2008年07月13日

ミニチュアウォーゲームからTRPGになるまでの間にあったゲーム要素の転換

 よく「次回」などと銘打ちながらテーマを続けないことがあります。
 それは単純に反応が鈍かった記事でして、アクセス数が伸びなかったり、はてなブックマークがつかなかったりして、あまり食いつきが良くなかった記事はテーマとして打ち切りにしています。
 食いつきが悪いテーマを根気よく続けるのは時局を読めないわけですし、そういう記事は公表するよりも下書き段階で暖めた方がよい。むしろ今スラスラ書ける話題に転換した方が硬直せずに続けられるというのが僕の姿勢です。

◆◆◆

 TRPGはミニチュアウォーゲーム(略:MWG)の派生として生まれたことは本Blogで何度か取り上げました。MWGに興じていたG・ガイギャックスらのグループが、それまでユニット(軍団)を率いていたMWGを1人1キャラにしてはどうかと思いつき、そこから試行錯誤を経て『D&D』の前身である『Chain Mail』が誕生しました。
 そして『D&D』からモンスター側と審判の役割が統合されたDMという遊び手が発明され、1人1キャラ担当のプレイヤー数人対モンスター集団を1人で扱うDM1人という図式になりました。

 これがMWGからTRPGが派生した「神話」なのですけど、この派生に至るまでに、どのようにゲームが改造され、コンセプトが設計され直されたのか詳細な記録は残されていません。
 今回は、MWGからTRPGに移行するまでの間にどのような変化があったのかを推察してみようかと思います。

◆◆◆

 MWGはSLGであり、その基本はチェスと同じ陣取りゲームです。
 陣取りゲームは各駒の性能を活かし、行動範囲が決められた盤面上で交互に駒を動かし、最後は陣取りを制して相手を詰みにすることを目的としたゲームです。MWGは駒がユニット、盤面がジオラマや六角マスのボードに変化しただけです。

 さて、チェスやMWGは共通の特性が1つあります。それは最終的な勝利のために、駒を生かす必要がないということです。陣を確保するために捨石になる駒、役目を終え盤を埋めるのみの駒など、駒は活かされるのみならず、殺されるためにも使われるということです。
 これは遊び手に、最終的な勝利のためにどう駒を使い、なおかつどう駒を捨てるかという視点を与えます。陣取りゲームの遊び手は犠牲を厭わないのです。

 これが1人1キャラになると、駒の死=ゲームオーバーですから駒を殺して陣を取る意義がなくなります。各個が自駒の保全を目的に動くので、プレイヤー側には陣取りの勝利という巨視的な見方をする人がいなくなりました。
 陣取りに勝つために、自分がゲームから脱落することを納得させるのは中々難しいことですし、それを他者に強要することはもっと難しいことです。

 この時点で、各個が自駒の生存のために動くプレイヤー側と、モンスターを活かすことも殺すことも自在なDM側とで遊び手の立場が異なるようになり、ともするとDM側の方が有利な環境になりました。
 駒を捨てられないプレイヤー側と、全体的勝利のために捨て駒を使えるDM側の方が手堅く陣を取れるでしょうから。
 この絶対的な戦力の不均衡を是正するために、後にTRPGの方向性を決定付ける観念が導入されることになったのです。

 それが、「無制限に使える防御判定」です。

 防御判定に成功する限り、無制限に駒を保全することが可能ですし、無数の敵にも対応できます。HPにも駒の耐久性を上げる効果はあるにせよ、無制限に駒を保全できる可能性を与えたのは画期的な観念と云えるでしょう。
 
 そしてさらにPCの生存率が高まるように、食らったダメージの総数を軽減できる装甲によるアーマー・クラス(AC)という要素も発明されました。これも無制限です。

 防御判定とACによって生存率が大幅に上がったプレイヤー側は、モンスター側との戦力差を埋めるべく従来の陣取りゲームでは想定外の戦法を取り始めました。プレイヤー側が集結し、DM側のモンスターを1匹ずつ各個撃退し始めたのです。陣取りをするために犠牲を強いることを辞め、とにかく生き残るために相手の駒を虱潰しにし始めたのです。
 この現象により、DM側も陣取りゲームをする意義が失われました。陣を守る必要がなくなったプレイヤー側が固まってモンスターを潰すことに専念するのですから、DM側の戦術も単純な戦力投入しかなくなります。
 
 かくして、1人1キャラという前提に無制限の防御判定、集結と各個撃破という戦法によってTRPGは「陣取り」という大目標を失い、結果として戦術ゲームから戦闘ゲームへと一歩微視的な立場で楽しむゲームへと変化していきました。

 さらにキャラの性能を表現すべく発明された「数値修正」によって、TRPGはMWGから完全に逸脱した新しいゲームと変貌していくのです。そこから先は「気が向けば」次回。
ラベル:TRPG D&D MWG
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2008年07月08日

ソード・ワールドの話題力

 『ソードワールド2.0』をようやくプレイしてきました。
 発売前にF.E.A.R的だという声がありましたけど、『アリアンロッドRPG』とは違う、紛れもなくかつてSWで体感したSNEのゲームでしたよ。
 世界観のくだらないムダ話で話が弾むトコとか、マンチキンというかセコい裏技……ターン終了の直前ごとにアンビエント歌ったりとか、ペットの蛙を手榴弾よろしく投げ込んだりとか……があったりとか。

 TRPGの数値修正で完璧なデータバランスを取ることは難しいもので、どこかに脆弱性があって不均衡なキャラメイクや戦法が生まれてしまいます。それでゲームがヌルくなったりすると糞ゲー扱いされるものですけど、TRPGに関しては完璧なデータバランスのゲームよりは、珍妙な裏技があって笑えるヌルさがある糞ゲーの方が楽しめるものです。
 コンシューマーなどのソリティア(1人遊び)ゲームだと、個人的な欲求を満たす目的でプレイしているわけで、そこにゲームの愛好者として高次な目的意識を求めれば技量の研鑽や隅々まで確認した見識など、エキスパートとしての求道を目指すのが自然です。
 そういう世界だと、道具としては扱いの難しい名器が玄人面しやすく尊ばれるものでして、ヌルさや奇天烈ぶりのあるゲーム=糞ゲーの烙印がたやすく押されてしまいます。自分を高い所に持って行きたいのですから、なまくら物は価値なしとされるわけです。

 一方、TRPGは対話で盛り上がった者勝ちのパーティです。歓談のネタとして道具を使うなら、それはいびつで滑稽な、突っ込み所満載だけどそこが面白い器の方が好まれます。
 こっちの世界は面白いもの勝ちであり、どんなに1人でゲーム通たらんと望む者としてヌルい糞ゲーだと感じても、そのヌルさ、奇天烈ぶりがセッションの面白さを加味する材料たりえるならば、名器よりはなまくら物の方が味があってよろしいとなるわけです。

 SWもそうでしたけど、どの卓に行っても笑い話になるネタがあって、それで笑い合ううちに自然と打ち解けあえるってのはこの作品の目に見えない実力なのだなと思います。

 
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2008年06月30日

遊び手が物語を自作するTRPGモデル 〜未完成ノートその4〜

 TRPGは物語再生装置だとし、その醍醐味は共有できる物語を共同制作していくことだとしている僕のTRPGは、遊び手に物語を作ることを要求します。シナリオの方向性について頻繁に判断を要求しますし、NPCもそれぞれの思惑のもとに自立的に行動します。

 そのせいでしょうか、僕のセッションにはオーバーヒートしてしまう遊び手が結構見受けられます。セッションを続ける気力が落ち、黙り込んでしまう人や、シナリオを放棄しようとする人など、物語を作る判断にギブアップしてしまうのです。
 結局、GMである僕が物語を収束し、GMの吟遊詩人で幕が下りるケースもしばしばあります。物語の舵取りをプレイヤーに任せたのに、先にプレイヤーが疲れてしまい最終的にはGMの1人語りになってしまう…。

 なんとかせんと、こっちも疲れてしまいます。

 そんなわけで、今日はGM・回転翼のシナリオにある対話ゲームの仕組みを少し整理してみます。デザインコンセプトの構想なので、例によってノート扱い。

◆◆◆

 僕もかつては葉鍵厨(『ToHeart』と『Kanon』の直撃世代)でしたのでビジュアルノベルの手法が影響しています。そしてBlog活動を始めてから、鏡氏や高橋志臣氏など、自由や創造性を重視するゲーマーの方々と意見合わせしてきた経緯もあり、TRPGを遊び手の自由な発想が活かされる創作ゲームとして形成してきたのだなと思います。

 遊び手が物語の主役であるべきと考えていますから、GMが干渉するのはシステムやタイムスケジュールなどの自然神的役割だけで、シナリオ展開は極力プレイヤーのやりたい事を成す事に専念します。

 僕にとってTRPGのシナリオは1つのゲーム作品であり、遊び手が異なるごとに違うセッションを提供できることを理想としています。遊び手がヒロイックを望めばヒロイックな展開に、ミステリーを望めばミステリーな展開ができる……。それを可能とするために、幾多の分岐が存在するシナリオ群を用意する必要がありました。
 遊び手の行動次第で幾多の分岐して存在するシナリオフラグの中から、遊び手が追い求めた展開にあったフラグが立ち、求めなかったフラグは封印されます。
 具体的にはそれぞれ目的と思惑、行動スケジュールを持ったNPCを複数用意し、遊び手が興味を持ったNPCを中心に物語が進みます。

 それだけだとビジュアルノベルそのまんまですから、複数の分岐NPCを個別に動かして、プレイヤー各人ごとに別のフラグを発動させます。これによって、パーティ各人ごとに物語上の役割分担をさせることができますし、個人目標とパーティ目標のジレンマを生じさせることもできます。
 もちろん、各人が個人目標達成のためにバラバラに行動しないように、定期的に集結させ、ミーティングの時間を取らせます。遊び手は自由に対策を考え、利害を調節することが可能です。

 多くのTRPGではキャラクターがなぜ冒険をするのか動機付けをするライフパスを用意していますので、NPCの設定はライフパスに応じるパターンに従って作ります。金銭を求めるキャラには大金の匂いをちらつらせたNPC、復讐者であるキャラには、復讐対象に関係ありそうな雰囲気のNPC、といった具合です。
 これによって、遊び手をシナリオから脱落しかねない行動……シナリオの舞台から抜け出そうとすることを阻止するようにします。

 シナリオのタイムスケジュールは曖昧でよいから行い、ゲーム時間1週間ぐらいで物語が自動的に収束するようにします。遊び手が友好的な行動をしなかった場合、最も関わりを持ったNPCが目的を達成し、関わりの薄かったNPCが犠牲になります。遊び手の行動に当事者感覚を持たせるために、NPCの行動には必ず他NPCの犠牲がつくように設定します。

 結果として、この形式はビジュアルノベル的に動く箱庭世界と分岐NPCの前に、TRPGのロールプレイと対話ゲームを以て遊び手自らが顛末を演出する展開となります。
 このゲームで遊び手たちは「自分たちはこういう価値観であり、こういう物語がしたい」という意志を明確にする必要があります。

◆◆◆

 …ざっとまとめてみたけど、これを簡単に理解させないとオーバーヒートさせちゃうんですよな。
ラベル:TRPG
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2008年06月26日

リアル薄刃乃太刀 〜インドの奇剣・ウルミー〜

 『るろうに剣心』にて、刀狩の張が使った「殺人奇剣・薄刃乃太刀」のモデルになったであろう剣がインドにあることを知り、好奇心に任せて調査してみました。
 
 その名をウルミーと云います。
 この武器、TRPG系資料では『武器事典(市川定春著/新紀元社)』、『武器だもの(武器ドットコム著/幻冬舎)』、そして『The Compendium of Weapons,Armour & Castles(マシュー・バレット著/パラディウム・ゲームズ)』にも掲載されていません。当然ながら、『D&D』、『T&T』など、TRPGにはまったく登場していない武器だと思われます。

 Urumi/ウルミーはインド南部・ケララ州に伝わる伝統武術・カラリパヤットで使われる剣です。ウルミーはChuttuval/チュッタバル(コイル状の剣ほどの意)とも呼ばれ、英語ではフレキシブル・ソードと訳されています。
 長さは4〜5.5フィート(120〜165cm)。グリップには護手がつけられています。何より特殊なのはその刀身で、粘性の強い鋼で作られたとおぼしき刃はゼンマイのように巻くことが可能です。普段は巻いたり、ベルトのように体に巻きつけて所持するようです。戦闘になると鞭のようにしごいて伸ばします。刃が複数本あるウルミーも存在します。
 剣ではあるが攻撃方法は鞭に近く、乱戦に向いているが自傷する危険も高く熟練した技量がいる武器であり、カラリパヤットでは一子相伝の武術とされています。ケララ州では突き技による剣術が発展しなかった(おそらく暑さの影響で鎧が発展しなかったからかもしれません)関係でウルミーが広まったとの事。

 ケララ州に伝わる叙事詩「Vadakkan Paatukkal」ではウルミーを操る女剣士・ウンニアルチャの物語があります。この叙事詩が作られたのは16世紀のようですから、その時期にはウルミーが存在してたと思われます。

 …以上がWikiなどで調べたウルミーの大まかな解説です。
 では実物がどんなものか、YouTubeにあった画像をどうぞ。

■Urumi fight in Kalarippayattu, Kerala



 もし『アリアンロッドRPG』で再現するなら、こうでしょうか。データは適当ですので使用するなら各自ローカライズしてください。

▼ウルミー
種別:長剣 Lv:4 重量:3 命中修正:−1 攻撃力:+5 行動修正:−1 射程:至近 装備部位:片手 価格:100

◆参考

 カラリパヤットとマラカーンプ
 インド武術を紹介するサイト。Vadakkan Paatukkalが掲載されています。

◆追伸(08/8/1)
 
 『GURPSマーシャルアーツ』にウルミー載っていました。
 これは盲点。
 
 
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2008年06月22日

語り部よりも映像 〜TRPGの戦闘は時代遅れになったのか〜

 親御さんが騒いだために白雪姫を25人で演技したという話をネットで知りましたけど、たとえ25人を並べても舞台の立ち位置で中央か隅っこかに分かれるのだから、結局平等にはなりません。
 そんなら25日かけて配役を持ち回りし、25回公演した方が平等だと思いません?

 今日はTRPGの戦闘が時代遅れになったのではという話。

◆◆◆

 TRPGがミニチュア・ウォーゲーム(MWG)から派生したのはこれまで何度か取り上げました。MQGに興じていたガイギャックスらのグループが、1人1駒だと駒に愛情湧いて楽しくない? と考えて作った戦闘システムが『チェインメイル』であり、そこに物語的要素……『指輪物語』的ファンタジーを演出するギミックを搭載したのが『D&D』です。
 『D&D』から31年。TRPGは大方『チェインメイル』で形成されたバトルゲームの基調を踏襲しています。

 『MGS4』をプレイしつつ、僕は思うのです。
 TRPGが提供するバトルゲームは、FPS(Frame Per Second/一人称シューティングゲーム)の出現によってその優位性を完全に喪失したのではないのか、と。これにMt:GなどのTCGを加えれば、TRPGのバトルゲームはより楽しく、より訴えるものが大きく、より手軽な存在になった他のゲームによって、ゲームを楽しむうえでの醍醐味を剥奪されたのではないのでしょうか。

 TRPGの戦闘システムの何が楽しいのかと云えば、

1:自分で設計したキャラを操り、バトルゲームに参加する楽しさ
2:駆け引き、やり取りのゲームの楽しさ
3:戦闘をロールプレイする楽しさ

 このうち、2に関してはこの記事にて取り上げています。TCGはカードという便利な道具を使って、TRPGのやり取りの道具であるコマンドを分かりやすく演出しています。また、収集と編成というTRPGにはない要素によって収集欲を発動させ、ただ記載されたデータを記述するTRPGのコマンドよりも高いモチベーションを醸し出しています。

 FPSに取って代わられた楽しさと見ているのは1の楽しさです。
 僕はそんなにFPSをプレイしているわけではないので確信は持てないのですが、TRPGはキャラクターの視点になってゲーム世界に投影をするという一体感が楽しいゲームでもあるわけで……あなたもこんな素晴らしい体験ができるよって呼びかけはガイギャックスですらしている……、やっぱりそれは対話によるイメージよりも、圧倒的なグラフィックと音響によって作られたデジタルゲームの方が強いんじゃないのかな。
 
 あと、3の楽しさはどうでしょうか。
 エキサイティングな戦闘こそ楽しいという人もいますけど、それならFPSの方がエキサイティングです。中にはモンスターを狩ること自体の快感が楽しいと説く人も昔はいましたけど、それなら『モンスターハンター』やればいいのだし、より率直に血が見たいなら『POSTAL』でもやればいいのではないでしょうか。

 ちなみに僕は、『POSTAL』の出現を以て、『バイオレンス!』のゲーム的使命は完全に終わったと思いました。

 他にも色々あるでしょうけど、僕はTRPGの戦闘システムが2008年現在、他のゲームよりも優れている要素は、新しく見つけない限りないのではと思っています。あくまでもTRPGの物語を彩る道具であり、メインとして醍醐味の第一位に設計するのはどうなのでしょうか。

 あと、この手の主張をすれば、別に優れている要素などなくてもいい、伝統を堅持すればファンはついてくるという意見を云う人もいるでしょうが、そういう人たちは今TRPGではなくMWGを好んでいるのではないかとも思うのですよ。

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ラベル:FPS TRPG
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2008年06月15日

一般装備の存在感が薄すぎる 〜TRPGのセッションに直結しないデータ・設定〜

 『シルバーレインRPG』を購入。
 システムや世界観についてはまだよく分からないのですけど、このキャラクターシートだけはいただけません。レイアウトがゴチャゴチャしてて、システムの主要箇所と端書の区分が出来ておらず、これではどこから目を通せばいいのか、目眩がしてきます。
 はっきり云って美しくない。せっかくフルカラーにしたのに、デザインの面でも機械的過ぎて興を殺ぎます。グループSNEの悪い面が出たなという感があります。

 今日はTRPGの中で存在感が薄れているデータ・設定についてです。

◆◆◆

 TRPGでいわゆる一般装備と呼ばれるデータは、データとして省略される傾向にあります。キャラクターシートでも端書設定であり、多くのGMが一般装備にかける手間と時間を惜しみます。そしてセッションではまず見向きもされません。
 そもそもキャラクターの不足を補う意味で必要だった一般装備は、技能の細分化・データ化によって取って代わられた印象があります。10フィート棒で地面を叩く必要は、GMが親切丁寧に使う場面を提示してくれる感知系技能チェックによりなくなりました。
 データとしての必要性がなくなった以上、遊び手の日常にもあるありふれた道具類に過ぎない一般装備に、さしたるネタになる力があるわけもなし。データとしても、設定としても掲載されている必要性が著しく低い一般装備は、もはや装備欄の穴埋めとして掲載されているに過ぎない箇所とも云えます。

 もちろん、こんなことを云えば、「それは間違いだ。一般装備はTRPGで十分活用されている」という声が聞こえてくるかもしれません。それで現場に戻れば、まるでコラムを反証するかのようにあちらこちらで一般装備が重要視されるセッションに出会えるのではと密かに期待していたのですが、そういうことはありませんでした。
 まぁ魑魅魍魎の類が放つ幻聴だと思っています。
 
 一般装備は役に立たなくなったデータとして顕著な例ですけど、TRPGが多くある趣味の1つになって、非電源ゲームとしての立場が強くなった現在、システムと直結しないデータや設定が今後TRPGの現場にて必要であり続けるのか、疑問に感じます。

 TRPGの舞台設定は、ゲームとしての必要範囲を超えた膨大な世界観を示すものが多くあります。かつてTRPGが物語文化の最先端であった時代、TRPG作品はファンタジーの大本である『指輪物語』をはじめ、ファンタジー物語の諸要素をデータ化した百科事典としての役割がありました。今でもTRPGのルールブックには、ゲームシステムとは直結していない、読み物として機能している設定が数多くあります。

 翻って現代、別にTRPGゲーマーが『指輪物語』に精通している必要性……昔はTRPGゲーマー間でファンタジー知識への優越感ゲームがあった……も、TRPGが物語文化の最先端である必要性……昔はゲームイベントで人集めができるTRPGゲーマーはラノベファンなどにブイブイいわしてた……もなくなり、TRPGが無理して膨大な設定を用意する必要姓は著しく薄れています。

 さらに云えば、同じTRPGでも日本とアメリカとの文化の違いというのも微妙に影響していると僕は思います。
 アメリカで流行したTRPGは『D&D』をはじめ、その多くが追加ルールや設定を拡大させたメガクラスの作品ばかりです。それに反して、日本で代表的に遊ばれているTRPGは『ソード・ワールド』や『アリアンロッドRPG』を筆頭に、コアルール1冊に遊びのエッセンスを凝縮したゲームが好まれています。
 日本で多く行われているフリーセッション形式のコンベンションでは事前にどのゲームが用意されるか分からないことが多く、サプリメントや設定集まで持参してくる人は自ずと限られてきます。
 さらにフィギィアやフロアタイルなどのガジェットも省かれ、パーティゲームとしてお菓子や飲物の傍らに置ける程度のものに用具が凝縮されたプレイスタイルが定着しています。コンベンションにはダイスと筆記用具のみで現れ、むしろお菓子や飲物の方に気配りを見せる手弁当な参加者も多くいます。
 それに輪をかけて、参加者がルールブックを持参してこないだろうと、セッションに必要な箇所だけコピーして配布する親切心あふれたGMも出るようになり、もはやキャラクターシートに記載される主要情報以外は使われもしないし、読まれもしない。
 
 はたして、今後TRPGにシステムと直結しない設定、読み物としての役割は必要なのでしょうか。あるだけムダであり、ゲームに必要なデータの分量に割いたり、余分な設定など省いて文庫版などに小型化するべきなのでしょうか。

 確実なのは、このままでは使う機会は徐々に失われる一方だということです。「そんなことはない。活用されている」という声が誰の耳にも魑魅魍魎の幻聴にしか思えなくなってからでは遅いのです。
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2008年06月10日

TRPG業界で新規参入者が減少している3つの理由

 先日もコンベンションで『Pendragon』をGMでプレイ。
 30越すとGMも肉体労働だなと帰宅したら、秋葉原でとんでもない事件が発生してたとのこと。セッション中に家族から安否を気遣われたのは初めてのことです。
 犠牲者の方々には謹んで哀悼の意を表明します。

 今日は短めに、TRPG業界でなぜ初心者が減ったのかを少し。
 
 昨今のコンベンションでTRPG初心者が減ったという声は色々な場所で耳にします。このことに関し、多くの人が業界の衰退であると感じ、販売業者、デザイナー、ユーザーなどが活性化しなければ危うい事態であると思ってるでしょう。

 だが、業界の停滞を問い質す前に、そもそも新規参入者が安定して確保できる状態が自然だという期待感そのものが、現代に通用するのか考えてみてください。
 僕はむしろ、TRPG業界において初心者が減っているのはごく自然のことだと考えています。その理由は3つあります。

 理由の1つは、趣味文化が多様化していることにあります。
 かつてファンタジー物語の文化でコミュニティを築くとあらば、TRPGをするか創作同人をするかしか選択肢はありませんでしたし、情報を得るにもゲーム総合情報誌かライトノベル誌が主要メディアで、その双方にTRPGはありました。
 80年代においてTRPGは、内にウォーゲーム愛好家、CRPG愛好家、ライトノベル愛好家、ゲームブック愛好家など、多くの物語文化愛好家を包括する物語文化におけるメインフォルダの役割を担っていました。なぜなら、当時はこれらソリティア(1人遊び)および小規模な愛好者を纏めるコミュニティを築くには場が未整備であり、ゲームイベントで集客力のあったTRPGに頼っていたからです。

 現在は小説、漫画、アニメ、映画、ゲームとファンタジーを扱ったメディアは数多く存在し、それらすべてがインターネットというミニコミの発達により、独自にコミュニティを築くことが容易になっています。今やTRPGは物語文化の中で「多くある趣味の1つ」に格下げされています。無理にTRPGに触れずとも、物語文化を堪能できるメディアはいくらでも存在するのです。
 すなわち、80年代のようにファンタジーを楽しむならTRPGは避けては通れないと思う人はいなくなったのです。

 2つ目は、これはもっと単純なことですけど、若者自体が減っているということです。

 TRPGは80年代からずっと中高生をターゲットに展開をしています。物語文化の中で活動しているのですから、当然ながら情緒的で多感、物語にどっぷり傾倒してしまうティーンを対象に商売をするのは至極当然なことです。
 でも、若者自体が減少しているのですから、マーケットは縮小して当然のことです。

 そこで80〜90年代にTRPGを楽しんでいた現在の30〜40代の、元物語文化愛好者に働きかけているのが現在の業界なのですけど、このバブル組からロスジェネ世代に当たるこれらの世代は、現在とかくケチになりがちです。金銭面はもとより、時間という資源においてもまとまった出費をすることを渋る傾向があります。
 すなわち、自動車など高価で維持費のかかる商品を嫌うのと同様に、TRPGなど事前準備に時間がかかり、セッションにまとまった時間が必要な上に、メンツの都合でいつでも望み通りのプレイができるとは限らない不確実な趣味に払う機会費用を渋るという懸念が存在するのです。

 曰く、「TRPGをする服がない」ということです。

 結局、現在TRPGに興味を持っている人は、物語文化の中でTRPGというサブフォルダまで深くアンテナを伸ばすくらい好奇心や学習意欲が強く、なおかつ事前準備を黙々とこなし、ゲームイベントのために休日の日中をレクリエーション活動のために費やす気のある行動力を持った人だということになります。

 以上のことはTRPGに限らず、趣味文化の世界ならどこでも抱えている問題です。今はそれぞれの趣味が独自に情報をやり取りし、コミュニティを築きやすくなった時代です。多くの人が業界の実像をリサーチし、機会費用を算定した上で、自らの有益を確信してから趣味の世界に入ります。
 趣味人が視野を定めることに賢明になった……これがTRPG業界に初心者が減ってきた第3の理由と云えましょう。

◆関連記事

外に語る時代ではなくなった 〜TRPGブロガーがアニメ版ナイトウィザードに冷淡だった一因〜
労力は課題であって経費ではない 〜TRPGのコストとプロブレム〜
ラベル:TRPG
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2008年06月03日

『とらぶる☆エイリアンず』初プレイ

 『とらぶる☆エイリアンず』を初プレイしてきました。
 とてもタフなゲームです。簡単とか難しいとかいう以前に、今まで経験したことのない異質なTRPG……それも『D&D』の系譜から完全に外れた『ディプロマシー』の系譜に入る対話ゲームでした。紛れもなく、現在発売されているTRPGの中でも最も挑戦的な作品の1つと云えましょう。

 とにかく静かです。
 なにしろ対話のほとんどをメモでのやり取りで行っているのですから、誰もが黙々とメモを書き続ける。メモを取ってない時は常に相手の顔色を窺っているわけで、そこでもそこはかとない緊張が漂っています。周囲の卓がウォーゲームで盛り上がる『D&D』やコアなファンが集う『ウォーハンマー』だったので、黙然としたとら☆エリ卓はまるで異世界。僕のようなプレイの半分以上をムダ話に費やすタイプのプレイヤーにとっては完全ビジターだったわけですよ。
 
 でも、静かなプレイ風景とは裏腹に、ゲーム展開は大荒れだったようです。「だったようです」とありますけど、このゲームはPC同士が正体を隠していて、互いの正体を探りながらプレイしています。それだけだと「誰が味方か分からない」状態ですけど、このゲームにおける妨害行為(レイド)もこっそり行われるものですから、「誰が敵になったかも分からない」状態にもなってややこしい。
 
 夜中に襲撃されたから反撃したら、実は他PCからのレイドだったりして、それでも灯りをつけたら血の着いた刀を持った僕PCと血を流す襲撃側PCを見られて、第3のPCが僕に濡れ衣を被せ拘禁。実は第3のPCもマンイーターで口実をつけて僕PCを食べようとしたので、僕は食べられそうになった所でテレポート脱出して逃亡……なんてことが水面下で行われていたのですが、プレイ中は誰も何を起こしたのかおくびにも出さないのです。

 ちなみに、今回のメンツは以下の通り。

・ドライバーにしてエージェント/正体:火星人
・研究者にして大富豪/正体:秘術使い
・戦闘エリートにしてラッキー/正体:マンイーター
・謎の小学生にして大富豪/正体:未来人 (回転翼PC)

 火星人は「隷属」、秘術使いが「独自」、マンイーターと未来人(僕)が「根絶」だったわけで、誰1人「防衛」側がいないという事態で、云ってしまえば誰もシナリオをマジメにクリアをしようという選択をしなかったわけです。
 回転翼は最初のアイデンティティ選択で「マスコット星人」「ウォーモンガー」「未来人」の3種が出ていて、マスコット星人を選択すれば防衛陣営もプレイできたのですが、プレイ前から懸念していたことがあり、あえて根絶陣営を取りました。

 ある懸念とは、防衛陣営より隷属もしくは根絶陣営に属してシナリオの善処……人類のために戦うようなありふれた物語より、侵略者として暗躍する隷属、根絶陣営の方が遊び手としては新鮮であり、人気が集まるのではという思いでした。
 それはGMさんも周知だったようで、当初は防衛陣営中心だったパーティがプレイを続けるにつれ、隷属・根絶陣営の方が好まれるようになり、シナリオはgdgdになることが多くなったとのことです。

 然るに、とら☆エリの場合は単なる防衛・侵略という単純な枠組ではなく、人類を利用することを目的とする隷属側と、人類を滅亡させようとする根絶側との間にも対立させるようなシナリオを組む必要があるのです。
 今回のシナリオも、隷属側に属するNPCの暗躍がテーマでしたので、結果として任務失敗で防衛できなかったのですが、隷属陣営の勝利になって根絶陣営に経験値は入りませんでした。

 そもそも、同じ根絶陣営にいて、手が組めるはずの相手がマンイーターでは気が許せません。他の人たちも僕のムダ話が災いして、僕の正体が特定できなかったようです。
 シナリオの成否と同等以上の価値を持つ正体チェックにおいて、正解したのは僕が1人だけ。他の皆さんに比べて僕はメモのやり取りをせず、正体特定の推理に集中してたわけで、そっちでは僕1人辛うじて抜けたのですが、最終的に1人で逃亡したのと陣営側が勝利しなかったのが災いして経験点は10点と凡打でした。
 最後、機構に連絡してNPCを討伐させれば根絶陣営の勝ちだったのでしょうけど、残念ながら中盤からはずっと足の引っ張り合いだったパーティには、NPCの元凶を探る余裕もありませんでした。

 と、まぁ色々と反省すべき点がありますけど、要領をつかめばもっと楽しいプレイができるという確信が持てたとても良質なセッションでした。GMさん及びプレイ仲間の皆さんにはあつく御礼申し上げます。

 次はGMでプレイしたいゲームです。
 
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2008年05月24日

名を残さなかった先輩の後を歩んでいる 〜TRPGブロガーという者〜

 そろそろ鰻が食べたい季節なんですけど、名店と呼ばれる所でも中々理想的な鰻丼にありつけない。困ったものです。

 今日はTRPGゲーマー論を続けている僕のBlogらしく、TRPG系ブロガーの話。

◆◆◆

 TRPG系Blogは専門的な趣味の世界を扱う業界ですから、普通にTRPGのことを話題にしている分には、部外者の注目を得ることは稀でしょう。おそらく、閲覧者の多くが同じTRPG愛好者かと思います。

 そんなTRPG系Blogで活動しているTRPG系ブロガーは、良くも悪くもアマチュアの有志です。他の業界のBlogにならありそうな、業界関係者が専門的見識を開陳するエキスパートでもなければ、広く情報収集をしてニュースBlogとして活動しているミニコミでもない。
 読者と専門知識、経験、見識などどれもが大して差がない、人によっては読者の方豊富だったりする業界です。もちろん、読者など意識していない日記として話題にしている人の方が多いのでしょう。
 ほんと、草の根です。

 そんな業界ですから、ほんの1年ばかし博識ぶったりしても大した影響力など持てやしません。そもそもTRPGそのものが学生の間で広まったゲームであり、80年代の知識人階級的なヲタク文化の影響が色濃くあります。どこのサークルでも、博識を売りにする田舎名士めいた「先輩ゲーマー」がいて幅を利かせているものです。
 生半可な知識や経験を披露した所で、どこの馬の骨か知らない者に対する評価は冷淡なものです。好意的な評価をするべく活動している人もいますが、彼らの目も限界があります。

 そして当然ながら、人によって今まで培った環境、現在の環境、経験から培った価値観や今後への展望、すべてが微妙に異なるものです。意見や経験など違いがあって当然です。世慣れしていない人は、そうした境遇の違う人が下す評価の冷淡さに打ちひしがれ、静かにBlogを閉じていくものです。

 ほんとに読者に自分のこと伝えたかったら、3年は続けるべきです。3年活動すれば自分を取り巻く環境も変化し、尖っていた開始当初のモチベーション……誰しも、心置きなく喋る場を得れば、人目を引こうと思いっきり実社会の鬱憤話をするものです……も丸くなり、自然体に活動できます。読者の方も3年も経てば、自分がどのような奴か大体察することができるでしょう。
 
 さて、TRPG系ブロガーの多くが草の根の有志なのは冒頭でも云いましたが、まったく業界の注目を浴びていない日陰者なのかと云われれば、それも違います。
 TRPG系Blogは僕のような論考専門Blogも含めて、インターネット開闢以前から各地のサークルで、同人誌や機関紙などの形で行われていました。全国的な交流がなかった時代、多くのゲーマーがTRPGについて語り、論考を書いたものです。サークルの機関紙など読者は10人前後から始まるものですけど、それでも立派な言論活動でした。
 現在、TRPG系Blogを運営している人は、そうした執筆活動をしてきた名もなき有志ゲーマーたちの裔に位置する者たちではないでしょうか。
 彼ら有志ゲーマーの活動は非常に微々たるもので、数え切れないほどの記事が忘れさられたことでしょう。だが、かつて有志がいて、自分たちがその道を歩いている……それで十分ではないでしょうか。

 少なくとも、僕はかつてずっと背中ばかりを眺めるだけだった先輩ゲーマーとようやく肩を並べることができたのですから。
ラベル:TRPG
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2008年05月19日

なぜTORGは後が続かなかったのだろう…

 書棚の整理してたら、『TORG』のカードが破損してたのを発見しました…。
 予備がないので、今後のことも考えて自作することにします。
 
 それにしても、『TORG』は僕ら70年代半ばの『RPGマガジン』育ちの世代にとって黒船級のゲームでありましたが、後が続かなかったという感があります。翻訳ゲームですし、シリーズとして物語が完結してしまったというのもありますけど、あれほど影響力のあったゲームでありながら、その後のTRPG業界に痕跡を残さなかったのは不思議です。復刊,COMでも最上位の復刊希望作品だけに「使命が終わった」状態だとは思えないのですが、絶版になって久しいから知らない人も多いのでしょう。

 『異界戦記カオスフレア』が後継だと思ってた時期がありましたけど、ファンタジーにサムライを出す程度ではマルチジャンルと呼ぶのは少し違うのではと『TORG』を再読して感じました。活劇ヒーローが舞台によってはハードボイルドやホラーを否応なくプレイさせられる、ある意味暴力的なシステムあってこそのマルチジャンルというものです。

 なにより、TRPGにとって宿命的なまでに固定されていた「対抗判定を繰り返して管理資源〈HPなど〉を削りあう」という戦闘システムに初めて別のアプローチを示したという点において、『TORG』はTRPG史に不滅の痕跡を残したと僕は評価しています。
 
 『TORG』が示した戦闘システムは、戦闘中にロールプレイを推奨し、またそれを演技という自己表現を越えてゲームとして無理なく搭載しました。それ以前に毎回引くドラマデッキによって、刻々と変化する戦況を再現でき、プレイヤーたちはただ漫然と殴りあうのではなく、戦況に合わせて機を窺ったり策略を仕掛けたりする、物語としては盛り上がるけどバトルゲームとしてはムダな迷惑行為でしかない演出を可能にしたのは画期的でした。
 
 すなわち、それまで神聖不可侵だった戦闘ですら「演出」という物語再現装置の機能を搭載することが可能なことを作品だってことなのです。それまでTRPGの戦闘はウォーゲームの派生である立場を堅持し、『Chain Mail』以来変わらずミニチュアウォーゲームの基幹を継承してきました。どんなに物語だロールプレイだと提唱しても、権威で以て嘲うがごとく、ミニチュアウォーゲームの伝統ゆかしき戦闘がTRPGの主菜であり、最も充実したシステムが組まれてきました。

 残念ながら、その後のTRPG業界を見る限りでは戦闘システム自体を、デザインコンセプトに合わせて基幹から変えるという野心的な作品は見受けられないのではと思います。どのTRPGでも同じように「対抗判定によるHPの削りあい」に終始しているのではないでしょうか。対抗判定を有利にする数値修正のための技能・必殺技の類ばかりが充実している点も。

 なんでしょう。
 『TORG』は登場するのが早過ぎたゲームなのだったのでしょうか。当時でも何か言葉にならないとっつきにくさというものを感じていました。一部のコアなTRPG通のみが歓迎したのみで、やがてM:tGブームの嵐にひねり潰されたのではという思いを今も感じています。

 10年前とはTRPGを取り巻く環境も、遊び手の気質も違っている現在のTRPG業界において、『TORG』は再評価が必要な反省期入りゲームの最有力でないでしょうか。
 
 などと、期待を篭めてドラマデッキを自作する予定。
 
ラベル:TORG TRPG
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2008年05月11日

夢世界の双刃剣、現実世界の巨剣 〜TRPGにおけるデータの有為無為とムダ〜

 『ソード・ワールド2.0』がプレイできません。
 人気なのです。すぐ卓が埋まってしまいます。
 でもまだ暗中模索な状態の中、タビットで戦士キャラをやろうという馬鹿は僕1人でなかったことに喜びを感じました。

 今日はこの記事から。

 Origin of Complexity(Deck of Many Thingsさん)

 きっとアメリカの中高生の間では、two-bladed swordを選んだ子がきちんとGreatswordでpower attackを選択した子にこのスターウォーズかぶれめと馬鹿にされ、セッションでDMの手によって馬鹿を証明させられ苦渋を嘗めているのでしょう。
 
 んで、日本では同じことを大の大人がやるわけです。

 僕自身、Two-bladed swordを選ぶ子かGreatswordを選ぶ子かと問われたら、Greatswordを選びます。『D&D』はそれだけ油断ならないゲームであり、最適解で挑まないことには満足に生き残れないことを、何度もHPを0にすることで学習しています。プレイヤーとして席を並べるならば、戦友諸兄にはできる限り最適解できてもらいたいです。

 それでも日本人TRPGゲーマーとしての僕は、敢えてTwo-bladed swordを選ぶ子を応援したい。DMとしても、その子を歓迎したいです。

 だって夢があるじゃん。

 同様に、Two-bladed swordなど最適解ではない武器や魔法、特技や各種設定にもそれを単なるムダと切り捨てるのは忍びない。誰もが判を押したかのようにGreatswordを持ちpower attackを選ぶ環境に何の夢があるのでしょうか。ウォーゲームに先祖帰りなのか、M:tGへの憧憬未だ醒めずなのか。
 『D&D』自体がファンタジーの聖典であり、様々なイマジネーションを遊び手に与えてくれるわけだから、最適解でないハズレな武器や魔法を使って、ハズレなPCを使ってずっこけながらもセンス・オブ・ワンダーに溢れたプレイをした方が、膨大な設定を用意したデザイナーたちに報いていると僕は信じたい。
 例えWoCのお偉方がM:tGの副産物だとしか考えてなくっても。

 そんなに最適解だけ良しとするのなら、ぶ厚いルールブックなど有り難がる必要などどこにありましょう。コミケのカタログみたいに必要箇所だけ破り取って、残りは古紙回収に出すがよろしい。そんでもって、また文庫版にして出せばよろしいのでは。

 まぁ、『D&D』の伝道者たちも情報強者ぶりを誇ってヲタク貴族さながらにふんぞり返れる環境じゃないてのは理解できます。結局、データのパズルを読み解いて強キャラ楽しむ遊びを好む人は、何だかんだ云って『アリアンロッドRPG』に流れていると思います。

 実際、『D&D3.5e』プレイしてても、そんなデータパズルにこだわるデュエリストな人と出会うことはあまりなく、かつて一時代を築いた『D&D』を温故知新として知りたいという遊び手としては初々しい人にはよく出会います。彼らはファンタジーの原点としての『D&D』に触れたいのであって、伝道者たちが望む一級のウォーゲームとしての『D&D』ではない。その意識のズレが『D&D』の敷居を高くしている一因なのかもしれません。
 
 ムダな遊びを許容できないようではTRPGの多様性ある文化を享受できないでしょうけど、僕が実感する限りでは『D&D』の伝道者たちの間にはムダな遊びを許容できないイライラ感をひしひしと感じるのですよ。真剣勝負ができない欲求不満とでも云いましょうか。
 僕は鳥取レベルではそんな最適解が正しいとかじゃなくて、それぞれが楽しめる環境で、ムダもあればずっこけてもいい遊び方をしてても構わないかと思います。真剣勝負がしたい人は好き者同士集まるしかありません。TRPGという文化の中にある狭い嗜好に過ぎないのですから。

 『D&D』の伝道者たちは『D&D』を失敗することなく、正しく遊んでもらおうと必死ですけど、その熱意がかえってユーザーの範囲を狭めて業界を萎縮させてはいないかと僕は思うのですよ。

 でも、やるかやらないかはともかく、あらゆるTRPGに興味がある人は『D&D』を購入し、その膨大な設定に触れてファンタジーへの想像力をかきたててもらいたいです。実際には『SW2.0』でも『アリアンロッドRPG』でも、あるいはファンタジーではなくとも、『D&D』は物語世界を楽しむ者にとって第一級の手引書なのですから。
ラベル:TRPG D&D
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2008年05月03日

得る楽しみと得る喜び、そして合意を得るための面白さ 〜趣味文化の「喜」と「楽」〜

 
 今の時期、人気のアニメとして『仮面のメイドガイ』があります。
 そもそもがドタバタ喜劇であり、多少のお色気もあり楽しい作品と云えます。だが、確かに楽しくはあるが、別段喜びを感じたとは云えません。
 ヲタク的にはアニメが貴でバラエティが賎でありましょうけど、『めちゃ2イケてるッ!』で岡村隆史が映画PRのためとあちらこちらで落とし穴に陥る企画がありまして、移動バスの後部座席が引っくり返って岡村が熱湯プールに投げ出されるシーンはほんの数秒ではありますが、よき笑いを提供してくれました。その楽しさと、アニメを見た楽しさと如何なる差があるでしょうか。

 そして、バラエティもまた楽しさを得るが喜びを得ません。
 TV番組を観て喜びを得る場面は確かに存在します。NHKの特集やTBS『世界遺産』、テレ東『美の巨人たち』、それにディスカバリーチャンネル、ヒストリーチャンネル、アニマルプラネットなどのCATV局の番組などは観ると喜びを感じます。
 教養番組は笑いを提供しません。だが、好奇心が刺激され見識が深まることへの充実感を表現するには、僕には喜びこそが相応しいわけです。

 これら教養番組を観て感じる喜びと、アニメやバラエティを観て感じる楽しみとは別感情であり、それぞれ求める所、得る所が違うのではないのか。そして、それを疑問に思うということは日常においてこの2つの感情は混合して用いられてはいまいか…。
 
 そんなわけで、今日は「喜」と「楽」の違いについてです。

◆◆◆

 喜怒哀楽と云いますけど、このうち「怒」と「哀」は区別がつきますけど、「喜」と「楽」について、日常の中どれだけ明快な区別をつけることができるのでしょうか。

 おそらく喜も楽もゴタ混ぜにして、総体として受け取るために「面白い」という言葉を多用しているのかもしれません。趣味にしろメディアにしろ、見識したものを好意的に迎え入れる表現としての「面白い」が、あたかも喜と楽を総括する上位感情として君臨してはいないでしょうか。

 実感で語れば、「喜」は充実感、「楽」は快感であり、「面白さ」は充実感であろうと快感であろうと、物事を好意的に迎え入れる社会的態度であると考えています。
 喜と楽は自己の内面的欲求であるのに対して、面白さは社会生活の中他者との関係をつなぐために用いる外交的な言葉なのでしょう。云わば好意のコンセンサス(合意)サインとして面白さは喜と楽の感情を総括しているのです。

 僕は長年TRPGに携わる者として、その魅力を考え時に訴えてきましたけど、そのために「面白い」や「楽しい」と云う言葉を用いることに不明瞭な引っ掛かりを感じていました。
 ひょっとして、違うのではないか、と。
 
 TRPGはゲームなのですから基本的には一時的な快感、楽の感情を満たす行為です。
 だが、幻想物語を引き出すために想像力をかきたてられる物語断片に満ちたルールブックを読み、よきシナリオを提供し、よきキャラクターを作るために様々な文献・番組・ゲームを研究し知識を研鑽していき、TRPG系ブロガーとして社会に表現活動をする……。これらゲーム活動で得られる感情は一時的な快感ではなく、安定した充実感……喜びの感情です。

 しかるに、僕はTRPGに携わることに喜びを感じるのです。
 おそらくセッションで得られる楽の感情よりも高い。

 ではTRPGは面白いのか。
 セッションで相対した相手となら、何の屈託もなく面白いと云えましょう。イベントに出向くほどのモチベーションを有している人となら好意的なコンセンサスを結ぶ価値があるのですから。
 だが、こうしてBlogで不特定の読者に対して意見するならば、別にコンセンサスを表明する必要はありません。BlogでTRPGを取り上げてる限り、コンセンサスに等しい愛着・執着・粘着ぶりを発露しているのですから、好きだの面白いだのアピールするだけ媚というものです。

 だから時々、「TRPGは面白いわけじゃない」とか「TRPGは別段楽しいものじゃない」とか放言して同好の士の心を乱す狼藉を働くんですけどね。
 
◆◆◆

 困ったことに、アニメにしろゲームにしろ、ヲタク文化の多くが一時的な快感を軸にした「楽」の感情に属する趣味だということです。TRPGも然り。多くの人にとってTRPGは一時の楽しみでしかありません。

 尾篭な話ですけど、メディアの促進剤としてエロスを投入すれば業界は活性化します。エロスは生存本能と結びついて爆発的な楽の感情を掻き立てるからです。楽の感情が尊ばれる世界では、楽の極致にある興奮状態こそが悟りの境地であり、エロスは悟りを開くための神聖な行為と見なされます。
 ヲタク文化も楽の感情を尊ぶ環境ですから、自然とエロスに比重が行くものです。『仮面のメイドガイ』もただコガラシが暴れるだけのドタバタ喜劇であったなら、こうも騒がれはしなかったでしょう。

 楽の道を好意的に迎え入れるということは、興奮の極致としてのエロスや衝動の極致としての狂態、陶酔の極致としての酩酊に対してもコンセンサスをしかねない環境に身を置くことになります。
 TRPGの席でそんなラディカリストと相対するとは思いたくありませんが、やはり「面白い」と云うコンセンサスによって一緒くたにされるのは正直ご免こうむりたい所です。

 TRPGは楽の感情だけの世界じゃないから、興奮や狂態・酩酊ばかりが悟りの境地ではないのです。喜の感情から得られる充実感や静謐、共有感、ぬくもりを大切にしていきたい。
 深山幽谷に立ち入り、苦労してたどり着く絶景や神社仏閣……。あるいは書店や図書館をさまよった末の書物との出会い……。そして数え切れない良き思い出……。それらに感じる喜びの中に僕はTRPGを置いているわけです。

 世の中には楽の感情が満ち溢れています。
 その中で喜びの感情を表現し、分かってもらえるにはどう伝えればいいのでしょうか。この喜と楽が混在し、その上に面白さがある世の中で。
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2008年04月24日

なぜソードワールドは廃れなかったのか 〜文庫としてのTRPG〜

 『ソードワールドRPG2.0(SW2.0)』買いました。
 色々と「ああ、こうなっちゃったんだね…」と思うことはありますが、システムのバランスがとてもよいということなので、とりあえず掴みは良好のようです。

 そんなわけで、今日はなぜソードワールドが廃れなかったかという話。

◆◆◆

 旧作『ソードワールドRPG(SW)』は思えば不思議な作品でした。
 『パワープレイ(PP)』と同様、TRPGがまだウォーゲームの派生として、ウォーゲームの合間にファンタジー物語を語り合うという和製『D&D』を求めていた頃の作品であり、『バトルテック』を参考にした独自のシステムは非ウォーゲーマーから見れば些かマニアックであり、TRPGとして決して分かりやすいシステムではありませんでした。
 僕が高校生だった頃は『ロードス島戦記RPG』や『ブルーフォレスト物語』などより簡潔なシステムがあり、SWは『D&D』ほどマニアックではないが、サークルでもそれなりに技能を磨いた玄人が好んでいたという印象があります。

 さすれば、僕がPPに対して断じたように、和製『D&D』の存在意義が物語メディアの発達によって薄れた時期に合わせて、SWの使命は終わったと断ずる人が出てきてもおかしくはありません。
 
 曰く、SWはシステムも、牧歌的な冒険者物語(デザインコンセプト)も研究され、表現され尽くした感があり飽きてきた。よりバランスが取れ現在のトラブルに対処した清新なシステム、最新のファンタジー物語に合わせたハイセンスなデザインコンセプトに基づいた設定がなされたゲームが登場すれば、SWは自ずとスタンダードTRPGという大仰な看板を下ろし使命を終わるであろう……。
 TRPGサイクルの否定期によくある批判をSWも受けました。

 事実、96年にハードカバー版『ソードワールドRPG完全版』が出版されましたが、08年現在でもSWと云ったら旧来の文庫版を示す人の方が多いのが現実です。完全版は累積した用語の整理やバランス調整など文庫版より完成度の高いシステムだったはずなのですが、文庫版より低い評価に留まっています。
 同じSNEのゲームとして前年に出た『クリスタニアRPG』の方にファンが傾倒したのが主たる理由でしたが、95年の『トーキョーN◎VA the 2nd edition』、96年の『熱血専用!!』、『天羅万象』、97年の『深淵』、『番長学園RPG』とロールプレイの妙を楽しむ濃厚なデザインのゲームが露出してきた時代であり、SWの寡占状態だったプレイ環境に割り入ってきたというのもあります。

 僕が一旦リタイアした2000年前後までの間に、SWは爛熟期から否定期に差し掛かり、代わりに初期F.E.A.R社の人気タイトルが隆盛期に入ってきました。
 少なくとも、都会では。

 そしてTRPG冬の時代も過ぎ、インターネット環境が発達して趣味文化の多くが「多くある興味を引くものの1つ」になった現在、使命を終えたはずのSWはまだしぶとく現役でい続けていました。それも文庫版の方が、です。
 そして今年、『ソードワールドRPG2.0(SW2.0)』としての再生…。
 TRPG系Blog界隈はかってない反響を以てこの再生を迎えました。
 
 同じ和製D&Dを目指したPPとの差、これは何でしょう。
 僕はSWにはシステムの清新さというゲーマーの視点だけでは語りきれないブランド価値が備わっており、それがSWを不朽にしたと考えます。

 SW最大の武器は文庫版だったことです。
 TRPGを入手する場所に事欠かない都会ゲーマーには想像し難いことですが、地方のゲーマーにとってSWは注文しなくとも買える可能性がある唯一のTRPGでした。僕もまた都会ゲーマーなので、これに関してはうまく説明できないでしょう。そこは地方のゲーマー諸兄にお任せします。
 だが、実の所入手しやすさはSWにとって最重要なメリットではありません。ここから先は都会も地方も一緒です。

 SWが文庫本であることで、TRPGの遊び手は始めて自分のライフスタイルの中にTRPGを組み込むことが可能になった……これがSWが持つ最大の功績です。
 それまでTRPGと云えばボックスであったりA4サイズの巨大ムックであったりと、日常生活の中で広げるには抵抗のある「プロの道具」でした。趣味の道具とは云えTRPGは文字の集合体たる書籍…、読書感覚でTRPGに触れることができればどれだけ気軽であろうか…。
 SWが出て、始めてTRPGの遊び手は電車の中や喫茶店で、気兼ねなくルールブックを開くことができるようになったのです。実社会の中で堂々と自分の趣味を開陳できるという喜びは多くの遊び手にモチベーションを与え、業界を活性化させる効果があったのです。
 その意味では、TRPGのライフスタイル化への可能性を開いた『T&T』の功績も忘れてはならないでしょう。

 ゲーム総合情報誌やライトノベル誌に登場したリプレイはTRPGの知名度に貢献しましたが、コンシューマーゲーマーやラノベ愛好者がすんなりTRPGに入ってきたのも、SWが彼らの趣味文化に何か特別な変化をもたらすことなく参加できるような土壌を作ったからでしょう。SWはコンシューマーゲームやラノベの世界とTRPGの世界とを繋ぐ橋としては見事な形態であったと云えます。これが『D&D』だったらこんなにすんなりいかなかったでしょう。
ここまで来て、SW完全版がなぜ文和版よりも完成度が高いのに評価が低いのかお分かりいただけたかと思います。あのぶ厚いムック版は遊び手のライフスタイルに組み込むには大仰すぎたのです。

 文庫版と云えば『D&D』も一時期文庫版が出版されましたが結果は総スカンでした。D&Dは当初からコアな志向を持つマニア愛好の品であり、システムも情報もTRPGの中の高級品です。云わば文庫版D&Dは持つのも恥ずかしい廉価版なのです。何でも文庫にすれば売れるわけではないのです。
 
 文庫版TRPGは日常のライフスタイルに入り込める作品だけが成功する形式であり、SWはゲーム誌やラノベに好奇心や娯楽を求める人たちが日常に組み込んでいるライフスタイルの中に溶け込むことでブランドを得ました。
 到底、TRPG一徹者やシュミレーションゲーム流れには気付きもしないことです。

◆◆◆
 
 さて、2008年現在、文庫版TRPGは『アリアンロッドRPG』や『アルシャード・ガイア』があり、SW2.0はそれら先発と同じ市場を奪い合うという意見もあります。
 だが、それ以上に奪い合いになる真のライバルがいます。
 云うまでもなく、旧版たる『ソードワールドRPG』です。ブルーレイがHDDVDとの競争に勝ち、現在は現在主流のDVDとのシェア争いが予測されるのと同様に、SW2.0もSWが築いているシェアをどれだけ奪えるかが勝負となりましょう。
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2008年04月10日

労力は課題であって経費ではない 〜TRPGのコストとプロブレム〜

 オリンピックの聖火リレーがチベット問題で大揉めです。ですが、仮に長野でも同様の騒動が発生するとするならば、中国の隣国であり多くの在日中国人を抱えている日本では、デモ活動を行うのは英仏のようにチベット問題活動家ばかりだと考えるのは問題ではないでしょうか。
 予測されるのは、愛国を訴え抗議活動を妨害するために人が集まって、抗議活動グループと衝突することです。それはそれで「絵」になる光景ですけど、軽い気持ちで「電凸だ」と出かけたら怖い愛国者にボコられたなんて惨めですから、出かける方はくれぐれも用心してくださいね。

 本来なら、そうした反発も含めての自重なんですけどね。
 まぁ杞憂であることを願います。
 
 さて、今日はこの記事から。

TRPGのコスト

TRPGのベネフィット

(ともに『まりおんのらんだむと〜く+』より)

 題名で示した通りなのですが、自分の資源(リソース)で調整がきかないものをコストと呼ぶのは問題があると思います。そもそもコストは生産活動における対価を意味するものであって、何かを成し遂げるために克服すべき課題(プロブレム)と混合してはいないでしょうか。
 簡単に云えば、コストは「○○を得るために、どれだけ支払うのか」という意味であって、「○○を得るために、どれだけ努力するのか」という意味ではありません。後者は生産活動そのものであって、生産活動をするために支払う費用ではないからです。

 その意味で、人的コストをTRPGのコストとして換算するのは間違っています。まりおん氏の用例は「まず人を集める必要がある」、すなわち参加者確保のために必要な労力のことなのでしょうが、労力自体は課題であって経費ではありません。生産活動における人的コストとは人件費、すなわち賃金に他なりません。
 もしTRPGで、参加者に給金を支払うというのなら人的コストがかかります。また、人集めに広告など経費がかさむというのなら、人的コストではないが人集めのための必要経費としてコストに加算されるでしょう。
 
 また、時間をコストに換算するのは、各人がいかなる活動に価値を見出しているかで差異があるという点において、コストに換算するのは難しいかと考えます。
 これには機会費用(opportunity cost)という言葉があます。もし該当する時間の中で最も価値を生み出す活動をしていたならばいくら儲かっていたのか、実際に行った活動を得られたであろう儲けの額に換算して、価値の損得を考えるというものです。
 例えば時給1万円で働いている人が1時間休んだとします。機会費用の考えからすると、彼の休憩は1万円の価値があるわけです。

 もしTRPGの準備時間およびプレイ時間を機会費用で考えるなら、遊び手が就業して入手した時給と比較して、TRPGにかかった時間分だけ働いて手に入れた給金額ほどの価値がTRPGにあるかと考えるわけです。
 5時間プレイしたとすると、時給900円のバイト5時間で入手できる4500円の価値がプレイ時間にあるか、または4500円の機会費用価値がある空き時間を超える価値がプレイ時間にあるのか……。
 まぁ、個人差が大きいものです。
 
 環境コストも人的コストと同様、換算できるのは施設借入にかかる経費や交通費だけであり、施設を用意する努力は課題であって経費ではありません。

 高橋志臣氏が提言した評価コストに関しても、評価を得るために支払った経費、すなわち宣伝費や遊興費こそがコストとして換算されるべきであって、「評価を得るための努力」は課題の範疇です。
 ましてや、結果として得た評価は経費ではないでしょう。経費を払って得たものです。

 結局、資金コストのみがTRPGにおけるコストの問題であって、残りは課題もしくは機会費用の範疇に入るのではないのでしょうか。
 以上が僕の意見です。

 
ラベル:TRPG
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2008年04月06日

反響に応えるという土壌 〜キャラクターを作ることと使用すること〜

 TRPGは物語の登場人物めいたキャラクターを操作するゲームです。しかるにTRPGのキャラクターが創作活動に活かせるという発想が生まれ、漫画家や小説家、ゲーム脚本家などが着想の源としてTRPGを嗜んでいるということです。なるほど、TRPGは創作活動を補助する環境開発ツールだというのも頷けます。

 魅力的なキャラはTRPGの産物と云えます。
 ですが、僕らの周囲はゲームに小説、漫画にアニメとキャラクターを売りにしたメディアが溢れています。その中でTRPGが生み出すキャラクターが持つ特性や、どのような工程の元で生まれるのか認識することは有益なことかと存じます。

 今日は、ただ作成されたキャラクターとプレイに使用されたキャラクターとの間にある差についてです。

◆◆◆

 TRPGのキャラクターは誰であろうと魅力的になり得ます。
 だが、創作活動に近い作業をこなさなければ、誰であっても魅力的なキャラクターなど制作はできません。描かれない絵、飾られない絵の魅力を語ることなどできませんから、世の名画とされる絵は例外なく描かれ、そして飾られています。
 TRPGのキャラクターも、キャラクター作成ルールに従って作成しただけでは魅力的なキャラになるとは限りません。ただ、描かれない絵、飾られない絵だろうと絵師の脳内あるいは地下室にて絵師のみには光彩を放っているように、プレイされないキャラクターと云えども、作った本人のみには十分魅力的であるものです。

 要するに自己満足なんですけど、作った本人からすればまんざら悪い思いではありません。TRPGのルールがなければ形にすらならなかったのですから。
 だが、己の創作意欲が結実した自己満足だけが、TRPGで得られる快感ではありません。プレイに用いれば自己満足とは違った、新しい快感を得ることが可能で、新しい快感はキャラクターを実体なき虚像から、実感の持てる実像へと進化させることができます。

 その新しい快感とは何でしょうか。
 ここからは、新しい快感を得たゲームと、新しい快感を得られなかったゲームとして、『Forza Motorsport 2』と『WWE SmackDown vs Raw2008』を取り上げます。

◆◆◆

 僕はプロレスが好きですから、『エキサイティングプロレス(エキプロ)』シリーズ……発売元がTHQに移って『WWE SmackDown vs Raw(SVR)』シリーズも購入しプレイしています。
 このエキプロorSVRシリーズの売りとして、オリジナルのレスラーを作るエディット機能というのがありまして、細かな外見から技、仕草や入場シーンまで事細かに作成できるのです。それで作成されたオリジナルレスラーはCAWと呼ばれ、ネットでは自作のCAWを公開したりして交流が行われています。

 ですが、最新版の『WWE SmackDown vs Raw2008』でもオンラインでは対戦しか行えず、またエディットパーツの一部が商標上使用できないということもあり、CAW表現の場としては不都合な状態です。
 CAWの楽しさはMAD動画に近いもので、漫画やゲーム、アニメのキャラを再現してプロレスする姿を観て楽しむことだと思います。結局はYouTubeやニコニコ動画を借りて動画がちょこっと出る程度で、現状ではソリティア(1人遊び)ゲームの粋から一歩も出ていません。

 さて、なぜSVRのことに触れたかと云えば、SVRのCAWは優れた……4以降は改善と改悪が混在し、手放しで褒められた進化をしていないのですが……エディット機能で完成度の高いキャラを作り出すことはできますが、それだけでは魅力的なキャラに「なる」ことはできないことを言いたかったからです。
 
 魅力的なキャラに「なる」とはどういうことか…。
 それはキャラが消費者(読者、視聴者、遊び手)にメッセージやイメージを与えるメディアとなり、メディアの世界で賞賛を得ることに他なりません。それには、作成されたキャラを披露し、その特徴を表現するという意識的素地が必要なのです。

 云わば、作成したキャラを衆目の前に飾ることです。

 SVRのCAWはキャラの個性を表現する場に乏しく、多くの遊び手にとってCOWを飾る楽しみに魅力を感じることはありません。ニコニコ動画を見れば分かると思いますが、動画を投稿する第一の理由は、衆目の反響を浴びたいという表現者なら誰もが持つ喜びにあります。反響を得られる場がなければ、反響を得る喜び自体に無頓着になりがちなもので、そうした環境では自己満足以上の感情は芽生えません。なぜなら、自己満足で事足りる世界では反響を得るための労苦や、より多くの反響を得るための戦略的視野を持つ必要性を感じないからです。
 これは同じようにエディット機能が自由自在で、完成度の高いキャラクター(車)が作成できながら、オンライン環境が整っていたお陰で存分に自作ペイント車を披露でき、高い反響を得た『Forza Motorsport 2』との違いとも云えます。
 Forzaのペイント車は反響を呼ぶ場が存在しているという点で、自己満足の発露でしかない実社会のペイント車より多彩な環境にあります。実社会のペイント車でアニメキャラをペイントしたものはあっても、野球やサッカーのユニフォームをモチーフにしたり、著名レーシングチームのレプリカペイントをしたり、挙句は企業商品やAAまでペイントしたいという環境はないでしょう。
 実社会ではそんな真似までして得る反響より、自己満足感の方が優先されます。しかるに実社会のペイント車は俗に痛車と呼ばれる、作者の萌え感情の発露の手段に留まっています。

◆◆◆

 反響こそエディットでは得られない新しい快感なのですけど、TRPGの場合イベントの場で数人の同好者相手に披露するわけですから、不愉快な反響はさほど多くありません。
 何よりも反響をすぐに活かし、リアルタイムにキャラクターを肉付けすることが可能な点がTRPGの利点です。     

 TRPGのセッションでは、キャラメイクのみでは得られないキャラクターの細かい肉付けがプレイでの行動によってなされます。
 キャラメイクではキャラの身体的特性、特技、大まかな性格、履歴書程度のプロフィールが設定されますが、出来上がったキャラクターはまだ書類上のデータでしかありません。自己満足してしまう人はキャラの肖像の多くを脳内のイメージ貯蔵庫に保蔵したまま、夢想することで満足してしまうものですけど、実の所肖像の多くは本人の想像力の遥か奥で眠っているものです。

 キャラの面白さってのは生活の中に起こる光景に、どんなことを言って、どんな仕草で、どう動くのかってのを観察するのが楽しいわけで、それにはセッションを通して1つ1つ想像しロールプレイによって形にするしかありません。
 そうして、キャラクターを実世界で動く僕たちと同様に思い、悩み、考え、行動する実像を持った存在にして、始めて二次創作の主人公としての使用に耐えうる魅力的なキャラクターへと進化するのではないでしょうか。

 TRPGで使ったキャラが面白い肉付けができたってのは、どこのセッションでも自然に発生するものです。ただ、物語で楽しんだ思い出とその過程でダベっているうちにポンポン浮かんできた(ロールプレイと素性の混成物である)キャラは、あくまでも物語を作る際にできる副産物であって、副産物が脚光を浴びることはあっても、じゃあ副産物(面白キャラ)が欲しいから主産物(物語)抜きでTRPGをやろうとしても、目的に見合ったキャラが作れるとは思えないと云うのが僕の考えです。
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2008年03月27日

使命が終わることの意味 〜TRPG人気サイクルから見るTRPG市場〜

 そろそろTRPG.NETのRSSアンテナでの、『きまぐれTRPGニュース』の扱いを検討してはいかがと思います。前にも日時設定のズルを指摘したこともありますが、、『きまぐれTRPGニュース』は市販品の紹介もしており、悪質なアファリエイト活動とも見られます。
 管理人のaccelerator氏はTRPG.NETとよく協議し、解決策がでない場合はTRPG.NETへのRSS送信の撤退も考慮すべきかと思います。

 今日はTRPGの使命が終わるということの意味です。

 そもそもTRPG愛好者としてTRPG作品に引導を渡す行為は、あまり善良なことではありません。その作品を研究し普及に努め、経験が知財となっているゲーマーの苦労を水泡に帰すとならば、反発を受けるよりは口を閉ざす優しさを選ぶ人の方が多いのは明らかなことです。
 よって、単に自分が好まざるゲームを中傷するがための蛮勇でしか、そのような声が聞こえなくなり、TRPG作品への批評に悪影響が出てきているのではないでしょうか。
 
 正当な批評であっても、悪意ある中傷と見なされる業界は自由がありません。遊び手が業界を賛美する声ばかりを褒め、異論を受け入れる寛容さを失ったら、業界は閉塞します。
 それでも、自分の趣味を否定される不安から、たやすく自由な環境を放棄してしまう人はいます。だが愛好者が厳しい意見を遠ざける環境は、喜びに満ちる場になるどころか、怨嗟と嫉妬が渦巻く魔境となるものです。
 なぜなら、優しい意見のみに耳を傾け、厳しい意見に耳を塞ぐ態度はポジティブではなく、不寛容に他なりませんから。
 
 批評を受け入れる寛容さのある業界なら、1つの作品が馴染まなかったと公言しても、別の作品に移行したり、プレイ環境を変えるなど本人は自由でい続けられます。
 だが、賛美しか受け入れられない業界だったらどうでしょう。作品批判はすぐに業界、愛好者への攻撃へと見なされ、異端者としてグループから追放されるしかありません。そして次第に、自分がスケープゴートにされはしまいかと周囲の顔色を窺う地獄へと変貌していくのです。

◆◆◆
 
 正当な批評が受け入れられる自由な環境のためには、それだけの見識が必要でしょう。寛容が善ですので、個人的な好き嫌いで使命の終了を断じてはならず、かつ個人の熱意や好みまで強制的に終了させる性質のものではありません。

 まず、なぜ使命の終了を判断する必要があるのか。
 それにはまずこの記事をご覧下さい。TRPGは市場流通に依存した商品である以上、消費者の人気と支持に影響される運命を持っています。

TRPGは止揚される 〜TRPG作品の人気サイクル〜

 絶版になったTRPG作品は否定期から反省期に入っている作品です。ここで爛熟期に起きた影響を検討し、来るべき黎明期への再生のために、市場のニーズを再調査して異なる価値観を持つ次世代にも通用する作品にリメイクするかが、作品再生への鍵となります。そのために、爛熟期の終了を宣言するのが使命を終えることの意味です。

 ここでいつまでも「ブームは終わっていない」と往時の流行を引き摺って「あの頃はあれで良かったのだ。変える必要はない」と頑迷な態度を続けていれば、価値観がガラリと変わった次世代への支持は得られません。
 まぁ、そういう状態を「時代に取り残された」と云います。そんな者たちがいかなる末路を歩むか、誰もが察することができると思います。
 
◆◆◆

 では、使命が終わったとは具体的にどんな状態を指すのでしょうか。

 TRPG作品にとって使命を終えることとは、市場を失うことです。
 市場は人々の生活環境を整えるために物品を交換する場です。生活環境には必需品(単体の生活に必要な物品)と奢侈品(社会生活に役に立つ物品)が必要であり、必需品を望む必需価値と奢侈品を望むブランド価値が市場に並ぶ物品を定める基準となります。
 そして、市場の運営者は消費者がそれぞれの生活環境から自由な選択ができることに合わせ、ニーズに応える競争力をつけた品物を優先的に並べます。
 
 すなわち、市場に並ぶのは必需価値やブランドがある物品ということです。TRPGの遊び手にとって生活環境とはプレイ環境のことですから、市場から途絶えたTRPG作品は個人の欲求としても、集団の流行としてもプレイ環境に組み入れる必要がないと下されたことなのです。

 具体的には、TRPG作品は黎明期に常に業界にアンテナを張り活発な言論活動をしているコアゲーマーが買い、隆盛期に各グループでGM活動をしている親ゲーマーが買い、爛熟期に親ゲーマーの影響で興味を持っているが、自らが親ゲーマーとなって伝道活動をする気がない繁殖力のない子ゲーマーが買います。
 どんなTRPGでも子ゲーマーが購入層の限界です。子ゲーマーにくまなく作品が行き渡った時点で、TRPG作品は爛熟期から否定期に入るのでしょう。

 だから、市場を失うことは決して「売れなかった」ことではないのです。「売れる層に十分行き渡った」ことを意味するのです。市場は購買層の購買意欲の数だけしか容量がありませんから、業界に不足している作品……人気が出始めた作品を優先的に陳列しますし、供給が行き届いた作品は規模を縮小し、そして絶版にします。
 なにしろ、TRPGは書籍ですから物持ちが良いですからね。子ゲーマーとならば数年経とうと使用に耐えうる品質を保ち続けるでしょう。

 また、劇的な環境の変化で瞬く間に必需価値を失う場合もあります。この場合は、親ゲーマーが十分な子ゲーマーを獲得できる前に市場が途絶えてしまいます。例えば欠陥品やネガティブ・キャンペーンを受けた作品、各種審査協会から止められた作品などです。メーカーが事業に失敗して、十分に販売できないまま解散することもあります。

 だが、それ以上に劇的な変化として、技術革新によって物品そのものの必需価値が消滅したり、革新された技術に合わせて世の中のルールが一変し価値を否定されたりすることがあります。
 例えば人力車がそれに当たります。自動車の拡充によって人力車は移動手段としての必需価値を失ったのみならず、車道が自動車に合わさったルールで運営されるようになり、人力車は自動車と同じ世界で活動すること自体ができなくなりました。

 市場を失うということは、これらの諸事情が影響して人々の生活環境にそぐわなくなっていったということです。

◆◆◆

 最後に、再生のための手順を提示しましょう。

 遊び手に十分行き渡ったので市場から退いた場合、必需価値は満たされましたが、ブランドは持続しています。ただ、否定期のプレイでその作品が提供しうるゲームプレイはほぼ出し尽くされます。
 
 TRPGはまずシステムから消耗し、続いてデザインコンセプト、最後にゲーム世界が持ちこたえます。この3要素のどれがどれだけ消耗し、どれだけ持続しているか再検討することが作品再生の匙加減です。

 『D20メタルヘッド』はデザインコンセプト、ゲーム世界を堅持し、システムのみを変えました。
 『トーキョーN◎VA』や『天羅万象』はゲーム世界のみを活かし、デザインコンセプトを従来のサークル中心からカジュアル中心のプレイ環境に合わせて作り直しています。
 ゲーム世界まで変化されたとなると作品自体が変化していますので、菊池たけし、井上純弌ブランドとか、デザイナーブランド内での変化と見ていいでしょう。例えば『天羅万象』、『テラ・ザ・ガンスリンガー』、『エンゼルギア』の設定が『天羅WARS』に継承されたこととかです。
 逆に3種すべてを堅持したまま、データを加味修正しただけで再登場したものもあります。『パワープレイ・プログレス』がそれに当たります。

 劇的な変化で市場からの退場を余儀なくされた作品は必需価値はまだ残っているでしょうけど、ブランドが十分発揮できなかった可能性があります。これらの作品はまず、新しいベンダを見つけて再出発するしかありません。

 『戦国霊異伝』は発売元がイエローサブマリン内ブランド、キラメキだっただけに流通経路が限られており十分に購買層を拡大できないまま絶版になりました。だからブランドは残っており、やがて復刊.comにて復刊され、さらに『幕末霊異伝MI・BU・RO』とさらなる展開をすることができました。
 逆に『蓬莱学園の冒険!』は著作権の移行が不明であり、人気作であるにも関わらず現在市場が途絶えたままです。

 存在意義が否定されるほどの変化を受けた作品の再生は容易ではありません。なにしろ、今まで活動していた環境にもう居場所がないのですから。
 こうした作品は、市場を新たに開拓するしかありません。

 TRPGにはまだ存在意義が否定されるほどの作品は登場しませんので、人力車の喩えで続けましょう。
 もし人力車の車夫が業界再生をかけて、もう一度タクシーとシェア競争をさせてくれと運動したらどうでしょう。おそらくタクシーとの規模・利便性の差で負けることは必至でしょうけど、それ以前にもう生活環境は市場の勝者・自動車に合わせてルール変更がされており、道路は自動車のルールの元に作り変えられています。その中で人力車が活動するのは不便であり、渋滞で迷惑を引き起こし、危険です。
 もはや人力車はタクシーと同じ土俵で活動すること自体否定されているのです。それ故、自動車の往来が制限された観光地での観光車両として再生し、かつて健脚が自慢だった人力車夫は観光ガイドとして再出発しました。

 TRPGが存在を否定されるほど技術革新がされるとしたら、まずオンライン環境の進化が予測されるでしょうか。もしネットランが可能になったらTRPGは仮想空間を舞台にした擬似ライブRPGに進化することもありえます。
 TRPG自体が反社会的行為として国や組織から弾圧される可能性もあります。『D&D』が出た当初、シーフが活躍する『D&D』はキリスト教精神に反する反社会的な存在とネガテイブ・キャンペーンが発生したことがありましたが、同じことが日本で起きないとも限りません。

 ほら、日本には怪しい著作権シールを売って儲けたいと目論む人たちが多くいますし。

◆◆◆

 TRPGの使命が終わるということは、決して悲劇ではなく、むしろ役目を十分に果たしたという結果でもあるのです。そして再生のために必要な反省への歩みを始めることなのです。
 
 使命が終わったから努力が水泡に帰したと落胆するのは早計です。ゲームプレイで培った経験は反省的視野となって次世代のゲームにも役立ちますし、そうした積み重ねが総体として優れたゲーム感覚として次世代のリスペクトを得る要素となるのです。

 本当に努力が水泡に帰すのは、往時の栄光を引き摺って自分自身のゲーマーとしての使命すら終わらしてしまうことではないでしょうか。

◆◆◆

追記:2008.3/29

その1:『2D6で1』のstealth氏から、『戦国霊異伝』に関する情報に誤認があるとの意見を戴きました。関係者の方々に謹んでお詫び申し上げるとともに、訂正記事を引用させて戴きます。

一言だけ

実誤認があるようなので申し上げますと、「有限会社キラメキ」はイエローサブマリン内部のブランドではありません。
『戦国霊異伝』初版はキラメキから直接出版されております。
イエローサブマリンの内部ブランド「マジカルミステリーツアー」から発売されたのは、キラメキ制作の『アコースティックリ−フ』であります。
ちなみに『幕末霊異伝MI・BU・RO』をディベロップしたのは「番長学園!!」のTEAS事務所です。


その2:冒頭の『きまぐれTRPGニュース』への指摘の件で、『TRPGのススメ?』の紅茶檸檬氏からアフィリエイトではないという指摘を受けました。誤解を招く表現をしてしまったことをここに謹んでお詫び申し上げます。

hatenaでアフィリエイトのお話ー
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2008年03月22日

『パワープレイ』に捧げる挽歌 〜TRPG作品が使命を終えるとき〜

 春分の日を利用しまして、かねてからやりたかった秘密プロジェクトを始動しました。もうすでにお気づきの方もいらっしゃるかと思いますが、今後はそちらの方でもまったり活動していきますので、よろしゅうご贔屓にお願いします。
 
 今日は1つのTRPGが使命を終える時の話。
 
 2007年は『ナイトウィザード』、『シャドウラン』、『六門世界RPG』、『ナイトメアハンター・ディープ』、『マルス2nd』など改訂版が多く登場し、今年に入ってからも『深淵』、『セブン=フォートレス』が装いを新たにし、それにD20システムで『メタルヘッド』、『ワースブレイド』が続きます。

 その一方で、再販の声もかからず忘れ去られたTRPGもあります。
 もちろん書籍形態のTRPG、持ち出せば何年経とうがプレイできますし、そのTRPGが「ある」限り、使命を終えたなどと宣言するのは早すぎると思う方もおりましょう。
 だが、「ある」にも関わらずプレミアもつかない。中古品が安値のまま放置され、TRPG系Blogなどで懐古する者もおらねば、再販の声も聞かれない。プレイ歴3〜5年の若手の間では断絶状態。そんなTRPG作品は自然発生的に再起することは至難であり、使命を終えたと断じてもいいのではないのでしょうか。

 今回はそんな使命の終わったTRPGの1つとして、『パワープレイ』を挙げたいと思います。高校時代によくプレイしたゲームの1つです。

 『パワープレイ(以下PP)』は和製『D&D』を目指した作品でした。
 そのシステム構成は『D&D』とほぼ同じで、種族&職業、能力値と判定、戦闘システム、魔法、モンスター、成長、その他の諸ルールで成り立っています。まだ状況再現システム(作品の特色を出すための特例ルール)が存在しない、原始的なダンジョン探索ゲームをするためのTRPGです。

 PPの特徴は以下の3つが挙げられます。

・複数個のD6を振らせるが、1つでも1の目が出れば失敗(ランダム性の強い判定)
・魔法や武器には能力値制限があり、能力値を上げて段階的に習得する(ビルドアップを前提とした作り)
・経験値が「(レベルの合計)×(プレイ時間)×100÷(人数)」(ダンジョン探索を目的とした経験値)

 僕は、この3つの特徴全てがカッコで示す通り、新和版『D&D』での基調プレイ……プレイ時間のほとんどをダンジョン探索に費やし、ランダム性が高い危険な戦闘や探索に挑み、できる限りじっくりと時間をかけて探索をしつつ生存することをゲーム目標とし、その褒賞としてキャラクターをビルドアップし、さらに脅威度の高いダンジョンに挑む……をするためにデザインしたものと考えています。

 だがPPが世に出た91年はもう『D&D』の時代ではありませんでした。89年に出た『ソードワールド』、『ロードス島戦記コンパニオン』とリプレイ集によって、TRPGは物語再現装置としてゲームメディアとしての道を猛進しており、TRPG業界にはライトノベル誌やゲーム総合誌などから多くの物語好きな層が参入してきました。
 この層がTRPGで特に好んだのが、ゲームブックのように対話と描写で物語を進めるアドベンチャーであり、物語を語り合うストーリーテリングでした。
 このダンジョン巡り主体からストーリーテリング主体へとプレイスタイルの流行が変化したことは、PPの特色を根底から揺るがすものでした。TRPGには、HPなどの資源管理を行わない安全な時間が多くなり、その代わりストーリーテリングを行う時間が飛躍的に拡張されていきました。プレイ時間=タイムサバイバルという前提で作られていたPPにとっては「ゲームと見なしていない場面で経験値が貯まる」という事態に陥りました。

 さらに、リプレイの隆盛と定着によってキャンペーンにも物語的展開が導入されるようになり、キャラクターのビルドアップはキャンペーンの主体ではなくなっていきました。そもそも『D&D』にしても迷宮専門だった赤箱から野外での物語付き冒険が楽しめる青箱、異世界冒険や領地経営など個人を超えた冒険向けの緑箱、そしてイモータルに至る黒箱とレベルアップをするに従って冒険の規模自体がスケールアップしていったのに対して、PPのレベルアップはどこまで行ってもキャラクターの増強のみでした。

 云わば、時間が続く限り赤箱状態で楽しむことがPPの存在意義と云えましょう。PPはホビージャパンの作品だけに、RPGマガジン誌による支援を受け、同誌読者をターゲットにしたファンタジーとして一定の地位を築いていました。
 そして、RPGマガジン終焉とともにその使命を一端終えました。

 だが、この当時はまだTRPG作品としてのブランドは残っており、2000年には『パワープレイ・プログレス(以下PPP)』として改訂されています。PPPの執筆陣には『スター・レジェンド』の銅大氏や田中天氏など、現在も活躍する人たちがいます。

 PPPはPPのシステムに加えて、独自のゲーム世界を作れるワールドメイキングの設定が追加されました。これは『AD&D』や『ソードワールド』などのファンタジーTRPGで当時頻繁に行われていたサークル内オリジナル世界でのプレイを前提にした作りをしているもの思われます。
 だが、2000年〜01年の間にも、PPPにとっては不幸なことにTRPG業界はまたしてもプレイスタイルの劇的な変化が起こりました。99年発売の『ビーストバインド 魔獣の絆』以降、試行錯誤が続いたシナリオ運営技術化の動きが2000年の『天羅万象・零』、01年の『輪廻戦記ゼノスケープ』、『プレイド・オブ・アルカナ 2nd Edition』、『テラ:ザ・ガンスリンガー』、『ダブルクロス』などによってハンドアウトとして結実。手作りオリジナル世界が優勢だったTRPG業界は、一気にデザイナーブランド中心の業界へと変化しました。TRPGは作品ごとに独自の世界観を打ち出すことが当たり前になり、PPPのような自作を基調にしたTRPG作品はまったく需要が絶えてしまいました。
 また、シナリオ運営技術の確立によってプレイ時間は「できる限り時間をかけて遊ぶもの」から、「遊び手の都合に合わせて管理するべきもの」へと意識変化が起き、PPと変わらぬ経験値配分であるPPPは益々時代にそぐわなくなっていきました。

 その他の諸因もありますが、かくしてPPPは次々と最新技術を搭載した後発ゲームによって人気を保ち続けることもできず、2008年現在は絶版状態にあり、再販の予定もありません。
 そして2007年末、物語の強いカジュアルプレイを重視しながらゲーム世界を自作する『りゅうたま』の登場によって、PPPはその使命を完全に終えることになりました。

 PPそしてPPPが廃れていった原因は、いずれも時代を読み違えたことにあるかと思われます。どちらも当時主流だったプレイスタイルを踏襲し、泥臭さをなくした作りをしています。だが、時代にとって最先端技術ではなく、どちらかと云えば懐古的であったのが問題であり、単に時代時代の原始的楽しさを洗練したのみでは、ゲームとしてのトレンドは掴めなかったと云えましょう。

 僕もPPはよくプレイしたし、作者の山北篤氏は尊敬すべきデザイナーだと認識しています。だが、現代になって氏の業績が業界に痕跡を残していないという現状を顧みれば、厳しい評価をせざるをえません。
 
 確かに昔を懐かしむ気持ちはありますが、TRPGの遊び手を取り巻く環境は日々変化しているもので、10年前には誰もが自然に遊んでいたスタイルが現在ではプレイすることすら困難になることがままあるのです。
 TRPGは今の遊び手がプレイ可能な環境にも適応できなくなったら、その使命を終えるのです。ここ1〜2年の間に再販されたTRPGも、今遊び手が置かれているプレイ環境に適応できるか否かで、今後の運命が左右されるものかと存じます。

 

 
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2008年03月09日

初心者がまず構築すべきTRPGドクトリン

 ブレーキをかけながらアクセルを踏み込むさんとこにて、論客としての僕が紹介されました。取り上げていただきありがとうございます。

 率直な感想云いますと、他のお三方とは違った視座に立っていることは論客としては非常に重要なことです。確かに僕はTRPG論客ならず、TRPG者論客なのかもしれません。それを最初に指摘したのが馬場秀和氏なわけで。まぁ純粋にシステム論議するよりは語りやすいからなんですけどね。

 今日はTRPG攻略法をもとにした、TRPG初心者が訓練を受けるに必要なシステムの基礎です。

◆◆◆
 
 TRPGの初心者か否かについて、1つの明確な基準があります。
 それはあなたがTRPGグループの中で何ができるのか、具体的な長所を自覚しているか否かです。自分に何ができるか無知な人は何年プレイしようが、グループの中では間に合わせのモブ(人格を留意する必要のない重要性の低い人物)です。大抵の人は軽視される環境に不満を感じ、待遇を改善すべく精勤しますが、その際基調となる思考は「自分はいかにしてグループの中で存在感を示すか」です。いかなるグループも、グループの活動を維持するために必要な人材が優遇されます。
 
 TRPG初心者は、まず「自分はグループの中で何ができるか」と考えることを第一歩としてください。

 TRPGに接した人が一様に感じるのが、「なんか難しそうで近づき難い」という障壁です。これは未知の環境に放り込まれた者が共通して抱く感情であり、イメージが飛び交うTRPG環境では漠然と混沌が常態であります。

 TRPGは1人の遊び手が主役を演じれば脇役も演じ、ルールブックを駆使してウォーゲームを勝ち抜くこともあれば、巣の知力や機転を利かせて謎やパズルを解くこともあり、あるいは社交術を活かして円滑な交渉をすることもあります。
 考慮すべき事項もウォーゲームの勝利、シナリオの成否、レクリエーション活動の充実具合と、部長と課長と平社員の役割を同時に引き受けるかのような多様な思考が求められます。これにGM業、さらにグループの運営業までこなす必要が生じれば、1人1人がTRPGを独立して運営していけるだけの力量が問われることになります。

 なぜ、TRPGは各人に独立運営能力を求めているか。
 それは「TRPGは好きなゲームを好きな時に、遊び仲間を特定せず楽しむ」ことを前提に活動を維持しているからです。TRPGは各ゲームごとの支持者のみで分離して活動するには遊び手の絶対数に不安があります。
 なぜならTRPGは熱狂的愛好者の堅信的活動……いわゆる信者・中毒者の犠牲によって運営されている奴隷商売を行っていません。ほぼすべての愛好者が多くある選択肢から、その日の気分でTRPGを愛好しているという弱い結束のもとで成立しています。

 初心者の方は、「TRPGは好きなゲームを好きな時に、遊び仲間を特定せず楽しむ」環境であることを認識しておいて下さい。これだけであなたは戦場の地の利を得ます。
 では、こうした環境の中でいかに自分の居場所を求めましょうか。

 TRPGに参加できる年齢であれば、これまで実社会で何かしらの組織の元で、何人かでグループを組み活動した経験があるかと思います。そしてグループ活動に成果を出すに、「自分はこうすればお役に立てる」「自分はチームの中でこんな具合に動く」という自分自身の得意な役割を講じたことがあるか考えて下さい。

 TRPGという複雑な環境に戸惑う人は、いかにして異質な環境に順応すべきか考えてしまうものですが、忘れてください。複雑な環境ですが、そこに生きている人はごく普通の人ばかりです。
 あなたは実社会で通じている性格から自分の長所を見出せばいいのです。
 
 人によっては、グループ活動など精力的に活動したこともない。すべて右から左に流しても問題なかったから、グループの中で存在感を示そうとも、そのために自分の長所など考えたこともないと云う人もおりましょう。
 活動維持費を徴収しているわけではないTRPGのグループとしては、そのような低意欲な人に居場所を与え続けるほど甘い環境ではありません。
 世にグループは、その活動の維持に精力的な人から人材としてカウントするのが習いです。活動に消極的な人など、人以下の消費物として使い潰されるのが世の常だと肝に銘じておいて下さい。もちろん、ただ精力的なだけで存在感を示せない人もモブとして、使い潰されるのは一緒です(トイレットペーパーとメモ用紙ぐらいの差はありますけど)。
 たかが趣味の世界で使い潰されるなど、愚の骨頂です。

◆◆◆

 TRPGという環境で活動する第一の心構えは「自分の長所を発揮する」ことでグループ内での存在感を示すことです。その長所は、今までの実生活で培った性格から編み出すべきでしょう。
 ここでは、グループで活動するに武器とすべき長所……資質的特性を「TRPGドクトリン」と表現します。ドクトリンとは軍隊では、各軍隊の存在意義から編み出した特性のことを指し、ドクトリンが発揮されるように戦術を組み、戦略を練ります。

 まずはあなたのTRPGドクトリンを決めましょう。
 TRPG活動に精力的な人は、次に示す8種のTRPGドクトリンのうち1つ以上を発揮するよう活動しています。まず、あなたのTRPGドクトリンがどのタイプにあるのか、自らの実生活から一番実感の持てるものを選択してください。

【TRPGの行動指針8種】

1:成功確率を読んで、勝負に出る
2:有利な状況を作り出し、勝てる勝負を作る
3:ここ一番の得意技を繰り出す
4:補佐役としてチームの欠点を補う
5:チームを鼓舞し、目標に向かって牽引する
6:常に目的を見定め、脱線しないように軌道修正をする
7:打開策を講じ、楽して成功する道を探す
8:明るいムードを演出して、チームを活気づける

 あなたがTRPGで行うべき仕事は、TRPGドクトリンで定めたあなたの長所を生かしてチームのお役に立つことです。チームの成功はTRPG活動そのものの成功に寄与し、あなたに様々な恩恵……仲間の信頼、充実した時間、素晴らしい物語の体感、そしてあなたがTRPGを選んだことが間違いではなかったという満足感……になります。

 ドクトリンが決まれば、それを発揮すべく運動能力を構築しましょう。TRPGは各ドクトリンに対応した役割分担が、チームという単位では職業、クラス、テンプレート、アーキタイプといった物語上での配役構成に似た形で提示されています。団体競技で云うポジション、軍隊では部隊編成に当たるもので、多くのTRPGはそれぞれ違ったドクトリンの元で強化された別兵科の者たちが組み合わさって協同するコンバインド・アームズで成り立っています。

 TRPGの運動能力とコンバインド・アームズに関しては次回。 
 
 
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2008年03月03日

外に語る時代ではなくなった 〜TRPGブロガーがアニメ版ナイトウィザードに冷淡だった一因〜

 昨年10月〜12月にかけてTVアニメ『ナイトウィザード The ANIMATION』が放送され、ロードス以来のTRPG原作アニメということで僕もその動向を注視していました。やはり原作設定の多いTRPGと云う媒介を1クールで説明しきるのは至難の技でしたが、頭を抱えるほどの逸脱や作画崩壊(OPを含め何度かハラハラしたけど)もなく、まぁまず無難に終えた感はあります。

 TRPG愛好家の間では久々の露出にさぞ湧き上がっているかと思いきや、意外と冷淡です。放送時に合わせて、『ナイトウィザード 2nd Rdition』が発売されたのですが、そんなに騒ぐほど話題になったというほどではありません。
 ナイトウィザード愛好家の元に行けば、それなりの熱い盛り上がりを体感できたかと思いますが、それでないごく普通にTRPGをプレイしている環境では、正直アニメ版は別次元の話でした。

 様々な諸因はあるでしょうけど、アニメ化がTRPGの販売促進に繋がったかは正直微妙ではないかと思います。結論を出すにはまだ早いのでしょうけど、ナイトウィザードで活動している方々の実感も聞いてみたい所です。

 そんなわけで、今日はTRPG愛好者が外部露出に冷淡になったのかを問い、その諸因の1つを推察します。

◆◆◆

 かつて『ロードス島戦記』が世に出て、TRPGの存在が知れ渡った時代、日本においてTRPGの背景たる西洋ファンタジー自体が認知されておらず、TRPGは新しいゲームであると同時に、新しい物語文化の伝道者としての役目を求められていました。そもそも、当時はゲームに小説のような物語が織り込まれ、ゲーム中に物語られること自体が異質の存在でした。

 すなわち、当時のTRPG愛好者は世間一般の人より物語世界のイメージが豊富であり、イメージ格差の是正をするために盛んに外部に自分たちの文化を語る必要がありました。
 この時代、TRPGは紛れもなく文化の発信者でした。TRPGは物語世界の文化では最先端技術でもあったのです。

 翻って現在では、映画、漫画、アニメ、小説、そしてゲームと物語文化を演出するメディアは多種多様になり、またインターネットの登場によって文化の伝播が格段と容易になりました。これによって、TRPG愛好者はゲームを紹介するのに一々物語世界を解説する手間から解放されました。チェインメイルが何なのか、ゴブリンとはどんな生き物なのか、十分にイメージがついてから参加してくる人が多くなり、それ以前にゲームを遊ぶのに物語世界を把握する必要性が認知されるようになりました。

 現在では、TRPG以外のメディアに精通し、TRPG愛好者よりも物語世界のイメージが豊富な人など、それこそ市場を成すほどいるでしょう。ある物語文化を楽しむにTRPGは文字(小説)、ヴィジュアル(視覚メディア)、コミュニケーション(オンライン)のどれもアンティークな存在になり、「物語文化の体験」というかってはTRPGが最先端技術だった時代は趣味文化の多様化によって拡散されるようになりました。物語文化を体感するに、TRPGは最先端から選択肢の1つに成り下がりました。

 今の時代、物語文化の最先端技術の座を降りたTRPGは逆に文化の受信者となっています。むしろTRPGの方が他メディアの影響を受け、流行のメディアを再現するようアンテナを張ることが求められています。
 TRPGが外部発信から内部受信の文化になった時期はおそらく、冬の時代と呼ばれた2000年前後と、F.E.A.R社が旗手となって現在のスタイルが新生された2005年頃の間、5年の間かと思います。

 TRPG系BlogはTRPGを知らぬ外部に宣伝活動をするよりも、TRPG愛好者の間で啓蒙活動をするBlogの方が多くあります。僕のBlogもその走りであるわけですけど、要するにBlogを開くほど発言に意欲のあるゲーマーの興味が外よりも内に向いているということです。
 これは当然の事で、TRPG系ブロガーと云えども数ある趣味の中にTRPGがあるに過ぎず、異文化の良さを十分知っているからです。趣味文化が多様化し、それぞれが認知され住み分けられるほど成熟した日本では、それぞれの趣味が市民権を持ちやすく、「○○こそ優れている。××はダメ」という文句がつけづらくなっています。
 今の時代、TRPGが優れた文化であることを宣伝しても、より市場が広く熟練した見識者がいる他メディアによって返り討ちに遭うことは目に見えています。

 TRPGの良さを外部に伝える必要性を感じるのは、趣味文化が多種多様になった現在では簡単なことではないのです。趣味文化が未成熟な時代は、それぞれの井戸の中で、俺たちの趣味こそ天下一と主張し合うことこそが趣味人の在り方でした。それぞれの趣味文化が今よりずっと閉鎖環境にあったからです。その不便さから、外に向かう言葉が必要だったのです。
 だが、それぞれの趣味が独自に発展し、それらがインターネットによって容易く伝播し合える現代では趣味を持つに閉鎖環境に置かれることはなく、いつでも外の世界を窺い知ることができます。そんな開かれた世界になった時代に、TRPGこそ優れた趣味だと訴えた所で、すぐ他の世界と見比べることが可能なのです。

 こんな時代ですから、TRPGが他メディアに物語を提供した所で、TRPGがアニメ業界に貢献した、TRPGはアニメ業界に恩を売った、アニメ業界はTRPG様の善意によって優れた作品を得たなどと思う人は誰もいません。いわんや、アニメ業界に御恩を与えたのだから、アニメ業界からは恩に報いるべく参入者が来て当然ではないかと考える者は今や妄動の徒と云えましょう。
 
 TRPGはTRPG、アニメはアニメと趣味の世界はそれぞれに成熟し別次元で住み分けられているのが現在なのです。それが分かっているからこその冷淡ぶりなのでしょう。
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2008年02月24日

TRPGが「ある」 〜物品としてのTRPGの認知〜

 『さよなら絶望先生』の小森霧ちゃんは100万人にお兄ちゃんいるでしょ言われてうんざりしているそうだが、それは100万人が霧ちゃんを妹にしたいと思っているということなのでは。
 確かに引き篭もりの妹とくれば、少女を自室に飼いたいと願う監禁王子な方々には理想の存在ですし。近所にも「ウチの妹引き篭もりで困っています」と言っておけば、実はメイド服で鎖につないで監禁して、それなんてエロゲなマネしようが(アホの考えであろうが)無問題に思えますしね。なんて罪深い。混沌の手先め。
 
 アホ話はここまで。

 今日はTRPGが「ある」ことについてです。

 TRPGは物品として「ある」ことが即ちゲームとしての意義があるとは見なされません。誰がどう見たって書籍ですし。遊び手がゲームを「する」ことによって、初めてTRPGは書籍からゲームに成り得ますよね。
 それがあるから、今まで僕は「TRPGはゲームか」という問題自体に些か違和感を感じていました。僕がTRPGのルールブックを示して「これはゲームです」と証明することは「では、実際にゲームをしてみましょう」と付随することで可能です。でも、ただ立て札に「これはゲームです」と銘打って飾った場合、一体誰がTRPGをゲームと認めるのでしょうか。見物客がTRPGを知っていることをただ願うのみではありませんでしょうか。

 愛好者としては、TRPGが「ある」だけでゲームと認知され、さらに欲を出せば支持される世の中を願います。だけど、書籍やサイコロ、紙片だけではTRPGを連想させるのは難しい所。書籍、サイコロ、紙片と云う専門の趣味で取り扱う道具としてはありふれたTRPGの道具類は、連想して導き出すには優先順位はとても低いことが予測されるからです。
 TRPGを優先的に連想させるには、書籍とサイコロ、紙片がある光景はTRPGなのだと連想させるだけの刷り込みがなされてないといけませんし、対象が広範であればあるほど、大規模な宣伝と目撃、体験によって身近にあるものだということが実感できるものでなくてはなりません。
 TRPGが物品として「ある」ことのみでゲームとして認知されるということは、社会的認知の問題でありTRPGがゲームだということを証明する必要はないということなのです。対象がゲームを知らなくとも、遊ばなくとも。
 
 TRPGが「ある」だけではゲームとして認知され辛いのは道具類が専門の道具として認知されにくいというだけではありません。逆に、道具として先鋭化し過ぎたが上の実態としての専門性の高さにもあります。

 簡単に云えば、何でもかんでも文字とイメージで表現し過ぎているってことです。視覚に訴えるギミックはフィギュアにしろフロアタイルにしろ、書籍形態にした時点で取っ払われ、サイコロも6面体以外は普及していないからと敬遠される傾向にあります。
 それが悪いかはともかく、視覚ギミックをそぎ落とす方向に向かったTRPGは遊び手に読書力とイメージのための連想力を強く求めるゲームとなりました。それによって、TRPGは普及よりも練達の方が重要視され、かつ遊び手にとって具体的な存在になりました。TRPGが「ある」ことに関しては曖昧模糊なモヤモヤしか浮かばないが、TRPGを「する」ことに関しては具体的なモデルが提示できるというわけです。

 今のTRPGは遊び手が読解し、イメージし表現する事を当たり前とし過ぎています。それが訓練を要することだと云うことすら認められないぐらい。
 TRPGは原始的な道具と違って、様々な機能を1つに集約した結果、工業機械のように専門知識を通しての視野でないとその役割すら認識できない代物なのかもしれません。
 
 僕らTRPG系ブロガーも、TRPGを認知させる事ことの難しさから、TRPGを観念的に「する」ための清談に逃避してしまいがちです。論考記事が賑わうのは結構ですが、TRPGを扱うメディアの一端を担う者たちが、TRPGの社会的認知に背を向けた隠者ばかりでは困るということです。
 もちろん、本来ならそういう事は販売側がするべきことなんですけどね。エンドユーザーが好き勝手やってるだけだと自認しているスタンスの人にまで、お前らもうちょっと論客としての自覚持てと言うのもおこがましい限りで。

 ちなみに僕は、TRPGはボードゲーム並みに専用遊戯道具を揃えても、80〜90年代のようにユーザー確保の妨げにはならないと思います。80年代の頃はシミュレーションゲーム、90年代にはカードゲームやミニチュアウォーゲームと同居しており、ボックスやカード、ミニチュアを揃える事はゲーム活動とは別の、コレクターとしてのステータスがありました。新参者はゲーマーとして以前に、収集家の集いとしての壁に遭遇するわけで、そこに参入の妨げがありました。
 
 2008年現在、TRPGはコレクタブルゲームとはどれとも距離を取っていますし、弱肉強食の要素……たくさん投資した者が単純に強くなるという状態でなければ専用遊戯道具を作るのも悪くないかもしれません。
posted by 回転翼 at 09:01 | TrackBack(0) | TRPG雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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