昔のTRPGでよく「またやりたい」と耳にするのが『ブルーフォレスト物語(ツクダ版)』ですけど、単に独特の東洋的世界観が懐かしいのと同様に、僕からすればプレイヤー性善説で良かった時期のゲームだからって気もします。デザイナーが遊び手を管理しようと考えず、また遊び手が演出や自己主張にこだわることもせず、素直に物語を楽しむ場ってのが当時のブルーフォレストにはあったのかもしれません。
その経験を次世代に生かすか、ただ懐古して腐らすかはその人次第と云えます。こういうゲームもTRPGにはあるんだよってのを知らない人だって多くいるんだし。
今日はTRPGの基礎的なメカニズムについて以前から自分なりに考えたものを試案として掲示しておきます。記事としてまとまらなかった試案ばかりですが、死蔵するのもなんですし。
その1;プレイヤーとキャラクターの立場
・TRPGは仮想のキャラクターを操り遊ぶゲームである。
卓上には遊び手本人とともに、遊び手が設計したキャラクターが存在し、独自に行動する。イメージ上のゲーム世界の中でキャラクターを操作するために、行動・状態を口述で描写したり、システムに従った行動を宣言したりする。これをロールプレイと呼ぶ。
よって、TRPGでは遊び手本人の意思と、遊び手が設計したキャラクターによるロールプレイの意思と、2つの意思が1人の人間に内在していることになる。
ただし、ロールプレイ上の意思には思惑はあっても判断する力がない。遊び手の意思が常に指令を下すわけだが、遊び手の意思は自らの設計やゲーム世界、システムが反映されたロールプレイの拘束を受ける。
【まとめ】
・行動の描写と説明こそがロールプレイというキャラ操作方法。
・卓上には遊び手本人と仮想世界にいるキャラクターの2つの意思がある。
・ロールプレイ上の意思には判断する力がない。本人の意思はロールプレイの拘束を受ける。
・TRPGには2つの意思があり、それぞれに自由がある。
遊び手本人が現実世界の中で持つ自由と、キャラクターがゲーム世界の中で持つ自由である。遊び手の自由は遊び手が帰属する社会によって内容・領域が保障かつ制限されたものであり、それに現実世界の物理的摂理も加わる。すなわち「社会の常識」と云われるものだが、遊び手各人の価値観によってスタンスが異なるだろうから、最低限として帰属社会の法、慣習・道徳、物理および生物学的摂理の3つは卓上で共通認識を得ているものとする。
遊び手に法を犯す自由はない。遊び手は法の枠内に制限された社会に帰属しているからだ。帰属社会は法を犯した者を懲罰する権利を持っている。
遊び手は社会の慣習や道徳を犯す自由は許容されがたい立場にいる。人間関係の基本は信頼であり、多くの社会では慣習や道徳の遵守に求めている。
遊び手は物理学および生物学の見地に従って物事を考える必要がある。TRPGでルールブックに記載されず、ゲームマスターが擬似的な設定を提示していない物理、自然現象および生物の機能などは現実世界の現象に準拠する形を取るのが、神学論争を避けるためにも望ましいと云える。
ロールプレイ上の意思にも自由はあるが、ルールブックに記載されたシステムや世界設定によって保障かつ制限されたものである。現実世界と違い、ルールブックに記載されし情報はゲーム世界の主要部分を抜粋したものに過ぎないのだが、ゲームマスターはシナリオと裁量により、セッションに必要なだけの情報を補完することが認められ、かつ求められている。プレイヤーは自分のキャラクターの設計及び操作に自由が与えられているが、ルールブック及びゲームマスターの自由を侵犯できる自由は持ち合わせていない。
そして、遊び手本人の意思とロールプレイ上の意思とが矛盾、反発を起こした際は常に遊び手本人の意思が優先する。また、本人の自由とロールプレイ上の自由は共通ではなく、遊び手は本人の自由を遵守させながら、ロールプレイ上の自由を判断することが求められている。
【まとめ】
・TRPGには2つの意思があり、2つの自由がある。
・どちらの自由も現実or設定上の帰属社会によってルール化されているものだ。それを遵守してこその自由。
・常に本人の自由が優先。ロールプレイで現実社会を乱すな。
その2:ロールプレイと演技の関係
TRPGのロールプレイは演技ではない。
ここで云う演技とは、仕草や虚言、言葉遣いなどを使い相手に事実・本心とは違う印象・情報を与えようとする対話の技術と、それを行う態度を意味し、演劇とは目的を違える。
ロールプレイはキャラクターの操作方法だが、仮にロールプレイが演技であるならば、キャラクターの行動は遊び手の「演技された宣言」と「演技に隠された本心」の2種類とに分裂することになる。
だが、キャラクターの行動を処理するのはゲームマスターであり、ロールプレイとして有効なのは審判たるゲームマスターに伝達された情報のみである。演技によってキャラクターの行動に本心による偽装がされることはなく、あってもゲームマスターは無視できる権限を持つ。
そもそも、遊び手本人とキャラクターの因果は異なっており、キャラクターが受けるいかなる状況も、遊び手本人の状況に変化を及ぼすものではない。ロールプレイをして影響を受けるのはキャラクターのみであり、遊び手の身に変化が伴うものではない。同じく、遊び手が演技がキャラクターの操作にはなりえない。
だが、ロールプレイも対話の一種なので、ロールプレイをしながら他の遊び手との間に演技で対話をすることはよくあることである。この一連の動作からロールプレイは演技と同一視されやすい。ロールプレイとは別に、プレイヤー同士の駆け引きは存在するが、それはゲームマスターが操るNPCとの対話と同じくメタ視点である。
【まとめ】
・演技は本心を偽る技術・態度だがロールプレイを偽る意味はない。
・遊び手が演技してもキャラクターは関係なし。逆も然り。
・ロールプレイでキャラを操りながら、他の人と演技で対話してる人がいて紛らわしい。
その3:ロールプレイと演劇の関係
TRPGのロールプレイは演劇ではない。
ここで云う演劇とは、俳優が舞台の上で、脚本に従い、言葉と動作によって表現したものを観客に見せる芸術活動と、それを観賞する娯楽を意味する。
ロールプレイはキャラクターの操作のためにあるので、意思を正確に伝達することが目的である。演劇によって卓に歓楽を与えること、役者冥利に浸ることは「おまけ」に過ぎない。
TRPGにおける演劇「的行為」は本場とは違い脚本なきアドリブである。演技との違いは、演出された言葉や動作を見せることで歓楽を誘うことが演劇の目的であって、本心を偽っているとは限らない所にある。
だが、演劇もまた遊び手本人同志の対話の一種に過ぎない。
【まとめ】
・演劇は演出された言葉と動作の芸術であり、それを観賞する娯楽。
・ロールプレイは操作方法であり、意思の伝達が目的。
・・ロールプレイでキャラを操りながら、他の人と演劇で対話してる人がいて紛らわしい。
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今日はこの辺で。






