2006年05月25日

アーセナルに心の一等賞 〜バルサ優勝おめでとう〜

 『Aの魔法陣』と『比叡山炎上』を購入。
 どちらもとても興味深いゲームですけど、残念ながら今月末は西国に出向くのでRPG日本での比叡山セッションはお休み。これは悲しい。

 悲しいと云えば、アーセナルが応援むなしくUEFA決勝にて力尽きました。去年と同じようにサッカー狂の仲間数人を集めてJ-SPORTSでの中継(今回は録画だが)を夕食を交えて観戦。
 結果は……泣いていいですか。
 久しぶりにエキサイトしてバルサファンの人と取っ組み合いしてしまいましたよ。2人ともショックで身悶えながら。

 僕「なんでぇ! なんで退場なんよ〜(アーセナルのGKレーマンがバルサFWエトーの足をつかんだとかで退場)」
 彼「なんでぇ! 見逃してもええから先取点〜(転がった球をバルサFWジュリがゴール。だけど反則最低の笛のせいでチャラに)」

 試合は去年に引き続き劇的なものでした。
 10人になったにも関わらずアーセナル攻める攻める攻めるで、アンリのフリーキックからキャンベルが頭で決めてゴールを決めた時は前半だというのに涙出てきそうでしたよ。
 ただ、この夕食会は僕以外はみんなバルサ応援団状態。
 後半ともなるとバルサが猛攻撃を展開し、アーセナルは守勢一方。
 レーマンに代わってのGKアルムニアが好セーブを連発するも、エトーのシュートで同点。そしてすかさずベレッチが逆転ゴールを叩き出す。歓喜する仲間たちの中でうなだれる僕。
 そして雨の中ゲームセット。
 アーセナルの大番狂わせは起こりませんでした。

 不幸がありました。
 だけど10人でよくやりましたよアーセナル。
 心の中での一等賞! とつぶやきたいです。

 『Aの魔法陣』と『比叡山炎上』は旅先で読むことにしましょう。
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2006年05月20日

子供の付き合いじゃないんだから

 上の前書き、変えるとは意気込んだんですけど、なかなかいいのが思いつきません。僕自身は「世捨て人の世迷言だから」というスタンスで落書きをしてますなんて態度は気色悪いので、大仰にもコラムニストなんて肩書きつけているんですけど、それでいいのかまだ悩んでいます。

 前回記事について、ポーランド礼賛日記さんと神饌喰い。さんからTB。御両人とも韓国には縁深き方ですので、主旨以前に韓国国民への批判に目がいってしまったようです。

 何をいまさら。
 もう2年以上コラムを続けていますけど、その間に何度日本人ゲーマーに向けて「安易な中傷」を続けてきたことやら。女性ゲーマーに至っては「サークル側はセックスシンボルとしてしか見てないんだから、ゲームがうまくなる必要なんかないし、バカで結構」とまで放言した男ですよ。
 それで傷つき喚きだすような人なら、友誼を結ぶほどの人物ではない。
 TRPGを愛好しているからといって、誰とも友だちになれるはずはなく、そうであるべきだと信じる必要もなく、TRPGはすべからく赤の他人を友だちにする効用があるとも思っていません。

 それだから、「こんな奴とはプレイしたくない」と云われる始末なんですけど、それで傷ついたと喚いても仕方ないじゃないですか。僕には批判を越えて友誼を結ぶほどの価値がないってことだし、それは僕が信頼を実証できてないだけのことなんですから。
 
 信頼なんてのは喚いても脅しても誘惑しても煽っても、容易に成り立つものではないことだと僕は信じています。同好の士だからと結んだ友誼も仮初のものに過ぎず、そこからお互いが信義を築きあって初めて人間同士の友誼が結べるものです。
 
 だから韓国人だからといって甘くするつもりはありません。
 云いたいことはきっちり云わなくてはならないし、それで韓国人ゲーマーが傷つき怒ろうとも、信頼がないのだから仕方がない。彼ら自身が自らの行動で信頼たりえる存在であることを実証し、尊敬を勝ち得なくては信など得られるはずがありません。その逆も然りで、いくらTRPGという共通認識があろうとも、僕が今すぐ韓国ゲーマーたちの尊敬を得られるわけがありません。
 それだけのことじゃないですか。無用に気遣うこともないです。

 仲良しを表明することのみが友好ではないのです。子供の付き合いじゃないんだから。
 
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2006年05月14日

みんなで楽しむのは日本人だけですか? 〜TRPGは民族性とは縁があるのか〜

 『クロちゃんのRPG見聞録』などでTRPGゲーマーにはおなじみのイラストレーター・中野豪氏が今月11日、大腸がんのためご逝去なされました。氏の功績を称えるとともに、謹んでご冥福をお祈りします。

◆◆◆

 TRPGは協調性が大事だ、円滑なコミュニケーションが必要だとはよく聞くものです。なんでと問えば、「プレイヤー全員が生き残るため(参加者全員が最後までプレイに参加できるようにするため)」であり、「シナリオをよき展開に導く(参加者がよき思い出作りのために楽しみを共有し、プレイ後のしこりを回避する)」であるのでしょう。

 このうち、「参加者全員が最後までプレイに参加できるようにする」ってのは、DMとプレイヤーとの化かし合いがメインだった時期ではむしろ生温い言葉で、鬼畜極まりないDMの罠を掻い潜った狡猾なプレイヤーのみが生き残って当然、PCを死なせたプレイヤーは甘ちゃんであると豪語する豪傑プレイヤーは結構いたものです。
 実際は他のPCを積極的に脱落させるメリットはゲーム的にはなく、1人のPCができることなどたかが知れているのが『D&D』などの初期TRPGですから、他のPCを死なせたというのも立派な失点です。盾にならないファイター、他のPCを盾にしないマジックユーザー、裏の裏読みができないシーフ、コーラーができないクレリックなんかはまだまだ未熟でして、それで生き残ってこれたならDMが甘かったことを天に感謝するべしというものです。
 そういう失点を反省して徐々に全員生還をできるよう頑張り、それでもダイスの神様に見放されれば涙をこらえて、なんとか「参加者全員が最後までプレイに参加できるようにする」ってのが僕のゲーム感覚なんですよね。
 
 ちなみに、「壁登りができないシーフ」というのが僕の宿命なのか、いまだにこと壁登りとなると成功率は低いです。なのに壁を登るとなると周りが盛り上がるのはいかがなものかと。
 
 だけど、時代が進むと全員生存が当たり前という環境で育ってきたゲーマーも増えてきて、中には自分も他のPCも1度も死ぬことなく今日まできましたという「29歳で処女ですけど何か?」という人にもお目にかかることもあり、「参加者全員が最後までプレイに参加できるようにする」ってのが苦労せんでも身についている(つーか、染み込んでいる)のなぁと思ってしまいます。
 
 もう1つの「参加者がよき思い出作りのために楽しみを共有し、プレイ後のしこりを回避する」ってのはTRPGが「みんなで楽しむ」のはなぜかに対する僕なりの解答です。
 
 せっかく休日に時間を割いて、友達数人集まったり、コンベンションで初対面の同好の士と一緒になれたんだから、いい思い出作りたい。それも「アレさえなければなぁ」という曇りがない、晴れ渡った空や満天の星空のような麗しい思い出にしたい……そのためにTRPGを「みんなで楽しむ」んだと思います。

◆◆◆

 実はここからが本題。
 前置きばかりが長くなってしまいました。
 
 「参加者全員が最後までプレイに参加できる」とか「参加者がよき思い出作りのために楽しみを共有し、プレイ後のしこりを回避する」とかいうのがそれぞれ意義があって、TRPGにあってもいい観念であることはとりあえず自分の言葉にできます。

 だが、ここで少し考えることがあります。
 「参加者全員が最後までプレイに参加できる」とか「参加者がよき思い出作りのために楽しみを共有し、プレイ後のしこりを回避する」とかいうのはTRPGが持つ本来の性質なのかということです。

 この記事で僕が問いたいことは次の1点。
 TRPGで協調性やコミュニケーションが必要だとされ、みんなで楽しむことが目標とするのは、TRPGにとって必要だからではなくて、僕たちが日本人であるからなのでしょうか。
 協調性やコミュニケーションはTRPGでは万国問わず求められるものなのか。
 それとも、TRPGに限ったことではなく日本人の民族性がそれを求める原因なのか。


 それによって、TRPGのために培ったきたノウハウがTRPGの本質に迫るものなのか、それとも日本人の集団行動に関する心理に迫ったのかで分かれるのではないでしょうか。

 日本人とは思考も感覚も違った民族に通用するのか。
 
 それは、世界で最も日本人を嫌っている韓国国民ならどうでしょうか。
 韓国人の民族性は俗に身内には過保護、よそ者には冷淡かつ軽蔑というウリナラ思考ってのがあり、さらに極端なショービスム教育によって「何でもかんでもウリが起源」と豪語する夜郎自大ぶりや、火病と呼ばれるキレた時の暴走ぶりなども相成って、韓流ブームとは裏腹にネットの世界では評判は著しく低下しています。
 もしその世評そのままの人物がTRPGに参加してきたら、天下一困ったちゃんとしてストリートに伝説を残しますよ。そんなDQNな人物ではなくとも、まず日本人を心底嫌っているという点だけでも、同席するには問題です。
 
 個人としては怨みも蔑みもないだけに、複雑な心境です。心ない人の事実無根な中傷であってほしいと希望は抱きつつ、盧武鉉政権の言動やワールドカップ、WBCなどを見ている限りは彼らに失望せざるを得ないことも理解しています。
 こんなことではおちおちTRPGで韓国文化をネタにもできんぞ、と。

 ではそんな民族性の国民がTRPGをプレイしたとして、はたして協調性を発揮してみんなで仲良くできるものでしょうか。

 その答えは各自の判断に任せます。
 だが、おそらく楽しんでいるにしても日本人の楽しみ方とは違うんじゃないかなとは予測がつきます。
 この日本人とは全然違う民族相手にも、僕ら日本人が培ってきたTRPGの理論・理念が通用するかどうか……。

 それによって、TRPGの理論作りは「民族性に捉われない普遍的理論」になるのか、「日本人の民族性から構成された理論」になるのかで分岐するでしょう。仮に韓国ゲーマーにも影響を与えるべく作るのなら、彼らの民族性を重々理解しないとダメでしょう。「日本人ならでは」の論理を提示すれば、彼らは感情として受け入れることはできないでしょうから。
 韓国をうがったついでだが…。
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2006年05月05日

桶狭間の奇襲戦は有効手か 〜TRPGにおける入手経路の一極集中〜

 UEFAチャンピオンズリーグは結局バルサvs酸素に。
 今回も不幸なシェフチェンコの厄を誰か落としてください。
 だけどバルサは勢いありますから、ミランより恐い。みんなバルサの味方するだろうし、決勝観戦は孤独な戦いになりそう。

 今日はTRPGの販売促進に関する提案。

 まず「桶狭間の奇襲戦」の説明を。
 「桶狭間の奇襲戦」とは小説家・佐々木敏氏が著作の販促として行っている作戦です。内容は、多くの版元出版社が初回売り上げの参考にする紀伊国屋書店・新宿本店に集中して本を購入するというもの。東京都民のゲーマーの直買いはもちろん、地方のゲーマーも電子メールにて新宿本店に注文する。紀伊国屋での売り上げが良ければ(ランキングに入れれば)版元も積極的な宣伝戦略をするようになり、地方の書店にも並ぶようになる……という仕組みだそうです(詳しくは不明ですが)。

 この桶狭間の奇襲戦は現在書籍がメインであるTRPGでも有効手でしょうか。

 TRPGのルールブックは書籍でありゲームでありますから、入手経路は書店と玩具店に分散されてしまいます。『D&D3.5e』のように書籍でありながら書店ではまず並ばないもの、『サタスペRemix+』のようにISBNのない書籍の形をした玩具(同人誌と同じ扱い)もあり、現状においては入手経路はかなりバラついているかもしれません。
 これはすなわち、版元が潜在読者数を低く見積もってしまうことが予測されます。潜在読者数が低ければ初回配本も少なくなり、地方に回る量も減ってしまうでしょう。

 従来、出版社へのダイレクトアタックはアンケート葉書の大量投入がよいとされてきましたけど、紀伊国屋書店での売り上げ本数において高い数値を出すのはより有効手かと思います。

 正直、いかがなものでしょうか。
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2006年05月03日

導入の仕方あれこれ

 TRPGに限らず、サスペンスなどで事件が発生する際は、まずはPCたちが当事者となるか第三者となるかで展開が異なります。
 当事者の場合、自らの安全や利益、自由、正義のために積極的に事件に介入するという利点と、PCたちの自由や安全を脅かす組織・勢力との戦いに忙殺されて事件そのものに集中できない欠点があります。
 第三者の場合、PCたちは余裕ある活動ができますが、事件に介入する意義や興味を失いがちになる欠点があります。これはPCたちが物語を無視して遊び呆けるという他にも、GMがシナリオ展開からPCたちを遠ざけすぎる(NPCの行動だけで事件が終わってしまうとか)のも含まれます。

 戦闘システムが充実しているTRPGの場合、敵対勢力との決闘という形で当事者のストレスを発散できる……最後に戦闘で勝てば一件落着になる物語を組むことが自然ですので、PCは当事者である方が望ましいと僕は考えています。これを端的に表現したのが「勇者」という宿命的当事者です。
 では後者の立場はTRPGに不適応かと云われると、時代劇などではおなじみのスタンスだけに、こちらを望ましいと考える人も多くいます。その感覚を表現したものが「冒険者」でしょう。

 ハンドアウトによる導入はPCたちを上手にシナリオに関わらせるよう考案された当事者導入システムと云えましょう。
 このシステムが生まれる以前は「旅の冒険者」「どんな事件も引き受ける命知らずたち」といった第三者導入が取られてきました。『D&D』の頃では冒険に出る=財貨を獲得して経験値を稼ぐ=ゲーム目標を達成するという図式が成り立っていましたので、依頼をするにしても物語としての筋なんかどうてもよく、財貨が稼げればアライメントに反さぬ限り、どこでも飛び入ったものです。『ソードワールド』の頃でも、冒険に出る=GMが提供する物語に参加できるという意義があり、依頼への参加は積極的だったと思います。
 これが『GURPS』の頃になると、自分のキャラクター設定を演じることが第一の要求になって、自キャラの設定に沿ったような物語でないと乗る気が起こらない人が出てきました。これは『天羅万象』や『ビーストバインド』の初期FEAR作品においても顕著でした。この時期は、とにかく自分のキャラクター設定を貫き通すことがカッコイイとされてきた時代でした。

 その結果、FEARのデザイナーを始めとした多くのゲーマーが、PCたちを物語に絡める必要を感じるようになりました。初期の段階では、自分物語を醸し出したテンプレートを多く用意すれば後は遊び手が自分の手で演じてくれるだろうと考えていたのでしょう。
 だが、いざやってみるとテンプレートとGMが用意するシナリオとの乖離がどうにも埋まらぬようでした。プレイヤーは自分たちのPCを演出したいけど、GMは従来の「旅の冒険者」スタイルのまま。この時期ではプレイヤーたちは以前のようにGMの物語を一方的に聞き入るのではなく、自らもキャラクター設定を活かして物語を動かしたいと考えるようになっています。だが、SWの頃はPCたちはもっぱら狂言回しとしてシナリオ展開を読み解くことを求められてきました。合うわけありません。
 この時期の混乱から「キャラクタープレイ」という言葉が生まれ、もっぱらGMの立場からPCたちを批判する方向に世論は向いたのでしょう。PCたちの立場からはロールプレイの解釈からごっこ遊び、ミミクリ、演劇などに助け舟を求める人がいましたけど、有効手はなかったと云ってもいいでしょう。

 結果、「キャラクタープレイはキモい。だから(99年頃の)FEARのゲームなんかキモヲタ製造機だ」なんて揶揄(キモヲタ製造機云々は僕の言葉ですけど)される始末。『ビーストバインド』が「最後のTRPG」と銘打たれたのも、出版社に見限られたというよりも、まず「ユーザーに見限られた」という意識があったのかもしれません。
 すなわち、「やっぱり俺たちのスタイルは受け入れられなかった。SWの、SNEの牙城は崩せなかったんだ」という思いが井上純弌氏たちの間で蔓延してたのかなぁって感じるんですよ。だから最後のTRPGってのも「商業出版されるTRPGはこれが限界だ」ではなく、「これがダメだったら俺たち撤退して漫画家なりシナリオライターなりに転職してやる」という覚悟の「最後」だったのかもしれません。
 もちろん、こんなのは僕の身勝手な妄想です。
 そして、今となっては本能寺の変当日の明智光秀の心境を描くようなもの。現在はハンドアウトによる導入が十分に認知され、混乱は1つのスタイルの確立として解決されました。
 
 ただ、ハンドアウトはあくまでも1つのスタイルであって、導入1の観点からしても当事者導入に関するうまい方法でしかありません。残りの第三者導入に関しては旧来のままです。

 TRPG系Blogを読み漁っていると、第三者的立場からゲーム世界を自在に動くスタンスがいいという声を時折聞きます。引き出すゲームが前世紀から続いているものが多いが故に一見、昔を懐かしんでいるようですけど、僕が見た所、やはり前世紀の頃とは違うスタイルです。

 前世紀の頃は、PCの立場は端的に云えば狂言回しでした。サスペンスの探偵役のように、PCたちがやることはNPCが引き起こしたシナリオを解き明かすことが主目的でした。面白い物語はすべてGMが用意してくるのが当たり前でしたから、プレイヤーとしては物語に介入する必要がありませんでした。
 だが、最近はGMの方がNPCを狂言回しにして、PCたちに物語の主題を決めさせるのがいいというスタイルが語られ始めてきたように思えます。プレイヤーにはネタさえ与えれば十分に物語を作ることができる技量がある、あるいは自然になってしまうという確信がそこにはあるのでしょうか。かつて前世紀における乖離はそこにはありません。

 ひょっとすれば、第三者導入の方でもハンドアウトのようなうまいシステムが生まれる可能性があるのではと僕は睨んでいます。逆に云えば、それが生まれTRPGに多様性が生まれないことには、ハンドアウトという技術そのものに疲労が重なり、「ハンドアウトに飽きた・疲れた・萎えた=TRPGに飽きた・疲れた・萎えた」となる人が出ることが予測されます。どんないい技術でも「それしかない。それ以外は見向きもされない」状態ではダメだってことです。

 具体的には、プレイヤーは自分がゲーム上で何をするべきなのか把握してないと第三者導入は難しいと思います。物語を自分で動かすということは、絵を描くように画材の扱い方はもちろん、モチーフを見つける知的好奇心も必要です。もちろん、キャンバスは1枚きり。共同活動です。
 このモチーフを見つけるというのが難しくて、一歩誤ると、

1/自分物語(無規範):自分の描きたいものを無造作に描きまくる。壁に貼られた模造紙の落書きスペースみたいに、各自が好きに落書きすれば絵になると思っている。時にはスペースの奪い合いもしたり、気に入らない落書きを塗りつぶそうともする。

2/何をしていいのか分からない(無目的):創作意欲まったくなし。誰かの絵を見たいがために参加している。

3/とりあえず和マンチで戦闘(無目標):絵筆を操り、絵画の技法にこだわってはいるのだが、絵には何の主張もなし。写真で撮った方が手軽(TRPG的表現では、TRPGの戦闘システムばかりしてるならウォーゲームやカードゲームした方が手軽ってこと)。

 この3つの陥穽にハマってしまいます。
 これを克服しないと、第三者導入でうまい技術は生まれないでしょう。

追記:キモヲタ製造機という言葉は、当時のFEAR社ゲームに対して僕が見聞きした揶揄批判中傷の類を一言で表現し直したものです。僕自身はその批判には反意を持っています。もしそう捉えた人がいらしたなら、表現に誤謬があったことをここで謝します。誠に申し訳ありませんでした。
posted by 回転翼 at 09:01 | TrackBack(0) | TRPG雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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