2009年04月27日

MOEシステムだって!? そんなことより数値修正をだな… 〜あまり推奨しないエンゼルギア2ndのプレイ前批評〜

 『エンゼルギア 天使大戦TRPG』の2nd Editionが発売されました。
 Melma!で活動していた時代に珍しくプレイ前批評をして、その後プレイして大いに触発された思い出深いゲームなだけに、いつかこの2ndもプレイしたい所。

 んで、1stをプレイした時の相棒は伊音だったんですけど、クーデレさんな伊音さんのデレシーンである「角(デコ)を触られて照れ怒る」がダーザインLv3から4に格上げされてるんです今回。
 システム面の変化はまだ分からないけど、そんなことは人に聞けばいい…。旧版の批評で「公式NPCとちちくりあうゲーム(そんな表現使わなかったけど、まぁそんなこと)」と評した僕としてはこの微妙な変化に興味が湧くのですよ。全体的にケシカラン度も上がってるし。

 いや、このゲームは戦闘に詳しくなることよりも、ちちくりあいの方が大事だと思いますよ。他のゲームでも似たようなことはいくらでもできることと、他のゲームでは味わえない独特のシステムとでは後者の方が興味津々。

 もちろん、読者の皆さんはちちくりあいなど目もくれず戦闘で卓を圧倒する研究に専念していただきたい。Yes、間違っているのは僕1人。戦力としての性能こそがTRPG第一。マンチキン誉め言葉。セッションは戦闘コマンドを研究し尽くし、最も優れた数値修正を弾き出した者が勝ち誇るだけに存在するのである…!
 ……いや、そんなお調子者がいないと知識盗めないし。
 
 AGはアガペーの規定値オーバー=退場というシステムですから、競技ゲームとしてはなるべく特技の使用のためにアガペーは抑えておきたい所。だけどシーンに出てよいロールプレイをしないことには強化ルールの源たるパトスチップが獲得できません。
 だから、そのシーンで確実に絡めるPCのみが登場してソロでロールプレイをし、シーンの演出から空気になってしまうようなPCをなるべく登場させないってのが賢きアガペー制御術になるでしょう。AGは他のF.E.A.R社ゲームのシーンよりも独演が多くなります。
 んで、何がよきロールプレイになり、何がPCを空気にしてしまうかはシーンに登場しているNPCとの関連性の深さ、NPCへの発言する権利の重さによって決まるかと。逆に言えば、NPC1人との関わりはPC1人が独占するのが望ましいということでしょう。
 当然ながら、PC同士の関わりもなるべく省略……システムとしては処理しないテーブルトークで消化するようにしなくちゃならないでしょう。これはプレイヤー同士がロールプレイを掛け合う機会はあるべきじゃないって方針が根底にあるのかもしれません。

 AGをNPCとちちくりあうゲームと評したのは、このゲームはNPCというイメージ相手にプレイヤー1人1人が独演する立場の中でどうロールプレイをするのかが攻略の鍵だと目しているからです。

 それでも数値修正こそが正しいTRPGである、NPCとちちくりあうなど痛い真似はしたくないという方は多かろうと思います。僕も推奨プレイとは言いません。
 
 つーか、みんなちちくりあいに期待して伊音さんの奪い合いになったらどうするんですか。みんなが戦闘性能だけを考え、秘伝の数値修正を見せ付ける。僕1人MOEに走って伊音さんとちちくりあう。みんなは帰宅して1人どうしようもなく痛い奴がいたと己の武勇伝に新たな1ページを加える…。
 僕が手に入れるものは…言うまでもないでしょ。


posted by 回転翼 at 09:01 | TrackBack(0) | TRPG雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年04月21日

東洋的スタンスって何だろ?

 ここ半月、Blog執筆をお休みして『ブルーフォレスト物語』を私的に再構築すべく、当作品が表現しようとしていた東洋的世界観がどのようなものなのか、インドや東南アジア関連の書物を精読しています。
 
 でも逆に考えれば東洋的の対句になる西洋的って何じゃいって考えにもなり、昔のようにファンタジーとは中世ヨーロッパが云々と説明していたけど実際は『指輪物語』を軸にアメリカ人(デーブ、まだ早いよ…)が考えた原型を、日本でグループSNEと出渕裕が『ロードス島戦記』として結実させた「純ゲーム世界」なわけで、それと対比させて西洋的、東洋的というのも何だか馬鹿馬鹿しく思えてきます。

 ひょっとすれば、当時のプレイ現場においては伏見氏のデザインとは関係なく、東洋的=非D&D・ロードス的ファンタジーとして受け入れられていたのかもしれません。
 D&D・ロードス的ファンタジーのスタンスは現在も『D&D4e』、『ソード・ワールドRPG2.0』、そして『アリアンロッドRPG』に継承されているようですし、今プレイするにしても要はこれらの作品がならないようなことをやらせるべきなのでしょう。

 話折るけど、『ウォーハンマーRPG』はダークファンタジーではないと思います。最後は混沌が勝つ世界で局地的勝利のために頑張るってのがスタンスですけど、混沌に勝つってよりはガザ地区みたいなグダグダな世界で苦難に負けず生き抜こうってゲームであって、ダークファンタジーが演出しようとしている終末への不安ってのはあまり感じないんですよ。不安どころかすでにヲワタな世界? パンク?

 話戻すけど、D&D・ロードス的ファンタジーと言ってみたけど、それがどんなスタンスかと云えば、リプレイの『ロードス島戦記』であったり、『スレイヤーズ!』などの当時はやったラノベであったり、あるいは『D&Dがよくわかる本』のリプレイであったりした、旅の風来坊たちが酒場で困った人から依頼を受けてよし迷宮に潜るか、ゴブリンどもを成敗しようかという「冒険者」のスタンスなんだと思います。

 この「冒険者」なるスタンスも根は七人の侍から水戸黄門、三匹の侍へと継承されている時代劇お馴染みのマレ人が到来するスタンスが染み付いているだろうし、そう考えればとっても純和風なスタンスなのかもしれません。
 そう考えると、東洋的とは西洋的ではないけど和風でもないってこと? もっとも伏見氏はツクダ版青森の末尾にて忠臣蔵の時代ではないと時代劇を批判しつつも、ゲームの原風景として日本の山野をイメージしていると記してあります。

 結局、物語のスタンスは各遊び手が好みの味付けにするものだから、プレイヤーに分かる範囲内なら各人が型にとらわれないよう語り口を考えていることでしょう。型の問題だから、一般論にはしづらい所もあります。

 でも僕としては和風ファンタジーとして形成された冒険者というスタンスは青森にはどうも似つかわしくないし、『深淵』のような運命主義的なのも違う、『ウォーハンマー』のようなパンク世界でもなく、『ナイトウィザード』のような選ばれし勇者ってのもしっくりこない…。
 
 インド、東南アジアの文献を読んでいるのも、時代劇めいた純和風な曖昧さが基調のファンタジーでもなく、騎士道物語のような使命と宗教的潔癖さを基調としたファンタジーでもない、僕自身が納得できる形で東洋的なるスタンスを模索しているのです。

 
 
posted by 回転翼 at 09:01 | TrackBack(0) | TRPG雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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