皆様、大変長らくお待たせいたしました。
ようやく熱も37度を下回り、なんとか活動を再開できる環境になりました。12月ですので忙しいのは当然でまだまだ本調子ではないですけど、なんとか以前のペースでやっていきたいので、よろしくお願いします。
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「TRPGの楽しみ方は人それぞれ」
よく聞く言葉です。
その言葉の中身をいったいどれだけの人が考えたのか、さっぱり見えてこない言葉でもあります。大抵、大した意味などなく用いられているんでしょうけど、そんな言葉だからこそ無意識の感覚が篭められているのでしょう。
今日はなんでTRPGは人それぞれなのか考えてみます。
TRPGってのは他の
ゲームのように心の住み分けがうまくいかないゲームだから、よく遊び方に対する姿勢で揉めます。この「心の住み分け」ってのは、例えば
ボードゲームでも読みや駆け引きが重要なゲーム、資源管理・運営が重要なゲーム、運の強さが重要なゲームと色々あります。そうした多種多様なゲームの存在を認めることが「心の住み分け」です。
簡単に云えば「ボードゲームって色々あるよね」ってこと。
ボードゲームなら、『プエルトリコ』と『サンファン』は同じ舞台を使いながら、前者はシミュレーションらしく高い戦略眼が要求され、後者は
カードゲームらしく素早くコンボを固める判断力が要求される、まったく異種のゲームであることを意識しなければなりません。
ところが、TRPGの場合はボードゲームほど多種多様な遊び方をしないものです。物語の再現という
メディア要素が強いTRPGは、ゲームシステムの多様性以前に、TRPGで再現できる物語に多様性が求められてきました。似たようなシステムで似たような遊び方をしようが、扱う物語が多種多様ならばそれで十分事足りたのです。
それ故、ゲームシステムとしてのTRPGに関しては他のゲームほど区別を意識する必要はありませんでした。
言ってしまえば、「どんなゲームだろうと、TRPGはTRPGだ」「どんなTRPGも根っこは同じだ」ということです。システムの違いによるゲーム性の違いに対して、TRPGゲーマーは驚くほど無頓着です。
どうせどんなTRPGも、普段と同じようにプレイしてりゃ〜間違いないだろうにと、大抵の人は思ってプレイします。
そして、よく間違えます。
TRPGはゲームで遊び方の違いが見分けられないもんなのです。
こういう普段の感覚でやったら失敗したとしても、「ああ、これは違う性質のゲームなのだな」と思うのが他のゲームでしょうが、システムの差異に無頓着なTRPGの場合、「ああ、これはGMの嗜好が僕とは違うのだな」という方向に行きます。
すなわち、「ゲームが合わなかった」ではなく、「遊び相手と合わなかった」という発想をするということです。間違いないと思ってたのが間違っていて、それでゲームの違いなんか意識していないとしたら、残りは遊び手の違いでしか違いを区別することができないでしょう。
言い換えれば、「遊び手の相性が合えば、どんなゲームも同じように遊べる」のがTRPGだと云うことです。システムよりも扱う物語の性質で違いを判別してきたTRPGゲーマーにとって、物語の実務を担当するGMこそが多様性を生み出す差異であると認識しているのです。
同じシナリオを扱ったとて、GMが違えばまったく違う
セッションが楽しめる。あるいはGMが同じでもプレイヤーが1人違えば……。いや、遊ぶ相手も同じでも……。
人それぞれに違うゲームが味わえる。
そのことにTRPGゲーマーは何ら不思議を感じません。
素晴らしいこととさえ思っています。
「同じシナリオなんだから、
全国津々浦々どこの誰がやってもある程度のパターンしか遊び方なんか生まれない」なんて誰も考えません。
確かに素晴らしい発想ではあるんですけど、それは一方で「遊び手の経験こそがTRPGのすべてなんだよ」と言っているようなものです。それですら、TRPGは遊び手自身の資質向上に役立っているとかポジティブな見方もできますけど、穿ってしまえば「経験がなければ誰とも分かり合えず、何も理解できない世界」とも云えます。
素晴らしき人それぞれの世界。
人ができていなければ同じ趣味を持つ
資格がないのです。
人が合わなければ、同じゲームの愛好家であっても理解し合える要素なんかどこにもないのです。あいつは
異星人だったと喧嘩別れするしかないのです。
それくらい、この世界では人それぞれの経験が重視される世界ですし、人それぞれの経験に揺るぎない自信を持っている世界だと云えます。
この世界では「人それぞれ」という言葉は、「人それぞれなんだから、お互い妥協しようよ」という意味ではありません。「人それぞれなんだから、もう距離を置くしかないじゃないか」という意味です。なぜなら、人それぞれに妥協できる点がないほど違う経験が備わっており、それはゲームの多様性を引き出すには欠かせない要素であり不可欠とされているから……。
実際にはそんなことないのに。
僕は、「TRPGは人それぞれ」という言葉を聞くたびになんか不気味な感覚を感じていたんですけど、この言葉の裏にある「それぞれの人が分からなきゃ、TRPGは分かり合えない」ことを意味しているようで、そこに怖さを感じたんです。
一昔前、TRPG系Blogでも問題児告発がちょこっと盛んになってだいぶ気に病んだことがありました。なにしろ僕がそのはしりでしたし。
肝心なのは、そこから何を学び、どう自分を克服していったかでしょう。言いたいことだけ云って、ああ気が済んだとBlogを畳まれては残ってBlogを続ける身としてこれほど迷惑なことはないです。
他人をコキ下ろすなら、返す刃で自分もコキ下ろされることをTRPG系Blog書きの人は忘れてはなりません。日本の問題ゲーマー四天王の1人に君臨する(かもしれない)僕が云うのだから間違いないです。
下手にBlogで告発しても、結果は黙ってりゃいいのにという評価しか返ってこないことの方が多いもんです。
そりゃTRPGとて人付き合いだから、何かと気に喰わないことはあります。
だけど、そんなんは一声お説教したら許せる範囲のもんです。徹底的に分かり合えないってほどのものではありません。
そんな完全無欠な経験を積んだゲーマーなんかいやしませんて。
「人それぞれ」ってのはやはり尊重し合おうという意味の方が健康的でよろしいと思います。もう譲れない一線超えたから距離を起きましょうなんて、なんともさみしいじゃないですか。たかがその人間のちっぽけな欠片でしかない論と論との諍いでさ。
前々回紹介したプレイヤー診断が結構流行ったようですけど、たぶんほとんどの人が「こんな診断なんかで俺様の経験は測れやしまい」と思っているでしょう。診断結果を公表したBlogを廻って、自分では一番数値が低かった要素が一番の人と出くわし、はたしてこの人と同じTRPGで楽しんでいけるのだろうかと考えるまでに至ったでしょうか。
実際には問題なく遊べても、意識的には無理です。
やっぱりゲームの遊び方を「人」によって分別するやり方はあまり好きではありませんね。それが厳密になれば、絶対的に分かりあえないものってができてしまうのではないでしょうか。
そのためにも、少しはゲームによって遊び方の違いが出てきてもいいんですけど。