TRPGのために勉強をする人はとても多い。
よいシナリオのため、よいロールプレイのため、あるいはゲーマーとしての見識を磨くために盛んに書を読み、エンタメ作品に触れ、言葉を文字を吐き続けます。何よりも、日々思い悩むことはTRPGのことばかり。
だが、その功績がなかなか残らないのがTRPGというもの。
どんな美しい物語を構築しようとも、作品として後に残らない。リプレイにすれば形だけは残るかもしれないが、彼らがプレイで味わった充実感や思い出を第三者に伝えるのは困難極まりない。
優れた見識やロールプレイで、ゲーマーとして大いにリスペクトされたとしましょう。だが、ではその人がその実績をぶら下げて突然ホームを離れて見知らぬ土地のセッションに参加したら、彼は実績に見合っただけの敬意を払われるであろうか。
そもそも、もう使用することはないであろうシナリオやキャラクターシートを全部丁寧に保存している人はどれだけいるでしょう。
そしてもっとも根源的なこと。
あなたはどれだけのプレイを忘れてきましたか。
◆◆◆
TRPGはメディアの側面があります。
自分の創作意欲や見識をシナリオで、キャラクターで描くことができます。
キャラクターを動かし、演技することで肉体表現をすることもできます。
だがTRPGはその創作活動を作品として形に残すよりも、思い出として消費する方向に動いています。砂の曼荼羅や雪祭りの雪像のように、完成品を成果として尊びその保全を目的とする美術ではなく、創作活動に打ち込む者たちの精神的充実感にこそ意義があるという精神文化に近い性質を持っています。
逆に言えば、作家、表現者、知識人としてメディアで名を成したいと望む者にとっては精神主義的なTRPGのあり方は我慢ならないものです。メディアを望むということは、自分たちの治績が作品なり研究論文なりといった形で古今東西問わずリスペクトの対象になってほしいという作家願望があるってことです。
そこにジレンマがあります。
おそらく、これは「ゲーム」という文化の持つ特性自体が、知識を記録し作品を後世に残す「メディア」の特性とは相反する性質を持った存在なのではないでしょうか。
その考えを補完する作業に現在苦戦しています。
現在の考察として、TRPGでは重要か害悪なのかで意見が分かれる「ノリ」や「空気」をニュートラルな立場から定義し直したものが、そのジレンマを解く鍵になるのではないかと考えています。
ただ、今日は眠いので完成は断念。






