2007年10月23日

小難しいノート 〜基礎メカニズムおさらい〜

 
 昔のTRPGでよく「またやりたい」と耳にするのが『ブルーフォレスト物語(ツクダ版)』ですけど、単に独特の東洋的世界観が懐かしいのと同様に、僕からすればプレイヤー性善説で良かった時期のゲームだからって気もします。デザイナーが遊び手を管理しようと考えず、また遊び手が演出や自己主張にこだわることもせず、素直に物語を楽しむ場ってのが当時のブルーフォレストにはあったのかもしれません。

 その経験を次世代に生かすか、ただ懐古して腐らすかはその人次第と云えます。こういうゲームもTRPGにはあるんだよってのを知らない人だって多くいるんだし。

 今日はTRPGの基礎的なメカニズムについて以前から自分なりに考えたものを試案として掲示しておきます。記事としてまとまらなかった試案ばかりですが、死蔵するのもなんですし。

その1;プレイヤーとキャラクターの立場

・TRPGは仮想のキャラクターを操り遊ぶゲームである。
 卓上には遊び手本人とともに、遊び手が設計したキャラクターが存在し、独自に行動する。イメージ上のゲーム世界の中でキャラクターを操作するために、行動・状態を口述で描写したり、システムに従った行動を宣言したりする。これをロールプレイと呼ぶ。
 よって、TRPGでは遊び手本人の意思と、遊び手が設計したキャラクターによるロールプレイの意思と、2つの意思が1人の人間に内在していることになる。
 ただし、ロールプレイ上の意思には思惑はあっても判断する力がない。遊び手の意思が常に指令を下すわけだが、遊び手の意思は自らの設計やゲーム世界、システムが反映されたロールプレイの拘束を受ける。

【まとめ】
・行動の描写と説明こそがロールプレイというキャラ操作方法。
・卓上には遊び手本人と仮想世界にいるキャラクターの2つの意思がある。
・ロールプレイ上の意思には判断する力がない。本人の意思はロールプレイの拘束を受ける。

・TRPGには2つの意思があり、それぞれに自由がある。
 遊び手本人が現実世界の中で持つ自由と、キャラクターがゲーム世界の中で持つ自由である。遊び手の自由は遊び手が帰属する社会によって内容・領域が保障かつ制限されたものであり、それに現実世界の物理的摂理も加わる。すなわち「社会の常識」と云われるものだが、遊び手各人の価値観によってスタンスが異なるだろうから、最低限として帰属社会の法、慣習・道徳、物理および生物学的摂理の3つは卓上で共通認識を得ているものとする。

 遊び手に法を犯す自由はない。遊び手は法の枠内に制限された社会に帰属しているからだ。帰属社会は法を犯した者を懲罰する権利を持っている。
 遊び手は社会の慣習や道徳を犯す自由は許容されがたい立場にいる。人間関係の基本は信頼であり、多くの社会では慣習や道徳の遵守に求めている。
 遊び手は物理学および生物学の見地に従って物事を考える必要がある。TRPGでルールブックに記載されず、ゲームマスターが擬似的な設定を提示していない物理、自然現象および生物の機能などは現実世界の現象に準拠する形を取るのが、神学論争を避けるためにも望ましいと云える。

 ロールプレイ上の意思にも自由はあるが、ルールブックに記載されたシステムや世界設定によって保障かつ制限されたものである。現実世界と違い、ルールブックに記載されし情報はゲーム世界の主要部分を抜粋したものに過ぎないのだが、ゲームマスターはシナリオと裁量により、セッションに必要なだけの情報を補完することが認められ、かつ求められている。プレイヤーは自分のキャラクターの設計及び操作に自由が与えられているが、ルールブック及びゲームマスターの自由を侵犯できる自由は持ち合わせていない。

 そして、遊び手本人の意思とロールプレイ上の意思とが矛盾、反発を起こした際は常に遊び手本人の意思が優先する。また、本人の自由とロールプレイ上の自由は共通ではなく、遊び手は本人の自由を遵守させながら、ロールプレイ上の自由を判断することが求められている。

【まとめ】
・TRPGには2つの意思があり、2つの自由がある。
・どちらの自由も現実or設定上の帰属社会によってルール化されているものだ。それを遵守してこその自由。
・常に本人の自由が優先。ロールプレイで現実社会を乱すな。

その2:ロールプレイと演技の関係

 TRPGのロールプレイは演技ではない。
 ここで云う演技とは、仕草や虚言、言葉遣いなどを使い相手に事実・本心とは違う印象・情報を与えようとする対話の技術と、それを行う態度を意味し、演劇とは目的を違える。
 ロールプレイはキャラクターの操作方法だが、仮にロールプレイが演技であるならば、キャラクターの行動は遊び手の「演技された宣言」と「演技に隠された本心」の2種類とに分裂することになる。
 だが、キャラクターの行動を処理するのはゲームマスターであり、ロールプレイとして有効なのは審判たるゲームマスターに伝達された情報のみである。演技によってキャラクターの行動に本心による偽装がされることはなく、あってもゲームマスターは無視できる権限を持つ。

 そもそも、遊び手本人とキャラクターの因果は異なっており、キャラクターが受けるいかなる状況も、遊び手本人の状況に変化を及ぼすものではない。ロールプレイをして影響を受けるのはキャラクターのみであり、遊び手の身に変化が伴うものではない。同じく、遊び手が演技がキャラクターの操作にはなりえない。

 だが、ロールプレイも対話の一種なので、ロールプレイをしながら他の遊び手との間に演技で対話をすることはよくあることである。この一連の動作からロールプレイは演技と同一視されやすい。ロールプレイとは別に、プレイヤー同士の駆け引きは存在するが、それはゲームマスターが操るNPCとの対話と同じくメタ視点である。

【まとめ】
・演技は本心を偽る技術・態度だがロールプレイを偽る意味はない。
・遊び手が演技してもキャラクターは関係なし。逆も然り。
・ロールプレイでキャラを操りながら、他の人と演技で対話してる人がいて紛らわしい。

その3:ロールプレイと演劇の関係

 TRPGのロールプレイは演劇ではない。
 ここで云う演劇とは、俳優が舞台の上で、脚本に従い、言葉と動作によって表現したものを観客に見せる芸術活動と、それを観賞する娯楽を意味する。
 ロールプレイはキャラクターの操作のためにあるので、意思を正確に伝達することが目的である。演劇によって卓に歓楽を与えること、役者冥利に浸ることは「おまけ」に過ぎない。
 TRPGにおける演劇「的行為」は本場とは違い脚本なきアドリブである。演技との違いは、演出された言葉や動作を見せることで歓楽を誘うことが演劇の目的であって、本心を偽っているとは限らない所にある。
 だが、演劇もまた遊び手本人同志の対話の一種に過ぎない。

【まとめ】
・演劇は演出された言葉と動作の芸術であり、それを観賞する娯楽。
・ロールプレイは操作方法であり、意思の伝達が目的。
・・ロールプレイでキャラを操りながら、他の人と演劇で対話してる人がいて紛らわしい。
 
◆◆◆
 
 今日はこの辺で。



 
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2007年10月16日

異空間構築は慎むべきか 〜キャラクターと遊び手本人の自由の履き違えへの懸念〜

 『ナイトウィザード2nd Edition』と『シャドゥラン4th Edition
』のページ数がほぼ同じことに隔世の感あり、です。NWってそんなに情報量多い作品でしたっけ?

 今日は自由の話の続き。

 TRPGにおける「自由」とか「何やってもよい」とかいう観念は、TRPGが仮想のキャラクターを操作して楽しむ仮想環境ゲームである性質上、自由である対象がキャラクターにあるのか、遊び手本人にあるのか、明確な違いがあると思います。
 キャラクターのみに許されているはずの自由が、いつの間にか遊び手本人の自由へと逸脱してしまうなんてケースが起こらないとは限らないもので、何かに興じている人間はえてして場の空気に酔いしれて暴走しがちなものです。
 世間では相撲部屋だとか宗教団体なんかが閉鎖的な環境で、法やモラルから逸脱した行為を平然とやらかしてしまう事件が起こっています。程度の差はあれTRPGサークルもロールプレイやファンタジーに浸れる環境だけに、浮かれちゃう人ってのは出てくるし、それがサークル幹部だったりすると、その逸脱した「面白さ」がサークル内に感染して、逸脱した「面白さ」の追求に目が眩んだマッドな集団が出来上がるものです。

 TRPGの会場にモデルガンやナイフ、山○堂の模造武器を持ち込んでくる、プレイヤーにコスプレを強要する、ゲームそっちのけで漫画の回し読みする……なんてのは序の口。最悪だったのが(何度も言ってるけど)対戦格闘ゲームがブームだった際、格闘技の論議がゲーマーとして面白くなっちゃったもんだからサークル内で格闘の真似事に興じちゃい、その面白さを部外者に教えようと技をかけたら「入ってしまい」、怪我させちゃったってなケースもあります。

 このケースの場合、対戦格闘ゲームに影響されて、あの動きをTRPGで再現したい、ロールプレイで格闘家がしたいという欲求がTRPGのシステム、ロールプレイという枠組みでは収まりきれず、遊び手同士が直に拳で語り合える一体感の中でゲームに浸りたい欲求に飛躍してたのではないかと思います。
 格闘技で熱く語り合える同志たちの交友も、コミュニケーションが大きな要素であるTRPGでは大切なことのように思えてくるでしょうし、それに向けてプレイ空間を構築しようと望むのも無理なきこと。
 
 でも、それは獣道ではないでしょうか。
 
 格闘技云々は極端ですけど、例えば『ナイトウィザード』をプレイするにしても、あるプレイヤーがアニメ版に思いっきり影響されて、プレイそっちのけでキモヲタぶりを発揮なされては非常に迷惑なもの。ましてや、それを強要させるような環境になってしまったら異常です。

 横暴で傲岸不遜、人類の守護者でありながら人類を顎で使うことを厭わないあの超女王様が、アニメ準拠だからとかきくたけ設定だかとかではなく、遊び手のTRPGとしての裁量次第で寛大だったり慈悲深かったりと演技の性質が変わるのがTRPGのあるべき自由であって、遊び手本人が原作への熱情を気兼ねなく発奮できる自由ってのはお門違いではないかと僕は考えるわけです。

 いくらTRPGで自由が保障されていても、それは仮想環境中にいるキャラクターが、仮想世界という籠の中で自由に動いていいというだけのもの。遊び手本人が世間のルールや世間体から解放されたわけではなく、浮かれてハメを外すのはやはりDQNの所業として非難されるべきでしょう。
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2007年10月09日

良き観客であれ? 〜TRPGにおけるPC死後のプレイヤーの扱い〜

 今日はTRPGにおいてPCが死ぬということはどういうことか、少し考え直してみるお話です。

 現行のTRPGではセッション中におけるPC死亡後、プレイヤーはどうしていればいいのか明記している作品は僕の記憶する限りは思いつきません。ボードゲームなどではゲーム終了まで参加権を失い待機ないし退場であり、TRPGも慣例的にはそれに倣っています。しかしながら、TRPGは通例1度のシナリオで1日のプレイを終えるケースがほとんどであり、1度死んだらその日のプレイは自動的に終了となります。ファンタジーなどでは蘇生の呪文など救済処置を入れている作品もありますけど、実際は高レベルでないとお目にかかることがなく、慰み程度の存在であると云えましょう。
 
 そして何よりも、物語に直接介入する権利を失うことが大きな欠点とも云えましょう。PCが死んだプレイヤーがセッションでできるコミュニケーションと云えば、幽霊となってシナリオに影響しない雑談をすることしかありません。

 長々と書きましたが、要するにTRPGでPCが死ぬのはとっても辛いということです。早い話が、PCが死んだプレイヤーはゲームの参加者から観客へと降格処分をされるのがTRPGの通例だと云うことです。そして、大抵のTRPGイベントは観客のままで終わるものです。

 ちなみに、一番困ったのはGMがいきなり戦闘で始まるシナリオ仕掛けて、1人だけ死んじゃったケースです。使ってたのが『サイバーパンク2.0.2.0』だったから蘇生のルールはなかったんですけど、そのGMが空気読めてなかったから、死んだプレイヤー置き去りでセッション続けだしちゃったんです。
 それで、「今のチームにはメンバーが足りない。補充しよう」と、実際のセッションではよくやる「死んだPCのそっくりさんで再登場」をやろうとしたら、そのGMはおもむろにNPC登場取り出してきたりしたもんだから……。

 話を戻します。

 TRPGでは「PCの死=プレイ参加資格剥奪」を意味します。
 元々はウォーゲームであったものに「物語を楽しむ」という要素を後付けしたに過ぎないTRPGはGM操るエネミーNPCvsPCというウォーゲームのルールを踏襲しており、ウォーゲームには厳然とある「PCの死=プレイ参加資格剥奪」も踏襲しています。
 
 踏襲しただけのことだから、「PCの死=プレイ参加資格剥奪」が必ずしもTRPGにおける重要なゲーム要素とは云えないと思います。
 TRPGはウォーゲームとは違い、戦闘はゲーム内ゲームに過ぎません。あくまでもシナリオからなる物語の成否がプレイの成否を左右するってのが多くのTRPGが掲げているゲーム目標でもあります。現行のTRPGでは戦闘以外に会話によるアドベンチャーをやらせるゲームばかりで、むしろそれがメインなのだから、プレイ参加資格を賭けたウォーゲームなどはほんの一余興に過ぎないと云ってもいいでしょう。

 すなわち、戦闘でPCが死んだことなんてシナリオという大局の前にはどうだっていいこと。その日1日棒に振ること命じておきながら、ゲーム的には「残念だったね。けどシナリオ続けなくちゃ」程度のモンだっていうのがTRPGにおけるPCの死というものでしょう。
 
 最近では「みんなが楽しくプレイした」というレクリエーション活動としての成否をもゲームの成否に加えているものだから、PCが死んだからと云ってプレイを放棄したり、不服や再挑戦を唱えることは卓を不愉快にさせる行為と看做されることも予測されます。
 
 「みんなで楽しくプレイする」ゲーム目標のため、PCが死んで参加資格が剥奪されたプレイヤーも「良き観客」として楽しむべく努力しなさいというのが現行TRPGの良き姿なのでしょう。

 う〜む。
 死んでも良き観客でいろって云うよりは、ズルをしてても全員最後まできっちり参加させる方を僕なら選ぶますけど、どうなんでしょうかね。殺して参加資格を剥奪したプレイヤーは厳然とした態度で捨て置くべきなのか、それとも「君はまだプレイヤー経験点獲得のためにも観客として参加する義務がある。楽しい素振りを忘れぬように」と要求するのが正しいGMの姿なのでしょうか。
 
 僕としては、PCが死んだプレイヤーに対する処置を、デザイナーは単にウォーゲームを踏襲するのではなく、TRPGの現状に合わせて考え直す必要はあるのではと考えています。
 参加資格がなくなった奴のことなんかどうでもいいと考えるのは、自分とは違った人に対する冷血ぶりを示すことだし、それは想像力の未発達を意味することですからね。誇れる態度じゃありません。

ラベル:TRPG
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2007年10月02日

「自由」と「何やってもよい」の間は「=」か「≠」か

 鏡氏の論考を考察したいと思ったのですが、なかなかまとまらないまま気が付けば10月に入ってしまいました。9月後半は原稿を書いては破棄する連続でした。申し訳ありませんでした。
 今日は「自由」と「何をやってもよい」は違うのかという話。

 この問題の提議者であろう鏡氏曰く、TRPGにおける自由とは、ゲーム参加者が皆、「私はこうしたい、こうすべきだ、こうしよう」といった「自分の決断」によってゲームプレイに関与し、それがそのまま過程や結果に活かされることだとしています。
 僕の頭では、まだこの定義では「自由」が「何をやってもよい」に置き換わっても意味が変わらないように映ります。両者は鏡氏の中では同じ意味なのでしょうか?

 鏡氏の定義は僕の捉えた所、「自分の決断によってゲームプレイに関与し」、「それが過程や結果に活かされる」と、意志決定と結果を連結しているのが少し問題ありかと存じます。なぜなら、ゲームプレイに関与した自己決断が、素直に過程や結果に活かされるとは限らないからであり、TRPGにおいては「判定」という関門を突破できた者のみが決断を採用される仕組みを取っています。判定に挑むための条件として「技能」や「必要能力値」を指定するTRPGも多くあります。
 これら、「判定」「技能」「必要能力値」はすべてゲームデザイナーの決断に基づいて設計されたものであり、鏡氏の論法を借りればデザイナーの「自由」なのです。プレイヤーが「自分の決断を過程や結果に活かしてほしい」と願い口にするのはプレイヤーの「自由」であるが、それが実現するかどうか決めるのは判定を作ったデザイナーの自由。鏡氏が定義した「自由」には2人の立場の違う人間の「自由」が混在しており、いささかの矛盾が生じているのです。
 この説明を読む人の大抵がプレイヤーの立場から一方的に受け取るでしょうけど、まさかそこに「デザイナーの俺にも自由があるんだぜ。そこんとこ弁えろよな」というメッセージが入っているとは到底読み取れるかどうか……、それは難しいでしょう。読み取れなかった人は当然ながら、結果も無条件・無審査で思いのままと思い込むでしょう。

 もちろん、鏡氏がその矛盾に気付いていないとは限らず……いや、十分心得ているでしょうけど、単にうまい表現ができなかっただけかもしれません。あるいは僕の理解力不足もあるわけで。

 機会平等と結果平等が全く異なるのと同様の理屈でしょう。
 求めるべきは機会平等なれど、欲しがるのは結果の平等。誰もが同じ額の分だけ働ける社会を訴えども、民が求めるのはただ同じ額をくれ。怠けようが手抜きしようがこっちの勝手じゃい……。

 結局、複数の立場・役割の違う人間が共存できる「自由」は各個人にとって有限であり、お互いの決断に領域を決めて住み分け、調和を保つしか保てないということでしょうか。
 互いが自由でなければ真の自由はない。片方が自由で、もう片方が片割れの自由のために不自由(自己決断の放棄)であるならば、自由な方は己を自由を叶えるべく決断なき不自由な者を管理しなければならず、自由なき管理者とならざるを得ない。
 独裁者は独裁をする不自由から逃れられないのです。

 それを踏まえると、「自由なTRPG」は互いの自由が活かし合える調和の状態のためなら、各個人の自由は有限かつ領域分けされたものになるTRPGでありましょう。
 これに対して、「何をやってもよいTRPG」は調和のリミッターが解除され、弱肉強食の中で力ある者が独裁権を得るれっきとした管理型TRPGとなるでしょう。

 ここでようやく、自由≠何をやってもよいとなったでしょうか。

 自由を尊んで得られるのは調和。調和の中でみんなの自由。
 何をやってもよいで得られるのは独裁権。独裁スイッチで俺様の思いのまま。
 そのスタンスの違いによる誤解をなくすために、自由なTRPGを説明する際には「何をやってもよい」TRPGに期待されるエゴの限定解除という要素をきっぱり否定したが上での説明が必要となるかもしれません。
 

 
ラベル:TRPG
posted by 回転翼 at 09:01 | TrackBack(2) | TRPG雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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