『チェインメイル』の中世風ルールの開発は、1969年初頭に開始された。1971年に発売された際にはこれにファンタジー版サプリメントが付いていた。中世ヨーロッパというのは比較的人気のある時代設定であり、『チェインメイル』のルールはプレイアブルでリアリスティック、これはいける……はずだったのだがしかし、フタをあけてみると購入者の10分の9はファンタジー要素のほうに惹かれるに至った。(斜線部引用)
そもそも、ガイギャックスのグループがCMを制作したのは、中世風MWG『グレート・キングダム』を1人1キャラで遊ぶためにあったと僕は推察しています(僕はCMの実物を確認していないので、多摩豊氏の『次世代RPGはこうなる!』に準拠しています)。現在のTRPGはおろか、D&Dのプレイ形式すら当初は想定していなかったのでしょう。
だが、おまけに過ぎなかったファンタジー版サプリに人気が集中し、その中からガイギャックスとは別のグループにいた「本物のファンタジーバカ」D・アーンソンがサプリを改良して初めてのキャンペーンを行い、そのプレイリポートが起爆剤となってD&Dのプレイ形式が始まりました。
TRPGは本来MWGを1人1キャラで遊ぶために設計されたものであり、販路をサブカル層に拡大するためにファンタジー物語の登場人物構図をTRPGのキャラクター構図に当てはめたのではないかというのがTRPGの設計経緯に関する僕の推察ですが、このガイギャックスの記事を読んだ感じでは当たらずとも遠からじってところです。
今までの考察から察する通り、僕自身もTRPGは1人1キャラのMWGが本質であり、TRPGはファンタジー物語の構図だけは搭載されているが、物語を作り出す創作活動そのものは本来の設計思想の中に織り込まれていないと考えています。
TRPGで物語調のシナリオを作り、皆で歓談をしながら物語を作るゲーミングの作業は、あくまでも幕間に行われた余興として発展したものであり、TRPGは物語創作を目的として作られたゲームではない…。
実の所、僕がTRPGの戦闘を語る時はこうした推察から、戦闘システムと物語を別次元の存在と位置づけて語っていました。
だが、アーンソンのプレイリポートから発展したTRPGの物語はやがて『ドラゴンランス戦記』など小説の題材としてマルチメディア化し、ゲームの本質とは裏腹にTRPGはゲームと物語が一体化した遊びとして定着していきます。それが当然の認識としてTRPGを知る人にとって、TRPGの本質は物語再生装置であり、戦闘の方が物語を演出する余興であると位置づけするでしょう。
そこら辺の認識違いで、温度差や食い違いが生じることは十分予測されます。
D&DやT&Tなどの古式TRPGを愛好するTRPG者には、ダンジョン探索のみに集中し物語は添え物程度と考えるダンジョンハッカーな人が多くいます。逆にTRPGは物語再生装置だと考える人の中には、物語を創作する対話ゲームこそが本質であって、戦闘はなくてもよいという人もいます。
その両方が1つの方向性としてアリなんですけど、多くの人は1人1キャラのMWGも楽しいし、物語の対話ゲームも面白いからどっちがあってもよく、難しいこと抜きにしてそんなごった煮な遊びがTRPGなのだと感じているのでしょう。
TRPGをウォーゲーム主体で捉えている僕は、CMからD&Dに移行するまでのデザイン変遷を推察することによって、TRPGにとってウォーゲームが設計思想の段階でいかに密接な関係にあるかを示す試みをしました。
TRPGは物語が主体だと考えてる人、あるいはTRPGと物語をごったにしている人は、はたしてあなたたちが主題としている物語と、それを執り行う対話ゲームがTRPGの設計思想に十分組み込まれているのか、今一度再考してほしいのです。
あなたたちはデザインの話題をしているのか。
それともテクニックの話題をしているのか…。
肝心なのは、デザインとはただ利用することを目的に使用する一般ユーザーにも作る目的に沿った使い方をさせるためにあるのに対し、テクニックは使用意図に賛同した者のみが使用する余技であるということです。
僕はまだ物語や対話ゲームはデザインではなく、テクニックの領域にあると思っています。そういうことが好きな人が使えばよいという程度のもので、下手であっても問題なく遊べるのならデザインの領域ではないでしょう。