TRPGには気付きもしない些細な仕組みがたくさんあります。
それは機械に紛れているネジのようなもので、あることに気付くのも大変ですが、それが機械の中でどんな役目をしてどれだけ必要なのか気付くのも大変です。大抵がプレイに影響しない石ころのような物ですから、ついスルーしてしまいます。
そこをスルーせず、磨き抜かれた知恵として活かすには、愚直に考えを巡らし文字にするしかありません。
今日は前回出したリアルプレイの話。
TRPGに限らず、RPGはロールプレイを自然受容していることを前提にプレゼンテーションをしてないかと最近思いつきました。物語上のキャラクターの視点から、こんな冒険ができますよ、こんなストーリーが楽しめますよと誘うわけです。
つまり、RPGはいかなるゲームを楽しませるか以前に、いかなるロールプレイを楽しませるかに重点が置かれているのです。TRPGならどんな作品にもある「はじめに」の欄を見ても、ロールプレイをする媒体としての売りを語るデザイナーの方が、ゲームとして遊び手本人にいかなる楽しみを提供するかという売りを語る人より多いようです。
確かにロールプレイの方向性は多種多様です。
だが、遊び手本人がプレイして得られる遊び手としての実感は、ロールプレイ同様、多種多様を売りとしているのか……。
もちろん、あるなしの度合いは人それぞれの視点次第です。
問題はそれに意識的であるのか。プレイしている遊び手本人は今どんな気分なのか、何を思い何を楽しんでいるか、ロールプレイを突き放して考えることがTRPGに携わっている人たちが意識しているか否かということです。
ロールプレイを夢だとするならば、リアルプレイは夢見る行為です。いかに甘美な夢なのかを語るのは結構なのだが、はたして夢を見ようとするのは楽しいことなのか。
恥ずかしいことではないのか。
下らないことではないのか。
時間の無駄ではないのか。
夢が甘美であっても、夢見る人が苦そうな顔をしていては誰もついてこない。
TRPGだと、例えばいかにアニメ調の萌えキャラがロールプレイできる世界を用意したとて、遊び手が操作するのに苦しむ……魔法少女物好きのコスプレ少女なんてキャラを嬉々として演じる男性など、傍目ではキモヲタでしかない……作りをしていては作品としては失敗作ではないのかということです。
これがロールプレイ自然受容の考えでいけば、美少女萌えゲームで美少女キャラを選ぶ人は例外なく美少女ロールプレイをしたくて、自分の身などどうでもよいから、とにかく美少女ロールプレイに耽溺したい人なのだから、彼・彼女の事情なんて考えなくてもいいよということになります。ロールプレイ自然受容の前提から虚飾を剥ぎ取れば、浮かび上がるのは「遊び手とキャラの同一視」です。
もちろん、遊び手が自分を忘れてロールプレイに耽溺しているだけでは問題ないんですけど、TRPGって公共の場でプレイすることも多いし、ヲタクATフィールド張られては困るのですよ。
まぁ、ヲタクの世界はATフィールド当たり前の世界ですけど。
そこを当たり前と思ってしまっては外に語る言葉を失います。
自分自身が楽しければ周囲はどうだってよいと考えるのは勝手です。だが、TRPGはソリティア(1人遊び)ではなく、複数の人が時間を割き手を取り合って楽しむレクリエーションである以上、楽しさを共有するのは絶対条件です。
リアルプレイを意識するならば、遊び手本人がロールプレイが原因で諍いを起こしたり、後で気まずい思いをしたりするのはマズいゲームです。TRPGは卓の仲間が楽しい実感を一体とできることがリアルプレイの立場からして好ましいと云えましょう。
さらに僕は、TRPGが外に語る言葉を持つために「岡目から見たゲームプレイ」を付け加えたいと思います。すなわち、観客としてリアルプレイを見て楽しめるかも、TRPGがタコツボ環境から一歩抜け出すために必要な視点ではないでしょうか。
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