利です」なんて書いてあったら、PC同士の殺し合いは競技ゲーム化され、PLはたちまち他者のPCを殺しにかかるでしょう。

 TRPGでPL同士が対立し優劣をつけ、ゲームによっては他者PCを殺して退場に追い込む……それがゲームとして当たり前のことになったら今のTRPGゲーマーはどう捉えるでしょうか。物語を堪能して、みんなで楽しむのがTRPGだと信じている人にとっては悪夢でしょう。

 ならば、TRPGっぽいけどプレイヤー同士が対立しデュエルするゲームなんてのがありますが、どうでしょうか。
 『スピタのコピタの!』でも紹介されたファンタジーボードゲーム、『ルーンバウンド』がそれです。
 遊び手は英雄キャラを操り、世界を旅しながら数々の試練をクリアして経験値やお金を得てキャラクターを成長させ、邪竜マーガスを倒すというゲームです……これだけ聞けばTRPGですよね。だが、マーガスを倒して真の英雄となれるのは1人のみ。いくらTRPGに似ているとはいえ、このゲームには「真の英雄=勝者」と「英雄になり損ねた者=敗者」という構図が冷然と存在します。「みんなが勝者」なんてことはありません。英雄になり損ねた者は等しく敗者として「orz」する宿命なのです。
 日本語版も出ていて、TRPG好きな人ならすんなり入っていけると思いますが、このゲームをプレイすれば「勝敗の存在するTRPG(っぽいゲーム)」というのがどんなもんか理解できるかもしれません。
 対立し競技する仕組みのないもの……TRPGには勝敗なんてものは存在しないのです。

 それでも、TRPGは競技ゲームとしての勝敗があるのかは長らく討議され続けてきました。
 各ゲームごとに丁寧に説明しているのはあたかも、「みんなゲームには勝敗があって当然だと思ってるけどTRPGには勝敗がない。僕たちって異端?」という原罪でも抱えているかのようです。僕にしたって、ボードゲーマーやTCGゲーマーから「TRPGって勝ち負けあるの?」と聞かれる夢魔に何度も魘されたものです。

 草創期の、とみにアメリカではまったくの正解でありました。

 中世風ウォーゲーム『チェインメイル』を元にガイギャックスやアーンソンが物語的要素を取り付けてできたのが『D&D』である通り、草創期のTRPGはウォーゲームの派生形という位置にいました。当然、遊び手のほとんどが勝敗はあって当然というボードゲーム・ウォーゲーム愛好者です。
 そういう人たちに、物語とかいう以前にまず「ゲームのすべてに勝敗があるわけがない」ということを理解させなければなりませんでした。『D&D』の場合はグレイホークやフォーゴットンレルムなど、物語へのトリップ感を喚起させる方向で強化を図りました。
 結果として『D&D』は多種多様な物語世界を生み出した反面、DMvsプレイヤーという「1人の権力者に徒党を組んで立ち向かう」形式のウォーゲームとして遊ばれた所もあり、競技ゲームからの脱却は完全ではありませんでした。

 アメリカにおいてTRPGが競技ゲームから一線を画すために、理論ではグレッグ・コスティキャン、市場ではWoDの登場を待たねばなりませんでした。

 日本でも米国と同じく、草創期のTRPGはウォーゲーム・ボードゲーム愛好者の間に広まり、そこでも「勝敗を決するのみがゲームにあらず」ということを説明する必要がありました。 
 だが、日本にはファミコンなどのビデオゲームが存在しており、「勝敗」ではなく「面とステージクリア」という形式のソリティア(1人遊びゲーム)が定着していました。しかも『D&D』日本語版と同時期に『ドラゴンクエスト』が発売されており、「RPGにはクリアはあっても勝敗はない」という認識が初期の段階からありました。つけ加えて、ライトノベルやゲームブックから参入してきた非ウォーゲーマー層の増加もあり、ウォーゲームからTRPG……すなわち「勝敗あって当たり前」の世界から「勝敗なんてない」の世界に入る人は10年20年のスパンを経て、極めて稀になりました。

 こと日本においては、RPGとは何なのかという初期認識をコンシューマーゲームで得ている人は圧倒的多数、リプレイで大体の要領を掴んでいる人もまたかなりの割合なので、草創期のウォーゲーム出身者を除けばTRPGに勝敗がないことを説明するのに特に障害はありませんでした。 

 ただ、対戦格闘ゲームが流行った頃にはデュエルの楽しさにドップリ嵌ったTRPGゲーマーが少なくとも僕の周囲では大量発生しまして、「やっぱり勝敗がないなんて物足りない!」考えるようになり、TRPGでも勝敗の存在を肯定……「対戦」の観念を導入するべきだと主張するようになりました。
 挙句の果てには、TRPGでパーティを組むのは負けたらメソメソするお子様ゲーマーばっかりだから、仲良しごっこしてあやしているに過ぎないなんて言い出す始末。

 そういう人がTRPGを「こんなのゲームじゃない」と脱退しないよう、「内堀」として「TRPGは勝ち負けを競うゲームじゃないんだよ」と説明する必要が生じています。
 
 まぁ、今世紀に入ってからはそんな「浮気者」は激減しましたけど。

 2006年現在を顧れば、TRPGが競技ゲームとしてのデュエルと、その結果としての勝敗の観念がないことが脆弱性につながる外的要因……TRPGを異端視する他競技ゲームの存在はほぼいなくなったと見ていいでしょう。
 その一方で、TRPGゲーマーが「対戦」に憧れてどっかヨソのゲームに転向してしまうという内的要因に関しては目下危険な敵がいないので問題視されてませんけど、また何時「TRPGで仲良しごっこなんて子供っぽい。対戦やろうぜ」と息巻くバカが現れるかと悪夢に魘されている僕としましては、ねぇ…。

 いつまでも対戦格闘へのルサンチマンが消えない僕がいます。
 今日の所はorzってことでどうでしょうか。
posted by 回転翼 at 09:01 | TrackBack(1) | TRPG雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年01月19日

TRPGは止揚される 〜TRPG作品の人気サイクル〜

 最近、F.E.A.R社ゲームの総括が話題になっていますね。
 個々のシステムから全体的なメカニズムまでが考察されてる様子を見ると、今が爛熟期なのでしょうか。今後、F.E.A.R社のゲームはプレイスタイルを一新するほどの改革が起きるのか、それとも飽きられるまで現状維持なのか…。
 だけど、F.E.A.Rゲームの人気減退=TRPGの衰退といくのは違うと思います。

 ここでTRPG作品の人気サイクルについて試論を。
 まだ完全ではないのですが、TRPG作品の人気ぶりにはサイクルがあるのではないかという考えから考察した図式です。

◆TRPG作品の人気サイクル

1:黎明期
  ↓
2:隆盛期
  ↓
3:爛熟期
  ↓
4:否定期
  ↓
5:反省期
  ↓
1に戻る

◆◆◆

 まず1の「黎明期」です。
 この時期はTRPG作品が発売される前、まだ多くの人が雑誌リプレイなどでしか情報を知りえていない時期です。だが、海外ゲームなら自家翻訳者が、国産ゲームならテストプレイなどによる試作品の流失が、最初期のコアゲーマーを形成します。最初期のコアゲーマーは隆盛期にオピニオンリーダーになるか、完成品との乖離に歯止めがかからず孤立するかのどちらかの道を進みます。
 黎明期のTRPGは多くのプレイヤーにとって氷山の一角程度の遊びしかできません。従って、プレイしたからといってそのゲームの愛好者になるとは限りません。多くの場合、デザイナー乃至翻訳者(オフィシャル、自家問わず)の仕事ぶりに注目するに留まります。

 続いて「隆盛期」。
 ルールブックが発売され、その遊び方について討論がされる時期です。
 この時期に活発に討論し経験を積んだゲーマーが、そのゲームにおける熟練者となることが多くあります。地域によって差異が生じますが、一部の卓ではそのゲームを自己のゲーム感覚に組み込んだ熟練者が現れるようになります。
 この時期のプレイは、そのシステムでGMはどこまでシナリオを展開できるのか、またはPLはどこまでロールプレイの幅を広げられるのか未知数です。それで、従来培ったプレイスタイルを踏襲して食い違いをしたり、無難に取り扱いすぎて一本道シナリオなど多様性に欠けるプレイをしたりします。

 3番目は「爛熟期」。
 この時期はクラスター世論によって個々人のゲーム感覚がまとまっていき、ほぼ全国的に安定したゲームが期待されます。プレイスタイルが統一していくにつれ、徐々にマンネリから疲れが生じるPLが出てきます。
 どのくらいで疲れが出てくるかは、そのPLが該当するTRPG作品で使用するキャラクターにどれだけ元ネタ知識と構成力を注ぎ込められるかにかかっています。簡単に言えば、Myキャラの元ネタが枯渇したときが、TRPGの疲れです。
 また、システムのメカニズムも大体が解明され、システムが提供する楽しさの多くが既知の存在となります。
 ここで自らが伝道する気のないゲーマーはプレイが段々単純作業化していき、やがて飽きるようになります。逆に外向的な気質の持ち主はその作品を名代として活発な普及活動に出ます。彼らの中には「原理主義者」と呼ばれる自己一体化を果たした者もいて、飽きや疲れを見せた者に激しい攻撃をしかけるようにもなります。
 この時期のプレイは、人によってモチベーションがバラバラになるので人間関係のトラブルが起きます。また、原理主義者による極端な仕切りなども発生します。

 4番目は「否定期」。
 世代交代や新しい作品の隆盛によって、多くのゲーマーがそのゲームを休業状態にしている時期です。ベンダも出版を停止したりして、サポートも滞ります。
 この時期は不惑の時期であり、爛熟期に高いモチベーションを出していた人は、その反動として鬱になります。クラスター世論もそのゲームのシステム的・シナリオ展開的に限界が来ているとして、欠点が露になったり批判が相次いだりして、熟練者には向かい風となります。
 前期にて熟練者となっていた者は、自己の限界をTRPGの限界と見てリタイアするか、ひとまずゲームを棚に収めて新しいゲームに取り掛かるかします。
 多くのゲーマーはこの時期をもってその作品の命脈は尽きたとしますが、一部のコアゲーマーは厳しい環境の中でも地道に活動します。参加者のほとんどがブランド性を喪失していますので、ひとえにGMの人柄に頼りきるセッションになるかもしれません。
 冬の時代ではありますが、実は愛好者にとっては結構幸せな時期なのです。だが、爛熟期に喧嘩してまでエゴを通した人にとっては厳しい冬です。

 そして5番目は「反省期」です。
 この時期はこの作品の良い点、悪い点が止揚される時期であり、ゲーマーも反省的視野から欠点や限界を丸く包み込む余裕が出てきます。その潮流が高まると、再販乃至改訂版という話が出てきます。
 この時期は熟練者にとって一番辛い時期です。再び黎明期に戻れるかの瀬戸際の中で、一縷の希望を込めてベンダの動向をハラハラドキドキ見守りつつ布教活動をすることになるのがその理由です。ここでベンダが「やっぱりダメでした」となるとより一層激しい鬱が襲います。
 ここでルールや世界観が独特で他に真似できない作品の場合は、再販や改訂版などによって黎明期に転生することができます。だが、別に再販するほど個性的ではないゲームの場合、反省したことから来るゲーム感覚の変化に伴い、新しい作品を体得する際の骨肉としてゲーマーのみ転生する形となります。
 TRPGのプレイにおいて、最も円熟したプレイが期待できるのはこの時期です。
 
◆◆◆

 う〜む。
 まだしっくりこないですけど、とりあえずこんなもんかな。
 基本的には弁証法的サイクルを目指しているんですけどね。TRPGは栄枯盛衰する者ではなく、そのTRPG作品の面白い所(テーゼ)と問題点やトラブル(アンチテーゼ)が止揚されて総括的な評価が出た時点で次の時期サイクルに入っていき、その総括的評価にまたアンチテーゼがつく……その繰り返しの果てに循環が起きるってな考えです。

 結局、目指す所はTRPGに携わっている人が、「TRPGってもうダメかも」と鬱になることを防ぐ哲学的な頭の鍛え方なんですよね。
posted by 回転翼 at 09:01 | TrackBack(0) | TRPG雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年01月16日

TRPGゲーマーは幼女と同志がお好き 〜既知を求める性質〜

 同じゲームを何年も遊び続けることはできないと僕は思っています。
 ましてや、そのゲームを隅々まで知り尽くし、ほぼ自分の想定内にコントロールできる力量を持っているものなら尚更のことです。
 そして、それ以前にそのゲームに対して「こんなものだろ」と大抵のことが既知だと意識がコンクリートされ、もはやそのゲームが提供する遊びがすべて「定番」だと思えるようになってしまったならば……。

 今日のコラムはTRPGの既知性について。

 発端は隠密突撃隊発行の同人誌、『RPGの壁』からです。
 男性3人、女性2人の初心者に『D&D』のキャラクター作成を各種図表を用いて丁寧に解説した。RPGの心得がなかった女性2人は虚心坦懐の境地で作成を楽しんだ。だが、すでにルールブックを読んでいた男性3人は「そんなことは知っている」と不快感を露にした。
 『RPGの壁』では、この例を踏まえて浅学から来る情報の遮断が、TRPGへの理解や面白さの発見を妨げていると指摘しています。

 おそらく、この男性たちは女性らを心底軽蔑したことでしょう。
 「メス猿がTRPGに触れてはしゃいでやがる…」といった具合に。

 耳学問というのはこういう青二才を生み出すものです。
 傍から聞けば、楽しむ機会を捨てた男性たちは愚かな連中です。
 だが、いざ自分が初心者の状態で新しいTRPGに挑まんとする時、あなたは徒手空拳で臨むのでしょうか。それとも、なるべく予習をして心得ありという面を見せたいものでしょうか。

 なかなか徒手空拳ではいかれないと思います。
 とみに男性プレイヤーは。

 TRPGにおける男性と女性への捉われ方の差異として博識があります。
 うがってしまえば、東西南北どこでも「貴重な存在」と祭り上げられている女性プレイヤーに対して出自や学識を問うことはしません。女性であれば、無学でも無知でも尊ぶのがTRPGゲーマーというもの。むしろ何も知らない女性初心者が新しい遊びに無邪気に取り組んでいるのを、美少女育成ゲームをプレイしているかの心地で「ああ素晴らしい」と酔いしれている熟練者・上級者・オピニオンリーダーは捨てるほどいます。

 もちろん、そんな熟練者どもは強烈な女性差別主義者です。
 こいつら腹の中では、女性ゲーマーが「初々しい未熟な世間知らずの少女」であるべきなのだという差別意識が根付いています。ゲーマーとして自立させる方向には絶対持っていかない。上級者にはせず、永遠に可愛い初心者であり続けてほしいと願っているのです。
 どんなに人格者ぶっても、セックス・シンボルとして女性を見てるようじゃ豚野郎でしかありません。

 それとは対照的に、男性プレイヤーは碩学ぶりがよく問われます。
 大学生・大学院生・大学ウン年生が多い背景が影響しているのか、教養人のプライドを引っさげて参加しているゲーマーはTRPG業界にはとても多い。ゲームに対する予習は当たり前で、プレイ以前に要領を掴んでいない奴はバカである。ルールブックを読め、リプレイを読め、小説や映画を見てイメージ掴んでから参加してこいという気風が根強くあります。

 永遠に未熟なセックス・シンボルであり、自らは優しいお兄さんでありたいという……自分の美しい側面だけを見てて欲しいという女性への態度とは違い、男性プレイヤーに対しては自分の暗部……マニアックな側面ですら毛嫌いせず交友を持てる「同志」を持ちたいという態度が碩学ぶりを問う気風の背景にあります。
 
 下世話に言えば、同姓だから猥談もできる。
 同姓だから「それもありかも」と言ってくれる。
 だから同姓の友達は自分の話が分かってくれるような奴を選びたい。
 そして自分はマニアックだから、相手もマニアックな話についていけるくらい碩学の人であってほしいな……てな感じ。
 
 もはやTRPGのプレイはTRPGを理解する勉強ではなく、TRPGを勉強した後に挑む試験なのです。初プレイの初心者であっても、初心者としての模範プレイが試されるテストである。テストに質問は不要。解答することが大事である……。
 これがTRPGの初心者男性に向けられた上級者の要望なのです。上級者は嘗め回すように、自らの同調者を探しているのです。
 上級者がそういう「選別」をしている以上、男性初心者としても無知蒙昧であっては無事では済みません。うっかり初々しさを見せたら、同志になるほど同調はせんと判断した上級者によってたちまち村八分に遭います。

 『RPGの壁』でも、別の項にて『ダブルクロス』の初心者講習会で、初版と2版を見せて「両者の違いを言え」と問うた所、「絵が違います」という回答され激しく憤っています。そんなお粗末な物の見方でどうする、そんな初心者には教える気がなくなる……と。

 きっとこの項は、最初に引用した項でキャラ作成を「すでに知っている」と断じた男性初心者が書いたものに違いありません。ある項では浅学からくる情報の遮断を批判したのに、後ろの項では「初版と2版の違い」という浅学により、自らが「付き合えない」と壁を作っているのだから、同一人物だったら皮肉としか言いようがありません

 明らかに、お粗末な質問をした著者の蒙昧です。
 初心者というなら、初版と2版どころか『ダブルクロス』と『アルシャード』(表紙の絵師さんが同じ)の違いすら明朗に答えることはできないでしょう。違いを見出すどころか、違いがあるということすらまだ知らない。知らないどころか、まだ興味が具体的ではない。
 まだ漠然とした「TRPGというゲーム」に引かれてやってきたズブであるのかもしれない。
 そこまで「初心者」というものを掘り下げずに、「初心者であろうとルールブックを渡せば差異を見出すくらいにはモチベーションがあるはず」などという「常識」を勝手に妄想したのが悪い。

 TRPGの初心者教育ってのは苦労がつき物ですけど、教える側が初心を忘れないってのは基本中の基本だと思います。初心者がどの段階に立っているのか……モチベーションはどれくらいあるか、前知識はどれくらいか、緊張はどうなのか……、 まず「違いに気付くことはいいことなのだよ」と意識を持たせ、そして違いに気付かせ、よき方向へと導いていくのが初心者教育の本道ではないでしょうか。

 その意味では、上級者・初心者問わず「既知」であることを前提としたTRPGの仕組みは必ずしも光……同志を得る喜び……だけを出してくれるとは云えません。人と人との温度差を見失う影があります。
 
 だが、それならばTRPGは無知でも構わないかと云えば違います。
 既知の反対は無知ではなく「未知」です。TRPGにはプレイ前は未知でなくてはならない領域というものがあるのです。限定された「知らない」であり、それはプレイによって止揚される性質のものです。
 それに関してはいずれまた。
 
posted by 回転翼 at 09:01 | TrackBack(2) | TRPG雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年01月10日

やばい。時差(版差)ボケが…

 Pendragon 5thが届きました。
 所有者の多くはGreen Knight社の4thを所有してるでしょうが、僕が以前から所有していたのはChaosium社の3rd。TRPGゲーマーたるもの骨董趣味では動かないので古い版を持っていたからと云って偉くはなく(新しい版がどうしようもなく出来が悪ければ別)、やはり僕の持ちえる情報は古くなっています。ここは精読してブランクを埋めないことには…。

 ……。

 うへっ。
 キリスト教かペガンかを選べって…。
 3rdじゃキリスト教だけでしたのに。しかもキリスト教自体も英国式とローマ式とが別箇に設定されてるし(英国式は貞潔・勤勉・寡欲・謙虚・貞節だが、ローマ式は貞潔・寛大・情け深い・謙虚・貞節)。
 
 うがっ。
 弓がnon-knightry(騎士にふさわしくない)技能じゃない。
 「騎士は戦闘では弓は使わないけど、狩りではよく使う」だって。
 確かに鹿を相手にランス突撃したり剣を抜いたりするのは間抜けでしたけど、弓使ってOKなら狩猟はどうなっちゃんだろ。わざわざ技能執る人はいないだろうけど。

 うほっ。
 ソールズベリーの君主がロバート卿ではないっ。
 誰…Sir Rodarikって。ロバート卿はいずこに…。
 …Young Robert(Glory:0)。「ソールズベリー伯の息子にして相続人が昨年生まれました」だそうで。ロバート卿が突然ロバートちゃんに。

 うぅむ。侮れない。侮れないぞ5th。
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2006年01月09日

Shogun Yoritomo GENJI 〜Pendragon 5th注文〜

 『Pendragon 5th』を注文。
 RPG日本でGMするかもと云った手前、どうにも虫が納まらないので。
 Pendragonはアメリカだとヴァイキングや三国志に転用して遊んでいるというのは見聞きしてますけど、日本を舞台とすると何時代が一番合うのでしょうか。
 一番合致しそうなのは鎌倉時代ですけど、鎌倉武士のメイン武器は弓(Pendragonでは「騎士は使わん」と名指されている)。するとランス突撃の替わりに流鏑馬。それはそれでさまになります。ただ、その次に来るのが馬上組み打ち(いわゆる騎馬戦)で、さらに落とした敵と取っ組み合いをして腰刀でとどめを刺すってのが戦いのセオリーだったようで。

 そう云えば、取っ組み合いを通常の戦闘行動として取り入れているTRPGって何かあるでしょうか。バーリトゥードが総合格闘技と呼ばれる以前から寝技の攻防ってのに格闘技ファンの血が騒いでいた身の上としては、ナイフ片手に取っ組み合いをする戦闘をTRPGでもやりたいんですけど、それをスマートに再現するシステムには出会えてません。
 つーか、そういう戦闘をやりたいっていうゲーマーにも会ったことないです。

 まぁ、すべてはPendragonが届いてからの話。
 まずは史実通りの(笑)Pendragonということで。

追伸:こんなの見つけた。
カムリ人の名前はウェールズ準拠でいいかと思ってたけど、探せば見つかるものですな。

Male Cymric names(英文)
  
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2006年01月05日

孤立に抗う戦いでした 〜2005年ベストコラム10選〜

 2006年明けましておめでとうございます。
 初夢がかなえば、今年はメキシコに行くようです。なぜに…。

 今年もRPGコラム『うがつもの』は相変わらずの活動をしていくの…かな。
 去年は仕事も家の事情も変化してなかなかに忙しい1年でしたので、この先何が起こるのか分かりませんけど、とりあえずモチベーションのあるうちは活動していきたいです。

 2005年、僕はseesaaに移籍してからTRPG関連のコラムを55作書きました。
 その中には現在のゲーム感覚をまとめあげるのに成功した記事もあれば、「やっちゃった〜」と頭抱えるスベった記事もあります。今日はその中から自分にとってベストだと思える記事を10選び、それに現在の僕から見た注釈を添えて再評価をしようと思います。

1:サム・スペードの末裔と生天目仁美さん 〜TRPGにおける知的研鑽と萌え〜
 
 僕は生天目仁美さんがいいけど周囲は能登麻美子さん一色で誠に以てけしからん(つーか、能登さんの方にアファリエイトのリンクがついてる。なんで〜)という話…ではなく、TRPGにおける知的研鑽と萌えの違いから、TRPGゲーマーの過剰な自意識肥大化を問いかけた記事です。この時期から、TRPGにおける知識見識は妄想として蓄積するのではなく、碩学として閃かすのでもなく、エンタメとして楽しませる方向に持っていなくてはダメだという認識を持ちました。

2:パズルとゲームとセッション

 TRPGにおけるパズル的要素を、キャラクターが最大能力を引き出すようデータを調節する「狭義のパズル」と、シナリオの先読みなどの「広義のパズル」に分類し、さらにレクリエーションの成否も絡んだ多重的な遊びであるという話。「最善手が最良の結果を出すとは限らない」という状態がTRPGの面白さを深くするカオスなのですが、それが忘れられシステムにしろシナリオにしろ、いわんやTRPGそのものにしろゲーマーに「こんなもんだろ」と達観されるようでは、ゲームとしての寿命は大きく低下するでしょう。

3:インタラクティブの居場所

 TRPGにおけるインタラクティブ性とは何かと考えた話。この記事と『喧嘩番長でロシアンフック 〜TRPGとコンシューマーでのインタラクティブ性の違い〜』で、TRPGにおけるインタラクティブとは、ゲーミング(能動的行動によってシナリオを脚色し、ゲーム世界を逐次書き換えていく遊び)でのインタラクティブであると確信しました。どうもこの辺りは予定調和を旨とするFEAR式シナリオに対する代案を模索していたのかもしれません。
 2006年はFEAR式シナリオもTRPGの最終形態ではないことに多くのゲーマーが気付く年です。1つの形式における権威となって絶対的な立場から布教をする伝道師ゲーマーが疲れ出し、それによって拠り所を失ったゲーマーが自分自身のゲーム環境の袋小路から「TRPG業界は衰退する」などと妄想たくましくする年と云えましょう。次世代への新しいスタイルの模索は依然必要なことです。

4:うつむく萌りんにTRPGを 〜カオスとゲーミング〜

 中級者お地蔵さんプレイヤーの対策を講じた記事ですけど、一番の功績はTRPGにおけるカオス……TRPGには想定を覆す快挙・椿事がたびたび発生して二転三転する「生きたメディア」としての側面があり、それがTRPGに多人数参加の醍醐味をもたらしていることを解題できたことにあります。僕としてはこの記事が昨年一番の収穫かもしれまぜん。

5:ロック様の棍棒とドクロちゃんの金棒 〜首ナイフと数値修正〜

 TRPG系Blogにプチブレイクを引き起こした問題作。かつては各卓ごとのミニマムな問題であった首ナイフ(この用語にしても、ひょっとしたら僕の造語かもしれない)の公案が、突如ネット環境によって様々な場所に飛び火。顔も見たこともなく、今後もプレイしないであろう者同士がヴァーチャル環境で自分たちのゲーム感覚を激しく討議するという珍現象を起こしました。
 これにより、多くのゲーマーがネット環境の中で実際には曖昧に過ぎないゲーム解釈に「真理」があるものと思っている傾向があること、ネット環境によってそれが各卓・各サークルのレベルからネット環境にあまねく通用する汎世界的に拡大してしまっていることを痛感しました。

6:ブラックサンドで晒し者に腐った卵を 〜ゲームブックの意義とリプレイの良し悪し〜

 ゲームブック、そしてゲームブックに影響された世代がTRPGにどのように影響を及ぼしてきたのかという話。『ゲームブック読者×6+ゲームブック講釈師×1=TRPG?』で発した「TRPGは“ゲームブックの記述をGMが口述でする多人数参加ゲームブックである”と云えなくはないか」という問いから始まったゲームブック考察です。結果として、「まったくその通りである」と答えた人が僕の周囲には多く、その実現を夢見る人もまた多いということを実感しました。

7:嘆きの碩学世代

 白河堂氏と喧嘩したあまりいい印象のない記事。知識人と労働者とではTRPGを捉えるものの見方はこうも違うのかと愕然としました。僕にとってTRPGは学のない者でも楽しめる大衆娯楽であるべきと考えていましたが、大学生・大学院生の多いTRPG業界においては知識人の嗜む教養であってほしいと考える人が多くいて当然。庶民としてはまだまだ知識人どもは象牙の塔に篭る性質があるなと痛感(こればっか)しました。
 ちなみに『続・嘆きの碩学世代』で自分なりの言い分は言ったと思います。

8:30のおじさんになりまして 〜私見のTRPG世代考察とメディアとしてのTRPG〜

 僕なりに考察したTRPG世代論ですけど、主題はTRPGにおける物語、キャラクターに対する表現欲、創作意欲の根源はクリエイトではなくメディア……自らの創作物を披露して社会的に認知してもらう活動にあるということです。

9:TRPGのスタンドアローン・コンプレックス 〜TRPGにおける資質論とネットワーク〜

 ネット環境の拡大による個別のゲーム感覚を持ったゲーマーが持つ不安定さを問うた記事であり、首ナイフ問題から碩学世代論争を経て完成した下半期における成果的記事です。
 僕がBlogを始めた時期はまだサークル・コンベンション=主、ネット=従の関係であり、現場で十分TRPGを楽しんでいる人が参考として見るのがTRPG系Webサイト及びBlogだと思っていました。ところが、現在ではまずネット環境で知識を蓄えてから現場に入るゲーマーの方が多いというのが現実なのだそうです。
 すなわち、TRPGの楽しさをポジティブに語ってくれる役目はかつてサークルの先輩ゲーマーやコンベンションのGMなどが担っていたが、いまやTRPG系ブロガーがまずそれをしなくては素人は興味を持たないということなのかもしれません。
 だとしたら、ウチのBlogは危機に直面していますよ。

10:友達1人作れないのなら、TRPGはアンゲームよりくだらない

 『アンゲームはTRPGゲーマーにウケるか 〜TRPGの匿名性〜』に続くアンゲーム考察物。ゲーマーの孤立意識に対する対策は2005年を通してのテーマであったと思います。
 ちなみに、RPG日本の鏡氏は常々『アリアンロッドRPG上級ルールブック』におけるデザイナー・菊池たけし氏のマナー意識に問題ありとしている…うまくは代弁できないが、菊池氏の提案する他者への気配りの指針が、鏡氏にはプレイ後に反省する機会を奪うものに見えるようだ…けど、結局菊池氏の指針は一期一会の「トラブルなく気持ちよく別れられる」のが目的のコミュニケーションが前提でないかと思いますし、それには彼自身のゲーム環境…どこに行ってもゲストGMで、アイドルの追っかけ気分で参加するゲーマーばかりを相手にプレイしている…が影響しているのではないでしょうか。

◆◆◆

 以上が僕が選んだ2005年ベストコラム10選です。
 それを踏まえて、2005年とはどういう年であったかを回顧するならば…。

 痛感
 
 …の一年でした。
 一昨年はネット環境で名が上がる一方で現実のプレイ環境に危機が訪れた一年でした。
 去年はRPG日本を始め落ち着いたゲーム環境を再構築できた半面、ネット環境では右に振られ左に振られ、自らの方向性を著しく失いかけた一年だったと云えましょう。
 今年ははたしてどうなるのでしょうか。
 
posted by 回転翼 at 09:00 | TrackBack(0) | TRPG雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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