2006年03月31日

いつも変わらぬTRPGを 〜TRPGの根っこにある「伝統」の存在〜

 TRPGでは定番のシナリオ展開をされるのは退屈でしょう。
 あるいはもっと極端に、ずっと同じシナリオを繰り返しプレイするのは我慢ならないかと思います。プレイヤーが脇見もせずに役割分担をこなし、ゲーム目標達成のためのミッションに従事する……いわゆる予定調和に徹していれば、誰とプレイしたってシナリオ展開は自ずから統一されていくでしょう(誰も与えられた役割から脱線しないのだから)。
 そうなると、ランダムの領域である戦闘シーンでしかシナリオ展開の分岐点は存在せず、プレイヤーは自分のロールプレイがシナリオ展開に影響を及ぼすことに苦慮する心配がなくなるわけです。ダイス運のなさを未熟となじるゲーマーなどそう多くはありません。

 だが、戦闘すらも副次的に考えている人、PCを殺すことを嫌う人なんかは戦闘すらプレイヤーに爽快感を与えるための出来レースにしてしまうこともままあります。そうなると多様性あるシナリオ展開などゼロ。そのGMが鎮座する限り、誰がやっても同じ展開が繰り返されることになります。

 あらゆる箇所で定番が繰り返されるのなら、TRPGはコンシューマーRPGと似たようなものになります。それもFFシリーズなど、CG映画を「観進める」ことを主目的としたRPGに。

 FFシリーズなどの物語主体RPGを「戦闘システムつき物語鑑賞ゲーム」などと批判する人もいますけど、じっくり楽しみたいなら映画と割り切った方がいいと思います。映画の『ナルニア国物語』で、最初ヘタレのピーターがとりあえず戦えるレベルになっているのかは省略しているけど、そういう放映時間の都合による「省略」がなく、主役が物語の展開に妥当な存在になるまでじっくりと時間を割いて強化することができる「待ってくれる映画」だと見ればそう卑下するものでもありません。

 どんな良質な物語でも、2度3度と繰り返しプレイすればさすがに飽きます。あるいは、TRPGはそんな単一の物語再生装置ではない、もっと自在にシナリオ展開は遊び手の行動次第で幾重にも多様性あるカオスを見せるものであると云う人もいます(次回も同じ展開と分かれば、初回プレイすら嫌がるでしょう)。
 とみにボードゲームも遊んでいる人なら、同じメンツで同じゲームをしても毎回異なったプレイが楽しめるボードゲームの醍醐味を知っているだけに、TRPGがいつ誰がプレイしても同じ展開になってしまうことに違和感を隠せないかもしれません。

 さらに、最近ではコンシューマーゲームも技術の発展に伴いインタラクティブ性の高さを売りにしたゲームが数多く出ており、物語よりもキャラを操作する快感の強さが求められるようになっています。例えば『ドラゴンクエスト8』でふしぎなコインを集めず、錬金釜もカジノもモンスターバトルもせずに物語を「観進める」プレイをする人は少数だと思います。遊び手のニーズが「余計なゲームなどいらん。物語の続きが観たい」というのあればその手に出る人も出てくるでしょう。FFはそういうゲームであり、ドラクエはそういうゲームではないと判断します。
 そうした、広大な箱庭世界をコントローラーの操作がまま自由に動け、好きなときにミニゲームが楽しめるインタラクティブ性の高いコンシューマーゲームから予定調和ガチガチのTRPGを見たらどう見えるでしょうか。

 TRPG、不自由なり。

 ……ここまで読んできた方、またしても最近はびこっているFEAR社ゲーム批判かとお思いでしょう。
 
 違うのです。FEAR社ゲームがシナリオ展開技術で統一規格(と云うのがあるかのような)を打ち出したから、それをなぞるだけの面白みのないプレイヤーが急増したなんて問題、『D&D』でも『ソードワールド』でも『GURPS』でも似たような問題ありました。
 『D&D』でも毎度毎度が狐と狸の化かし合いダンジョンプレイばっかりだと、『ソードワールド』でもSNEのリプレイ小説にあやかりたい猿マネばっかりだし、『GURPS』でも自キャラのロールプレイ専用ゲームになってばっかりでした。
 どんなシステムであれ、TRPGはプレイし続ければ似たり寄ったりの展開になる宿命からは逃れられないのです。

 なぜかって?
 確かに個々のシナリオでは多様性ある展開が望まれています。
 一緒に遊ぶ仲間が不特定でも、システムが変わってもまぁ了承できるでしょう。
 だが、TRPGをプレイするというゲーム活動そのものに関して、あらゆるゲーマーは変質を望んでいない。最初に見知ってから培ってきた「TRPGで遊ぶ」という行為自体は変化が起こってほしくないと考えるからです。それくらい、TRPGは知的財産や人生経験に影響を及ぼすものなのです。
 僕もゲーマーとして10年以上のキャリアがありますけど、とみに通信メディアの発展に伴い、Q2のパーティラインから現在のインターネットまで技術的には進化したけど、30年来のアナログ環境を崩せるほどのものはまだありません。

 サイバーパンクのレベルになるまでは無理でしょう。それでも、「携帯コンテンツにTRPGを」、「PSPに電子ルールブック付き通信プレイ対応TRPGチャットを」などと模索はしているけど、なびく人はいませんね。

 すなわち、
 「TRPGで遊ぶということ自体には定番を求めている」
 ということです。「伝統」と云ってもいいです。

 シナリオやシステムで多様性があってもいい。
 だが、今まで培ってきたTRPGに関する固定観念を覆すほどの、まったく別の心境でプレイしなきゃならないなんて事態は避けてほしい。大本は初めて楽しんだ頃のままであり続けてほしい……。

 TRPGは革新ではなく、伝統の堅持によって支え続けられてきた30年なのです。ボードゲームのように『人生ゲーム』から『Shadow Hunters』までまったく違うゲームが多種多様に存在しているゲームではなく、コンシューマーゲームのように『戦国無双2』から『おいでよどうぶつの森』までまでまったく違うゲームが多種多様に存在しているゲームでもない。
 どんなシステムであれ、誰とプレイしようとも、いつまでも変わらぬ楽しさを提供してくれるクラシックなゲーム……それがTRPGの根源的なニーズなのかもしれません。

 表面的なシナリオ展開やロールプレイ技法に多様性を求める人はあれど、そのために自分が培ってきたTRPGの思い出まで一変させられるほど別種のゲームをやろうという覚悟の人はどれだけいるでしょうか。
 ボードゲームではそんなこと頻繁に発生しますよ?
 いくら「今のTRPGは間違っている」と云っても、根源に「俺が楽しめたあの時代に帰ろう」では歴史は繰り返されるだけでしょ。
 
 上っ面のシステムやプレイ技法だけ変えた所では30年来のTRPGの伝統を覆すことは困難です。『トーキョーN◎VA』と『エンゼルギア』は確かに違うゲームだけど、プレイの伝統という根っこはつながっているでしょう。巷にFEAR社のゲームを「みんな同じに見える」という確信なき意見がボコボコ上がり続けているのも、システムやプレイ技法、世界観だけでは割り切れないもっと根の深い所でつながっていると感覚が告げているからかもしれません。

 まぁ、色々云ってみたけど、僕個人としては「えっ!? これがTRPGなんですか? こんな楽しみ方もあるんだ」という類の驚きをしたことはそう何度もないわけで、むしろ「いつもやってるTRPG」が新しいシステムでも通用することに安堵を覚え、故郷の原風景に感慨するような感覚の方をよく味わっているということです。
 
 だからゲームマーケット2006では飲まず食わずで閉会間際までリミッター解除でゲームやりまったんですけど。最近はボードゲームも実に多種多様で勢いがありますよ。これに比べればTRPGは精彩に欠けるのでしょうか。
 『ルーンバウンド』もプレイしたけど、アークライトの人からアメリカでもルンバのようなTRPGっぽいボードゲームに徐々にプレイヤーが流出しているとのことを聞いて、そう思いましたよ。

 (ゲームマーケット2006の感想は後ほど)
 
訂正:Shadow Huntersでした。
 
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2006年03月24日

ナポレオンでもジャックフロストは演じれない 〜TRPGの間接的コミュニケーション〜

 前回、キャラクタープレイの定義をしました。
 今回はこの定義を踏まえて考察をします。

 前回の定義、キャラクタープレイは他の参加者に受けるか受けないかで評価が分かれると書きました。このことはグレッグ・コスティキャンも「感情移入」と「ロールプレイ」とは違うのだと述べています。
 『コスティキャンのゲーム論』によれば、遊び手がゲーム世界に没頭できる共同幻想を持つこと、遊び手同士の交流を深める芸であることが感情移入とロールプレイとの違いであると論じています。
 これを踏まえれば、前回定義のプレイ技術としてのキャラクタープレイは感情移入とロールプレイとの境目を明確にしていないことになります。キャラクタープレイをする原動力が個々人の感情移入にあるのか、社交的な芸であるのかで左右するってことになります。
 然るに、キャラクタープレイが成功するためには前回定義とコスティキャンの論を組み合わせて、以下の要因が必要ということになります。

1.タイミング:参加者の没頭ぶり、高揚感を見極め、その時々のテンションに合わせたプレイをする。
2,社交性:プレイを聞く側の欲求をうかがい、気分を害さず、楽しませる芸としてのプレイをする。

 結局はTRPG以外の世界でも求められることもあるコミュニケーション技術の範疇に入るということになります。
 そのためには、「相手の意図・願望を把握する力」(白河堂氏)や「自分の意図・願望を相手に伝える力」(standby氏)と云ったプレゼンテーション技術(両者ともに「力」と資質めいた表現をしているが、社会的な能力だけに天稟よりも訓練が能力の成長に影響するだろう。然るにこれは技術である)の訓練が求められるわけで、研修期間などなく毎回毎回が本番であることが多いTRPGのプレイでは十分な成長を望むのには無理があります。それ故、日常のあらゆる社会経験をTRPGに還元するような志が必要とされてきます。

 もちろん、仮想世界の物語を扱うTRPGではコミュニケーション・プレゼンテーションするべき対象も仮想のものですから、使い方も間接的になります。
 例えば他のPCにまず死ぬであろう殿軍を依頼する際、PLに直に「誰か1人死ななきゃダメなんだ。君、退場してくれないか」などと(これで引き受けるバカはいないので、弱みを握って脅すか、権力を行使して圧力かけるか、抜けるよう苛め抜くか、バカをさせるだけの躁状態にさせるかする必要がある。それがヤクザの世界であるがコミュニケーション技術)云うのは、どんな高度なコミュニケーション技術を披露したところでダメだってことです。
 
 この間接的なコミュニケーションに関しては神尾氏の『キャラクタープレイとゲーム』にてレイヤという形で考察が成されています。TRPGでは遊び手の素の社交性に加え、物語世界のレイヤを通しての間接的コミュニケーション技術が必要なわけです。
 そう云った意味では、例え聖徳太子やナポレオン、ヘーゲルであっても即座にTRPGの達人にはなれないのです。ナポレオンでもいきなり『真・女神転生TRPG』でジャックフロストでクイックスタートしたとして、即座に「オイラはジャックフロストだホ。おじさん実は遊び人だなヒーホー!」なんてロールプレイをすることなんてできるわけないです。

 この迂遠な間接的コミュニケーション技術は、ロールプレイの意義に無頓着な人にとっては面倒なことであり、ゲーム世界への共同幻想に無頓着な人にとっては不気味・不快な奇行に見えます。
 それ故、ゲーム世界やPCと云った感情移入させる要素をすべて無視して、プレイヤーとGMとの言葉遊びゲームであるべきと考える人だって出てきます。その一例が「交渉技能などいらない。プレイヤーがGMを直に説得すればよい」などと云った内面的特性不要論です。
 それは『ディプロマシー』においてはより顕著で、各国元首というPC的立場を捨てて、とにかく相手プレイヤーを言い負かせば勝ちと考えるのと一緒。その考えで何が起こるかと云えばガチンコの何でもありディベートだけです。

 TCGや対戦格闘ゲームなどにかぶれたゲーマーの中には、そのガチンコ勝負にTRPGにはない(と見做している)白熱した攻防ができると夢見た人がいたけど、ルールに拘束されたデュエルならともかく、ノールールでのガチンコは再現ない反則合戦になるだけです。それは犯罪的行為を誘発することにつながり、TRPGを反社会的活動に押しやることになるでしょう。

 (この「ゲームに勝つためなら何をやってもいい」という考えはウイリアム・ギブソンの『ドッグファイト』にて十分示されている。もちろん、勝利という結果以外すべてを失ったわけだが)

 『マジック・ザ・ギャザリング』でも昔、「このカードを空中に放り投げ、落ちた時触れたカードは破壊される」なんてカードがあって、そのカードを出したプレイヤーがハサミでカードを細かく切り刻んで卓全体に散り撒いたり、それに対抗するべく相手プレイヤーが自分のカードを全部ボードに貼り付けて、紙吹雪化したカードが撒かれる時にボードを立てて防御したとか云う間抜けなプレイがあったらしいです。
 もしWoC社が「このカードが発動されると、プレイヤーには包丁が渡される。1分間の間に相手プレイヤーに与えた刺し傷1ヶ所につき1点のダメージを与える」なんてカードを出したら、そんなカードをデッキに入れる人は絶対刺すでしょう。ガチンコとはそういうことです。

 TRPGでのコミュニケーションの必要性を説く人はいますが、それが間接的コミュニケーションであることを十分理解していなければ、やはり「ナポレオンはジャックフロストを演じれるか」という問題に直面します。
 キャラクタープレイに関する見解にしても、感情移入とロールプレイとの境目に対して意識的でないと、感情移入の弊害を批判するつもりがロールプレイの意義まで批判してしまい、遊び手同士のガチンコディベートに暴走してしまう恐れがあります。

 TRPGはただ「目標を達成する」というゲームのみならず、物語世界を構築するというメディアとしての役割があるというのが僕の考えです。もしTRPGが何も自己の創作意欲を発揮する必要などない存在であったとしたら、それはコスティキャンがTRPGとは似て比なるものとしているコンピュータRPGと同質の存在であることを意味し、技術レベルの低いTRPGはRPGに淘汰される運命にあります。
 そうではない。TRPGはロールプレイという手段を以てゲーム世界を構築する物語を表現するメディアであると捉えれば、TRPGはソリティア(1人遊び)
や競技ゲームにはないオンリーワンを手に入れることが可能です。それに従来備わっているゲームとしてのTRPGを加えれば、TRPGはゲームとメディアのコンプレックスであると云えましょう。

 さすれば、これまでは内省的な自己表現として低く見られたキャラクタープレイにもメディアとしての性質を深く取り入れれば、新しい道が見つかるかもしれません。 
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2006年03月23日

キャラクタープレイをまとめてみた

 今日はキャラクタープレイについてまた考察。
 定義が曖昧だと困るのでまず自分なりの言葉で決めておきます。

 「TRPGにおいて、自らのPCを物語世界の登場人物に見立て、性格や衝動などの内面的特性……すなわち個性を設定してゲーム中に表現する遊び方。

 内面的特性に関しては、外面的特性と共にCPとして数値化されたもの(『GURPS』)、ロールプレイの指針としてルール化されたもの(『Pendragon』、『無限のファンタジア』、『サタスペRemix+』)、ウォーゲーム用リソースと同列に扱われるもの(『番長学園』)、ライフパスとして世界観再現ルールへの数値修正をもたらすもの(『サイバーパンク2.0.2.0.』『エンゼルギア』など)、モラルとして提示されているもの(『D&D』、『蓬莱学園の冒険!』など)、提示がないもの(『ソードワールド』など)など様々である。

 プレイ技術からキャラクタープレイを捉えると、以下の2通りの遊び方が一般にそう呼ばれている。

1.自らのキャラクター設定をロールプレイの指針とするプレイ。
2.自らのキャラクター設定を口上・演技で表現するプレイ。

 1のプレイは、「熱血漢」「義理堅い」「一匹狼」など自らが設定したPCの性格を行動律とするのが一般的である。ゲームによってはシナリオ展開・リソースなどのメタ視点的判断より重視するものもある(『GURPS』)。また、優れたロールプレイを経験点の査定ボーナスにするゲーム(『アルシャード』など)もあり、うまくシナリオ展開に合致したキャラクタープレイ(定義1)をこの査定の基準とするGMもいる。
 1のプレイは2より控えめだが、GMや他のPLとの不調和や衝突、シナリオ展開の阻害、PL本人の性格との乖離から来る不安定さなどもあり、シナリオ展開に大きく貢献しない限り歓迎はされない。そのため、自発的な行動には積極的だが多くはシナリオ展開に関係のない余興的な行動に終始し、全体を通せばGM乃至他PLが自分のPCが引き立つ舞台を提供してくれるのを待つ受動的なプレイとなる。NPCとの衝突・排除などシナリオ展開そのものを崩壊させる過度な行動に出る者もいる。
 しっくりくれば褒められ、しっくりこなかったら批判されるという点ではタイミングが要求されるプレイである。

 2のプレイは1よりずっと直接的で、俗に「なりきり演技」と揶揄されている。熱血漢のPCを大声上げて熱演したり、高慢な女性を甲高い声色や(男性がやるとオカマっぽい)仕草で演技したりする演技派と、自らのPCを体言する決め台詞にこだわる口上派がいる。どちらも(とみに演技派)卓全体が躁状態にやっていない限り嫌悪されるプレイとされている」
 

 (本日はここまでで一区切り。考察は次回)
 
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2006年03月19日

終着点にあったリプレイ 〜物語に対する共通認識の取り方〜

 せんだってPendragon 5thのセッションをするに、5thではPC騎士たちは通常464年生まれの21歳、465年スタートという設定なのですが、この時期はアーサー王(493年生)も主だった円卓の騎士(ガウェイン495年生、ランスロット504年生)もまだ生まれていません。すなわち、開始してしばらくはアーサー王たちと関わりのない……彼ら著名人の「ハク」を売りにできない、ただの騎士ファンタジーをプレイするってことです。
 せっかくPendragonをやるってのに、他のファンタジーTRPGでも体験できることをやるってのはとってもつまらない。プレイヤーの方は感情ロール1つで違った体験ができることは認識してますけど、GMとしても他とは違ったことやりたいんです。

 そんな衝動に駆られて、飛び込む先は図書館か大型書店。
 アーサー王伝説に関する資料から5世紀ブリテン島におけるキリスト教の伝播とケルト文化との癒合、ドルイド教、そして4〜5世紀における西ローマ帝国の終焉と当時のローマ教皇の活動、ブルゴーニュにおけるガロ・ローマ文明(ケルトとローマ文化の混交)……ゲーム世界である485年のブリテン島にまつわる政治・文化に関連するデータを片っ端から揃えました。

 そしてTSUTAYAで関連しそうな映画を選んで観賞。
 『キング・アーサー』や『エクスカリバー』はもとより、データ作成の際に知った『ウィッカーマン』は完全版を購入しました。カルトホラー(クリストファー・リー御大の傑作なんだけど)ですけど、かなりイメージが膨らみました。ペガン教徒たちの集落がどんなもんだかとか、「最後は誰かをウィッカーマンで燃やそう」と考えたこととか。

 告知から開催まで1ヶ月ほどありましたので今回は時間がありましたが、どんなゲームをやろうとも大抵は開催1週間を切るまでの間、ひたすら文献を読み映画を観て、ゲーム世界に対するイメージを「擬似史実」と呼べるくらいにリアリティを高めるのが僕がシナリオを作る際の常套的な作業です。
 
 この作業こそがTRPGにおける知識研鑽の実践と云えましょう。
 なんのために?

 かつて僕は、その意義をストーリー作成の着眼を得るためにあると考えていました。
 GMも小説家や漫画家、脚本家と等しく物語を扱う人ですから、常にプレイヤーに驚きと興奮、達成感と充実感を与える優れた物語を提供することがGMの腕の見せ所と考えていたわけです。
 10年くらい前はFEAR社ゲームが提供しているシナリオ展開の技術など発明されていませんでしたから、シナリオ展開は遊び手……とみにGMの個人的な技量にかかっていたのです。

 『D&D』ではプレイヤーの目の前にダンジョンタイルが敷かれフィギィアが置かれていましたから、まずは迷宮を進んで罠はないかモンスターはいないかとかいった「玩具」に飛びつきました。この時期は迷宮漁りにこそ「TRPGの何たるか」を実感していた人が多く、物語は迷宮に潜るため動機付けに過ぎませんでした。この時期のDMは死の罠に試行を凝らし、知略に満ちた障害物をこしらえるかが技量とされてきました。
 これが『ソードワールド』の時代になると、ライトノベルやゲームブック、リプレイなどストーリーメディア業界からの参入者が増え、「TRPGの何たるか」が戦略ゲームから物語の追体験へと変化していきました(その経緯は30のおじさんになりまして 〜私見のTRPG世代考察とメディアとしてのTRPG〜にて言及)。

 僕もストーリーメディア世代とゲームを共にしてきましたから、物語の追体験にこそTRPGの真髄があると思い、GMのストーリーテリングとプレイヤーのロールプレイでゲーム世界を構築し、1つの物語を創作することが「TRPGの何たるか」だと考えていました。

 云ってしまえば、1つのTRPGは1つのリプレイを生むためにあるものでした。実際にリプレイを書くか否かは別として、遊び手が「ああ、これっていいリプレイになるな」と思えるくらいのプレイが、TRPGにおける完成の1つだと考えていたのです。
 その完成の要となるゲーム世界の描写に関して、その責任者たるGMが薄っぺらいものを用意したのでは「物語」に対する参加意識が低いわけでプレイヤーに失礼なことです。ゲーム世界の情景描写はGMの独壇場なのだし、むしろゲーム世界の情景描写こそGMのロールプレイであるという意識で臨んでいました。
 そう考えれば、シナリオのために文献を漁って擬似性を高めようとするのは自分のキャラに凝った設定つけたりイラスト描いたりするのと同じこと。

 もちろん、それはプレイヤーの方々が市販のリプレイに影響され、良きプレイ悪いリプレイの判断基準をリプレイに求めていたというのもあります。「いいプレイ=リプレイにして面白いプレイ」だったわけです。

 肝心なのは、「自分たちのプレイが物語として編纂されるとして、読者の立場から物語を読んだら自分のキャラはどう映るか」という思考法を以てロールプレイの基準としていたということなのです。

 もちろん、10年前の段階でもすべてのTRPGゲーマーがリプレイ本の影響下にあったわけではなく、ある程度(ルールブックを所有し、月1程度はプレイし、TRPGに関する話題に興味がある)趣味にしているゲーマーの間でも半数強でした。ゲームブックをルーツにしている人も結構いますが、物語に対するスタンスはそう変わりがありませんでした。
 この2つだけで、僕の周辺では過半数いってましたから残りは気にすることもなし。「リプレイのためのTRPG」で予定調和が取れていました。
 
 翻ってちょっと前になると、「リプレイのためのTRPG」という予定調和はすっかり崩壊していました。リプレイ読んでる人が減ったのかどうか知りませんけど、「自分物語のためのTRPG」に変質している人が結構いたんです。

 「リプレイのためのTRPG」だと、他の人との掛け合いやGMの情景描写など複数の人が共同して制作したという一体感があり、そのためには協調性やコミュニケーションなんかを自然にわきまえていました。
 ところが、「自分物語のためのTRPG」だと、自分のキャラの活躍ぶりしか物語としてインプットされていませんから他の人の都合なんかお構いなし。ひどくなると、自分物語に対する挑戦と敵視する始末。
 
 そういう「自分物語のためのTRPG」をする人のキャラは「萌えと我侭の権化」で、プレイはひたすら自己主張するだけの「萌えキャラ品評会」になってしまいます。
 『トーキョーN◎VA』なんかはそういうプレイヤーが大暴れする危険があるゲームで、下手すると全員自分物語持ちのキャラ萌えプレイヤーが活躍の場を奪い合うなんて展開にもなります。プレイそのものには協力的なんで崩壊はしませんけど、アフタープレイが気まずくなります。
 さらにそこで自分物語の元ネタがダブってたりして、「カタナ=チャクラ=バサラ」の少女退魔剣士を作ってきた人が2人いたとしたら……。

 シャナはなかなかいいアニメでした。うん。
 Fateは楽しいゲームでしたよ。うん。
 1視聴者、1コンシューマーでい続けたかったですよ。うん。
 ルーラーとしてパチモンPCに向かい合うのは……ちょっとねぇ。うん。

 最近ではそうした「自分物語を自己主張するためのTRPG」という姿勢には批判的な声が多く見受けられます。やはり見苦しいことには加担はできないのでしょう。
 それ故に協調性やコミュニケーションの大切さを説く人は結構います。

 さしあたって僕は「リプレイのためのTRPG」というスタイルを通して、物語の役割分担に対する共通のモチベーションを持てたということを示しましたけど、他の人はどんな手法で協調性や円滑なコミュニケーションが取れるよう統率しているのかとても興味があります。
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2006年03月17日

確定申告

 …つかれたっす。
 コラム書いてる暇ありゃしませんでした。
 FF12? 知りようもない。
 
 鴎の行くままに 〜とあるTRPG者の呟き〜さんが今月始めに活動一周年を迎えられました。TRPG系Blogの中でもずば抜けて精力的に活動している方です。一年の労をねぎらうとともに、これからもご健勝のほどを願わしていただきます。遅くなってすいませんね。

 3月25日の卓上RPG研究会は世評を反映するとFEARゲー審問会になりそうな予感。僕は久方ぶりにブルーローズやりたいんだけど……GMじゃないとダメかも。ちなみにGMはしたことないです。
 人によってゲームの向き不向きがあるわけで、深淵やダブルクロスは僕には不向き。クトゥルフやWoDも得意ではない。逆にPendragonは非常に証に合うことが判明。トーキョーN◎VAもPLが自分のキャラをどう動かそうかコチコチになってなければ吉。

 だが、だからと云って深淵やダブルクロスは無価値なゲームであるはずはない。僕は苦手なゲームであろうとも「いやぁ、今日はこれがやりたかったんだよ」という顔でプレイする性質の人ですけど、それは過去に何度も「貴様、俺様(が愛好しているゲーム)にケチつけんのかっ!?」と胸倉掴まれた経験があるからこそ。
 意外と恐いお兄さん多いですからね。腕っ節はダメなくせに。

 だけど、いつどこでマニアに会って胸倉掴まれるか分からないからどんなゲームにもいい顔せんとイカンというのは、絶版ゲーム含めて100以上もある現在では過酷という他ない。
 だから俎上にも上がらないゲームに関してはいい加減忘れてもいいかもしれないって思うんですけど。
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2006年03月02日

戦国無双2で指を痛めました

 夜毎『戦国無双2』をやってるのでコラム書きサボッてるのはおろか、とうとう右手親指の付け根が悲鳴を上げる始末。久方ぶりのアクションゲームなので指が慣れていません。

 前作と猛将伝のデータがあったのでハナから本多忠勝使用可能。したがって最初も忠勝でプレイ。順調に進めていったんですけど、関ヶ原の合戦で井伊直政と福島正則が秒殺されて中央の戦線が早くも崩壊。毛利も小早川も裏切らず、全員斬り捨てて終わりという惨憺たる結果に呆然。
 まず安国寺恵ケイを斬って毛利・吉川を裏切らせ、その後ギン千代の出鼻を挫いて、寺沢広高のラインまで迫った中央の敵を倒しまくる。一通り倒したら松尾山で長束正家、長宗我部盛親を倒して小早川を裏切らせる。そして島津と宮本武蔵を倒して本陣突入。左近と光成を倒してハッピーエンド……というのがとりあえずの攻略順なのかな。
 ……疲れた。
 この前のPendragonセッションも8時間ぶっ通しで喉枯れたけど、これもまた疲れる。

 とりあえず忠勝のみクリアしての感想は、味方武将がすぐ死ぬってこと。
 忠勝が三方ヶ原、杭瀬川と史実では捨て駒として死んだ武将が多く出た合戦ばかりだからそう思えるのでしょうか。多数の雑魚敵を斬る爽快感も、今回はうじゃうじゃ湧き過ぎててウザったいですし、忍者が結構イライラします。とみに土ん中潜る奴。

 こういう斬りまくりゲームが色々ある昨今、『戦国無双2』は爽快感と労力とを天秤にかければ労力の方が上回るゲームでしょうか。雑魚敵を潰しまくる爽快感を楽しむゲームではなく、戦場を効率よく巡ってボス敵を倒していくミッション攻略主体のゲームだと云えましょう。
 
 そういう意味では、爽快感を求めてプレイする人にはストレスが溜まるかもしれません。
 放っておけばどんどん味方武将が死んでいく状況に、思わずクソゲーだと罵りたくもなるでしょう。
 まぁ、そう叫んだ所で返す刃の「クソゲーと叫ぶ奴は未熟者」が飛んでくるのですけど。
 その辺の事情はTRPGとて同じことで、『イサー・ウェン・アー』でも『マイトレーヤ』でもやりこみもせずに1、2回プレイした程度でクソゲー呼ばわりするな未熟者めと訳知りな人は云うものです。たとえシステムにどうしようもない欠陥があろうとも自分で改変できてしまうほどTRPGはカスタマイズが簡単なゲーム。カスタマイズを重ねて……システムの改変はもちろん、プレイ仲間の意識も改革する……なんとか遊べるように調節するのがゲーマーの腕の見せ所じゃないのかいという気風を多くの人が持っています。

 だけど最近では、「クソゲーと叫ぶ奴は未熟者と叫ぶ奴は時間が有り余っているニート」というカウンターもありますからね。昨今では「やりこみ」する人が自己顕示のために掲載した攻略情報をサクっと仕入れて、やりこみ派よりも少ない労力で美味しい果実を得ようとする人がスマートだってことですかね。

 最近はTRPGの論考をする人が増えてきて、TRPGの情報に飽和している人も出てくるでしょう。日々TRPGに関する情報が手に入りにくいからこそ論考記事にも興味がいくものでして、情報が溢れている状態では、パニックを防ぐために情報を遮断する方向にいくかもしれません。
 「もうたくさんだ。論考なんかちっとも役に立たない。見るだけムダ」とね。

 確かに論考記事がストレートに、その人のプレイを上達させはしないでしょう。
 それはアクションゲームの攻略法を見ても、それだけでゲームがクリアできるとは限らないのと一緒です。むしろアクションゲームの攻略法とは「このルートで進めばゲームは高いスコアでクリアできます。ただし、このルートでクリアできる程度の技量が必要です」という性質のものです。前述の関ヶ原でも中央の敵にまごまごしてると小早川が裏切らず、かなり疲れる戦いを強いられます。

 TRPG関連の論考も然り。
 論考が役に立つか立たないかは、読み手の環境や技量によって変化するものです。
 あるゲームを通しての論考をして所で、そのゲームをプレイしていない人には役に立たない。コンベンションでのプレイ技術を論じた所で、いつも友達としかプレイしていないガラパゴス環境の人には用はない。TRPGの普及と発展のために啓蒙活動をしても、現状に満ち足りている人には騒音でしかない。
 
 必要と思わない人には馬の耳に念仏だってこと。

 「僕はA君とB君とC君とでプレイする○○さえ楽しめればそれでいい」って人も多い……つーか、それが普通だと思います。念仏を聞かないから馬は愚物だって思うんでしょうけど、世の中みんな馬の耳です。諦めというより、書き手の過信を戒める意味で。当然、自分にも。
 
 過信を戒めるとあるけど、僕も30になってどうも「やりこみ」ではいられなくなったという事情があります。実際の忙しさもさることながら、意識的にも「やりこみ」はゲーマーとして最上の価値があるのか疑問に思うようになったんですよ。
 プレイ経験を重ねることも、知識を研鑽することも、論考を続けていくことも。
 もっとスマートな方法はないのだろうか。

 そこら辺の不安は、RPG日本の馬場論スレでJanus氏が見事な指摘をしているので引用します。

3.RPGは努力次第で長期間楽しめるゲームである。
 是・・・だとは思う。だが社会人や家庭人になることで、RPGに割ける時間や気力の量は自然と限られてゆく。プレイ量が少なくなる人もいれば、出世や結婚のための労力を切り捨てる人もいるだろう。ベテランゲーマーと自負する人であれば、誰もがそうした苦労を抱えているはずだ。
 一人がRPGを長期間楽しむためには、少ない努力で効率よく楽しむ方法や努力せずとも楽しむ方法の研究が必要だろう。あるいは逆に、「一部のマニアを除いては、一定期間で卒業するもの」と割り切るべきかもしれない。


 30になって、時間と気力・労力が有限であることを知った現在、僕はこれからもTRPGを長くプレイするにはどうすればいいのか……選択肢は3つ用意されています。

1.少ない努力で効率よく楽しむ方法や努力せずとも楽しむ方法の研究
  問題点:時間や労力に余裕がある若いゲーマー層、及びライフワークと決めているマニア層からの反発。ロートル扱い。

2.「一定期間で卒業するもの」として身を引く
  問題点:リタイアを意味する。

3.マニアになって今後も「やりこみ」を続ける
  問題点:ストレスとの戦いになる。

 結局僕は1の道を選択したわけで、そのために「プロゲーマー志向」とも云うべき、「時間があれば一本でも多くの映画を観て、一冊でも多くの本を読もう」という馬場秀和氏のライフワーク的手法とは別の道を模索しているのです。

 『戦国無双2』も最後の隠しキャラである宮本武蔵まで出すのはそうとうやりこまないとダメでして、そこまでやりこめるのもおそらく全購入者の1割程度でしょう。そこまでやりこむ達成感と労力とを天秤にかけて、はたしてそう達成感に流れるのかなという疑問があります。
 
posted by 回転翼 at 09:01 | TrackBack(1) | よしなしごと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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