2006年02月24日

FEARゲーという作法

 最近、FEAR社の話題で賑わっています。
 かく云う僕の場合、去年1年間でプレイしたゲームを多い順で並べれば…、

1位:アリアンロッド(6回)
 〃:D&D 3.5e(6回)
2位:無限のファンタジア(4回)
3位:トーキョーN◎VA The Detomation(3回)
4位:エンゼルギア(2回)
5位:クトゥルフ神話RPG、007、Pendragon、真・女神転生、蓬莱学園など(各1回)

 とまぁ、半分以上がFEAR社のゲームでした。
 しかも他のゲームはGMやることが多いのに、FEAR社ゲームに限ってはPL主体です。
 1番のアリアンはメールで知り合った人んとこにお邪魔してプレイしてますけど、別にハンドアウトとか使わず、前世紀にソードワールドでやってたことをそのまま継承して遊んでいるから、作法にうるさい人には怒られるんでしょうか。
 
 だけど、一番好きなFEARゲームはエンゼルギアです。
 Blog活動の中で教えてもらったゲームですけど、今となっては僕の眼鏡から見て代表的FEARゲームとなりました。ドラゴンアームズで些か失望していただけに、(くだらないであろうけど)衝撃が大きかったですね。
 だけど、それだけに人を選んでプレイしたいです。システムの初心者はいいけど、世界観で共同幻想がない人とはプレイしたくないです。だからRPG日本あたりで依頼があっても断ります。ヲタク少ないしあそこ。

 N◎VAに至ってはシステムの最善手とか最も効率的な技能・神業の組み合わせ、タイミングとか云った「必勝テクニック」など無視してプレイした方が楽しいです。あと、チャクラやカタナが敵対勢力を成敗するよりは、フェイトやトーキーが地味に陰謀を暴く方が好きです。
 つーか、カタナ、カブト、チャクラ、それにバサラやハイランダーがいないN◎VAってのもオツなもんです。

 偏にFEARゲーと云っても、凡庸なアリアンとエキセントリックなエンゼルギアとはえらく違った作りしてますし、シナリオ展開にしたって僕自身が何か変わったことをしようと一捻り二捻りする人ですから、教科書通りのプレイってことにはならないはず。
 僕1人の孤立した感覚からすれば、同じようには思えません。

 ではなんでFEARゲーってどれを取っても同じように見えるんでしょ。
 或いは、そういう錯覚を人に与えるのでしょうか。

 僕自身が感じる錯覚としては、「FEARゲーをプレイしているゲーマーの顔が同じに見える」ってのがあります。FEARゲーがどれも一緒なんじゃなくて、それを遊ぶ遊び手のモチベーションが似たり寄ったりだし、遊び方にしてもなんか整然とし過ぎている。
 なんか「これが正しいFEARゲーの遊び方の作法です」ってな不文律が出来ていて、そこから外れることが無作法ってな場の流れを感じてしまうんですよね。しかも自然に行えば予定調和なんですけど、「PCの立ち位置」とか「登場判定のタイミング」とかで意識し過ぎてギクシャクする人ってのも結構いるもんで、「小学校の運動会、入場式のリハーサルで行進の歩調が合わずに何度もやり直しを食らってるもどかしい時間」に似た心境になるんです。

 FEARのTRPGとて道具ですからね。
 「遊ぶのに飽きた」んじゃなくて「遊ばれるのに疲れた」んじゃ意味が違います。
 工夫次第で多様性は幾らでも生まれるのだし、まず遊び手が「FEARゲーはこういう遊びをするものだ」という固定観念を覆せる余裕を持つことが大事なんでしょうか。
 それで「普通そんな遊び方はしない」などと罵られようと「TRPGに“普通の遊び方”なんてあるかい」と言い返せるだけの強さがあるのが、確固とした仲間を持つTRPGゲーマーなんですけどね。
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2006年02月17日

これ、すごく重要な考察じゃない?

 とりあえずここはこのBlogに残そう。

 何がゲームをよいゲームにするか

 とりあえず、鏡氏や白河堂氏の意見も聞いてみたいところですね。
 僕も土曜のセッションが終わったら取り組みたいです。
posted by 回転翼 at 13:00 | TrackBack(0) | 更新情報 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「さて、どうしよう」判定は意志決定か 〜成否判定とアイデア判定の違い〜

 今月はPendragon 5thのGMすることもあり、記事少な目です。
 それもあるけど、ここんとこは過去のBlog記事や掲示板なんかを読み返していて、あれこれ模索している状態です。ここんとこ論考ばかりが着目されて、TRPG系Blog自体面白いもんじゃなくなったとお思いの人もいるでしょうし。

 今日はRPG日本、馬場理論スレから。
 この中でRick=T氏の発言(49番)にちょっと考える所ありました。
 話の流れは「TRPGの上達基準って?」という疑問から、Rick=T氏がCoCのロールプレイを基に自らが想定する上達モデルを語った所です。
 曰く、

◎プレイヤーAの場合
KP:部屋に入ると女性が倒れている。女性はピクリとも動いていない。
PL:「大丈夫か」と声をかけながら女性に駆け寄ります。
KP:女性は何の反応も示さない。
PL:死んでいるかどうかを確かめます。
KP:じゃあ、[応急手当]+50%で判定して。
PL:成功です。
KP:女性は死んでいる。死んでからそんなに時間は経っていないようだ。とりあえず[アイデア]ロールをして。
PL:成功。何かあったんですか?
KP:君は女性の首筋に何かを刺した痕を見つけた。痕は3つ、ほぼ直線上に並んでいるようだ。
PL:3つ? 首筋のどこら辺ですか?
KP:なら、[医学]ロール。
PL:成功です。
KP:痕は頚動脈の上に沿っていることがわかった。
PL:いったいなんだろう?

◎プレイヤーBの場合
KP:部屋に入ると女性が倒れている。女性はピクリとも動いていない。
PL:「大丈夫か」と声をかけながら女性に駆け寄ります。
KP:女性は何の反応も示さない。
PL:口元に手の甲をかざして息をしているか確かめます。
KP:息はしていないようだ。
PL:頚動脈に触れて脈を確かめます。あと、ペンライトを出して瞳孔反応を……。
KP:女性の脈は無い。脈を確かめようとしている時に、君は妙な感触に気付いた。
PL:何ですか?
KP:女性の首筋に何かを刺した痕がある。痕は3つ、頚動脈の上に沿って並んでいる。
PL:いったいなんだろう? あ、一応瞳孔反応も確かめます。
KP:瞳孔反応も無い。女性は死んでいる。死んでからそんなに時間は経っていないようだ。

(斜線部分は引用)

 この両者を比して、後者は医者らしいロールプレイをすることによって、(ダイス運によって左右される不安定な方法ではなく:筆者注釈)効率的に情報を集めることができる。これが上達なのではないかと論じています。
 それに対して、Janus氏が「KPの側にも医者のロールプレイを心得ていなければ知識は伝達しない」という理由で反論してます。だが、それはここでは問題ではありません。
 僕が疑問にまず疑問に思ったことは、このRick=T氏の上達モデルは『馬場秀和のマスターリング講座』から見て妥当な上達なのかということです。馬場理論を論じている掲示板ですからね。

 僕が見た所では、Rick=T氏の上達モデルは妥当どころか非難するべきものになるでしょう。
 
 「3.5.2 演技とゲーム」の項にて、プレイヤーとキャラクターの分離意識を(なりきりによる一体感を防ぐために)を徹底するために、プレイヤーの演技力、表現力が判定に影響することを戒めています。判定に影響すれば、プレイヤーの素の演技力、表現力で代用できる交渉技能などの意義がなくなり、システムが機能しなくなるわけです。

 この考えを汲み取れば、上述のモデルで医者プレイヤーが「プレイヤー自身の知識」を以て判定の代用としている行為はプレイヤーとキャラクターの分離ができていない誤ったプレイになる可能性があります。
 
 脈を取ったり瞳孔を確認したりする行為が、馬場氏が優れた意志決定をしたとする方策の提案になるのか、それとも同じ[医学]ロールを演技によって脚色したものに過ぎないとなるのか……その点に疑問があります。

 もし脈を取ったり瞳孔を確認したりの作業が、[医学]ロールの中でロールプレイせずとも、「判定した=脈を取ったり瞳孔を確認したりしたこととする」省略が行われているとすれば、脈を取ったり瞳孔を確認したりする行為は[医学]ロールの結果を受けてKPがロールプレイするものであって、プレイヤーがしても意味がないこととなります。
 KPがあらゆる知識を研鑽して、[医学]ロールの役割を十分に把握している(馬場理論的にはKPはそれが求められていると推測)ほど、[医学]ロールのロールプレイはKP主体となります。

 ではもし、KPが「判定した=脈を取ったり瞳孔を確認したりしたこととする」という[医学]ロールの役割を認識していなかったとしたら(つまりJanus氏の仮定)、脈取りや瞳孔の確認は[医学]ロールにどう影響するでしょうか。
 おそらく、これは優れた意志決定をしたとみなされるかもしれません。KPが容態確認のロールプレイを規定できていないので、キャラクターの医者は[医学]ロールでどう容態を確認したのかも不明ということになります。「○○さん、大丈夫ですか〜」と体を揺すったかもしれないし、顔色を診たかもしれないし、息を確認したかもしれないし、心音を聴こうとしたかもしれません。その中で「脈を取り、瞳孔を確認する」という容態確認には有効的な手段を講じたということで、優れた意志決定とみなされるかもしれないってことです。
 
 すなわち、KP(GM)の知識や技量によって、プレイヤーの同じ行動が「演技」とも「意志決定」とも取られるってことです。医学知識のあるKPなら「医者なら脈を取ったり瞳孔調べたりするのは当然だな。ロールプレイしたって修正はしない」とするでしょうし、医学知識のないKPなら「そうか。それなら具体的だな。修正あげよう」とするでしょう。

 だから、KPはなるべく勉強して脚色と方策の差を見極めるようになりなさいってのが馬場氏のGM論なのかもしれません。

◆◆◆

 ここからは僕の意見。

 この考察から僕が思ったことは、知力判定と技能判定の違いです。
 すなわち、プレイヤーは何をしていいのか分からないから、キャラクターの知性や経験を借りて情報を引き出そうとする知力・精神系判定と、プレイヤーが意志決定を行うべくキャラクターを操ろうとする技能・肉体系判定を同列に扱うのは妙ではないかということです。

 技能・肉体系技能は行動の成否を問う「結果」の判定なのに対して、知力・精神系判定はもっぱら、これから行動(意志決定)するための判断材料を獲得するための「考案」の判定です。
 だとすれば、技能・肉体系技能の行使には確たる意志決定がありますが、知力・精神系判定には意志決定の以前の段階ということになります。知力・精神系判定は「何を意志決定すればいいのか」知るために振っているのだから、そこには意志決定がないってことではないでしょうか。

 上述のモデルで云えば、[アイデア]ロールですけど、これは意志決定したから判定したものではないでしょう。

 だから、知力・精神系判定を意志決定の結果としてゲームを進めるのはちょっと問題ありかなと思うんですよ。知力・精神系判定で失敗した場合、「分からなかった」が結果になるでしょうけど、曖昧模糊のままこの先一体何を判断材料に意志決定すればいいんだと迷うことになります。

 それ故多くの場合、「キャラクターはどう判断できるのか」というのはGMのロールプレイで決められています。そこで脈を取ったり瞳孔を調べたりする行為が脚色となるか方策となるかが、GMの知識量によって左右されるようになるのです。
 馬場氏なら、そこはGMがあらゆる知識を研鑽して想定するべしだとするでしょうけど、日常生活の中で無理なくTRPGをプレイできるようにしたい僕としては、「この技能の持ち主はこういう判断材料が持てる」ということを一例の形でルールブックに明記しておいてもいいんじゃないかと思います。
 
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2006年02月13日

TRPG工場からお帰り

 今週末にもPendragon 5thのGMに初挑戦するので士気は日々上がっています。
 されど、にぁあ氏の書簡は看過できないので返答します。
 だけど前々回にて白河堂氏に答えたのと内容はほぼ一緒。
 
 そもそも、「TRPGの知識が実社会の役に立たない」などとは名言も示唆もしていません。
 これも明らかににゃあ氏の誤解から来る妄想。妙な虚像を作らんでもらいたい。

 いいですか。説明し直しますよ。

 TRPGで優れた見識を発揮することは、「TRPGに上達すれば、現実における知識見識もそれに伴って上達する」ことには結びつかない。実際には、人生における一状況に過ぎないTRPGプレイの場に合わせて情報を編纂し直した「ネタ」が発揮されているのであって、そのネタが他の状況でも役立つとは限らない。
 どんなに幅広い知識がバックボーンにあろうとも、「TRPGに役立てるため」という基準に従い、自らのプレイ環境に合わせて情報を取捨しているわけで、知識のすべてがTRPGに動員されているわけではない。


 後は前々回と一緒。
 「TRPGが他の人生経験と比して学習効果に優位性がある」という考えを否定しているのです。批判対象は、「TRPGやってて他の人よりも知能・知識が優れた」と勘違いした碩学ゲーマーや、それを期待する「やりがい」志向のゲーマーです。彼らは実社会の一部であるTRPGを、TRPGこそが他の人生経験に勝る「勝ち組の選択」であると勘違いし、あるいはそうであってほしいと願っているのです。

 TRPGやってるから勝ち組だなんてことは絶対ないです。
 TRPGやらんから負け組だなんてこともない。
 「TRPGは実社会の役に立つか否か」など、肯定派も否定派もバカは一緒。TRPGのプレイもまた実社会での行動なのだし、むしろ「実社会の経験はTRPGの役に立つか」と考えるのが自然です。
 まさか「TRPGをプレイしている時、私の魂はグレイホークへ飛んでいる。だからTRPGのプレイは実社会ではない。然るに、TRPGのプレイ時と実社会とは無縁であり、私はゲームで知った知識が現世において有効か否かを確かめる必要がある」などと考えてはいないでしょうか。いくらTRPGが仮想世界を扱うゲームだからと云って、それはヴァーチャル・トリップであって、傍目には電波な発言です。
 
 僕はヴァーチャル・トリップなどせず、実社会の中の一社会事業としてTRPGを考えています。さればこそ、社会事業に携わる者の立場からTRPGの紳士協定を制定したのです。「TRPGの楽しさを伝える」などと、実際はどれほどの活動をしてきましたか? 甘い蜜を流し続けただけではないでしょうか。

 僕らはウィリー・ウォンカじゃあるまいし、何気なくTRPGの本を手に取った人を不思議な TRPG工場に連れて行ってるワケじゃないです。
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2006年02月06日

狐の皿とコウノトリの水差し 〜TRPGの知識とネタの違い〜

 TRPGのメタ知識について少し注釈。

 以前、石頭氏が自身のBlogにてF.E.A.R社ゲームの元ネタ、出典はエロゲ、アニメ、漫画、ライトノベルばっかりだと喝破していました。それが正しい指摘かはともかく、アキバ系の知識だけで自分たちの活動、治績、意欲と云ったものが語られるのは正直勘弁してもらいたいところ。
 自分たちの引き出しはこんな程度じゃないぞ、と。
 
 前回、TRPGプレイという一状況下における状況判断・発想力とその源であるメタ知識そのものは一状況下における限定的な資質を伸ばしているに過ぎないと指摘しました。トータルな資質は人生経験の中で等価に伸びるものであって、TRPGが他に比べてより効果的だというわけではないとも言いました。

 ところが、そのメタ知識がえらく幅広いのが碩学の碩学たる所以です。
 彼らはTRPGプレイに直接影響するルールブックやワールドガイドの把握から、数値修正を最大限に活用したキャラ作成術や戦術、GMを丸め込む話術やシナリオを読み解く眼力、仲間割れを防ぐ円滑なコミュニケーションなどの「TRPG技術」だけ修めた「TRPGの専門家」というだけに留まってはいません。
 世界の神話伝承から民俗文化などの人文科学から最新のテクノロジー、政治、経済、哲学など、およそTRPGのゲーム世界を構築しそうな知識情報を貪欲に取り入れ、それをTRPGに生かそうというのがTRPGにおける碩学の姿勢です。それを日常的に行っていれば、日々見聞きしたものがすべてTRPGの役に立つような予感が常に働くようになります。

 そういう人たちからすれば人生はすべてTRPGのメタ知識に成り得るかもしれません。
 おそらく日本人の中でも「物知り」揃いであろうTRPGゲーマーの幅広いメタ知識が、TRPGプレイの時のみに限定された資質であるなんてことは到底納得いかないはず。

 TRPG技術という狭い領域ではなく、幅広い教養によって裏付けされたTRPGゲーマーの知識は「限定された資質」などではなく、あらゆる状況で通用するトータルな資質ではないのだろうか? 
 その考えを肯定するならば、「TRPGは人生経験における資質向上に役立つ」と主張するのも理解できます。「幅広い教養はいい資質向上になる」「TRPGは幅広い知識を習得するゲームだ」「ならばTRPGはいい資質向上になる」という乱暴な三段論法です。

 僕もかつては肯定派でした。
 TRPGが単なる遊びではなく、人生経験における資質向上に役立つことを証明することは、自分が趣味に投資した時間と意欲に意義を与え、その意義が普遍的な価値観となって業界に安定をもたらすなどと考えていました。ぶっちゃけ、理論武装したかったんです。
 だが、今はどちらか云えば否定派です。
 TRPGのために幅広く教養を身につけようが、TRPGプレイに限定された資質であることに変わりはないのです。

 なぜなら、TRPGのために役立てようというモチベーションと、同じTRPGゲーマーのために使うという用途のために、幅広い教養もTRPGという一状況にのみ絞られた判断材料としてしか機能しないからです。

 「TRPGのために」と考えた時点で、教養は「ネタ」と化してしまうってことです。
 そのネタはTRPGゲーマー同士に有益になるようカスタマイズされた教養ですから、ゲーマー以外の人にとっては必要のないネタ。TRPGに高いモチベーションを持ち、TRPGに役立つ知識を披露してくれると期待している相手だからこそ通用するネタなのです。

 例えば、『Fate/stay night』の遠坂凛ちゃんを話題にするとします。
 TRPGゲーマーが「TRPGのために役立てよう」と考えるならば、FateをTRPG化するなら凛はどんなデータになるだろうか、GURPSではどう表現しようか、NPCでツンデレキャラを演出するにはどうしようか……などと考えるでしょう。最終的には、PCのアーキタイプやNPCに対する物が中心になり、原作のファンにもアニメのファンにもさっぱり分からない、TRPGゲーマーの視点で見た凛を元ネタにしたPCとかNPCとかがファンタジーとかサイバーパンクとかに出てくるわけです。

 TRPGに役立てるためと考えるならば、「アニメ版の凛の声、植田佳奈でマッチしてる?」などというネタには達しません。そこから植田さん繋がりで「くるみかわいいよくるみ」とか「祐巳ちゃんテラモエス」などと話題が発展することもないです。そもそも、くるみって誰? 祐巳って誰? かもしれません。
 或いは植田佳奈から声優繋がりで能登麻美子さんになったり田村ゆかりさんになったり水城奈々さんになったりして、それで昨年の武道館ライブの時の姫(水城奈々さん)の舞台衣装はどうだったかなんて……。

 そういうことです。
 確かに知識教養は誰でも受け入れることが出来ますが、使う人の用途によってカスタマイズされたネタという形に造形されてそれぞれの社会で活用されているのです。知識教養が幅広いから、TRPGのメタ知識も幅広いなどというわけではないのです。

 狐とコウノトリは同じ皿のスープを楽しめないわけで、誰が飲んでも美味しいスープも浅い皿に注いではコウノトリは飲めず、水差しに注いだら狐は飲めない。でも嘗め回すように飲む狐が浅い皿でスープを飲むのは適していることだし、長い嘴があるコウノトリが水差しで飲むのも適していること。コウノトリが浅い皿だから飲めないことを笑う狐はしっぺ返しを食らいます。
 僕たちも知識教養というスープを、TRPGという特殊なお皿で飲んでいるのではないでしょうか。そのお皿は他の人には変わりすぎてて飲めないかもしれません。逆にTRPGゲーマーには奇妙すぎて飲めない皿ってのも別の社会にはあるかもしれません。

 本当に幅広い知識を活用したいのなら、TRPGのみならず色々な状況で活用するしかないのでしょう。そういう意味では、「TRPGの役に立つかも」と考えてしまうTRPGゲーマーの習性もまた手放しで褒め称える資質ではないのかもしれません。
 
posted by 回転翼 at 09:01 | TrackBack(2) | TRPG雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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