2008年02月24日

TRPGが「ある」 〜物品としてのTRPGの認知〜

 『さよなら絶望先生』の小森霧ちゃんは100万人にお兄ちゃんいるでしょ言われてうんざりしているそうだが、それは100万人が霧ちゃんを妹にしたいと思っているということなのでは。
 確かに引き篭もりの妹とくれば、少女を自室に飼いたいと願う監禁王子な方々には理想の存在ですし。近所にも「ウチの妹引き篭もりで困っています」と言っておけば、実はメイド服で鎖につないで監禁して、それなんてエロゲなマネしようが(アホの考えであろうが)無問題に思えますしね。なんて罪深い。混沌の手先め。
 
 アホ話はここまで。

 今日はTRPGが「ある」ことについてです。

 TRPGは物品として「ある」ことが即ちゲームとしての意義があるとは見なされません。誰がどう見たって書籍ですし。遊び手がゲームを「する」ことによって、初めてTRPGは書籍からゲームに成り得ますよね。
 それがあるから、今まで僕は「TRPGはゲームか」という問題自体に些か違和感を感じていました。僕がTRPGのルールブックを示して「これはゲームです」と証明することは「では、実際にゲームをしてみましょう」と付随することで可能です。でも、ただ立て札に「これはゲームです」と銘打って飾った場合、一体誰がTRPGをゲームと認めるのでしょうか。見物客がTRPGを知っていることをただ願うのみではありませんでしょうか。

 愛好者としては、TRPGが「ある」だけでゲームと認知され、さらに欲を出せば支持される世の中を願います。だけど、書籍やサイコロ、紙片だけではTRPGを連想させるのは難しい所。書籍、サイコロ、紙片と云う専門の趣味で取り扱う道具としてはありふれたTRPGの道具類は、連想して導き出すには優先順位はとても低いことが予測されるからです。
 TRPGを優先的に連想させるには、書籍とサイコロ、紙片がある光景はTRPGなのだと連想させるだけの刷り込みがなされてないといけませんし、対象が広範であればあるほど、大規模な宣伝と目撃、体験によって身近にあるものだということが実感できるものでなくてはなりません。
 TRPGが物品として「ある」ことのみでゲームとして認知されるということは、社会的認知の問題でありTRPGがゲームだということを証明する必要はないということなのです。対象がゲームを知らなくとも、遊ばなくとも。
 
 TRPGが「ある」だけではゲームとして認知され辛いのは道具類が専門の道具として認知されにくいというだけではありません。逆に、道具として先鋭化し過ぎたが上の実態としての専門性の高さにもあります。

 簡単に云えば、何でもかんでも文字とイメージで表現し過ぎているってことです。視覚に訴えるギミックはフィギュアにしろフロアタイルにしろ、書籍形態にした時点で取っ払われ、サイコロも6面体以外は普及していないからと敬遠される傾向にあります。
 それが悪いかはともかく、視覚ギミックをそぎ落とす方向に向かったTRPGは遊び手に読書力とイメージのための連想力を強く求めるゲームとなりました。それによって、TRPGは普及よりも練達の方が重要視され、かつ遊び手にとって具体的な存在になりました。TRPGが「ある」ことに関しては曖昧模糊なモヤモヤしか浮かばないが、TRPGを「する」ことに関しては具体的なモデルが提示できるというわけです。

 今のTRPGは遊び手が読解し、イメージし表現する事を当たり前とし過ぎています。それが訓練を要することだと云うことすら認められないぐらい。
 TRPGは原始的な道具と違って、様々な機能を1つに集約した結果、工業機械のように専門知識を通しての視野でないとその役割すら認識できない代物なのかもしれません。
 
 僕らTRPG系ブロガーも、TRPGを認知させる事ことの難しさから、TRPGを観念的に「する」ための清談に逃避してしまいがちです。論考記事が賑わうのは結構ですが、TRPGを扱うメディアの一端を担う者たちが、TRPGの社会的認知に背を向けた隠者ばかりでは困るということです。
 もちろん、本来ならそういう事は販売側がするべきことなんですけどね。エンドユーザーが好き勝手やってるだけだと自認しているスタンスの人にまで、お前らもうちょっと論客としての自覚持てと言うのもおこがましい限りで。

 ちなみに僕は、TRPGはボードゲーム並みに専用遊戯道具を揃えても、80〜90年代のようにユーザー確保の妨げにはならないと思います。80年代の頃はシミュレーションゲーム、90年代にはカードゲームやミニチュアウォーゲームと同居しており、ボックスやカード、ミニチュアを揃える事はゲーム活動とは別の、コレクターとしてのステータスがありました。新参者はゲーマーとして以前に、収集家の集いとしての壁に遭遇するわけで、そこに参入の妨げがありました。
 
 2008年現在、TRPGはコレクタブルゲームとはどれとも距離を取っていますし、弱肉強食の要素……たくさん投資した者が単純に強くなるという状態でなければ専用遊戯道具を作るのも悪くないかもしれません。
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2008年02月19日

脳を気遣う歳だから 〜大人になってTRPGをやる意味〜

 TRPGを楽しむために根源的に必要なことは何でしょう。
 物語、演技、対話、戦闘、パーティなど色々あるでしょう。
 肝心なのはそれら仕組みの諸要素が「快感」を生み出せるか…。すなわち、快感の根源たるエンドルフィンを分泌できるかにかかっています。

 今日は大人になってTRPGを楽しむ意義について。

 TRPGのみならず、ゲーム全般、そして遊び事全般を通してそれを楽しむ人と楽しんでいない人とでは精神状態は大きく異なっています。TRPGのゲーマーなら、ついつい部外者から「何が楽しいの?」と聞かれてムキになってしまう青い時代を経験した事でしょう。

 曰く、我は奇行なす異端者ではない、と。
 でも、大人になれば逆の立場で多くの趣味人を見下してた事を悟ることでしょう。そのジレンマに苦しみ、ついには全ては幼児性の成すことであったと趣味から卒業してしまう人もいるものです。
 俗に「バカバカしくなった」と呟く状態なんですけど、TRPGを楽しむという自己実現の欲求が、ジレンマに苦しむ事からくる脳の疲労によって減退し、エンドルフィンを分泌せしめる欲求になりえなくなったのです。

 こうなると、必要なのは休養です。鬱状態です。

 では、成熟した大人であるはずなのに趣味人な人はどういう精神構造をしているのでしょうか。幼児性の抜けない未熟な精神の人たちなのでしょうか。もちろん、口さがない人はそう揶揄する事でしょう。羨望と嫉妬が混じった目線を向けて。

 だが、僕なんかは幼稚などと揶揄されても傷ついたりすることはありません(面前でお前は幼稚だと言い出す人のDQNぶりに薄気味悪さを感じる事はありますけど)。また、ああ俺はヲタクで結構と開き直る気にもなれません。
 僕は20代前半から後半までリタイアしていましたので、その間に僅かながら成長があったのでしょう。

 この歳になって選んでいる趣味だから、そこには理性的な理由があるのだと思っています。具体的には、脳の活性化を促すために古来からエンドルフィン分泌活動として行われていた「遊び」をしており、その中でも持続性の高い高次的・社会的な欲求を満たせうる遊びとしてT創作的要素、想像的要素の強いTRPGを選んでいる……となるでしょうか。

 エンドルフィンは脳で働く神経伝達物質(神経を動かす燃料みたいなもの)で、これが出ると鎮痛効果があり幸せな気分になれることから脳内麻薬とも呼ばれています。
 エンドルフィンは脳の中にある報酬系と云う神経に多くあります。報酬系は欲求が満たされると元気になる神経で、これには食欲、性欲、体温調整欲と云った動物的な欲求のみならず、愛や充実感、希望と云った社会的、高次的な欲求にも作用します。報酬系神経は知覚、思考、記憶などを司る大脳皮質を保つために重要な神経だとも云われています。一方で薬物依存などの状態を生み出すのも報酬系神経が影響しています。

 今の僕にとってTRPGはお茶を飲んだり音楽を聴いたりと、脳を健全に保ち精神を安寧にさせる行動の中にあるってことです。

◆◆◆

 TRPGの根源に関わる「遊」について良質な考察がされているWebサイトを発見。僕もただ今精読中です。

 〈遊〉について
 
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2008年02月14日

TRPGの延長線上にTRPGの討論はあるのか

 TRPG LINKにきまぐれTRPGニュースを追加しました。
 最近活躍が著しいaccelerator氏のTRPG系ニュースBlogで、僕もよく利用させていただいております。
 あと、過去ログの件数を増大。

 今日はTRPGの討論についてちょっと気付いたこと。

 TRPGの原理、メカニズムに関する論考、討論はしばしば空転し、論客の疲労によって霧散してはまたぶり返されるという無限回廊の様相に陥りがちです。このループによってせっかく論じられた資産が実用性を失い、結果として討論自体が存在意義を失うことを危惧する人は1人2人ではないかと思います。
 討論と銘打っていますが、実際は有志座談会であり、何かプロジェクトを企画しているわけでも、会議後に総括声明を発するわけでもない。参加者は匿名で、討論相手との面識もなければ、討論結果が今後のプレイに影響することもない。言いたい放題かまして、相手の意見は黙殺した所で何ら問題はない…。
 その程度のものですから、影響力を持とうと思う方がどうかしています。
 「お前らが論議している問題は、俺様がとっくの昔に論破してるんだぞ」と口吻飛ばした所で、「そんなもん、誰も見ちゃいねーんだよ」で終わるのが関の山。正直、論客同士が意見交換して見識を深められればそれでよし、というものなのでしょう。

 ではTRPGの討論は役に立たないのか、無駄なのか。
 そこで有益を主張するか、無益を主張するかが常道ですが、僕はここに第3の道が存在するのではと考えています。すなわち、有益無益の問題ではなく、むしろ別の次元の基で繰り広げられているのではないのか…。

 楽しいから。

 RPG日本の鏡氏は著名なアマチュア論客であるが、彼などは討論そのものが楽しいと主張
したことが何度かあったような気がします。実の所、TRPGの討論はお互い何も賭けていない以上、総括・結論にこだわる必要がなく、むしろやり取りの妙を楽しむゲームに近い代物です。
 
 実は、普段TRPGで行っているトークゲーム(Conversation Gameとした方が正しいかもしれない)の延長線としてTRPGの討論があるのではないのか。いや、討論という舞台で論客をロールプレイするTRPGをしてはいないか…。
 それが今日言いたかった事です。TRPGのトークゲームのように、修辞の凝らしたうまい文章表現が上手なロールプレイのように評価され、物語を構築し共有することを楽しむように、討論することで議題を構築し共有することを楽しんではいないだろうか…。

 それが的を得ているのか、的外れなのか、僕はまだ解答を持ちえていません。
 だが、僕らTRPGの遊び手は有益無益の次元から遠く離れた、楽しむために積極的に対話し討論するTRPGのトークゲームを知っているし、各々がTRPGをバックグラウンドとしているはずです。
 その慣れ親しんだ環境のままに、討論というゲームを楽しんではいないか…。

 いかがなものでしょう。
 
タグ:TRPG
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2008年02月05日

一本道の歩き方 〜TRPGにおける一本道の種類とトークゲーム〜

 先月、1月27日にHOBBY-JAPAN社屋にてHJ-CONに珍しく回転翼名義で参加しました。GM及びパーティの皆様には楽しいプレイができましたことあつく御礼申し上げます。
 
 D4+5の2回攻撃、やりすぎ。D&D脳(笑)

 今日はTRPGにおける一本道の話。

 一本道と云えばGMの想定したシナリオ展開を外れないセッション形態のことを意味します。迷宮探索がメインだった時代においては入り口と出口が1つずつで、迷宮をくまなく探索する意味がなく、まっすぐ出口に向かえばそれでよしと云うシナリオのことを指していました。
 これが物語の追体験がメインとなったここ10年ほどのTRPGでは、物語のプロットが迷宮の変わりになり、GMが構成作家よろしく組み立てたシナリオ展開を遊び手たちはメタの立場から追体験するという遊び方が主流となりました。この段階での一本道とは、物語の構成に分岐がなく、終始1つの価値観で統一されているシナリオのことを指します。

 老練なゲーマーは多分前者しか知らないと思います。
 『D&D』は価値観が不統一なシステムですし、そのせめぎ合いがトークゲーム(対話のやり取りを対局ゲームとして見立てた遊び)の主題でした。初代は3つ、『AD&D』以降は9つあるアライメントがD&Dの世界を構成していると云ってもよく、アルコンでもデヴィルでも、D&Dの舞台に立つ者はすべて己のアライメントとどう付き合うのかが存在意義です。
 そんなD&D時代のトークゲームを知る者からすれば、遊び手の価値観が統一されて当たり前の一本道など容易に想像はつかないでしょう。
 だが、この「構成の一本道」は『ナイトウィザード』のような最近の作品に限って登場するものではありません。

 構成の一本道の場合、GMは「遊び手がこの場面ではどう考え、どのような行動を起こすか」まで設定します。遊び手もメタ視点ですから、GMの構成に「面白い」という信任を持って、彼の設定に従います。このような形式は『D&D』ようにPCの価値観が不統一になるよう仕組まれたゲームでなれば、どのゲームでも可能です。なべても『サイバーパンク2.0.2.0』や『深淵』のような、作品自体が1つの哲学に基づいてデザインされているゲームにおいては、哲学が遊び手個人の価値観より優先されると云ってもよいでしょう。

 『サイバーパンク2.0.2.0』が出てきましたが、このゲームは、

1:スタイルは実像をしのぐ(結果よりも在り様が問われる)
2:態度がすべてだ(誰もが自己を剥き出しにしている)
3:エッジを極めろ(どんなことでもギリギリの真剣勝負)

 という哲学を誰もが体現しなくてはならないゲームでして、その哲学の下に個人の価値観があります。極端な言い方をしますが、この哲学に従わない判断をしたPCを、GMは容赦なく切り捨てても構わないのです。その容赦ない世界観の中で、いかに哲学を貫くかがこのゲームにおけるトークゲームの主題と云えましょう。

 『サイバーパンク2.0.2.0』はデザイナー側が価値観を提示していますが、GMが自由に価値観を想定してよい(受け入れられるかは別にして)ゲームも多々あります。ぶっちゃけ、価値観など無着手なゲームなどいくらでもあります。
 
 『ナイトウィザード』の場合、表立っては強い価値観を提示していませんが、キャラクター属性の典型に基づいて設計されたウィザードのテンプレートがPC個人の価値観を具体的な形に統一させています。 すなわち、遊び手全体を統一させる価値観には希薄なれど、個々のキャラクターの価値観は一定にできているということです。ハンドアウトによるセッション運営技術に従って運営するのならば、それでも十分構成の一本道が可能となります。
 
 要するに「遊び手がこの場面ではどう考え、どのような行動を起こすか」を規定する「構成の一本道」には、『サイバーパンク2.0.2.0』のように誰であろうと構成を遵守すべきというゲームもあれば、『ナイトウィザード』のように必要な立場に立たされた者が遵守すればよいというゲームもあるということです。さらに、誰でもいいから遵守すればいいというゲームだってあるでしょう。

 どのゲームが一本道を遊ぶのにちょうど良いかは好みの差があるでしょう。具体的には「構成の対象が広いほど、GMの期待に応えなきゃならない要素が多い」ということを留意してください。
 
 例えば、『ナイトウィザード』はPC枠とハンドアウトによって、自分がどのタイミングで、どんなテンプレートとして、どのNPCとどう関わるべきなのかを読み取るべきであり、GMも必要な場面までに遊び手に理解させなきゃなりません。そのために遊び手本人同士がメタ視点の立場から協議しても何ら問題ありません。
 
 GMの中には自分がメタゲームをしていることを理解せず、「遊び手がこの場面ではどう考え、どのような行動を起こすか」に関して強い構成を要求するシナリオを書きながら、物語のサプライズを期待してそれらをできる限り秘密にしてしまう人もいます。
 そんなシナリオを書くGMが決まって想定するのは「プレイヤーたちが自分のシナリオを推理してくれる」という甘い目算です。そして、その目算の根底には構成作家としての自己愛があります。
 タネ明かしをしたくないGMと呼びましょうか。
 俗に吟遊詩人GMと呼ばれている方々です。

 構成を完璧に実行しようとすれば、遊び手に委譲することが不安になってきます。もし彼が裏切ったらどうしよう…、もし彼女が理解してなかったらどうしよう…、そう悩み続けた挙句、もう全て自己完結しちゃえばよいやと至ってしまうGMが出てきます。
 
 そりゃプレイヤーに伝えて実行させるよりは、自分の口で語った方が正確に構成は実行されますよ。実際それをやっちゃう人も、それこそどこにでもいたものです。超人NPCが全部自分で解決しちゃうアレ。
 まぁ、「TRPGシステムを書式にした構成作家きどり」であって、お世辞にもGMではないですな。それでGMだと言い張るのなら、

 GM(笑)

 とでもしておきます。
 
 世のGMには「遊び手がこの場面ではどう考え、どのような行動を起こすか」にまで考えを巡らしてシナリオを組む場合、プレイヤーとの語り合いの中で、いかにプレイヤーたちが上手にアクトできるように演出指導ができるかということを第一にマスタリングをして下さい。
 物語を朗読する楽しみなど、GMという役割の中ではほんの少量に抑えるべき調味料に過ぎないことです。食材に相当するのは遊び手と語り合い、物語を構築するトークゲームにこそあるのですから。 
posted by 回転翼 at 09:01 | TrackBack(1) | TRPG雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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