2006年01月22日

対戦という名の夢魔 〜非電源ゲームのご近所付き合いを通してのTRPGの「勝敗」〜

 東京は雪でした。
 積雪9cm程度なのに雪かきでヒィヒィ言ってるようじゃ軟弱ですな。

 今日はベルスポTODAY-tabloidさんの話題をちょいとTBです。とか言っても、批評とかじゃなくて人様のお話に便乗して自分の考えをまとめてみただけですけど。

 お題は「TRPGの勝敗って、一体どこからそんな発想が来るのか」です。

 TRPGに勝敗はあるのかとは、彼是30年ぐらい長く問われ続けてきた問題です。
 それくらい、明瞭な解答が出ていないことなのでしょう。1つのゲームにはそれぞれ1つの公式見解があるし、1つのゲーマーにはそれぞれ1つの願望があります。

 実の所、TRPGの勝敗には狭義と広義があります。
 「狭義の勝敗」とは、TRPGに近い立場にいるボードゲーム、カードゲームなどの競技ゲームの領域から見た勝敗。「広義の勝敗」とは人間の営みの中での収穫、達成感、満足感などの幸福を得たか失ったかという具合です。

 今回は「狭義の勝敗」です。前世紀ではもっぱらこの領域が問われました。
 おそらく「広義の勝敗」で論じているTB先のがちゃさんに申し訳ないんだけど、僕は今まで非電源ゲームの領域からTRPGの勝敗を見ていたわけで、ボードゲームやカードゲームなどの「TRPGとのご近所さん」との付き合いを意識せずには語れないんです。

◆◆◆
 
 競技ゲームとしての勝敗とはどんなもんでしょうか。
 簡単に云えば「腕比べ」であり、ある競技企画のもとに同じ立場で力量を競い合い、競技者の順位をつけるのが競技であり、その順位の優劣が競技ゲームの勝敗となります。基本はデュエル(決闘)と同質であり、力量の優劣が競技者の生存よりも重視されます。

 だから、競技ゲームでは参加者は対立関係にある必要があります。
 
 TRPGは参加者が対立関係にある必要がありません。
 むしろ徒党を組むのが基本で、対立どころか反目ですらトラブルであるという認識が一般的です。「あるPLが別のPLのキャラを殺した」などいう例は稀であり、多くの人は否定乃至シナリオ上の必要悪ならしぶしぶ許容でしょうが、それを賞賛・奨励する人は皆無でしょう。
 だが、そのTRPGに、「PC同士が戦い合い、最後に生き残った人が勝利です」なんて書いてあったら、PC同士の殺し合いは競技ゲーム化され、PLはたちまち他者のPCを殺しにかかるでしょう。

 TRPGでPL同士が対立し優劣をつけ、ゲームによっては他者PCを殺して退場に追い込む……それがゲームとして当たり前のことになったら今のTRPGゲーマーはどう捉えるでしょうか。物語を堪能して、みんなで楽しむのがTRPGだと信じている人にとっては悪夢でしょう。

 ならば、TRPGっぽいけどプレイヤー同士が対立しデュエルするゲームなんてのがありますが、どうでしょうか。
 『スピタのコピタの!』でも紹介されたファンタジーボードゲーム、『ルーンバウンド』がそれです。
 遊び手は英雄キャラを操り、世界を旅しながら数々の試練をクリアして経験値やお金を得てキャラクターを成長させ、邪竜マーガスを倒すというゲームです……これだけ聞けばTRPGですよね。だが、マーガスを倒して真の英雄となれるのは1人のみ。いくらTRPGに似ているとはいえ、このゲームには「真の英雄=勝者」と「英雄になり損ねた者=敗者」という構図が冷然と存在します。「みんなが勝者」なんてことはありません。英雄になり損ねた者は等しく敗者として「orz」する宿命なのです。
 日本語版も出ていて、TRPG好きな人ならすんなり入っていけると思いますが、このゲームをプレイすれば「勝敗の存在するTRPG(っぽいゲーム)」というのがどんなもんか理解できるかもしれません。
 対立し競技する仕組みのないもの……TRPGには勝敗なんてものは存在しないのです。

 それでも、TRPGは競技ゲームとしての勝敗があるのかは長らく討議され続けてきました。
 各ゲームごとに丁寧に説明しているのはあたかも、「みんなゲームには勝敗があって当然だと思ってるけどTRPGには勝敗がない。僕たちって異端?」という原罪でも抱えているかのようです。僕にしたって、ボードゲーマーやTCGゲーマーから「TRPGって勝ち負けあるの?」と聞かれる夢魔に何度も魘されたものです。

 草創期の、とみにアメリカではまったくの正解でありました。

 中世風ウォーゲーム『チェインメイル』を元にガイギャックスやアーンソンが物語的要素を取り付けてできたのが『D&D』である通り、草創期のTRPGはウォーゲームの派生形という位置にいました。当然、遊び手のほとんどが勝敗はあって当然というボードゲーム・ウォーゲーム愛好者です。
 そういう人たちに、物語とかいう以前にまず「ゲームのすべてに勝敗があるわけがない」ということを理解させなければなりませんでした。『D&D』の場合はグレイホークやフォーゴットンレルムなど、物語へのトリップ感を喚起させる方向で強化を図りました。
 結果として『D&D』は多種多様な物語世界を生み出した反面、DMvsプレイヤーという「1人の権力者に徒党を組んで立ち向かう」形式のウォーゲームとして遊ばれた所もあり、競技ゲームからの脱却は完全ではありませんでした。

 アメリカにおいてTRPGが競技ゲームから一線を画すために、理論ではグレッグ・コスティキャン、市場ではWoDの登場を待たねばなりませんでした。

 日本でも米国と同じく、草創期のTRPGはウォーゲーム・ボードゲーム愛好者の間に広まり、そこでも「勝敗を決するのみがゲームにあらず」ということを説明する必要がありました。 
 だが、日本にはファミコンなどのビデオゲームが存在しており、「勝敗」ではなく「面とステージクリア」という形式のソリティア(1人遊びゲーム)が定着していました。しかも『D&D』日本語版と同時期に『ドラゴンクエスト』が発売されており、「RPGにはクリアはあっても勝敗はない」という認識が初期の段階からありました。つけ加えて、ライトノベルやゲームブックから参入してきた非ウォーゲーマー層の増加もあり、ウォーゲームからTRPG……すなわち「勝敗あって当たり前」の世界から「勝敗なんてない」の世界に入る人は10年20年のスパンを経て、極めて稀になりました。

 こと日本においては、RPGとは何なのかという初期認識をコンシューマーゲームで得ている人は圧倒的多数、リプレイで大体の要領を掴んでいる人もまたかなりの割合なので、草創期のウォーゲーム出身者を除けばTRPGに勝敗がないことを説明するのに特に障害はありませんでした。 

 ただ、対戦格闘ゲームが流行った頃にはデュエルの楽しさにドップリ嵌ったTRPGゲーマーが少なくとも僕の周囲では大量発生しまして、「やっぱり勝敗がないなんて物足りない!」考えるようになり、TRPGでも勝敗の存在を肯定……「対戦」の観念を導入するべきだと主張するようになりました。
 挙句の果てには、TRPGでパーティを組むのは負けたらメソメソするお子様ゲーマーばっかりだから、仲良しごっこしてあやしているに過ぎないなんて言い出す始末。

 そういう人がTRPGを「こんなのゲームじゃない」と脱退しないよう、「内堀」として「TRPGは勝ち負けを競うゲームじゃないんだよ」と説明する必要が生じています。
 
 まぁ、今世紀に入ってからはそんな「浮気者」は激減しましたけど。

 2006年現在を顧れば、TRPGが競技ゲームとしてのデュエルと、その結果としての勝敗の観念がないことが脆弱性につながる外的要因……TRPGを異端視する他競技ゲームの存在はほぼいなくなったと見ていいでしょう。
 その一方で、TRPGゲーマーが「対戦」に憧れてどっかヨソのゲームに転向してしまうという内的要因に関しては目下危険な敵がいないので問題視されてませんけど、また何時「TRPGで仲良しごっこなんて子供っぽい。対戦やろうぜ」と息巻くバカが現れるかと悪夢に魘されている僕としましては、ねぇ…。

 いつまでも対戦格闘へのルサンチマンが消えない僕がいます。
 今日の所はorzってことでどうでしょうか。
posted by 回転翼 at 09:01 | TrackBack(1) | TRPG雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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Excerpt: ~dQ[tTRPGusv~
Weblog: Antireca
Tracked: 2006-03-20 15:07
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