TRPGは「勝敗がないゲーム」と最初に云った日本人は誰だか僕にも分かりません。ただ、『D&Dがよくわかる本』にて黒田幸弘氏も明言しているので日本TRPG初期(新和版D&D発売時を基準)においてからそういう論説は存在していたようです。86年発売当時はRPGはおろかソリティアゲーム(1人遊びゲーム)自体がマイナーな存在であり、プレイヤー間のwin-loseの関係から離れた形式のゲームを出すのには先進性に問題があったのかもしれません。ましてや、D&Dを売り込むメインの購買層たるウォーゲーム愛好家たちは競技性の高い……win-loseの格付けに厳格なゲームを好む人たちです。彼らに対し、「勝敗がない」と明言することは曖昧な表現で遊び方を誤解されることを防ぐ効果が期待されるわけだし、悪くない手段ではあっただろうと思います。
だが、ミニチュア・ウォーゲームから派生した『D&D』は単にプレイヤー間の競技ではないのでプレイヤー間による勝敗の位置づけがないというだけで、プレイヤーvsDMによる競技になる可能性も孕んでいました。おそらく、自由度の高いTRPGは製作過程において『ディプロマシー』のように狐と狸の化かし合いになる「荒れた」プレイが頻発したのでしょう。新和版D&Dのダンジョンマスターズハンドブックにも、プレイヤーはモンスターと戦っているのであってDMと戦っているのではない、唯一の目的は楽しむためにあるのだからと強調してあります。
実の所、D&Dはプレイヤー間の勝敗はなくとも、「生き残るor死ぬ」と云う点でwin-loseの関係は残っており、しかも大局的には楽しむことが目的という大前提があるだけに誰もゲームの成否を断ずる存在がなく、裏面にある「勝った気分」「負けた気分」だけが残るわけです。
この時点でTRPGが売りにしてきたwin-winの関係というのはゲームがシステム的に保証しているものではなく、遊び手の相互理解によって発生する、ジャッジメントとは別の役割であったことに気付くべきであったのかもしれません。「TRPGに勝敗はない」とは明確な勝者敗者の格付けが目的のゲームではないというだけであって、誰もが平等に勝った気分を味わえることではないのです。
さらに、皆で楽しむという大前提によってwin-loseの形式は表面上はなくなったが、経験値配分などによる活躍の評価査定、死によるゲーム脱落などによってwin-winの形式は否定されており、実際にはhappy-unhappyの関係に転化しているわけです。
TRPGにだってうまくいかなくてマズい思いすることがある。
「TRPGに勝敗がない」という言葉はそれを伝えきれなかった感があります。TRPGがウォーゲーマーだけの狭い層に受け入れられたマイナーゲームだったら、大した影響がなく浸透したかもしれません。
だが、D&Dと同年に発売された『ドラゴンクエスト』によって想定外の層にRPGの存在が知られました。ドラクエは完全にloseのない「好きなペースで進める双六」めいた形式のソリティアゲームであり、多くの人がこれをRPGだと認識したが上にTRPGに触れています。さらにTRPGがライトノベル誌やゲーム総合情報誌にリプレイによって売り込みをした経緯から、ゲームとは無縁のライトノベル愛好者たちもTRPGに参入してきました。
要するに、日本におけるTRPGの発展は想定外の層が参入してきたからに他ならないのです。彼らはウォーゲーマーなら弁えているであろうwin-loseまの形式……競技ゲームの実態を十分に把握しておらず、むしろ物語再現装置としてのTRPGを望んでいました。
物語再生装置としてのTRPGはいわばライヴであり、ファンが集まる以上happy-happyの形式が自然です。
TRPGがwin-winではなくhappy-unhappyであることに無自覚だった人たちは、このhappy-happyが目的で参加してきた人たち相手に失敗を重ねることになります。ウォーゲーマーたちが自然に受け入れていたwin-loseはビデオゲーム・ライトノベル出身者たちには異文化であり、「負けは仕方がない。これがゲームだ」という常識は、happy-happy目当てで参加した人にとって「楽しみを奪った」ことになります。
だが、loseは結果ですから覆すことはできませんけど、unhappyはあくまでも心象ですからゲームとは関係ないパーティの参加者同士として庇い合うことは可能です。「今回のゲームは芳しくない結果だったけど、僕たちはゲームを楽しめたのだからいいではないか」と宥める技術が生まれ、そして必要とされてきました。
これがゲーム管理者/ゲーム競技者、ストーリーテラー/ゲーム演出者に続く第3の役割であるパーティ主催者/参加者の骨子であると僕は考えています。
ゲームに成功し、シナリオに成功すれば勝手知ったるゲーマー同士……すなわち身内同士ならうまくいきます。だが、ヨソからのゲストを交えた「外に開かれた」活動としてTRPGを位置づけたいのであれば、パーティとしても成功しなければなりません。主催者側はもてなしの心を、参加者側も楽しみ方とマナーを心得なくてはなりません。
最近、『アルシャード・ガイア』のサプリメント、『エブリデイ・マジック』に掲載されたシナリオクラフトのシステムが、製作者側が目指している「いきなりセッションがやれ、単発でもキャンペーンでも思いのまま、気の合う仲間が集まればGMなしでも遊ぶことができる」システムであるのか、やや否定的な立場から注視しています。
僕が理想とするGMなしでも遊べるTRPGとは、コンベンションだけではなく、それこそ何か遊ぼうかという仲間がいれば嗜好・経験を問わず、とにかく集めるだけでプレイが可能。GMはジャンケンで決めて、TRPG未経験者が請け負っても問題なし。そして、短時間に参加者全員がTRPGの基本的な流れ……空気を読めて、いち早くゲームを楽しみ合う環境を構築できること、しかも経験者の熱意ある教導を必要とせずに。
云わばTRPGのパーティゲーム性の強化です。
その点を弁えると、シナリオ作成と運営に関する手法であるシナリオクラフトは従来のGM課業への補助輪であり、そこには「気の合う仲間」の存在が不可欠になるでしょう。それこそ、全員がTRPG未経験者で初見の間柄でもプレイ可能だとは信じられません。
『エブリデイ・マジック』にしても未経験者が学習する目的で使用するのもよしと云っているであって、未経験者でもhappy-happyになれるとは書いていません。そもそも、学習を受け入れる未経験者・初心者は「入門者」(F.E.A.R社が想定している初心者)であって、ただどんなゲームか経験してみたいという「初訪問者」(僕が想定している初心者)とはニュアンスが違います。
そこら辺が勘違いされ、このシステムさえあれば誰でもTRPGを主催でき楽しめるなどと喧伝されたとしたら、案外このシステムは失敗に終わるかもしれません。思わぬ層からの参加者が、思わぬ批判をしてくる可能性は「TRPGに勝敗はない」の語弊を見ても、十分ありえることです。
TRPGは一部の物好きのみに知られているマイナーゲームだと捉えるのは早計です。『ナイトウィザード』がアニメ化される(TRPGではなく、エロゲ原作だと思うんですけど)ことですし、いつ想定外の層にTRPGが知られるは予測できないところがあります。
某有名2ちゃんねるスレッド紹介Blogに、RPG風の運営をするコスプレ喫茶を扱ったスレが掲載されたのだが、2ちゃんスレやBlogコメントにも、驚くほどにTRPGを知っている人が書き込みをしており、それも該当コスプレ喫茶より好意的に見ているのを見て、TRPGの振興を目的として活動しているアマチュアとしてはまだ捨てたもんじゃないと勇気を与えられた思いです。
だが、その評価に応えられる体制が今のTRPGにあるのか、一抹の不安があります。
『ナイトウィザード』アニメ化はTRPGの名を再び世に知らしめる効果があるある反面、想定外の認知によって業界が荒れることも考慮しなければなりません。
しつこいようですけど、『ナイトウィザード』はエロゲでもあるんですからね。それに、昨今のアニメはエロゲ原作のキャラクターエピソード集がハバをきかせています。
現在のエロゲはビジュアルノベルと銘打った紙芝居が主流ですので、エロゲの骨子たる「キャラ萌えビジュアルノベル」の要領でTRPGに参入してくる人がいないとは限りません。
そのとき、TRPGは正しくその本分を伝えることができるでしょうか。言葉の面でも、準備する必要があります。






