当事者の場合、自らの安全や利益、自由、正義のために積極的に事件に介入するという利点と、PCたちの自由や安全を脅かす組織・勢力との戦いに忙殺されて事件そのものに集中できない欠点があります。
第三者の場合、PCたちは余裕ある活動ができますが、事件に介入する意義や興味を失いがちになる欠点があります。これはPCたちが物語を無視して遊び呆けるという他にも、GMがシナリオ展開からPCたちを遠ざけすぎる(NPCの行動だけで事件が終わってしまうとか)のも含まれます。
戦闘システムが充実しているTRPGの場合、敵対勢力との決闘という形で当事者のストレスを発散できる……最後に戦闘で勝てば一件落着になる物語を組むことが自然ですので、PCは当事者である方が望ましいと僕は考えています。これを端的に表現したのが「勇者」という宿命的当事者です。
では後者の立場はTRPGに不適応かと云われると、時代劇などではおなじみのスタンスだけに、こちらを望ましいと考える人も多くいます。その感覚を表現したものが「冒険者」でしょう。
ハンドアウトによる導入はPCたちを上手にシナリオに関わらせるよう考案された当事者導入システムと云えましょう。
このシステムが生まれる以前は「旅の冒険者」「どんな事件も引き受ける命知らずたち」といった第三者導入が取られてきました。『D&D』の頃では冒険に出る=財貨を獲得して経験値を稼ぐ=ゲーム目標を達成するという図式が成り立っていましたので、依頼をするにしても物語としての筋なんかどうてもよく、財貨が稼げればアライメントに反さぬ限り、どこでも飛び入ったものです。『ソードワールド』の頃でも、冒険に出る=GMが提供する物語に参加できるという意義があり、依頼への参加は積極的だったと思います。
これが『GURPS』の頃になると、自分のキャラクター設定を演じることが第一の要求になって、自キャラの設定に沿ったような物語でないと乗る気が起こらない人が出てきました。これは『天羅万象』や『ビーストバインド』の初期FEAR作品においても顕著でした。この時期は、とにかく自分のキャラクター設定を貫き通すことがカッコイイとされてきた時代でした。
その結果、FEARのデザイナーを始めとした多くのゲーマーが、PCたちを物語に絡める必要を感じるようになりました。初期の段階では、自分物語を醸し出したテンプレートを多く用意すれば後は遊び手が自分の手で演じてくれるだろうと考えていたのでしょう。
だが、いざやってみるとテンプレートとGMが用意するシナリオとの乖離がどうにも埋まらぬようでした。プレイヤーは自分たちのPCを演出したいけど、GMは従来の「旅の冒険者」スタイルのまま。この時期ではプレイヤーたちは以前のようにGMの物語を一方的に聞き入るのではなく、自らもキャラクター設定を活かして物語を動かしたいと考えるようになっています。だが、SWの頃はPCたちはもっぱら狂言回しとしてシナリオ展開を読み解くことを求められてきました。合うわけありません。
この時期の混乱から「キャラクタープレイ」という言葉が生まれ、もっぱらGMの立場からPCたちを批判する方向に世論は向いたのでしょう。PCたちの立場からはロールプレイの解釈からごっこ遊び、ミミクリ、演劇などに助け舟を求める人がいましたけど、有効手はなかったと云ってもいいでしょう。
結果、「キャラクタープレイはキモい。だから(99年頃の)FEARのゲームなんかキモヲタ製造機だ」なんて揶揄(キモヲタ製造機云々は僕の言葉ですけど)される始末。『ビーストバインド』が「最後のTRPG」と銘打たれたのも、出版社に見限られたというよりも、まず「ユーザーに見限られた」という意識があったのかもしれません。
すなわち、「やっぱり俺たちのスタイルは受け入れられなかった。SWの、SNEの牙城は崩せなかったんだ」という思いが井上純弌氏たちの間で蔓延してたのかなぁって感じるんですよ。だから最後のTRPGってのも「商業出版されるTRPGはこれが限界だ」ではなく、「これがダメだったら俺たち撤退して漫画家なりシナリオライターなりに転職してやる」という覚悟の「最後」だったのかもしれません。
もちろん、こんなのは僕の身勝手な妄想です。
そして、今となっては本能寺の変当日の明智光秀の心境を描くようなもの。現在はハンドアウトによる導入が十分に認知され、混乱は1つのスタイルの確立として解決されました。
ただ、ハンドアウトはあくまでも1つのスタイルであって、導入1の観点からしても当事者導入に関するうまい方法でしかありません。残りの第三者導入に関しては旧来のままです。
TRPG系Blogを読み漁っていると、第三者的立場からゲーム世界を自在に動くスタンスがいいという声を時折聞きます。引き出すゲームが前世紀から続いているものが多いが故に一見、昔を懐かしんでいるようですけど、僕が見た所、やはり前世紀の頃とは違うスタイルです。
前世紀の頃は、PCの立場は端的に云えば狂言回しでした。サスペンスの探偵役のように、PCたちがやることはNPCが引き起こしたシナリオを解き明かすことが主目的でした。面白い物語はすべてGMが用意してくるのが当たり前でしたから、プレイヤーとしては物語に介入する必要がありませんでした。
だが、最近はGMの方がNPCを狂言回しにして、PCたちに物語の主題を決めさせるのがいいというスタイルが語られ始めてきたように思えます。プレイヤーにはネタさえ与えれば十分に物語を作ることができる技量がある、あるいは自然になってしまうという確信がそこにはあるのでしょうか。かつて前世紀における乖離はそこにはありません。
ひょっとすれば、第三者導入の方でもハンドアウトのようなうまいシステムが生まれる可能性があるのではと僕は睨んでいます。逆に云えば、それが生まれTRPGに多様性が生まれないことには、ハンドアウトという技術そのものに疲労が重なり、「ハンドアウトに飽きた・疲れた・萎えた=TRPGに飽きた・疲れた・萎えた」となる人が出ることが予測されます。どんないい技術でも「それしかない。それ以外は見向きもされない」状態ではダメだってことです。
具体的には、プレイヤーは自分がゲーム上で何をするべきなのか把握してないと第三者導入は難しいと思います。物語を自分で動かすということは、絵を描くように画材の扱い方はもちろん、モチーフを見つける知的好奇心も必要です。もちろん、キャンバスは1枚きり。共同活動です。
このモチーフを見つけるというのが難しくて、一歩誤ると、
1/自分物語(無規範):自分の描きたいものを無造作に描きまくる。壁に貼られた模造紙の落書きスペースみたいに、各自が好きに落書きすれば絵になると思っている。時にはスペースの奪い合いもしたり、気に入らない落書きを塗りつぶそうともする。
2/何をしていいのか分からない(無目的):創作意欲まったくなし。誰かの絵を見たいがために参加している。
3/とりあえず和マンチで戦闘(無目標):絵筆を操り、絵画の技法にこだわってはいるのだが、絵には何の主張もなし。写真で撮った方が手軽(TRPG的表現では、TRPGの戦闘システムばかりしてるならウォーゲームやカードゲームした方が手軽ってこと)。
この3つの陥穽にハマってしまいます。
これを克服しないと、第三者導入でうまい技術は生まれないでしょう。
追記:キモヲタ製造機という言葉は、当時のFEAR社ゲームに対して僕が見聞きした揶揄批判中傷の類を一言で表現し直したものです。僕自身はその批判には反意を持っています。もしそう捉えた人がいらしたなら、表現に誤謬があったことをここで謝します。誠に申し訳ありませんでした。






