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TRPGは協調性が大事だ、円滑なコミュニケーションが必要だとはよく聞くものです。なんでと問えば、「プレイヤー全員が生き残るため(参加者全員が最後までプレイに参加できるようにするため)」であり、「シナリオをよき展開に導く(参加者がよき思い出作りのために楽しみを共有し、プレイ後のしこりを回避する)」であるのでしょう。
このうち、「参加者全員が最後までプレイに参加できるようにする」ってのは、DMとプレイヤーとの化かし合いがメインだった時期ではむしろ生温い言葉で、鬼畜極まりないDMの罠を掻い潜った狡猾なプレイヤーのみが生き残って当然、PCを死なせたプレイヤーは甘ちゃんであると豪語する豪傑プレイヤーは結構いたものです。
実際は他のPCを積極的に脱落させるメリットはゲーム的にはなく、1人のPCができることなどたかが知れているのが『D&D』などの初期TRPGですから、他のPCを死なせたというのも立派な失点です。盾にならないファイター、他のPCを盾にしないマジックユーザー、裏の裏読みができないシーフ、コーラーができないクレリックなんかはまだまだ未熟でして、それで生き残ってこれたならDMが甘かったことを天に感謝するべしというものです。
そういう失点を反省して徐々に全員生還をできるよう頑張り、それでもダイスの神様に見放されれば涙をこらえて、なんとか「参加者全員が最後までプレイに参加できるようにする」ってのが僕のゲーム感覚なんですよね。
ちなみに、「壁登りができないシーフ」というのが僕の宿命なのか、いまだにこと壁登りとなると成功率は低いです。なのに壁を登るとなると周りが盛り上がるのはいかがなものかと。
だけど、時代が進むと全員生存が当たり前という環境で育ってきたゲーマーも増えてきて、中には自分も他のPCも1度も死ぬことなく今日まできましたという「29歳で処女ですけど何か?」という人にもお目にかかることもあり、「参加者全員が最後までプレイに参加できるようにする」ってのが苦労せんでも身についている(つーか、染み込んでいる)のなぁと思ってしまいます。
もう1つの「参加者がよき思い出作りのために楽しみを共有し、プレイ後のしこりを回避する」ってのはTRPGが「みんなで楽しむ」のはなぜかに対する僕なりの解答です。
せっかく休日に時間を割いて、友達数人集まったり、コンベンションで初対面の同好の士と一緒になれたんだから、いい思い出作りたい。それも「アレさえなければなぁ」という曇りがない、晴れ渡った空や満天の星空のような麗しい思い出にしたい……そのためにTRPGを「みんなで楽しむ」んだと思います。
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実はここからが本題。
前置きばかりが長くなってしまいました。
「参加者全員が最後までプレイに参加できる」とか「参加者がよき思い出作りのために楽しみを共有し、プレイ後のしこりを回避する」とかいうのがそれぞれ意義があって、TRPGにあってもいい観念であることはとりあえず自分の言葉にできます。
だが、ここで少し考えることがあります。
「参加者全員が最後までプレイに参加できる」とか「参加者がよき思い出作りのために楽しみを共有し、プレイ後のしこりを回避する」とかいうのはTRPGが持つ本来の性質なのかということです。
この記事で僕が問いたいことは次の1点。
TRPGで協調性やコミュニケーションが必要だとされ、みんなで楽しむことが目標とするのは、TRPGにとって必要だからではなくて、僕たちが日本人であるからなのでしょうか。
協調性やコミュニケーションはTRPGでは万国問わず求められるものなのか。
それとも、TRPGに限ったことではなく日本人の民族性がそれを求める原因なのか。
それによって、TRPGのために培ったきたノウハウがTRPGの本質に迫るものなのか、それとも日本人の集団行動に関する心理に迫ったのかで分かれるのではないでしょうか。
日本人とは思考も感覚も違った民族に通用するのか。
それは、世界で最も日本人を嫌っている韓国国民ならどうでしょうか。
韓国人の民族性は俗に身内には過保護、よそ者には冷淡かつ軽蔑というウリナラ思考ってのがあり、さらに極端なショービスム教育によって「何でもかんでもウリが起源」と豪語する夜郎自大ぶりや、火病と呼ばれるキレた時の暴走ぶりなども相成って、韓流ブームとは裏腹にネットの世界では評判は著しく低下しています。
もしその世評そのままの人物がTRPGに参加してきたら、天下一困ったちゃんとしてストリートに伝説を残しますよ。そんなDQNな人物ではなくとも、まず日本人を心底嫌っているという点だけでも、同席するには問題です。
個人としては怨みも蔑みもないだけに、複雑な心境です。心ない人の事実無根な中傷であってほしいと希望は抱きつつ、盧武鉉政権の言動やワールドカップ、WBCなどを見ている限りは彼らに失望せざるを得ないことも理解しています。
こんなことではおちおちTRPGで韓国文化をネタにもできんぞ、と。
ではそんな民族性の国民がTRPGをプレイしたとして、はたして協調性を発揮してみんなで仲良くできるものでしょうか。
その答えは各自の判断に任せます。
だが、おそらく楽しんでいるにしても日本人の楽しみ方とは違うんじゃないかなとは予測がつきます。
この日本人とは全然違う民族相手にも、僕ら日本人が培ってきたTRPGの理論・理念が通用するかどうか……。
それによって、TRPGの理論作りは「民族性に捉われない普遍的理論」になるのか、「日本人の民族性から構成された理論」になるのかで分岐するでしょう。仮に韓国ゲーマーにも影響を与えるべく作るのなら、彼らの民族性を重々理解しないとダメでしょう。「日本人ならでは」の論理を提示すれば、彼らは感情として受け入れることはできないでしょうから。
韓国をうがったついでだが…。






