2009年02月08日

どこで面白いと実感できるか 〜TRPGとボードゲームが与える期待感の差異〜

 前回、TRPGのルールブックは読み物であり、TRPG者はまず読者として1人の世界からTRPGを想定するものだと述べました。それが集団遊戯であるTRPGにとっては齟齬を生む一因になっていると、批判的な見解も示しました。

 だが、欠点があれば利点もあります。
 TRPGはプレイをせずとも、読み物として興味を引かせればTRPGを「面白そうなもの」として認知させることができます。他の非電源ゲームにはそのような期待感を誘発する仕組みに乏しく、TRPGの特性として記すべきものといえましょう。

 そんなわけで、今日はTRPGが読み物である利点について。
 あるいは、TRPGとボードゲームが与える期待感の性質の違いについて。今回はTRPGのみならずボードゲーム(以下ボドゲ)をも批評の対象にし両者を比較するのですが、ここはTRPG系Blogなので公平さに欠く懸念があります。TRPGを擁護するがために、無用にボドゲを卑下する意図はないことを了承いただきたい。

◆◆◆

 TRPGとよく比較されるゲーム媒体として、同じ非電源ゲームであるボードゲームが挙げられます。
 TRPGもボドゲもゲームである以上、プレイすることを前提として作られているのは当然の事。ですが、共に1人で遊べるゲームではありません。機会がなければ、TRPGのルルブもボドゲの駒・盤・チップ類もゲームとしての役割を果たせない「道具」になる点で両者は共通しています。

 だが、TRPGはゲームであると同時に読み物であるのに対して、ボドゲの小道具類はゲーム以外に使う役割を持っていません。せいぜい眺めたりいじったりする程度で、プレイ時以外にもゲーム活動に関われる機会をボドゲは与えてくれません。むしろ、散逸を避けるために収蔵されるのが定め。
 要するに、ボドゲの小道具類は競技ゲームとしての専門化・抽象化が進みすぎて、それ以外の用途がまるでないってことです。プレイ時以外にはただの置物同然なのです。

 対して、読み物であるTRPGはゲームである以前に読書をして楽しむことができます。TRPGのルールブックはシナリオを着想して物語を引き出せるように、自らが物語のTip集になっているからです。事実、ルールブックを読み解き、システムを理解したりイメージを発想する読書活動もまた、ゲーム活動にとって大事なこととされています。

 これがいかなる差を生むでしょうか。

 ボドゲへの期待感は対戦者が想定できることが大きく影響してきます。何だかんだ云って、ボドゲは競技ゲームですから対戦者がどう行動し、対して自分はどう行動するのか、常に対戦者を通してゲームの面白さを計ります。
 これは特にサークルやイベントに出入りしているわけではなく、対戦者のことなど思い浮かべずに、ただ面白そうだからと買ってみた人にはボドゲが与える期待感は驚くほど短命だってことを意味します。

 すなわち、ボドゲは対戦者が常時確保できる人でなければ、事前に面白いだろうなと意識することすら困難なのです。

 TRPGはいつでも取り出して、物語を楽しむことができます。
 TRPGはプレイをしていなくとも、物語というプレイに直結した楽しみを遊び手に伝えることができます。
 TRPGの面白さはプレイをせずとも伝えることが出来、例え生涯プレイする機会に恵まれずとも、購入者には何らかしらの収穫を与えることが可能なのです。

 プレイしなければ面白さを伝えられないボドゲと、プレイをしてない1人の時でも本質ではないが面白さは伝えることができるTRPGとでは、遊び手に与えるモチベーションは完全に異なるのです。

 ボドゲは買ったらすぐプレイして、競技を楽しむ環境を整えなければすぐに熱が冷めてしまいますが、TRPGはプレイをせずともじわりじわりと遊び手の中に物語が作られ、プレイするまで期待感が増え続ける性質を持っているのです。

 その代わり、ギミックもゲーム目標も単純なボドゲはゲームを成立させるコンセンサス(合意)が少なく、ルールに忠実でさえあればゲームが成立します。
 対するTRPGは前回述べた通り、読み物として1人でイメージした内容と、ゲームとして複数で行われるプレイとの間にギャップが発生してトラブルが絶えないという欠点があります。

◆◆◆

 TRPGは物語を取り入れることによって、情報媒体に宣伝をするメディアとしての力を得ました。TRPGを原作とした漫画、アニメ、小説など多方面に宣伝を行い、単なるゲームコミュニティの幅を超えた物語文化の旗手として様々な趣味趣向の持ち主を受け入れてきました。
 その結果、TRPGがどのようなゲームなのか自体、その時代ごとの環境によって劇的に変化するようになりました。かつてMWGの派生でしかなかったTRPGは物語の再現が重視され、フロアタイルやミニチュアも必須の道具ではなくなり、ストーリーテリングを基調とした対話ゲーム中心の作品も登場しました。

 対して、単体では情報を提供することができないボドゲの世界は『D&D』が登場した当時のまま、劇的な変化を遂げることなく孤立した環境を維持しています。

 ボドゲの世界からTRPGを見ると、その宣伝力は羨ましい限りです。
 ボドゲはどんなに素晴らしいゲームがあろうとも、ボドゲ自体が面白いと理解している人しか興味を示さない……愛好者だけの本当に趣味の世界でしかありません。
 TRPGはボドゲから来た人、MMORPGから来た人、ライトノベルから来た人など色々なバックボーンを持った人が集う総合文化になっています。その遊び手の多様性はボドゲでは引き出せません。

 プレイリポートなどで楽しさを伝えることは可能ですが、ボドゲを知った所でコミュニティの外にいる人にとっては遊ぶ相手がいなけりゃただの置物。遊び手を捜さなければ面白さを実感することもできません。
 物語を与えることで1人でも楽しめるTRPGに比べれば宣伝力が弱いわけで、市場の拡大には大きなネックとなっています。

 あるいは、劇的な変化などボドゲ界隈は忌まわしいと思っているのかもしれません。『クルード』など50年以上前のゲームが未だに現役でいる界隈ですから、文化など大きな看板など背負うことなく、愛好者だけでガラパゴスを築くのが丁度よいのかもしれません。

 逆にTRPG界隈は、物語文化に触れ合える交流の場を作るプラットホームとしての役割が大きくなりすぎて、もうガラパゴスには戻れないかもしれません。仮にすべての副次的な宣伝を止め、すべての物語要素を廃した無地のシステム群のみでTRPGを売り出したとしたら、市場規模は非電源の同人サークル1つ分ぐらいにまで縮小するでしょう。

 物語のないTRPGなど、盤の駒の装飾やイラストを廃した無地のボドゲをプレイするのと一緒です。そんなもん、面白いと分かっている人しか興味を示さないのです。
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2009年01月26日

気のいい人しか参加できないゲームにあらず 〜TRPGにおける善意とコンセンサス〜

 「TRPGは悪意に弱い」という言葉があります。
 TRPGはみんなで歓談をしながら物語を楽しむのが醍醐味なのですが、誰かが協調を拒めば物語が台無しになる脆弱性を孕んでいます。大抵が1人よがりで譲ることを知らない性質の人が悶着を起こしてムードをブチ壊すのが常で、悩めるTRPG者は各々解決策を模索しているわけであります。

 もちろん、信頼と強調で成り立つ世界をブチ壊す暗い楽しみってのはあります。善男善女を誑かしては罵倒し、戸惑わせ狼狽させるのが無常に楽しいという人だっていることでしょう。
 そんなのは便所の水味わってもらうしかないので論外。

 そんな確信犯を除くと、TRPGが抱える問題児の多くがTRPGにおけるコンセンサス(合意)に関する認識が不足している人たちだと僕は考えています。彼らにとってTRPGはまだ1人遊びの枠組内であり、レクリエーション活動であるという意識が希薄なのではないでしょうか。

 あるいはTRPGはコンセンサスが未整備なのか…。

 そんなわけで今日はTRPGにおけるコンセンサスの話。

◆◆◆

 TRPGにおけるコンセンサスとは、
 「ゲーム活動を成立させるために参加者が遊び方やマナー、スケジュールについて取り交わす歩調合せ」
 といった所でしょうか。
 TRPGはシステムを把握し、ロールプレイを駆使しただけではセッションは上手に遊べません。遊び手同士が連携しチームプレイをこなすことで物語は個人の妄想を超える真価を発揮します。もちろん、技術以前に好きなゲームを肴に歓談をすること自体、愛好家として幸福であることでしょう。

 問題なのは、良質なパーティは技術でも特性でもなく、たまたまメンツが全員話好きで人のいい連中だったからに過ぎないってことです。
 逆に云えば、メンツの相性が合わなかったならば、もうゲームを破綻させない理由などなくなるってことです。ゲームがどう台無しになろうが、「相手が悪かった」で誰も傷つかない。誰も失点をかぶる心配もない。
 もちろん、ルール上の欠陥ではないからベンダやデザイナーにとっても失点ではありません。勝手に崩れた卓の問題ですし、誰も知ったことではないというのなら捨て置くのみです。

 正直、TRPGの問題児はしばし「ゲームをしない」という選択肢をとります。我慢をしてゲームをするよりは、自分を譲らないまま卓を蹴る人も多くいます。
 TRPGをプレイする機会も時間も有限ですし、これだけ多様なTRPG作品がある中で呼びかけずとも卓が立つことはコンベンションでは幸運と云ってもよいはずです。その機会を蹴ってでも、コンセンサスを蔑ろにする価値はあるのでしょうか…。

 これがTRPGがまだ1人遊びの領域内だと思っている人ならば、ありえると僕は考えています。
 TRPGはGM1人、プレイヤー数人で遊ぶゲームなのは常識ですが、それはあくまでMWGから派生したRPGというゲームシステムを遊ぶための常識。それとは別に、遊び手たちの歓談から生まれる……ゲームプレイとは別の意趣から生まれた……物語を楽しむという点に関しては1人でもできます。
 そしてほとんどの人が、まずTRPGを読み物として触れます。
 他の遊び手のことなど想定せず、自分1人の世界からTRPGは始まるのです。
 
 TRPGのルールブックを読めば、TRPGが読者にどんな物語を与えてくれるかばかりが示され、物語を作るためにどんなことをしなければならないのかを示している箇所はわずかです。
 ましてや、集団が物語を分かち合うために他の遊び手とどう付き合えばよいのか、集団で作る物語の特性は何か、個人で夢見る物語と集団で作る物語との違いは何かなど、プレイ現場で繰り広げられている物語の実態をルールブックがどれほど具体的に示しているでしょうか。

 自分1人が活躍し脚光を浴びる物語しか想定せず、TRPGを自らの物語を披露し賞賛し合う品評会のようなものとゲーマーが思い込んでもおかしくない要素がTRPGのルールブックにはあるのではないでしょうか。
 そして自分1人が活躍できるよう作ったキャラクターを用意し、セッションに参加して私はこれこれこんな物語をしたいのですがやってもらえませんかとくるわけです。

 そこまで、彼彼女にとってTRPGは読み物として触れた自分1人の物語であり、システムは自分物語を再現する装置であり、GMは物語を引き出してくれるカウンセラーであり、他の遊び手は自分物語を賞賛し自己を擁護してくれるエヴァ(アニメ版だから「ヱヴァ」にあらず)の「おめでとう拍手隊」なのです。

 もちろん、そんなはずありません。
 GMにはGMの、他の遊び手には遊び手の物語があり、語らいの中から誰のものではなかった「みんなの」物語が生まれます。多くの遊び手はみんなの物語を作る楽しさを知り、そのためにどう自分を変えるべきなのかを学びます。
 自分の活躍を主張するばかりでなく、他者の活躍を引き立てること、場を和ますために他者と掛け合いをすること、連携を取ったり食い違いや誤解を解くために話し合うことなど、個人の遊びとしてのTRPGからチームプレイとしてのTRPGへと変化していくのです。

 こうやって1人の孤立したルールブック読者から、卓のメンバーの一員としてレクリエーション活動を共同構築する立場……真のTRPG経験者になるために必要な心得の集大成がTRPGのコンセンサスなのです。

◆◆◆

 現行のTRPGはコンセンサスを伝える有効なプレゼン方法をまだ見出せていないと僕は考えています。いくらルールブックでみんなの物語を説いた所で、読者は1人なのです。誰が面と向かっていない他の遊び手のことを意識して読むでしょう。読書は読者1人の世界です。

 したがって、多くのTRPG者が独自に手作りのコンセンサスを考案して実践しているのが現状です。結果、技術が集積せず継承が困難な職人技となり果てています。
 あまりに手作り状態が続いてるので、どんなトラブルも「自分がいれば大丈夫」と答える熟練ゲーマーもいる始末。ぜひとも北は北海道から南は沖縄までくまなくサポートしてくださいな。なんならクローンを50人ばかりこさえましょうか。
 やるべきはコンセンサス名人を作ることではなく、コンセンサスをより多くのルールブック読者に教えることです。

 「TRPGは悪意に弱い」などとまことしやかに語られる裏には、TRPGの物語は激しく善意を期待するお高く気取った性質があるってことです。問題児の実害のみが集積し、その度にTRPGに要求される善意のハードルはより高いものになっていきます。
 
 ゲームプレイとは別の意趣から生まれたTRPGの物語は、その成立を要求する技術もルールもありません。あるのは「成立すればどれだけ素晴らしいか」という期待と、期待に応えようとする善意のみです。
 
 コンセンサスと善意は似て異なるものです。
 善意はどんな素晴らしいものでも、個人の期待から導き出された、これも1人遊びの領域から生まれるものです。他者の異なる価値観から出された他者の善意への対策など想定外です。
 コンセンサスは互いの善意と、その背後にある期待を明確にして、この期待には対応しよう、その期待は自重するべきだと相互に紳士協定を結ぶことです。価値観の相違を尊重し、その上で協力すべき事項を明確にする宣誓なのです。

 別にTRPGは高潔な人格者だけが参加するべき遊びじゃないのです。
 その「高潔な人格」とは何? という点で結局は自分の期待感を神聖化して高説をぶる熟練者など大した連中ではありません。僕だってそんな時期があったことでしょうけど、おそらくそれは黒歴史。

 問題児を減らすためには、ひたすら善意のハードルを上げるのではなく、互いが歩み寄って過剰な期待感をいかに調節するかが大事なのではないでしょうか。もちろん、譲りすぎて自分の期待を放棄する行為もまたコンセンサスの放棄です。

 TRPGのコンセンサスを集積するにはまず、遊び手はTRPGを手にしてどのような期待をし、何を実現したがるのかを考察する必要があるでしょう。
タグ:TRPG
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2009年01月05日

TRPG者の負担となっている2つの責任

 2009年明けましておめでとうございます。
 今年も回転翼は実家に帰省し、暖房と照明を奪われた大晦日と正月の夜を過ごしました。つーかコミケ参加で疲労困憊なうえに帰省ですから年越し番組も見ずに早寝でした。
 
 今日は新春ということですし、今年の展望などを。

 ここ1〜2年は決まった仲間を持たず、1人ふらりとコンベンションに出かけては見知らぬ相手と一期一会のセッションをするのが通例となっています。慣れない場所で見知らぬ相手とプレイすることを躊躇う人が多い業界の中では珍しい存在かもしれません。
 ゲームも特定のものにこだわることなく、新しいゲームや珍しいゲームに進んで参加しているものですから、10年以上のキャリアがありながら毎度毎度が初心者です。
 
 昨年は有意義なセッションが多く、気に入ったシステムも何作か出来て満足のいく1年でした。何よりもこの界隈で喧伝されているようなトラブルの類とは無縁だったのが何よりも快適でした。

 実の所、今の僕は従来TRPG者に課せられてきた「責任」から逃れる形を取っています。その「責任」とは「特定ゲームシステムを練達・伝道し業界に貢献する」責任と、「サークル活動で交友に従事し、普及に努める」責任の2つです。
 この2つの責任はTRPG者の義務とされてきましたから、その責任を放棄して、はたしてTRPGを続けられるのか正直不安でした。

 大概のTRPG者は特定のゲームシステムやデザイナーの支持者となるか、サークル仲間との交友を軸にTRPG活動を続けます。そして特定作品の練達者としてオピニオンリーダーとなっていくか、サークル活動の主催者となってグループの領袖となるかがTRPG者としての上達モデルとされてきました。

 だが、そのどちらも遊び手の献身を前提とした上達モデルです。
 TRPGは段位も大会、賞金もない……プロ競技としての性質がない遊技です。なのに業界発展のためと称して、遊び手にゲーマー以上の献身を要求してきました。より熱意がある遊び手に業界の未来、グループの未来を背負わし、あたかもTRPG業界の今後はあなたの献身的活動に掛かっているという錯覚を与えてきました。

 いわば、TRPGは「熱心に活動しなければいつでも廃れる」「熱心に活動しなければ仲間が集まらなくて遊べない」とゲーマーに脅迫をし続けて成り立っていたわけです。
 
 そして、僕がコラム活動を通してその上達・普及モデルを研究して得た結論は、満足感以上のものを与えないTRPGは別に上達しても便利屋として使い潰されるだけで、そんなモデルに付き合うぐらいなら脱落する者の方が多いであろうということです。
 TRPGがファンタジー・サブカル文化の領袖ではなく、多くある趣味の1つに成り下がった現代なら尚更のことです。

 この流れはどこかで革める必要があります。
 この流れが嫌で、業界の動向に振り回されることも、身勝手な……楽の感情にぶれている者たちが協調することない……仲間の取り持ちに失敗して仲違いをすることももう沢山だと云う男が、それでもTRPG自体は10単位で続けていきたいというのですから、第三の拠り所を探すしかないのです。

 その第三の道として、僕は業界の責任もサークルの責任も負わない…、さらには高度なゲームプレイという責任、皆を楽しまなければならないというGMの責任、過剰なまでにお行儀よくしなければならないというプレイヤーの責任なども軽減した「低責任TRPG」を模索しているのです。

 業界やサークルに関わる精神的負担はTRPG者としての幸福や上達には関係ないどころか、よりよいセッションのために要求してきた努力や心配り、求道精神すら必要なものではないのではないかと僕は思うのですよ。
 それら精神主義を廃しても、TRPGは上達ができるし、トラブルに悩まされることないゲームプレイは可能だと考えています。

 今年はこの「低責任TRPG」が主題の1つとなるでしょう。
 そんなわけで、今年もRPGコラム『うがつもの』をよろしくおねがいします。
 
タグ:TRPG
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2008年12月15日

賢狼さんのご機嫌取りにかかる経費 〜パラディンでも飲める飲料・リンゴジュース編〜

 『D&D4e』を一読しましたけど、やっぱりプレイしないことには何とも感想言えません。とみにウォーロードに関してもっと情報がほしい所。21日のHJCONで色々聞いてこないと…。

 今日はパラディンでも飲める飲物第一弾。

◆◆◆

 《禁酒の誓い》を立ててアルコール、麻薬、カフェインを絶った高貴なるパラディンとその仲間たち…。中世ヨーロッパ文化に近いファンタジーの世界では気候の問題、衛生面の問題、生活習慣の問題などで中々パラディンが飲めるソフトドリンクがないことに一堂は焦りを感じていた…。

▲「そうそう。『ウォーハンマーRPG』のサプリ、『オールド・ワールドの武器庫』では牛乳が1パイント2ペニーで売ってたよ」
●「ちょっと待て。あのゲームはそこいらにあるお嬢ちゃんがパンツじゃないから大丈夫と冒険に出れるライトファンタジーじゃないぞ。不衛生な中世欧州をこってり再現してるぞ」

 ちなみにこう注釈があります。

深酒した翌朝は、ちょっぴり腐った牛乳でいがらっぽい喉を潤そう。ミルクは長期保存する手段がないため、とても大胆な台所には腐ったミルクがたくさんある。
『オールド・ワールドの武器庫』より


●「さすがWH。期待を裏切らん」
▲「やはりこれがリアル中世なんだろうね」

 ファンタジー世界はアルプス以北の西岸海洋性気候帯なので柑橘類などの温帯植物は自然栽培が難しく、飲料にするほど出回っていないと考えられます。
 だが、逆を考えればアルプス以北で栽培されている果物なら十分出回っているのではないでしょうか。

ぐるなび海外版 - ドイツ特集 - ドイツグルメなるほど図鑑

DM「上述のWebサイトを見ると、イチゴや木苺、スグリやラズベリー、ブルーベリーなどのベリー類、サクランボにスモモやアンズ、洋梨にリンゴ辺りがアルプス以北でも育つ果物のようだね」
●「なんだ。以外とあるじゃん」
▲「ブドウは? ありそうなイメージだけど」
DM「ブドウは微妙なところ。ドイツは特別なのだよ」

 ブドウの北限はベルリンが位置する北緯53度(サハリンとほぼ同緯度)辺りだが、ドイツはメキシコ湾流の影響で年間平均気温がイタリア・トスカーナ地方と同じ10度前後という緯度からすれば温暖な気候であることによりブドウ栽培が可能になっています。
 メキシコ湾流の影響が少ないのかフランス・ノルマンディー地方やイギリスではワインの生産はほとんど行われず、代わりにリンゴ酒が普及していました。

DM「今日はその中でもリンゴ。ファンタジーの世界でも一番ポピュラーであろうリンゴを少し特集する」
▲「おお。ようやくファンタジーでも無理なく出せるソフトドリンクが登場するのか」
パ「うむ。ではさっそくながらリンゴジュースをいただこう」

DM「では給仕の娘さんは少々お時間をいただきたいと言って店の奥へと行った。しばらくすると店主の親父さんが出てきて、ジュース作りの道具を出すから手伝ってくれと言い出してきた」
●「ジュース作りの道具?」
DM「うむ。文章で説明するよりようつべで見た方がいいだろ」



●「なんか大掛かりだぞ!」
DM「いや、これが由緒正しきアップルジュース搾り機だ。実際はもう少し原始的だろうけど、大体こんな感じだね」

 コーカサス地方が原産のリンゴは紀元前から欧州に伝播しており、古代ローマではすでに接木による品種改良も行われていました。
 リンゴジュースは英米ではアップルサイダー、ドイツではアプフェルザフトと呼ばれています。もちろん、時間が経てば糖分がアルコール化し、瓶詰めして保存すれば発酵して炭酸ガスが発生して日本でもお馴染みのリンゴ酒・シードルになります。

▲「すっごい手間かかってるねぇ」
DM「そりゃあ殺菌も保存技術もない時代だもん。おそらく収穫後に村総出でリンゴを搾ってリンゴ酒やリンゴ酢を作ってたんだと思うよ。ドイツだと1年中収穫できるそうだけど、新鮮なリンゴが手に入らない場合はリンゴ酢を水で割って飲めばいいと思うよ」
●「向こうでお酢飲む習慣ってあるの?」
DM「そこまでは分からないね」

 ところで、リンゴと云えば『狼と香辛料』。賢狼ホロさんの大好物でもあります。第1巻では第3幕にてホロが町辻の露天に並ぶリンゴをねだるシーンがありますが、具体的なリンゴの描写はされていません。ただ、文倉十氏の挿絵やアニメを見る限りは日本で売られている直径10cm前後の真っ赤なリンゴです。

 『狼と香辛料』の世界はジャガイモが出回っているので大航海時代以降、ジャガイモ普及に努めたフリードリヒ大王(1740〜1786年在位)の御世、18世紀ぐらいがモチーフであると推測するとして、その時代に挿絵やアニメのようなリンゴをホロさんが入手できたかという問題があります。

 結論を申せば、当時のリンゴはもっと小ぶりなリンゴではなかったかと思います。

 今でもヨーロッパで売られているリンゴは日本のより小ぶりな200〜250g、直径6〜7cmのものが主流です。これは日本では実すぐり(摘果)と呼ばれる、1つの果実に栄養を集中させるべく余分な実を間引く作業を欧州ではしていないからだと考えられます。
 日本ではリンゴは生食が主体で、果物自体の価値も贈答品として用いられる程度に高いものがあります。したがって大きくて甘味が強く、赤の見栄えのよいリンゴが作られてきました。これに対して、リンゴ酒や酢、ジュースやリンゴ料理など加工品の需要が多い欧州ではリンゴはより身近な食材であり、数多く収穫する方を選ぶのでしょう。

 リンゴは品種改良が絶えなく行われている作物なので、当時のままの品種が今に伝わっている例は多くありません。
 例外として、ニュートンの逸話で有名な“ケントの花”と呼ばれる品種はその逸話から記念樹として今も残っています。参考Webサイトによれば、この品種は枝に実っている段階では渋くて食用に適さないが、熟すと自然に落下し、さらに完熟させることによって甘味が出るとのことです。

 “ケントの花”も200〜250g。文中でもホロさんは北の果物は固くて渋く、干したり寝かしたりしないと食べられないと言っている(第1巻112p)ので、おそらくホロさんが食べているリンゴも“ケントの花”に似た品種であろうと考えられます。

▼参考Webサイト
ケントの花 ニュートンのりんご

●「すると賢狼さんは“ふじ”の味を知らないってことになりますな」
DM「知ったらどうなるんかね。少なくとも僕は100円ショップのリンゴは食べる気にならない。どれだけセリブだよと言われても青果店で売られているのを買いたいね」
▲「いや、100円ショップの方が高いだろ」
DM「全国的な相場はともかく10個500円だからね」
パ「まめに皮を剥ける人じゃないと拷問に等しい数だけどな」

DM「ところで肝心のお値段なのだが、『武器・装備ガイド』ではリンゴ1ポンドで1gpとある。1ポンドが約0.45kgで、リンゴ1個が200〜250gとすると…」
●「…2個がいいところだな」
▲「ジャベリン1本と同じ値段だね」
DM「んで、リンゴ1個から取れる果汁は“むつ”で80〜100ccとされている。当時の小ぶりなリンゴだとまぁ60〜80ccぐらいだと思うから、約70ccで1杯1パイント(約450cc)分取るとなると…」
●「7個か8個必要だな」
▲「1杯4gpか…。ライト・ピック1本分のお値段」
パ「つーか、1レベルのモンクやレンジャーだと開始時の所持金が吹っ飛ぶお値段だなぁ。4d4gpだし…」
●「コーヒー1杯だって推定2spなんだし、どんだけセレブな飲物なんだよ」
パ「やっぱ賢狼さんを養うのは大変だな。抱き枕で勘弁しとくよ」
●「おまwwww それが高貴なるパラディンの選択かよ」
パ「高貴なパラディンだから30レベルまで童貞だって恥ずかしくないもんっ

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2008年12月06日

旅人のパンで貴方も理想のボディに! 〜D&D4ePHB購入〜

 『D&D4eプレイヤーズハンドブック』購入しました。
 みなさんお気づきかと思いますが、ハーフリングの平均身長が3.5eの3フィート(約90cm)から、4フィート(約120cm)に大幅アップしたことは革命的英断かと思います。
 もうハーフじゃなくて3/4ではありませんか。
 唄を歌い、人の財布をくすねてばかりのハーフリング族が一念発起して修業と栄養ある食事を続けて幾星霜…。とうとう奴らはドワーフにあと15pというくらいにまで上げてきたのです。それに比べてドワーフ族は穴掘りにうつつを抜かし、平均身長は3.5eから変わらず4.5フィート(約135p)のまま…。もう大柄なハーフリングは小柄なドワーフを抜けるレベルなのですよ。

 120cmといったらですね、ナデシコのルリちゃんとほぼ同じなのですよ。読者諸賢は事の重大性お分かりになられて?

 夢の
 攻略対象が全員ホビットの美少女ファンタジーAVG
 への道が大きく拓けたということですぞっ。

▼参考記事

ホビットがいかに小さいかを実感する

◆◆◆

 一般に新しいルルブが出ると、訓練されたTRPG者は真っ先に特殊技能たる特技欄を開いてマンチキンな連携技を画策するものです。だが、僕のようなおちゃらけが見るのは装備欄…。それも大抵のGMはあってもなくても歯牙にもかけない一般装備に心惹かれるものを感じるのです。
 さて、4ePHBの一般装備欄の中に1つ気になる道具があります。

旅人のパン:この魔法のパンはわずか数口食べるだけで胃袋を満たし、必要な栄養を全て供給する。そのため長旅に必要なだけの食料を持っていってもそれが重荷になることはない。

 うむうむ。これは何ともチートな、いや便利な食料。
 これで旅先にトロールを仕留めて臭い肉を煮込む必要がなくなったというのですかね。
 きっと旅先はこんな光景が…。

●「えっと…。“このパンを食べる際は一緒に水をよく飲んでください”だとさ」
▲「魔法の食料にはちょっと抵抗あるけど…。うぉっ、ホントに胃で膨れてくる。こりゃすげぇ」
●「これなら長旅でも大丈夫だ。さすがはパラディン、いいもの知ってるじゃないか」
パ「いや…。これは拙者の姉上が買い漁ってたもので…」

 そして数日…。
 パーティは険しい山脈を越え、前人未到の迷宮を目指す…。

●「なぁ…。お前出発前より頬こけてね?」
▲「そういうお前こそベルトの穴が2つ減ってるぞ」
●「やっぱり山越えの冒険は過酷だなぁ…」
DM「それでは寒さも厳しい中、今夜の野営に耐えられるか<持久力>の判定をしようか。目標値は…」
●「ちょwwww なんか目標値上がってるし」
DM「そりゃもう…。君たちは出発時と比べて格段に肉が落ちてるから」
▲「格段にって…。まだ<持久力>判定は1回も失敗してないぞ」
DM「まぁ、何か原因があるんでしょうね」

パ「あのぉ…。もしかして旅人パンのせい?」
●「道中ずっと旅人パンだったな」
▲「なぁパラディン? お前の姉ちゃんが買い漁ってたと言ってたけど、何か変わった様子はなかったかい?」
パ「そう言えば、しきりにお腹回りがどうのこうのとか…」
▲「…説明書きない?」

 “このパンは魔道師協会が独自に開発したヘルシーな健康食品です。原材料には水に浸して軟らかくした大豆を搾り、残った身を使用しています…”

タグ:TRPG D&D4e
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2008年11月25日

芸術の理解者を育てるために 〜批評と批評空間〜

 激動の2008年もあと僅か40日程度となりました。今年のプレイ回数は20に届くか届かないかといった所で、奇妙なことに『D&D』などを除いて、ほぼ毎回違うゲームをプレイしてた感があります。
 まだ結論は出ませんが、今年発売のゲームの中で高感度TOP3を挙げるとしたら、『大江戸RPGアヤカシ』、『シルバーレインRPG』、『ソード・ワールドRPG2.0』になるでしょうか…。
 残念なのは、『神曲奏界ポリフォニカRPG』をまだプレイする機会がないってことです。評判だけなら何度も聞いてるのに。
 
 今日はTRPGの批評について盛り上がっているので、シリーズを一時中断し、この僕も思う所を書いてみました。自分が批評家としてこうありたいなというより、こんな批評家に育ててもらったらいいなという希望を篭めて。

◆◆◆

 TRPGにおける批評とは何か。
 批評が市民権を得ている音楽・芸術の分野における批評とは、オスカー・ワイルドが『芸術家としての批評家』で語るように印象の結晶です。
 演奏を聴いた、絵画を鑑賞した、美味しい料理を食した、TRPGをプレイした……心に感じ入る出来事を体感したとして、それを言葉にして伝えようとしても、中々言葉にならないことってあるじゃないですか。
 凡人はやむなく、「面白い」「楽しい」「つまらない」「よい」「悪い」などと道標のような曖昧表現でお茶を濁してしまいます。

 だが、批評の切れ味は名探偵の推理に等しい…。

 芸術という煙か靄でも眺めているような漠然とした感覚を思索し、選び抜いた言葉で自分が感じた印象を言い当ててしまう。切れ味良い批評は、多くの人がつっかえていた言葉まで引き出してしまう。

 創造は「無」から「有」を生み出せるが、その「有」が何物なのかまでは作れません。それは受け手の感受性次第なのですから…。批評は感覚の世界の産物だった「有」に思索の力で確実な「意味」を与える芸術であり、批評精神こそが死ねば消失する人間の活動に不死性を与える源なのです。
 
 TRPGとて現場で完結される遊びではありません。
 実際、ほとんどのTRPGプレイヤーは自分が楽しんでいるTRPGの魅力を語れずにいます。誰もが批評精神が発揮されるほど強い主観など持ち合わせていないのですから、印象を言葉にすることができなければ、凡百の「面白い」「楽しい」などいった文句にも心躍りません。

 批評家の洞察は、多くの遊び手が印象のままで喉につっかえたままの「面白さ」「楽しさ」を言い当て、芸術の理解者という識見を開眼させる力があります。

 優れたTRPG批評家は、
 どのシステムがどのような高揚感やスリル、満足感を与え…、
 どんなロールプレイがキャラクターへの愛着感、場を和ませる達成感、ゲーム世界を彷彿とさせる夢想感を与えるか…、
 どのようなシナリオが作品の表現したい世界観を再現でき、それを遊び手に体感させることができるか…、
 どのようにレクリエーションの手法を用いれば様々な性格・経験の持ち主を継続的な遊び手に育てることができるか…、
 …などを自らの着眼点を頼りに思索し、それを明察ある言葉で表現します。

 理想的な批評はそれまで曖昧な嗜好のままでいた遊び手に、自分が感じた楽しさは泡沫の夢ではなく、不朽の価値を持った文化であることを理解させることでしょう。
 彼らは遊び手のレベルアップを助ける芸術界の導師なのです。

◆◆◆

 優れた批評家は、肥沃な批評空間に支えられています。

 批評空間とは何か。
 芸術を好む人の多くが、自らの印象を印象のままでいいや、死んで何も残らず消えても構わないと思うのなら、批評空間は発生しません。TRPGなら、生涯ただ遊ぶだけでいい、何を楽しんだか残さぬまま消滅してもいいという人たちだらけなら批評空間の余地はありません。
 
 批評空間は、物事を感じた自分の印象にどんな意味があるのか知りたい人たちが集まって作られます。ある人は人生の意義を求めるために、ある人はより多くの人と印象を分かち合いたいがために、またある人は開眼した芸術の理解者に敬意と憧憬を感じたがために、同じ印象を持った者同士が集い、情報を交換し出します。
 
 批評空間とは同じ物事で印象を持った者同士が集い、物事の当事者や責任者……芸術なら芸術家や画廊主、TRPGならデザイナーと販売者……の影響化にない私人同士が、物事の理解者にならんと互いの印象を批評し合い、議論をする交響の場です。
 批評家はこうした公共の批評空間で頭角を現した、創造主にも資本家にも属さない文化の第3権力者なのです。

 批評家が目指す所、導く者たちに求める所…、それは芸術家の忠実なファンでも、資本家のセールスマンでもなく、ユーザーのみがいる公共世界で確かな識見を持った好事家になることです。
 
 「批評精神を持ち、趣味を文化として日々その在り方を思索している趣味人」である好事家は、芸術家が必ずしもよき文化人であるとは限らず、資本家が必ずしも芸術の理解者であるとは限らないことをよく心得ています。そもそも、彼らは自分が死んだ後の芸術の行方に責任感を持っていません。芸術家は自らの魂を篭めた作品さえ残せば、資本家は財を成せば、その後芸術が廃れても構わないのです。
 だが、批評家と好事家は、彼らと違い批評空間が支える文化伝統の中でしか生きていかれません。そのために芸術家や資本家が堕落しないよう厳しく監督することが求められます。

 批評家は業界を育てる存在でありますが、芸術家・資本家が批評空間を単なる不満屋、自らの思い通りに動かぬ不平分子として敵視することは双方に有害なれどしばしば発生します。
 芸術家は優れた識者よりも、無垢な憧れの眼差しを向けるファンの声に耳を傾けがちです。それほどまでに、衝動、妄想の中から芸術を生み出す活動はナイーブなことなのです。
 
 批評家・好事家が芸術家・資本家に嫌悪されないために必要なのは、例え彼らが文化の行く末に絶望し愛を失っても、自分たちが業界を底から堅持する、あなたたちがいつでも活動できるよう応援は惜しまないという愛情の他に何もありません。
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2008年11月22日

「ない」ものと「ある」もの 〜何を飲むのだシリーズ注釈〜

 《禁酒の》誓いを立てて酒、麻薬、カフェイン飲料を絶ったパラディンと仲間たちが喫茶店で歓談する「何を飲むのだ」話もシリーズ化して今回で4回目。今日は折り返し地点ということで今までのまとめに入ります。
 いつもの当Blogらしい話になりますので、笑い話目当ての方はご了承ください。

●「ふぅ…。危うく
 アンデッドと化した牛乳
 を飲まされるところだった…」
パ「不浄なる暗黒の牛乳か…。いくら骨太になってもゾンビが感染するのはいただけないな。いまさら再教育してブラックガード(黒騎士)になるのも面倒だし…」
▲「面倒以前に嫌がれよ」
パ「いや…、高貴なる犠牲によって殉教した牛乳ならばリズン・マーター(蘇った殉教者)となって安心して飲めるロングライフ牛乳に…」
●「…牛乳に何を望むんだよ…」
パ「革袋に入れてる間にレベルアップして、そして10レベルで上方次元界に旅立つころには美味しいセレスチャル・ヨーグルトになっているのだよ」
▲「…何と高貴なる牛乳…。『人生目標はエリシュオンで楽隠居』なんてほざくパラディンにはできないことをやっけのける」
DM「中の人が秩序にして善でないパラディンは辛いな」
パ「中の人などいないっ」


 ファンタジー世界で非カフェインのソフトドリンクを探すのは意外と大変だという記事も今回で4回目。そもそもがファンタジー世界を紹介するが上での常套句である「中世欧州みたいな」を元に、中世欧州での飲物事情を調べているのですが、魔法という便利な技術があったとしてもおいそれとは便利になれない事情ってのがあります。

 まず第一に気候の問題。
 ファンタジーTRPGの舞台はおおむね、イギリス、フランス、ドイツなどのアルプス以北、西岸海洋性気候に属する諸国がモデルになっています。従って、温帯で育つ多くの柑橘類やバナナ、マンゴーなどのトロピカルフルーツの類は自然栽培は困難です。

 第二に衛生面の問題。
 欧州都市部の水利は決して良くなく、生水の飲用は赤痢、コレラ、腸チフスの原因とされ嫌悪されてきました。その辺は現代でもインドや東南アジアなどを旅行する際は水に注意するのと一緒です。衛生状態の悪い都市部では洋の東西を問わず、水売りが近郊で汲まれた水を買っていました。

 そして第三に食習慣の問題。
 食料の保存が干すか塩漬けにするかしかない時代、発酵食品の中でも保存がきく酒類は中世欧州人にとっては大事な栄養源であり、修道士たちがそれこそ生涯をかけてビールやワインを作り、薬草を集めてはリキュールの開発に勤しんでいました。現代よりもずっと酒が必要とされていた時代なのです。
 欧州において禁酒、節酒の思想が芽生えたのはジャガイモなどの救荒作物やスパイスの伝播による食料の増産と、都市の発達によって労働者が増加したことが関係しているのと思われます。賃金によって食料を買い生活する労働者は、ベンジャミン・フランクリンが指摘する通り、給金を酒に費やす者と栄養のある食事に費やす者とでは労働量に差が生じ、賃金も違ってきます。
 紅茶やコーヒーも、こうした都市生活者の間に酒に代わる健康飲料として広まったのです。

◆◆◆

 ファンタジー世界には「ない」ものが「ある」という面白さがあります。それはファンタジーが物語だからであり、「ない」ものが「ある」のは1つの楽しい物語を提供しているからなのです。
 ファンタジー世界では中世欧州では希少だったオレンジジュースが普及していても技術的には問題はないのです。だが、ファンタジー世界の人々がいかに「ない」はずのオレンジジュースを製造し愛飲するようになったかという物語を示さなければ、それは現代人が現代感覚で無造作に書き置いた端書きに過ぎなくなります。
 
 TRPGはイメージと対話ゲームで成り立つゲームですから、遊び手の想像力を強く喚起させる物語が必要なのです。ただ漠然と「ある」だけの存在など物語に取り上げられることもなく、ただ存在だけを記した端書きなど読むほどのことでもありません。
 TRPGは30年以上の伝統があるゲームですが、結局は物語の蓄積が多い作品が生き残っているのです。

 さて、物語世界の中に、「ある」ものと「ない」とが生じる場合、「ない」ものを「ある」とする場合はどのような物語の元で「ある」ことにするのかを考えます。
 大事なのは、「ない」ものは理由もなく「ない」のではなく、「ない」のが常識であり、物語の受け手も常識的に考えれば「ない」方が自然に受け取れる代物だってことです。それを「ある」とするには、「あってもいいじゃん。面白そうだし」と思わせるだけの寓話で常識から離さなければなりません。

 現実世界でも食べ物、飲物の伝播には様々な逸話が生まれます。日本でも醤油の誕生は、唐から径山寺味噌を伝播した僧が紀州湯浅の地で作らせた所、樽の底に溜まった汁が美味しかった所から始まったなんて逸話があります。
 実際にはもっと自然発生的なものだったのでしょうが、生活に変化をもたらす食品の伝播には、人々に好奇心を芽生えさす物語が役立ったのでしょう。

 オレンジジュースにしても、エルフなど自然界の神秘に精通した者たちがいるのだから、彼らの中から南方で自生していたオレンジの芳香に魅せられ、ドルイドの魔法で栽培に成功しジュースを製造している氏族がいるなどと設定を考えればいいのかもしれません。

 そうすれば、ただ漠然と価格表にオレンジジュースと書かれていただけでは浮かばないような物語がシナリオの題材として役立つでしょう。
 エルフに敵対的な魔法使いが精霊の力を悪用して、周囲の気候を寒冷化しようとしている…。このままではオレンジは不作となって収穫祭を行えない…。PCたちは氏族の依頼を受けて魔法使いを倒すために…。

◆◆◆

 ファンタジーで創造力を発揮するために大事なのは、「ない」ものを「ある」ことにするために物語を駆使するのはもちろん、元来「ある」ものを「ない」ものとして無視してはならないことも重要です。
 
 元来「ない」ものを構成する物語はそのファンタジー世界の特異性を現す物語ですが、元来「ある」ものはファンタジー世界でも通用する自然さを現す物語です。
 春には草木が生え動物たちが冬眠から目覚めるのは、現実でもファンタジーでも変わらずに「ある」物語です。そうでないのなら、そうでないなりの物語を考えなければなりません。
 物語を考えることもせず、「季節なんて考えなくていい」などと端折ってしまえば、水着姿で冬山に登ろうが鎧を着込んで灼熱の砂漠を歩こうが何の問題もなくなります。
 もちろんGMの中には端折る人はたくさんいます。だが、僕の経験から言えば端折って物語が面白くなったということはないです。

 「ある」ものを「ない」とする行為は単に説明を省略するのみならず、物語を作ることを放棄させることに繋がります。物語が崩壊すれば、それぞれがご都合主義で勝手な思いつきを放言するか、物語を作ることを止め、早く戦闘をしろダイスを振らせろと喚くかしかしなくなるでしょう。
 
 遊び手たちが物語を分かち合うためには「ある」ものの物語はきちんと設定として盛り込まなくてはなりません。その上で本来「ない」ものがいかにして「ある」のか、その特異性を盛り込むのがTRPGの舞台として使える設定の在り方なのではないでしょうか。

◆◆◆

 そんなわけで、次回からは非カフェインのソフトドリンクで、中世欧州でも飲まれていたであろう飲物を紹介します。


タグ:TRPG
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2008年11月17日

牛乳もダメだなんて、パラディンは一体何を飲むのだ

 アニメのヒロインが非処女だってので落胆している方がおるそうで。まぁ青春はほろ苦いものです。

◆◆◆

 《禁酒の誓い》を立てたがばかりに久々に酒場ネタ。
 こういうセッションが沢山行われていたのが昔のTRPGなんだよな最近の新参はいきなり世界を救いたがるから困ると、酒、麻薬はおろかカフェイン飲料も摂取できないパラディンと仲間たちは依頼そっちのけで健康的冒険者の道を模索していた…。

 前回オレンジジュースが飲めなかったパラディンが次に頼んだのが牛乳。いかにもヘルスィ志向のアメリカ人が頼みそうな飲物だったのだが…。

DM「喫茶店の若い娘…給仕さんは蒼ざめた顔でこう叫ぶよ…、
 牛乳だなんて、病気にでもなりたいのですか…!
 と」

パ「はい?」
●「牛乳で病気って…。DM、もしかしてこれがシナリオかい?」
▲「邪悪なネクロマンサーが牛に呪いをかけたとか…」

 かくしてようやく重い腰を上げた冒険者一行は情報収集に乗り出し…、

DM「結局、そんな邪悪なウィザードはおりませんでした。街の乳製品は どれも清浄でした」
●「分かったのは、街には牛乳が一滴もないことだ…」
▲「ありえへん。街の連中はこぞって牛乳嫌いか?」
DM「そうだね。《真意看破》の目標値10で判定して」
▲「今度は簡単だな…。成功したよ」
DM「うん。街の人は牛乳なんて飲むものではないと心底感じているよ。君たちのPCも。そして全世界の人間もエルフもドワーフもノームもハーフリングもハーフオークも。ノールですらもね」
●「なんだって! そんなバカな…」
DM「いやだって、ルルブの価格表には牛乳ないし…」
▲「あらホント…」


 牛乳が飲料となったのはここ150年ほどの話です。
 我々が日常的に飲んでいる牛乳は生乳(搾ったままの乳)を加熱殺菌したものですが、その技術が確立するのは1880年、フランスの細菌学者、ルイ・パスツールによる低温殺菌法(パスチャライズ)開発からです。摂氏60度前後で30分加熱するこの技法は当初、ワインの腐敗を止めるために研究された技術です。

 そもそも牛乳は腐敗がしやすい上に脂肪分が分離しやすく、また乳糖が体内に消化しきれずお腹を壊しやすいという性質ゆえに、長く生飲が嫌悪されてきた食品です。それゆえ、西洋では長らくバターやチーズに加工して食べるのが常識でした。
 欧州において牛乳の飲用が始まるのは20世紀に入り、低温殺菌法に加え、鉄道機関の発達や冷蔵庫の発明により、都市住民も新鮮な牛乳が手に入るようになってからです。

 牛を聖なる動物と崇めるインドでは牛乳は神聖な食材であり、神々の食料とされたアムリタや、仏陀が苦行の果てに少女から恵まれた飲物はダヒと呼ばれるヨーグルトであったとも云われています。
 牛乳を煮詰めて冷却し、前日作ったダヒの残りを入れて攪拌して作るダヒを水で薄めたのがインド料理でお馴染みのラッシーです。

 モンゴルでは馬乳が重要な食材であり、子馬を育て終えた母馬の乳を革袋に入れて攪拌し、馬乳酒として飲用しています。馬乳酒はアルコール度数が低く、酒というより食料とされてきました。
 ちなみに、1919年に日本の実業家・三島海雲が内蒙古で出会った馬乳酒を元に脱脂乳を乳酸発酵させてカルシウムを添加した飲料がカルピスです。
 馬乳酒の技法はロシアやコーカサス地方にもあり、彼らは牛乳を革袋にいれ、戸口に吊るして攪拌してケフィールと呼ばれる乳酸飲料を作ってきました。

 ヨーグルトなどの発酵食品が欧州に伝播したのは19世紀末。ロシアの医学者、イリヤ・メニチコフがブルガリアを旅行した際、当地にあった長寿村の秘訣がヨーグルトにあると注目し、健康食として紹介したのが始まりです。

 中世欧州文化を機軸にしたファンタジー世界でも、衛生面の問題から牛乳の飲用は病気の原因として嫌悪され、多くがバターやチーズに加工されているでしょう。遊牧民族風の文化を持つ種族がヨーグルトなどの乳酸飲料を作っている可能性はありますが、蛮族の飲物として市民は同じく嫌悪するかもしれません。

●「結局、牛乳も安全な飲物ではありませんでした、か…」
▲「欧米人は牛乳をガブ飲みしてるイメージあるからなぁ」
パ「またしてもオーダー変更か…」

DM「…すると君たちの前に1人の黒いローブをまとった痩せて青白い男が現れます。彼は牛乳について聞き回っている冒険者がいると聞いて駆けつけたと云います」
●「はい?」
DM「彼はある秘術の研究の協力者を探しているようだ…。彼曰く、素晴らしい滋養飲料である牛乳が腐敗しやすいので嫌悪されているのは惜しいことではないか…。もし秘術の力で腐敗を止められば、人々は牛乳の恩恵を受けられることになり、これを商売とすれば大いなる富が手に入るであろう…」
パ「おお…、素晴らしい発想」
▲「いや…、それはいいんだけど。その黒ずくめの男の職業は…?」

DM「ええ。ウィザードです。
  ネクロマンサーですけどね
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2008年11月13日

オレンジジュースもダメだなんて、パラディンは一体何を飲むのだ

 ただ今西国から帰ってまいりました。
 …寒い。帝都は寒いよっ。

 今日は前回の続き。実は続き物なのだよ。

◆◆◆

 《禁酒の誓い》を立て、アルコール、麻薬はおろかカフェインの摂取すら禁じた高貴なるパラディンと冒険者の一行は、アメリカ人的発想で健康的な依頼生活を満喫すべく喫茶店での依頼交渉に臨んだ。
 コーヒーもダメなパラディンはその席でオレンジジュースを注文…。
 ごくごくありふれた注文かと思いきや、その手の文化史に詳しかったDMはパーティが及びもつかなかった返答をした…」

DM「喫茶店の若い娘…給仕さんは首をかしげてこう言うよ…、
 オレンジって何ですか?
 と」

パ「はい?」
●「オレンジって何かって…、
 この娘さん、ハーフオークちゃうん?
▲「ありえへんやろ。オレンジぐらい知ってて当然…」
DM「そうだな…。君たちのPCがオレンジを知っているかは、《知識:自然》の目標値25で判定しようか」
●「なんだって!? そんなん専門知識レベルじゃないか」
DM「いやだって、ルルブの価格表にはオレンジないし…」
▲「あらホント…」


 そもそもオレンジ自体が中世欧州には存在しません。
 インド・アッサム地方が原産地のオレンジが欧州に伝播したのは15〜16世紀であり、温帯や熱帯の植物ゆえに栽培地も限られています。同じ柑橘類のレモンが欧州では北イタリアが北限であり、オレンジもおそらくアルプス以北での自然栽培は難しいものと思われます。
 そこでオレンジの木をレンガの建物で覆い、南側にガラス窓を配置したのが温室の初期型であるオランジェリーです。このオランジェリーは商業目的ではなく、王侯貴族が贅沢品を確保するための邸宅の1つとして使用されていました。印象派のコレクションで知られるパリのオランジェリー美術館も19世紀にナポレオン3世が建てた屋敷を改装したものです。
 一般にイメージする前面ガラス張りの温室は1820年代、植物学の研究が盛んになった英国にて発明されたものであり、その発明には鉄骨とガラス、さらに湿度を調節できる水蒸気暖房といった産業革命以後の工業製品の登場が必要です。

 中世欧州を機軸としたファンタジー世界では、一部の王侯貴族がオランジェリーを建ててオレンジジュースを飲んでいるかもしれませんが、街の冒険者が喫茶店で飲める代物ではないでしょう。

 仮に地中海性気候の舞台でオレンジが自然栽培されている地方でも、果汁飲料は酸化による味の劣化の問題から、果肉はまずマーマレードにされると思います。
 清涼飲料の大衆化に関しては他の飲物と同様、ルイ・パスツールが登場する19世紀末を待たなくてはなりません。

 オレンジジュースが保存できる清涼飲料となったのは1938年、アメリカのフランク・バヤリー博士による殺菌技法の発見からです。彼の名を取って販売されたのが日本でもお馴染みの「バヤリース・オレンジ」です。
 
 ちなみに『D&D』では『武器・装備ガイド』においてもオレンジは価格表に掲載されていません。パイナップルは贅沢品の欄に1ポンド150gpで掲載されていますが、新大陸が原産のパイナップルが欧州に紹介されたのも15世紀で、実はオレンジとそう変わりがないのです。


●「そんなわけで、喫茶店ごどきがオレンジジュースを出すのは無理でありんした、か…」
▲「そもそも我々が飲んでいるコーヒーだって1ポンド50gpなわけで、1杯10gで1ポンド約450gとして、1杯約11cp…。砂糖や経費も加算して1杯2spは欲しいな」
●「エールが1ガロン飲めるな。10フィート棒も買える」
▲「酒飲んだ方が庶民的だな」
●「そんなわけだから、パラディンはオーダー変更を要求する」

パ「そうだな…、
 ミルクちょうだいっ。ママの母乳でっ
●「なぎら健壱かよ。しかも細かすぎて伝わらないモノマネの…」

 だが、パラディンの注文はまたしても喫茶店を騒然とさせるのであった。もちろん、もちろん、秩序にして善たるパラディンのセクハラ発言は黙殺するとして…。
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2008年11月06日

コーヒーもダメだなんて、パラディンは一体何を飲むのだ

 
 根無し草の放浪ゲーマーになるにはなるだけの生活があるものでして、明日から朝イチで西国行きです。そろそろノートパソコンも欲しいなと思ってる今日この頃です。

 前から興味があった『コーヒーが廻り世界史が廻る』(臼井隆一郎著、中公新書)を書店で見つけたので購入。アラビアのスーフィズムから始まり、コーヒーがいかに欧州市民社会形成に影響を与えてきたかを軽妙に語った面白い小説……っぽい文化史の本です。

 TRPG者としてこの本を読むと、なるほどコーヒーの存在1つでファンタジーの世界が1つ崩れるなと感じます。例えば英国にコーヒーハウスが登場したのはピューリタン革命の頃…。謹厳な清教徒たちはそれまでの飲んだくれな英国人気質を批判し、新たな活動の場として出来たばかりのコーヒーハウスに入り浸るようになります。
 そこでコーヒーは知性を活性化させる飲料として好まれ、コーヒーハウスは人々が活発に談話をする場になり、近代市民社会を生み出す土壌となっていきました。やがてコーヒーハウスは情報を求める商人たちの拠点となり、その中からロイズ保険の創始者であるエドワード・ロイドが出てきました。彼はコーヒーハウスの店主から、貿易船舶に掛かる保険をリストアップした新聞を出して成功しました。

 詳しくは本を読んでもらうとして、もしファンタジー世界にコーヒーが登場していたら、いずれは英国のようにコーヒーハウスに商人などの醒めた活動がしたい民衆が集まり、RPGでよくある「酒場での依頼」もコーヒーハウスで行うようになるかもしれません。

 さて、なぜ忙しい中こんなこぼれ話を書いてるかと云うと、『D&D』3.0版のサプリメント、『高貴なる行いの書』にある特技の中で、《禁酒の誓い》というのがあるのですよ。これは毒や麻薬に対する頑健セーブにプラス修正がつくというものなんですけど…、

 君はアルコール飲料、麻薬、カフェインを絶つという、清浄なる誓いを立てた(斜線部引用)

 …と、コーヒーやお茶、アメリカ人が好きなコーラすら飲めなくなるいかにもアメリカ人らしい発想の特技なのです。
 では一部の高貴なるパラディンは《禁酒の誓い》を立ててコーヒーすら飲めないとします。このパラディンは依頼を受ける席で一体どういう飲物を注文するのでしょうか…。
 多分アメリカ人の考えることと云えば…、

DM「…そんなわけで、君たちは酒場で商人の娘から依頼を…」
●「いや、ちょっと若い娘さんが酒場に行くのは危険じゃない?」
▲「そうだな。ウチのパーティにはパラディンもいるし、ここは喫茶店に席を移そう」
●「喫茶店なんかファンタジーにあったっけ?」
▲「トーチ・ポート(『D&D』日本版オリジナル設定の街)には甘味屋があるんだから、喫茶店あってもいいだろ」

DM「それでは場所は喫茶店…」
●「店のマスターにコーヒーを注文するよ」
パ「あいや待たれよ。拙者は《禁酒の誓い》を立てていてな…。酒はおろかカフェイン飲料も禁物なのだよ」
▲「んじゃ、何飲めばいいのかい?」

パ「そうだな…、
  オレンジジュースを1杯いただこうか…

タグ:TRPG D&D
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2008年10月28日

なぜ「なぜ冒険に出たか」設定をする必要があるのだろう

 夏コミの時、列で並んだ人と夏期放映アニメの話題で盛り上がったのですが、その時は『ストライクウィッチーズ』が一番受けるという僕の意見はどちらかと云えば珍説扱いでした。
 それが第1巻初回DVDが売り上げ1万を超えた(アニメDVDで1万は大ヒット)とかで、いやはなんとも。

 今日は相変わらずのまとめをしていないノートで、MWGに必要ない物語設定の意義についてです。

◆◆◆

 TRPGのキャラクターにはそれぞれ、物語の登場人物めいた設定がつけられます。キャラクターは単なる能力値の集合体でも、バトルゲームをするための駒でもないと、多くのTRPGが物語の登場人物にふさわしいキャラになるよう設定付けをすることを勧めています。
 
 これはTRPGが歓談によって物語を体験できるよう……『D&D』なら『指輪物語』をモチーフに、剣と魔法のファンタジー世界で戦士や魔法使いとなり、迷宮に潜って怪物を退治するゲームならば、指輪が好きでゲームを楽しむ人なら自分があたかも指輪の登場人物になったかのような心地をゲーム上で味わいたいはず……ゲームメディア(表現の場としてのゲーム)の役割を提示するためにあります。
 
 物語設定をするということは、TRPGは純一的なゲームプレイではない、物語を楽しむためにしばしターンを止め、おしゃべりをすることを奨励しているということです。
 物語設定の多くが、生まれや幼少時の境遇、目や髪の色、性格などMWGの駒としては不要なデータで成り立っています。然るにTRPGをMWGと同質に、とかく戦闘の勝敗こそが全てなのだと信じる人にとっては邪魔としか思えないでしょう。ムダな要素であり、そんなものに時間を割くヒマがあるなら早く戦闘すべしと思っていることでしょう。
 だが、『D&D』以来30年以上が経ち、様々なTRPG作品が出る中で物語設定は扱う物語世界に比例するようにボリュームを増す一方であり、ターンとダイスに支配されていない領域にかける時間も多くなっています。現在ではMWGはMWGであり、TRPGでは歓談の意義はMWGと同等以上であり、本来するべきゲーム活動から逸脱していると見なす人は僅かであると云えましょう。
 そして物語世界が進歩していくにつれ、物語を楽しみたいという要望は単にゲーム世界をネタに意見交換をしたいというだけではなく、演劇のようにキャラクターの視点で物語世界に投影して体感をしたいという参加意識へと発展していきました。
 この段階で、TRPGは単なるゲーム活動では理解できない演劇のようなごっこ遊びのような不思議な形態の活動になっていったのです。多くの場合、この不思議なおしゃべりを以てロールプレイと称しています。

 物語設定はそうしたロールプレイのために必要なイメージを浮かべるために行う通過儀礼であるとも云えます。ファンタジーを現実逃避と表現しますけど、空想のエンタメである物語を物語と受け止める気でないと楽しめる余地はありません。

 そのコンセプトを体現するものとして『D&D』のアラインメントが、ゲームを物語と受け入れるために設定されたルールとして意義ある存在であると僕は考えています。
 
 TRPGが純一的なMWGであるならば、味方であるプレイヤーは全員が二心なく結託するのが当然です。しかし物語であるならば物語の登場人物として物語らしい複雑な人間関係が存在したほうがエンタメとして楽しめます。
 アラインメントはキャラクターの物語上での価値観を分別することにより、TRPGを単なる勝利追求のゲームから、立場の食い違いを演出するエンタメへと進化させるのに大きな役割があったものかと思われます。


 今日はここまで。
タグ:TRPG
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2008年10月06日

フリーセッション・コンベンションを往くGMの心得

 先月28日、TRPG文華館主催の『大江戸RPGアヤカシ』オンリーCONに参加してきました。アヤカシはおろか、元の『ナイトメア・ハンター・ディープ』も未体験だったので不安はありましたが、システムが分かりやすく、世界観を表現するデータの運用方法が秀逸だったので思いの外自在に動けて、うまく遊べたかと存じます。
 GM及び卓仲間の皆様にあつく御礼申し上げます。

 んで、その一週間後である10月5日には早くもGMでセッション。GM不足により急遽名乗りを上げたわけだが、プレイヤーの皆様に助けられ、なんとか初GMで遊びきることができました。
 こちらも、プレイヤーの皆様方にあつく御礼申し上げます。

 今回のコラムはこの記事から、僕が心がけているコンベンションGMの心得についてです。

 GMの準備(2D6で1さん)

◆◆◆

 コンベンションではシナリオを作成することのみがGMの事前準備ではありません。
 いわゆるフリーセッション形式のコンベンションではどんなゲームが持ち込まれるか分からないので、『ソード・ワールド』や『アリアンロッドRPG』のような携帯に便利で、高い確率で卓が立つゲームしか持ち込まない参加者が多くいます。何も持ち込まず、ダイスと筆記用具だけの手弁当でやってくる人すらいます。何種類もゲームを持ち込むのは非常な労苦なのだし、なによりもそんな何種類も買い込んでる遊び手などごく少数です。
 結果として、GM以外は誰もルールブックを持参していない卓が立つことなどざらであるわけで、それを見越していないと思わぬ手間を仲間に強いることになります。
 
 事前準備に余念がない人ならば、シナリオ作成以外にもルールサマリーや各種データ……プレイヤーがじっくり吟味することが予測される呪文や特殊能力、技能などのデータは用意しておきたい……をパンフレットとして作成し、ルールブック不足の事態に備えておきます。熱意のあるGMならば、コピーではなくわざわざリライトしてパンフレットを自作するほどです。

 扱うゲームが発売されて間もなかったり、そんなに有名でなかったり、昔のゲームであるならば、ルールブック不足どころか全員初プレイという事態も当然のように起こります。それもこの機会に新しいゲームをプレイしたいという期待度の高い遊び手が集まるものです。

 このような事態では、GMは単なるシナリオ運営だけではなく、ルールの解説からゲームの持ち味を伝えるプレゼンテイターとしての役目も要求されます。むしろ、プレイ時間の半分はそちらの方に割かれるのが実情です。
 いくら北井戸が高いとはいえ、海のものとも山のものともつかぬ見知らぬゲームを相手に、容易にロールプレイをこなせる人などそうそういません。GMは彼らに全体目標やキャラクターの行動指針を演出し、彼らがロールプレイを行えるように道を指し示さなくてはなりません。

 さらにアフターセッションも意外と重要です。プレイヤー各位とディスカッションをすることによって、シナリオを介してではなく、遊び手本人同士がゲームについて思う所を語り合い、ゲームの充実度を補填させることができます。
 良きシナリオを体験し、よきロールプレイをしただけでは本当に満足できるイベントになったわけではありません。遊び手本人がよきイベントに参加したのだという充実感を味わえなければ、ホストとしては力量不足なのです。
 もし時間に余裕があるならば、単にセッションの反省をするだけではなく、広くTRPGの動向や各人の経験、その他思う所あれば何でも語り合えば、プレイヤーたちに単なるセッション経験を越えたよき人生経験を与えることすらできることでしょう。

 TRPGイベントにはMMORPGや各種ネットメディアのような気軽に参加できない難しさがあります。慣れない場所で見知らぬ人と顔を合わせる度胸がいりますし、休日を平日並みに早起きして億劫な肉体を会場に運ぶ気力もいります。
 だからこそ、その足労に見合う以上の有意義な体験を提供するよう努力することは、ゲームを楽しみたいと欲するGMの良心であると思っています。そしてその良心は、プレイヤーの満足した笑顔で十分報われます。
 
 もちろんGMとても有志のボランティアだし、満足した準備もできないままセッションを請け負うこともあります。コンベンションに参加するプレイヤーとGMの間にあるのは、ほんのちょっとの人の良さだけです。十分な経験がありながら、事前準備が億劫でプレイヤーに回る遊び手などいくらでもいるし、責められることではありません。
 ただ、GM不足でこのままでは遊べない参加者も出てくるだろうなという事態に、親切心のみで急ごしらえのセッションをしつらえるGMが未熟であろうとも、準備不足を露呈しようとも、それを許せない人は心が狭い。でも、それを指摘しても始まりません。

 事前準備もままならず、完全無欠なプレゼンテーションができるほど超越した才能もない場合、セッションを成功させる残された手段は真心を尽くしてプレイヤーたちと手を携えるしかないと思います。自分が裁定者、超越者でありプレイヤーをコントロールしようという作家願望やプライドは捨て、むしろ自分もGMの立場に立って初心者体験をしているのだと思った方が円滑にプレイできます。
 最終的に、GMとプレイヤーが主客の垣根を超えて1つの物語を共同制作し、楽しむ・楽しませるの立場の違いを克服することができれば、イベントでの不平不満は最小限に留められるかと存じます。 

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2008年09月25日

シーフを軽戦士にするな

 昔の新和(TSR)版D&Dと、昨今のHJ(WoC)版D&Dとでは1つ違う所があります。
 それはDMとして「戦闘を回避して目標を達成する」という選択を用意しているかしてないかということです。罠を解除しモンスターをやり過ごしては隠された財宝を探す新和版D&Dとは違い、HJ版D&D者は正面きってのMWGを当然のごとく仕掛けてきます。

 新和版D&Dではモンスター相手に戦わずして勝つことに十分な意義がありました。財宝の量こそが経験点であり、モンスター経験点はゴミに等しかったからです。だが、MWGに重点をおいた3版そして3.5版のD&Dは倒したモンスターの脅威度に応じて経験点を得るので、戦闘を回避するという選択肢はゲーム目標に反することになります。
 
 僕は新和版D&D者でしたから、HJ版D&Dをプレイする際には戸惑いを隠せない場面がしばしばあります。そんなに戦闘に入れ込むなら、いっそ物語なんか省いてDDM(D&Dミニチュアゲーム)にすればいいのではとも思うけど、見せかけの物語はまだ完全に捨てられずにはいるようです。

 思えば、昨今日本で盛んにプレイされているHJ版D&D、ソード・ワールド2.0、アリアンロッドRPGの3作は戦闘を回避しないTRPGです。倒したモンスターで経験点が入るD&D、ドロップ品・戦利品と全ての戦闘に大きな実利があるSW2.0とARA…。
 この3作を見れば、昨今のファンタジーTRPGはまさに戦闘全盛の時代と云えるかもしれません。迷宮キングダムも戦闘で荒稼ぎが基本です。
 他のファンタジーTRPGでも物語のクライマックスおよびアクセントとして戦闘を組み込むのが通例です。

 …ここまではよくある戦闘偏重への批判です。
 ここで注意しなければならないのは、批判する対象を「正面きってのガチ戦闘」に絞らず、広く戦闘そのものに求めてしまうことです。

 そうでないと、一足飛びに「戦闘がまったくないTRPG」を代案として用意するTRPG者が決まって出てくるからです。最近では『りゅうたま』が顕著ですけど、戦闘を重視しないシステムのゲームを指摘したり、戦闘システムを用いず歓談や対話ゲームのみで楽しむテクニックを指摘したりと、とにかく戦闘そのものを除外したTRPGで戦闘嫌いもすべて解決と論ずる人にどれだけ出会ったことであろうか…。

 そうではないのです。

 戦闘はあって結構。
 だが、戦闘をせずとも実利を得られる手段があるTRPGがしたいのです。あるいは、正面きって斬り合わずとも、計略を用いて戦わずして勝てるTRPGがしたいのです。

 例えばARAのドロップ品でも、装備品の類は戦って強奪以外でも、例えば寝込みを忍び込んで盗むとか、言葉巧みに取引をして頂戴するとか色々アイディアは発揮されてしかるべきだと思います。

 新和版D&Dでもアイディア勝負のシーフが一番楽しかった僕としては、戦闘を回避して目標を達成するTRPGが1つはほしいのですよ。テクニックではなく、デザインとして盛り込まれたTRPGが。
 そうでないと、シーフは限りなく軽戦士化してしまいますから。
 
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2008年09月15日

TRPGにおけるシステムとルールの違い

 TRPGにおいて「システム」と「ルール」が用語として曖昧に用いられているので、またしてもノートとして定義しておきます。今回は別箇の意味にしてありますので、混合して用いている場合においては論外とさせていただきます。

◆◆◆

 TRPGには、「遊び方」と「楽しみ方」とが別箇に存在します。
 遊び方は遊び手自身が遊ぶための道具の使い方、楽しみ方とはTRPGを通して仲間と良き交流をするための作法と云った所でしょうか。そして、遊び方を記したのがシステム、楽しみ方を記したのがルールです。

 TRPGにおけるシステムは、ゲームを遊ぶための道具の使用法ですが、他のパーティゲームと同じく複数人が参加することを前提で作られているので、1人で遊ぶことはできません。また、複数のプレイヤーと1人のGMという遊戯形式を取っているTRPGでは、双方に別箇のシステムが用意されます。
 TRPGが提供する遊びは時としてマニュアルに記載されたシステムのみでは対応しきれない場面があるので、遊び手はゲーム仲間の承認の下にカスタマイズ、ローカライズをすることが可能です。その一方で、卓(TRPGを楽しむ一組の単位)の中では全員が共通のシステムを使うことが求められます。

 TRPGでデザインと云えば、もっぱらシステムを制作する作業を指します。システムは該当するTRPGを遊ぶ際、遊び手に関わらず共通の遊びをさせるために設計されます。

 TRPGにおけるルールとは、TRPGというゲーム活動が健全かつ安定した遊びを提供する、社会活動しての娯楽を守るためのマナーです。マナーゆえにゲーム活動の枠組みを越えた社会活動のあり方など、人間感情の機微に触れた内容もあるが、遊び手はよくルールをわきまえ、遊び手同士がよき信頼関係を結べるよう努力するよう求められます。
 
 TRPGでは基本的にルールを決めることはデザインの範疇外とされます。なぜなら、ルールひいてはマナーは、各卓ごとのコンセンサスの下に実行されるべきだからです。最低限としてシステムの遵守と、ゲーム活動の権限や領分はゴールデン・ルールとして定められるが、細かいルールは遊び手同士の合意にもとずく判断が優先されます。
 
タグ:TRPG
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2008年09月08日

アーンソンのプレイリポートから 〜TRPGにおけるデザインとしての戦闘と、テクニックとしての物語〜

 『GAME JAPAN』2008年6月号に掲載されたG・ガイギャックスのコラム『ウォーゲームにおける剣と魔法』(発表:1974年 訳:桂令夫)によると、G・ガイギャックスがは『D&D』の基盤となる『Chain Mail(略してCM)』をファンタジーではなく、中世風歴史物MWGを目指して設計したことを窺わせる記述があります。

 『チェインメイル』の中世風ルールの開発は、1969年初頭に開始された。1971年に発売された際にはこれにファンタジー版サプリメントが付いていた。中世ヨーロッパというのは比較的人気のある時代設定であり、『チェインメイル』のルールはプレイアブルでリアリスティック、これはいける……はずだったのだがしかし、フタをあけてみると購入者の10分の9はファンタジー要素のほうに惹かれるに至った。(斜線部引用)

 そもそも、ガイギャックスのグループがCMを制作したのは、中世風MWG『グレート・キングダム』を1人1キャラで遊ぶためにあったと僕は推察しています(僕はCMの実物を確認していないので、多摩豊氏の『次世代RPGはこうなる!』に準拠しています)。現在のTRPGはおろか、D&Dのプレイ形式すら当初は想定していなかったのでしょう。
 
 だが、おまけに過ぎなかったファンタジー版サプリに人気が集中し、その中からガイギャックスとは別のグループにいた「本物のファンタジーバカ」D・アーンソンがサプリを改良して初めてのキャンペーンを行い、そのプレイリポートが起爆剤となってD&Dのプレイ形式が始まりました。

 TRPGは本来MWGを1人1キャラで遊ぶために設計されたものであり、販路をサブカル層に拡大するためにファンタジー物語の登場人物構図をTRPGのキャラクター構図に当てはめたのではないかというのがTRPGの設計経緯に関する僕の推察ですが、このガイギャックスの記事を読んだ感じでは当たらずとも遠からじってところです。

 今までの考察から察する通り、僕自身もTRPGは1人1キャラのMWGが本質であり、TRPGはファンタジー物語の構図だけは搭載されているが、物語を作り出す創作活動そのものは本来の設計思想の中に織り込まれていないと考えています。
 TRPGで物語調のシナリオを作り、皆で歓談をしながら物語を作るゲーミングの作業は、あくまでも幕間に行われた余興として発展したものであり、TRPGは物語創作を目的として作られたゲームではない…。
 
 実の所、僕がTRPGの戦闘を語る時はこうした推察から、戦闘システムと物語を別次元の存在と位置づけて語っていました。
 だが、アーンソンのプレイリポートから発展したTRPGの物語はやがて『ドラゴンランス戦記』など小説の題材としてマルチメディア化し、ゲームの本質とは裏腹にTRPGはゲームと物語が一体化した遊びとして定着していきます。それが当然の認識としてTRPGを知る人にとって、TRPGの本質は物語再生装置であり、戦闘の方が物語を演出する余興であると位置づけするでしょう。
 そこら辺の認識違いで、温度差や食い違いが生じることは十分予測されます。

 D&DやT&Tなどの古式TRPGを愛好するTRPG者には、ダンジョン探索のみに集中し物語は添え物程度と考えるダンジョンハッカーな人が多くいます。逆にTRPGは物語再生装置だと考える人の中には、物語を創作する対話ゲームこそが本質であって、戦闘はなくてもよいという人もいます。
 その両方が1つの方向性としてアリなんですけど、多くの人は1人1キャラのMWGも楽しいし、物語の対話ゲームも面白いからどっちがあってもよく、難しいこと抜きにしてそんなごった煮な遊びがTRPGなのだと感じているのでしょう。

 TRPGをウォーゲーム主体で捉えている僕は、CMからD&Dに移行するまでのデザイン変遷を推察することによって、TRPGにとってウォーゲームが設計思想の段階でいかに密接な関係にあるかを示す試みをしました。
 TRPGは物語が主体だと考えてる人、あるいはTRPGと物語をごったにしている人は、はたしてあなたたちが主題としている物語と、それを執り行う対話ゲームがTRPGの設計思想に十分組み込まれているのか、今一度再考してほしいのです。

 あなたたちはデザインの話題をしているのか。
 それともテクニックの話題をしているのか…。

 肝心なのは、デザインとはただ利用することを目的に使用する一般ユーザーにも作る目的に沿った使い方をさせるためにあるのに対し、テクニックは使用意図に賛同した者のみが使用する余技であるということです。
 僕はまだ物語や対話ゲームはデザインではなく、テクニックの領域にあると思っています。そういうことが好きな人が使えばよいという程度のもので、下手であっても問題なく遊べるのならデザインの領域ではないでしょう。
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2008年09月04日

今はいずこかも知れぬ「先輩」へ 〜コラム活動5周年〜

 ここ2ヶ月ほど、TRPG系Blog界隈の動向に背を向けるようにミニチュア・ウォーゲーム(MWG)からTRPGに移行する経路を推察し、さらに8月に入ってからはBlogそのものを放置して思索を重ねてきました。
 
 TRPG系Blogとは云え、このBlogはオフライン環境を前提とした伝統派であり、オンラインでのチャットTRPGを専門としているブロガーも数多くいる界隈の中ではいささか古めかしい立場にあります。
 さらに、仲間とは定期的に集えない自身の経緯からコンベンションでの活動を主体に話を展開しているのですが、コンベンションを渡り歩く一放浪者がBlog活動をしているのはTRPG界隈でも稀なケースなのかもしれません。
 だから、誰のために記事を書くのかという明確な相手がいないという点に於いて、普通のTRPG系Blogより難儀と云えます。自らの欲求と思索からしか、記事を書く動機がないのですから。

 まぁ、孤独、孤立はなるべくしてなったものだと理解し、むしろ気楽に構えるべきだと心得てはいます。僕自身、新しいゲームを遊ぶこと、違う人と遊ぶことを好んでいるので、実際はそんな深刻なことでもないのでしょう。

 そんなわけで、今日は気まぐれな思い出話。
 実は先月で、ScoopsRPGに初めて投稿をしてから、現在のHNでのコラム活動5周年を達成しました。当Blogをご覧になっている皆様方にはあつく御礼申し上げるとともに、これからもよろしくお願いいたします。

◆◆◆

 昔、僕が高校時代に所属していたサークルに「先輩」と呼ばれる人がいました。いつも例会が終わる頃に顔を出し、サークル幹部衆の歓迎を受けていた人でした。
 当時の僕は、外来者がキャンペーンをする幹部衆の邪魔にならないよう集めておく隔離卓のGMを請け負っていて、外来者の方々と仲良くやっていました。

 それが「先輩」の気に障ったのか知らないけど、ある日の例会終了後、打ち上げの宴席に招かれた僕は「先輩」から説教を食らうことになりました。
 正直、一緒にプレイしたどころか、プレイしている光景を見たこともない人から後輩扱いされるのは存外ですが、僕をサークルに誘ってくれた幹部やサークル代表まで、幹部衆がそろって頭を下げる人だったので敬意を払わざるをえませんでした。

 その先輩曰く、キミはこの界隈に入ったばかりだから、TRPGを何でもできる素晴らしいゲームで、TRPGのゲーマーは何でも相談できる素晴らしい友人だと思っているだろう…。
 でも、それはキミがこの業界のことに無知だからに過ぎない。
 無知だからゲームの無限を信じれるし、フロンティアでもいられる。でも実際は我々が遊んだ通りに真似をしているに過ぎず、キミの先輩にはなれても友達にはなるつもりはない…。

 要するに、いい気になるな、と。

 この「先輩」とはその後1度プレイを共にしたのですが、とりたてて印象に残るプレイをしたとは云いがたく、TRPG者としての思い出を何1つ残すことなく、ただ仕事の愚痴とガンダムの批評話だけには旺盛だったという印象以外すっぱり忘れてしまいました。

 だが、彼が若い僕に語った言葉だけは今でも憶えています。
 こういう人間を実力で叩き落していかないと、心置きなく遊べる環境は得られないぞという苦い思いと共に…。

 まぁ、その後頻繁にプレイに誘っては「すげぇ…! こんなカッコイイロールプレイができるもんだな」と唸らせるだけの人に出会って信服してしまい、彼とはリタイアするまで懇意にしていたのでさほどひねくれたゲーマーに育たずに済んだのですが…。

 リタイアもあれば復帰もあり、現在のHNでコラム活動を始めてもう5年が過ぎ、その間にも多くの出会いと別れがあって、現在は都内のコンベンションを渡り歩く身の上…。年齢もあの「先輩」に近くなりました。

 結果、出来上がったのは永遠の初心者でした。
 前世紀のTRPGを知らない若い人たちとプレイしてても、自分たちの真似をしているとも、友達になる気はないとも思いません。自分から見てはるかに青く未熟な遊び手のプレイにも心躍らされるし、平気で頭を下げられます。
 つーか、あれだけ散々「もうこの業界は終わった」と絶望したゲームを未だ続けられることが正直嬉しくて仕方がない。自分が見捨ててた間も辛抱強く受け継いでくれたことに感謝したいのです。

 その喜びに比べたら、小集団相手に先輩面してお山の大将を気取れる楽しさなどゴミに等しい。そこで満足してタコ壷に入っていたなら、回転翼というブロガーはいなかったでしょう。せいぜい、後輩たちの離脱とともにゲーム活動を「卒業」し、それっきりでしょう。

 その「先輩」が現在もゲーム活動をしているかは不明です。
 彼自身は年齢からTRPGの黎明期を体感した世代であり、熟練ゲーマーたちに頭を下げさせる経験と貫禄はあったのでしょう。だが、1人のゲーマーとして善良であっても、組織の重鎮としては自らの影響力を誇示するばかりの「得体の知れないOB」でした。
 彼の目には、現在のTRPGはどのように映っているのでしょうか。

 そして、自分が今プレイできる幸せを楽しんでいるTRPGは幻想なのでしょうか。それとも確信できる何かがあるのでしょうか…。

 分かりません。
 ただ、果てしない可能性と無際限の夢を与えてくれる素晴らしい道具だとの思いは今も持ち続けています。「先輩」の言葉は今もTRPGが与えてくれる喜びが何物なのか、僕に問いかけ続けています。


 
タグ:TRPG
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2008年08月24日

なぜTRPGがプレイヤー間対立ではないのか

 どうもお久しぶり。
 まさか20日以上も記事を書かずに遊び呆けるとは思ってもいませんでした。近場ですが旅に出たし、コミケでも存分に遊びました。おかげで夜は眠くて眠くて、執筆する気が起こりませんでした。
 
 そんなわけで、今日もTRPGのメカニズムについて考察。
 こういう記事ってのは地味なのであまり人気は出ないんですよね。
 人目を引く記事ってのは不安と狂気を煽り立てるのが手っ取り早いわけでして、そうなるといかに業界の危機を煽動するか、さもなくば自分はいかにエキセントリックかをアピールするかなんですよね。
 まぁ、それをやるには近頃の僕は無難でダメなわけでして。

◆◆◆

 TRPGは複数人のプレイヤーvs1人のGMというゲームとしては奇妙な形式を採用しています。しかも、運営役も兼ねたGMは対立者というより試練を与える教導者であり、遊び手本人同士は全員が協調しているというゲームらしからぬ構図をしています。

 この構図からTRPGのゲームとしての特性を見出せず、TRPGはゲーム活動ではない何かなのではないかと考える人もいることでしょう。

 僕は先月、ミニチュア・ウォーゲーム(略してMWG)からTRPGに移行する間に起きたゲーム要素の変化を何度か推察してきました。そこでTRPGはMWGを1人1キャラで遊びたいという動機から、徐々にゲームバランスを取るべく整えられたシステムだというのが今までの推察です。

 だが、この推察だけでは現在の「多人数プレイヤーvsGM1人」の構図が定着した原因を特定するまでには至りません。元のMWGがプレイヤー間対立というゲーム本来の構図であることを考えれば、TRPGは単にMWGを1人1キャラで遊ぶために改造しただけのゲームではないと云えるデザイン思想の変化があったのではないのでしょうか。

 そして、変化がなければTRPGは現在のTRPGの姿をしていなかった可能性もあります。

 MWGを1人1キャラで遊ぼうという時点で、TRPGは現在とは違うゲームに進化する可能性がありました。
 1人1キャラでは死ねばゲームオーバーですが、MWGと同じ運営方法で行われているTRPGでは脱落でしかありません。プレイヤー側が全滅するまでプレイは続行されます。
 ここで「誰が最後まで生き残るか」がゲーム目標になっていたら、TRPGは違ったゲームになっていたかもしれません。あるいは、バトルの対立構図をマルチゲームのようにPC間対立にすれば、より早い時期に『ルーンバウンド』と同様のゲームになっていかもしれません。

 だが、ガイギャックスらのグループはあくまでも対局の構図にこだわりました。さらにモンスター側をGM1人に専任させ、プレイヤー側が共闘する現在の構図を堅持しました。もしMWGとしてバランスを取りたいのであれば、モンスター側にも同数のプレイヤーを割いて互角の人数による対局にしたでしょう。

 なぜガイギャックスらがゲームの対立構図をプレイヤー間対立ではなく、「多人数プレイヤーvsGM1人」の構図にしたかは、彼らが思想的基盤にしていた『指輪物語』が影響していたのではと僕は考えています。ガイギャックスらはゲームの販路を当時『指輪物語』に傾倒していた米国サブカル層に求めたわけですが、彼らにゲームを体感させるためには、指輪と同じような「旅の仲間」の構図にする必要がありました。
 
 販路が従来通りMWGゲーマーのみであったなら、ゲームとしての対立構図を明確にして彼らの競争欲を煽り立てたでしょう。だが、物語を体感したいサブカル層にことさら競争を煽るのは逆効果です。なぜなら、元々は繋がりが薄いサブカル層がコミュニティに集って求めるのは気軽に打ち解ける「同志」であり、対戦に勝ち抜き自らを誇示するゲーマーとしての意図は持ち合わせていないからです。
 
 販路をサブカル層に移したことで、TRPGは交友を促進するツールとしての機能が求められ、その結果現在の構図が生まれたのではないでしょうか。だとしたら、「多人数プレイヤーvsGM1人」の構図にゲーム特性が見出せないのも当然です。ゲームのための構図ではなく、交友を促進するために作られた構図なのですから。

 さて、色々な変遷を経てTRPGはバトルゲームとして独立し、『指輪物語』とともに発展していきました。それとともに、TRPGキャラの物語的意義も膨らむようになり、いつからは定かではないがシナリオが登場し物語世界を語り合うプレイスタイルが定着していきました。

 なぜTRPGに物語がついたかについてはまだ未推察なのですが、おそらくゲームとしてではなく、思想的基盤として用いた『指輪物語』の影響があるかと思います。ゲームの一要素として物語を取り入れたいというのではなく、『指輪物語』みたいなファンタジー物語を語り合いたいという要望が根源にあったかもしれません。
 もしTRPGがプレイヤー間対立の構図であったなら、プレイヤー同士は勝利するべく腹の探りあいをし、仲間同士打ち解けて物語を語り合う環境にはならなかったかと思います。

 『D&D』を取り巻く環境も、指輪が主でTRPGが従だったのでしょう。『D&Dエキスパートルール(通称青箱)』によってMWGから物語再現装置への道を進むことになりました。

 今日はここまで。
タグ:TRPG 指輪物語
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2008年07月31日

軽戦士に戦理はあるのか

 東京では『ウォーハンマー』がよくプレイされています。
 『アリアンロッドRPG』、『ソード・ワールド2.0』に次いで3番目に卓が立つファンタジーTRPGではないでしょうか。この3作に『六門世界RPG』辺りが次点にきて、他は毎度のプレイは期待できません。
 システムが分かりやすいってのもあるけど、あの特濃な世界観でよく受けたなと思います。

◆◆◆

 過去3記事で、TRPGがMWGから派生する間にいかなるデザインの変遷があったのかを推察してきましたが、これはTRPGが『D&D』以来30年以上、戦闘システムの基幹をターン制と対抗判定という『Chain Mail』以来の伝統的なスタイルを継承する理由を解題するためにありました。
 そして、この執筆にあたって僕は1つの仮説を立てていました。
 すなわち、TRPGの戦闘システムが不変なのは、それがTRPGのゲーム形式そのものに起因しており、MWGから遊び方を移行していく中で遊び手の立場や欲求に適応していった結果なのだからではないか、と。

 もしこの仮説が正しければ、ちょっとした小手先の変化ぐらいではTRPGの戦闘システムは変化しないことになります。そして、推察は仮説を肯定する方向で進みました。

 TRPGの基幹である「1人1キャラのプレイヤー数人と、モンスターを一手に引き受けるGM1人」の構図自体が、「プレイヤーは自駒の保全がゲーム目標と化し、そのために連携して各個撃退を始める」という展開を生み、不均衡な構図を互角にするために「連携するプレイヤー集団vs強力なモンスター単体」の戦闘に落ち着くわけです。

 もちろん、構図が同じであれば戦法も鉄則が生まれます。

 まず、PC側は何ラウンドも悠長に戦える余裕がありません。
 相手も高い数値修正を持っているので防御判定も確実ではなく、毎ラウンド深刻なダメージを受け続けるのが常です。持久戦は不利な相手なので、速効で最大攻撃力を叩き込むことが求められます。

 そのためにダメージの高い両手武器を装備し、特技などもダメージを増加させる物に特化されます。防御判定がアテにならないので、回避を期待せずACとHPの高さで凌ぐしかありません。そのため、高いACを持てる……硬い鎧を着れるクラスが前衛として不可欠になります。

 すなわち、対ドラゴン戦……TRPGで最も完成度の高い戦闘場面では片手剣などの中途半端な性能の武器や盾、格闘家や軽戦士など大したダメージを与えられないクラスなどは役立たずになる恐れがあるということです。
 これらの高機動力、高い回避能力、多彩な技能を誇る装備やクラスは互角以下のモンスター数体を各個撃退する「見せ場戦闘」にこそ威力を発揮するものと云えましょう。威力と云ってもイニシアチブを取るため程度で、いくら先制攻撃しようが機械的に対応するモンスター相手では電撃戦の意義はまるでありません。素早さの代償として低ダメージの武器しか与えられない軽戦士のやることなど先制してモンスターの頬をはたく程度のことです。
 実の所、後衛の支援が会えば前衛が鈍重でも何ら問題なく、例え先制できなくても敵が来るのをのんびり待てば問題ありません。重戦士は支援ある限り揺るがない優位を保てるTRPGで最も安定性の高いキャラなのです。
 本当、TRPGにおいて軽戦士の類は単に上級者向けというより戦理に合わないクラスと云えましょう。 それに成長でも重戦士は能力強化に加えて装備でも充実してくるけど、軽装備にこだわる軽戦士は大した装備が持てなくてどんどん先細りしていきます。

 第一、固定値であるACとダイス目修正の回避能力が天秤にかけられるってのがおかしいわけで、出目次第でご破算になる回避能力よりは、運がいくらなくとも適応されるACの方が確実にキャラを保全させる力があります。

 それでも懲りずに設定され続けているのは、口だけの世界では軽戦士必勝法がどこかにあるってことなんでしょうか。現場じゃとんとお目にかかりませんけど。
 
 それでも、んじゃ軽戦士いらないって云うのも夢がありません。

 重戦士でいくことが戦理である現在の戦闘システムを改善するのが根本的な解決策ですけど、それにはキャラクターの保全がゲーム目標であるTRPGの仕組みそのものに手を加える必要があるかと思います。
 
 今日はここまで。


【関連記事】

夢世界の双刃剣、現実世界の巨剣 〜TRPGにおけるデータの有為無為とムダ〜
 
タグ:TRPG
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2008年07月24日

なぜドラゴンはTRPGの主役になりえたのか

 またしても地震。怖いです。
 東北地方の方々、お気をつけてください。

 今日も前回の続き。
 MWGからTRPGに移行するプロセスの中で生まれたボス敵の存在についてです。

◆◆◆

 TRPGは1人1キャラで、陣取りなどの大局的目標がなくPCを保全することが目的の戦闘ゲームですので、プレイヤー側は戦力を集中し各個撃破を仕掛けるのが常道になっています。
 これに対してモンスター(GM)側は、無制限の防御判定と数値修正、ACなどの1キャラを保全するシステムの壁に阻まれ、弱い敵はいくら出しても歯が立ちません。
 互角以上の敵を出しても、PCの保全という微視的な目標しかないTRPGでは、プレイヤー側の敗北はがっかり感しか与えません。ゲームとしてより多くの遊び手を幸福にしなけはれば支持されない実情を顧みれば、GMは最終的には1人負けするように計らわなければなりません。

 ここまでが前回のおさらい。
 
 この時点でTRPGはウォーゲームとしての目標がレイムダックし、物語作りを演出するトライアル的な存在になっていきます。すなわちTRPGでの戦闘は、勝敗よりもいかに試練として試し甲斐があるかの方が重要になってきたのです。
 そうなると、戦闘に対するコンセプトそのものが変化していきます。もはや用なしとなった「陣」と「駒」は抽象的なイメージに簡略化され、プレイヤーが連携して集団行動を取ることを前提に対処されたモンスターが用意されるようになったのです。

 つまり、連携するプレイヤーたちに対し、連携はしないが互角に戦える相手であり、なおかつプレイヤーたちをジリ貧にして士気を下げさせない短期決戦に向いたモンスターです。
 そこで登場するのが、圧倒的な巨体とネームバリューを誇る単体のボス敵です。

 PCの堅牢な数値修正やACをブチ抜き、一撃でHPの1/3から半分ぐらいを奪う圧倒的な打撃力と、集中砲火を受けても数ターンは耐えうるHP。それに後衛の油断を突く全体攻撃…。
 このような圧倒的なモンスターを1体だけ出すことにより、プレイヤー側に一か八かの大勝負を感じさせる緊張感を与え、負けた時のがっかり感を軽減させることができます。仮に負けても、あんな圧倒的な敵では仕方がないと甘受できますし、1体だけなら倒せる望みを保持し続けることができます。すなわち、悔しさの矛先がGMに向きません。さらに、全員が同じターゲットを攻撃しているので、プレイヤー側の目が戦功争いよりも団結に向き、プレイヤー間にまとまりがつきます。

 すなわち、団結し役割分担を駆使するプレイヤーチームvs圧倒的な攻撃力を持つ強大モンスター単体という構図がTRPGの戦闘としてもっとも白熱し、なおかつ娯楽として安泰であるということです。

 幸運なことに、ファンタジーTRPGの世界ではドラゴンというボス敵の条件を満たしたモンスターがいました。
 実の所、聖ゲオルギウスやジークフリードなど神話伝承には竜退治のエピソードがありますが、当時のファンタジー愛好家たちの聖書であった『指輪物語』にはドラゴンは登場していないわけで、ガイギャックスらがどうしてドラゴンをタイトルに冠するほど主要なモンスターに抜擢したのか定かではありません。
 もし、ガイギャックスらが指輪物語に固執していたら、バルログのような妖魔がボス敵に設定されていたかもしれません。あるいは、版権上バルログの名を出すことが出来なかったが、ボス敵のロール・モデルとして意識していたかもしれません。いずれにせよ、彼らの手によって神話伝承の存在であったドラゴンはゲーム世界の登場人物として設定がつけられ、今日のファンタジーでも使われている姿へと定着していったのです。

 日米ともにTRPGで最も好まれているのはファンタジーですけど、それは1人1キャラ戦闘に最も合致したドラゴンというモンスターを創造できたことが一因としてあると思います。
 SF、サイバーパンク、スチームパンクなどファンタジー以外のTRPGではドラゴンに相当するボス敵を創造することができず、結果としてトライアルの対象としてファンタジーほど明確なモチーフを提唱できず、ゲーム目標がぼやけてしまっています。そのモチーフの不明瞭さが、シナリオ創作やプレイヤー募集においてネックとなっているのでしょう。

 続きは次回。
タグ:TRPG ドラゴン
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2008年07月20日

GMは娯楽文化としての立場のために負けなければならない

 社会人層のTRPG離れが著しいという意見がありますけど、まず趣味と仕事を両立できる環境を育てないといけないという点で、全ての趣味文化共通の悩みと云えましょう。

 まずは、休日は静養以外に選択肢がないという層に、いかに精力・活力をつけさせるかという課題を解決しないとダメでしょう。そのためには滋養ある食事、適度な運動と健康な体作りが必要ですけど、まず第一に大事なのは、十分な睡眠を取ることです。それも夜間の睡眠は大事です。

 そのためには夜間のネット利用は慎むべきなのですが、それにはまず「昼間にネットで遊んでいても軽蔑されない」環境にしなければなりません。昼間ネットにいるのは無職引き篭もりだけなんて揶揄が罷り通っていたら、誰だって夜しか利用しませんよ。

 今日は前回の続き。
 このBlogはあくまでもTRPGが生活の中で両立できている人のためのBlogです。
 
◆◆◆

 防御判定によって1人1キャラの戦闘ゲームはようやくバランスが取れ始めてきました。だが、バランスが取れたことにより今度は設定の中から非合理的な存在が生まれ、ゲームとしてムダが出てき始めてきました。

 それは「駒」の重要性です。

 TRPGの戦闘システムは攻撃判定vs防御判定のダイスバトルが基調ですが、ユニットの戦闘能力を表現するために実力を数値修正にて補正しています。
 これによって、数値修正およびダイス目による達成値で防御判定の最低値を上回れないユニットが打撃を与えることが不可能になりました。これはクリティカル・ファンブルによる無条件成功・失敗の要素が発明されることにより完全ではなくなりましたが、仮に攻撃が成功しても圧倒的な数値修正差がつくほどの相手ともなればACやHPも総体的に高く、十分なダメージを与えられないのが実情です。

 こうなると、モンスター側はいくら数を揃えても「叶わない相手には徹底的に叶わない」ことになります。何百とゴブリンを揃えても、高レベルPC相手に一撃を与えることすらできません。
 DM側は果てしない徒労を強いられ、プレイヤー側は退屈な虱潰しになるわけで、この時点で「弱敵」の存在がいらなくなるのです。

 防御判定と数値修正によって、もはやTRPGでは頭数は戦力たりえない要素になったのです。「守るべき存在のいる侍と雑魚1万、どっちが強い」という問いに侍だと即答できるという『天羅万象』のデザインコンセプトは別に突飛な発想ではなく、『D&D』の時代からあるTRPG戦闘システムの極端な結論でもあったのです。

 こうして、TRPGではプレイヤー側と同等以上の数値修正を有したモンスターとの戦闘が伯仲することが判明したのです。各レベルごとに互角だとランク付けされたモンスターか、用意されたPCと同じレベルのNPCが自然に伯仲する相手となります。

 互角の戦力同士になって、ようやくTRPGはバトルゲームとしてバランスが取れたかに見えましたが、ここでまた不合理が発生したのです。

 それは「DMが勝つ」ことの重要性です。

 数値修正的に互角の敵を揃えてもプレイヤー側は戦力の集中と各個撃退によって、戦力を削ってくることが可能です。対するDM側はそうした戦術を多用することはアンフェアとされ、極力無軌道に行動することが求められています。
 これは増援という形で新たに戦力を増強できる立場のDMへの抑止効果もありますが、何よりもプレイヤー側が不利な状況に立たされることによるプレイヤーの士気低下が、思った以上に深刻な悪影響を与えることが分かったからです。
 TRPGではモンスター側の勝利が、複数いるプレイヤーに不幸な虚脱感しか与えなかったのです。

 ゲームならば娯楽として最大多数の幸福が実現したほうが安泰なのですが、戦闘ゲームへと一歩微視的な立場で楽しむTRPGではPCの保持以上の大局的な楽しみを提示しづらく、より多くの遊び手を楽しませるには複数いるプレイヤー側がキャラを保全しやすい立場にあるのが道理になります。
 すなわち、DMが1人負け役を引き受けることが、多くの遊び手が楽しめるためには必要だったのです。そのためにTRPGではモンスターはあくまでも非知性的であって、DMはあくまでもプレイヤーの楽しみを引き立てるために戦術を多用してはならないというマナーが次々と提唱され、不文律として成立しています。

 かくしてTRPGはより多くの遊び手を幸福にするために、戦闘ゲームからPCの活躍ぶりを演出する出来レースへと変貌することになったのです。もはや戦闘は伯仲はするが最終的にはプレイヤー勝利へと流れていくのが最も妥当な方向になりました。
 
 もちろん、これではゲームとしての楽しさが大きくレイムダックしてしまいます。いくら多数の幸福のためとは言え、勝者と敗者の数的バランスが取れてこそよきゲームとなります。多数でDM1人に勝っても大した優越感は得られないのです。
 多数のプレイヤーと1人のDMという圧倒的な人数差の中で、勝者敗者のバランスを取るためにはどうすればいいのか…。
 それは次回。
タグ:TRPG
posted by 回転翼 at 09:01 | TrackBack(0) | TRPG雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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