2008年02月19日

脳を気遣う歳だから 〜大人になってTRPGをやる意味〜

 TRPGを楽しむために根源的に必要なことは何でしょう。
 物語、演技、対話、戦闘、パーティなど色々あるでしょう。
 肝心なのはそれら仕組みの諸要素が「快感」を生み出せるか…。すなわち、快感の根源たるエンドルフィンを分泌できるかにかかっています。

 今日は大人になってTRPGを楽しむ意義について。

 TRPGのみならず、ゲーム全般、そして遊び事全般を通してそれを楽しむ人と楽しんでいない人とでは精神状態は大きく異なっています。TRPGのゲーマーなら、ついつい部外者から「何が楽しいの?」と聞かれてムキになってしまう青い時代を経験した事でしょう。

 曰く、我は奇行なす異端者ではない、と。
 でも、大人になれば逆の立場で多くの趣味人を見下してた事を悟ることでしょう。そのジレンマに苦しみ、ついには全ては幼児性の成すことであったと趣味から卒業してしまう人もいるものです。
 俗に「バカバカしくなった」と呟く状態なんですけど、TRPGを楽しむという自己実現の欲求が、ジレンマに苦しむ事からくる脳の疲労によって減退し、エンドルフィンを分泌せしめる欲求になりえなくなったのです。

 こうなると、必要なのは休養です。鬱状態です。

 では、成熟した大人であるはずなのに趣味人な人はどういう精神構造をしているのでしょうか。幼児性の抜けない未熟な精神の人たちなのでしょうか。もちろん、口さがない人はそう揶揄する事でしょう。羨望と嫉妬が混じった目線を向けて。

 だが、僕なんかは幼稚などと揶揄されても傷ついたりすることはありません(面前でお前は幼稚だと言い出す人のDQNぶりに薄気味悪さを感じる事はありますけど)。また、ああ俺はヲタクで結構と開き直る気にもなれません。
 僕は20代前半から後半までリタイアしていましたので、その間に僅かながら成長があったのでしょう。

 この歳になって選んでいる趣味だから、そこには理性的な理由があるのだと思っています。具体的には、脳の活性化を促すために古来からエンドルフィン分泌活動として行われていた「遊び」をしており、その中でも持続性の高い高次的・社会的な欲求を満たせうる遊びとしてT創作的要素、想像的要素の強いTRPGを選んでいる……となるでしょうか。

 エンドルフィンは脳で働く神経伝達物質(神経を動かす燃料みたいなもの)で、これが出ると鎮痛効果があり幸せな気分になれることから脳内麻薬とも呼ばれています。
 エンドルフィンは脳の中にある報酬系と云う神経に多くあります。報酬系は欲求が満たされると元気になる神経で、これには食欲、性欲、体温調整欲と云った動物的な欲求のみならず、愛や充実感、希望と云った社会的、高次的な欲求にも作用します。報酬系神経は知覚、思考、記憶などを司る大脳皮質を保つために重要な神経だとも云われています。一方で薬物依存などの状態を生み出すのも報酬系神経が影響しています。

 今の僕にとってTRPGはお茶を飲んだり音楽を聴いたりと、脳を健全に保ち精神を安寧にさせる行動の中にあるってことです。

◆◆◆

 TRPGの根源に関わる「遊」について良質な考察がされているWebサイトを発見。僕もただ今精読中です。

 〈遊〉について
 
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2008年02月14日

TRPGの延長線上にTRPGの討論はあるのか

 TRPG LINKにきまぐれTRPGニュースを追加しました。
 最近活躍が著しいaccelerator氏のTRPG系ニュースBlogで、僕もよく利用させていただいております。
 あと、過去ログの件数を増大。

 今日はTRPGの討論についてちょっと気付いたこと。

 TRPGの原理、メカニズムに関する論考、討論はしばしば空転し、論客の疲労によって霧散してはまたぶり返されるという無限回廊の様相に陥りがちです。このループによってせっかく論じられた資産が実用性を失い、結果として討論自体が存在意義を失うことを危惧する人は1人2人ではないかと思います。
 討論と銘打っていますが、実際は有志座談会であり、何かプロジェクトを企画しているわけでも、会議後に総括声明を発するわけでもない。参加者は匿名で、討論相手との面識もなければ、討論結果が今後のプレイに影響することもない。言いたい放題かまして、相手の意見は黙殺した所で何ら問題はない…。
 その程度のものですから、影響力を持とうと思う方がどうかしています。
 「お前らが論議している問題は、俺様がとっくの昔に論破してるんだぞ」と口吻飛ばした所で、「そんなもん、誰も見ちゃいねーんだよ」で終わるのが関の山。正直、論客同士が意見交換して見識を深められればそれでよし、というものなのでしょう。

 ではTRPGの討論は役に立たないのか、無駄なのか。
 そこで有益を主張するか、無益を主張するかが常道ですが、僕はここに第3の道が存在するのではと考えています。すなわち、有益無益の問題ではなく、むしろ別の次元の基で繰り広げられているのではないのか…。

 楽しいから。

 RPG日本の鏡氏は著名なアマチュア論客であるが、彼などは討論そのものが楽しいと主張
したことが何度かあったような気がします。実の所、TRPGの討論はお互い何も賭けていない以上、総括・結論にこだわる必要がなく、むしろやり取りの妙を楽しむゲームに近い代物です。
 
 実は、普段TRPGで行っているトークゲーム(Conversation Gameとした方が正しいかもしれない)の延長線としてTRPGの討論があるのではないのか。いや、討論という舞台で論客をロールプレイするTRPGをしてはいないか…。
 それが今日言いたかった事です。TRPGのトークゲームのように、修辞の凝らしたうまい文章表現が上手なロールプレイのように評価され、物語を構築し共有することを楽しむように、討論することで議題を構築し共有することを楽しんではいないだろうか…。

 それが的を得ているのか、的外れなのか、僕はまだ解答を持ちえていません。
 だが、僕らTRPGの遊び手は有益無益の次元から遠く離れた、楽しむために積極的に対話し討論するTRPGのトークゲームを知っているし、各々がTRPGをバックグラウンドとしているはずです。
 その慣れ親しんだ環境のままに、討論というゲームを楽しんではいないか…。

 いかがなものでしょう。
 
ラベル:TRPG
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2008年02月05日

一本道の歩き方 〜TRPGにおける一本道の種類とトークゲーム〜

 先月、1月27日にHOBBY-JAPAN社屋にてHJ-CONに珍しく回転翼名義で参加しました。GM及びパーティの皆様には楽しいプレイができましたことあつく御礼申し上げます。
 
 D4+5の2回攻撃、やりすぎ。D&D脳(笑)

 今日はTRPGにおける一本道の話。

 一本道と云えばGMの想定したシナリオ展開を外れないセッション形態のことを意味します。迷宮探索がメインだった時代においては入り口と出口が1つずつで、迷宮をくまなく探索する意味がなく、まっすぐ出口に向かえばそれでよしと云うシナリオのことを指していました。
 これが物語の追体験がメインとなったここ10年ほどのTRPGでは、物語のプロットが迷宮の変わりになり、GMが構成作家よろしく組み立てたシナリオ展開を遊び手たちはメタの立場から追体験するという遊び方が主流となりました。この段階での一本道とは、物語の構成に分岐がなく、終始1つの価値観で統一されているシナリオのことを指します。

 老練なゲーマーは多分前者しか知らないと思います。
 『D&D』は価値観が不統一なシステムですし、そのせめぎ合いがトークゲーム(対話のやり取りを対局ゲームとして見立てた遊び)の主題でした。初代は3つ、『AD&D』以降は9つあるアライメントがD&Dの世界を構成していると云ってもよく、アルコンでもデヴィルでも、D&Dの舞台に立つ者はすべて己のアライメントとどう付き合うのかが存在意義です。
 そんなD&D時代のトークゲームを知る者からすれば、遊び手の価値観が統一されて当たり前の一本道など容易に想像はつかないでしょう。
 だが、この「構成の一本道」は『ナイトウィザード』のような最近の作品に限って登場するものではありません。

 構成の一本道の場合、GMは「遊び手がこの場面ではどう考え、どのような行動を起こすか」まで設定します。遊び手もメタ視点ですから、GMの構成に「面白い」という信任を持って、彼の設定に従います。このような形式は『D&D』ようにPCの価値観が不統一になるよう仕組まれたゲームでなれば、どのゲームでも可能です。なべても『サイバーパンク2.0.2.0』や『深淵』のような、作品自体が1つの哲学に基づいてデザインされているゲームにおいては、哲学が遊び手個人の価値観より優先されると云ってもよいでしょう。

 『サイバーパンク2.0.2.0』が出てきましたが、このゲームは、

1:スタイルは実像をしのぐ(結果よりも在り様が問われる)
2:態度がすべてだ(誰もが自己を剥き出しにしている)
3:エッジを極めろ(どんなことでもギリギリの真剣勝負)

 という哲学を誰もが体現しなくてはならないゲームでして、その哲学の下に個人の価値観があります。極端な言い方をしますが、この哲学に従わない判断をしたPCを、GMは容赦なく切り捨てても構わないのです。その容赦ない世界観の中で、いかに哲学を貫くかがこのゲームにおけるトークゲームの主題と云えましょう。

 『サイバーパンク2.0.2.0』はデザイナー側が価値観を提示していますが、GMが自由に価値観を想定してよい(受け入れられるかは別にして)ゲームも多々あります。ぶっちゃけ、価値観など無着手なゲームなどいくらでもあります。
 
 『ナイトウィザード』の場合、表立っては強い価値観を提示していませんが、キャラクター属性の典型に基づいて設計されたウィザードのテンプレートがPC個人の価値観を具体的な形に統一させています。 すなわち、遊び手全体を統一させる価値観には希薄なれど、個々のキャラクターの価値観は一定にできているということです。ハンドアウトによるセッション運営技術に従って運営するのならば、それでも十分構成の一本道が可能となります。
 
 要するに「遊び手がこの場面ではどう考え、どのような行動を起こすか」を規定する「構成の一本道」には、『サイバーパンク2.0.2.0』のように誰であろうと構成を遵守すべきというゲームもあれば、『ナイトウィザード』のように必要な立場に立たされた者が遵守すればよいというゲームもあるということです。さらに、誰でもいいから遵守すればいいというゲームだってあるでしょう。

 どのゲームが一本道を遊ぶのにちょうど良いかは好みの差があるでしょう。具体的には「構成の対象が広いほど、GMの期待に応えなきゃならない要素が多い」ということを留意してください。
 
 例えば、『ナイトウィザード』はPC枠とハンドアウトによって、自分がどのタイミングで、どんなテンプレートとして、どのNPCとどう関わるべきなのかを読み取るべきであり、GMも必要な場面までに遊び手に理解させなきゃなりません。そのために遊び手本人同士がメタ視点の立場から協議しても何ら問題ありません。
 
 GMの中には自分がメタゲームをしていることを理解せず、「遊び手がこの場面ではどう考え、どのような行動を起こすか」に関して強い構成を要求するシナリオを書きながら、物語のサプライズを期待してそれらをできる限り秘密にしてしまう人もいます。
 そんなシナリオを書くGMが決まって想定するのは「プレイヤーたちが自分のシナリオを推理してくれる」という甘い目算です。そして、その目算の根底には構成作家としての自己愛があります。
 タネ明かしをしたくないGMと呼びましょうか。
 俗に吟遊詩人GMと呼ばれている方々です。

 構成を完璧に実行しようとすれば、遊び手に委譲することが不安になってきます。もし彼が裏切ったらどうしよう…、もし彼女が理解してなかったらどうしよう…、そう悩み続けた挙句、もう全て自己完結しちゃえばよいやと至ってしまうGMが出てきます。
 
 そりゃプレイヤーに伝えて実行させるよりは、自分の口で語った方が正確に構成は実行されますよ。実際それをやっちゃう人も、それこそどこにでもいたものです。超人NPCが全部自分で解決しちゃうアレ。
 まぁ、「TRPGシステムを書式にした構成作家きどり」であって、お世辞にもGMではないですな。それでGMだと言い張るのなら、

 GM(笑)

 とでもしておきます。
 
 世のGMには「遊び手がこの場面ではどう考え、どのような行動を起こすか」にまで考えを巡らしてシナリオを組む場合、プレイヤーとの語り合いの中で、いかにプレイヤーたちが上手にアクトできるように演出指導ができるかということを第一にマスタリングをして下さい。
 物語を朗読する楽しみなど、GMという役割の中ではほんの少量に抑えるべき調味料に過ぎないことです。食材に相当するのは遊び手と語り合い、物語を構築するトークゲームにこそあるのですから。 
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2008年01月17日

原作物TRPG作成心得

 トップ画面の背景色は、あの時きな粉餅食べたかったから。
 この色のままでいくかは未定です。

 今日もノートで、「原作TRPGを作成する際に守るべき鉄則」です。

◆◆◆

 あるメディア作品(映画、小説、漫画、コンシューマーゲームなど)を原作にTRPGを作ろうとする場合、心得るべき鉄則は以下の六箇条である。

1:原作を知らない人に、原作の魅力を伝えなくてはならない。
2:原作を知る人に、原作の世界観を追体験させなくてはならない。
3:TRPGを知らない人に、TRPGの魅力を伝えなくてはならない。
4:TRPGを知る人に、原作をTRPG化する意義を伝えなくてはならない。
5:デザイナーがいなくても、1〜4が実行されなくてはならない。
6:1〜2が達成できない場合は原作への侮辱行為がされることを覚悟しなければならない。3〜5が達成できない場合、ゲームとして使用されないことを覚悟しなければならない。

注釈1:「原作の魅力」とは、(1)登場人物、(2)舞台設定、(3)哲学/作中で提示する価値観、道義観、真理など……の3要素で受け手側の共感を呼ばせたい箇所を指す。作り手側はこの3要素を鮮明に打ち出さなければならない。二次創作者の場合、3要素についてリサーチを行う必要がある。

注釈2:「世界観の追体験」とは、注釈1で示した3要素がTRPGのプレイによって遊び手が独自に実践できることを意味する。

注釈3:「TRPGの魅力」とは、(1)遊び手本人がゲーム活動に感じる楽しさ(リアルプレイの楽しさ)、(2)遊び手がイメージ上のキャラクターを操作する楽しさ(ロールプレイの楽しさ)、(3)遊び手本人が遊び仲間とリアルプレイ、ロールプレイを分かち合う楽しさ(レクリエーションの楽しさ)の3要素である。

注釈4:「TRPG化する意義」とは、(1)原作のTRPGへの親和性、(2)TRPGとしての独自性、(3)原作の再現性の3要素である。
ラベル:TRPG
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2008年01月15日

TRPG攻略対策・後編

 子供の優しさは無垢からくる純真ならば、大人の優しさは人間を深く見通した明晰さにあります。願わくば、多くの人を理解して優しき大人になってください。

 今年二十歳になるゲーマー諸君に。 

 今日はTRPG攻略法対策の後編。

◆◆◆

 盗賊型解決法は、僧侶型攻略法とともに「GMとの対話」に求めているが、僧侶型がGMを幇助しシナリオを支援する秩序属性なのに対して、盗賊型はGMをやりこめ、シナリオをカオスに導こうとする混沌属性の持ち主である。

 盗賊型プレイヤーはロールプレイこそTRPGの主題と目しており、ルールブックを投げ捨てて言葉遊びに終始しようが、自分たちはゲームをしたと感じる。
 彼・彼女にとってロールプレイはPCの行動によって物語を構築するというトークゲームであり、テンプレート設定を表現すべく物まねなどで対話をするキャラクタープレイとは一線を画している。
 ちなみに他のタイプのプレイヤーにとって、ロールプレイは物語を楽しむために行う即興劇みたいなものであり、ゲームではなくコミュニケーションの範疇に入ると認識している。

 盗賊型を分類すると、キャラクターの特殊能力を使って想定を覆す活躍をしようとするシーフ型と、きまぐれと天邪鬼な言動でユーモラスな展開にしようと試みるトリックスター型とがある。

 盗賊型プレイヤーはトークゲームの勝者を目指して行動する。シーフ型はMVPとして、トリックスター型は喜劇の演出者として。
 ヒロインが登場すれば、シーフ型プレイヤーは好んで口説きだす。トリックスター型は純朴そうなプレイヤーに押し付け囃し立てる。
 
 シーフ型プレイヤーはゲームを左右する妙手を携えたキャラクターを好んで使う。魔法使い型と違うのは、妙手の行使自体に価値を見出す魔法使い型に対し、シーフ型はGMの想定を覆すための道具として妙手を発動させる。
 シーフ型プレイヤーにとって、罠は解除して回避することができるように、シナリオ展開はアイディアによってブレイクスルーできるものと思っている。通風孔から忍び込んでアイテムを盗んだり、モンスターを罠に導いたりするのは当然のテクニックである。

 彼・彼女にとって一番名誉なのはセッションを成功以上の快挙に導くアイディアをやってのけたMVPとなることである。アイディアによって快挙を招いたセッションは後々も印象に残る良質なセッションになりえるので歓迎したい所だが、ある種のGMにとって彼・彼女の存在は忌まわしい存在でもある。吟遊詩人GMと呼ばれる、自己完結型物語を読み聞かせることを目的としているGMにはとみに嫌われている。

 トリックスター型はさらに混沌属性が進行しており、面白い物語ができたらGMが想定していた物語の成否など置いてけぼりにしたって構わないと思っている。NPC悪役がキャラクタープレイとして「下僕になればこの国をやろう」と唆したとしたら、彼・彼女は喜んで軍門に下る。GMを含め、誰もが驚くのならば。

 トリックスター型プレイヤーは日本的なボケの精神に満ちている者とアメリカンなブラックジョークに満ちた者へとさらに分類される。ボケ型は「押してはいけない」ボタンを押したり、NPCに悪戯をしようと、とにかく自分が危地に足を踏み入れる。対してジョーク型は他のプレイヤー……とみに能力値がよさそうな奴……を好んで唆すして危険に晒す。
 そう聞くとただ無軌道な連中だと思われがちだが、プレイヤーの内心は冷静にトークゲームを誘引している場合も多々ある。GMに任せたままシナリオを展開してはしょっぱいプレイになると判断した場合、彼・彼女はトークゲームを盛り上げるべく躊躇なく前提を破壊する。

 トリックスター型プレイヤーはその実、シーフ型以上にトークゲームの成否に敏感な者たちである。シーフ型は他の遊び手との協調を忘れて空気を読まなくなることが多々あるが、トリックスター型はトークゲームではWin-Winの関係になることを望んでいる。

 盗賊型プレイヤーは自分勝手に行動する非協力的な遊び手に映るわけで、他のプレイヤーとの折り合いはよくない。だが、他のタイプよりもTRPGに愛情を持っており、セッションの成功に心を砕いている者たちである。GMは彼らのアイディアを尊重し、問題なく活かせるよう臨機応変な対応ができるようにするべきである。 
ラベル:TRPG
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2008年01月07日

遊び手視点から比較する世界観 〜未完成ノートその3〜

 10年後の未来の姿を問われたなら、大抵の人は「自分を取り巻く生活環境の安否」、「自分を取り巻く国際情勢の安否」、「自分の趣味の安否」のどれかに不安を表し憂うことをするでしょう。
 従って、10年後予測されるクライミライは……、

 「格差社会が広がってアルゼンチン型崩壊。すべての面において韓国に負ける。北朝鮮はまだ健在。中国、台湾を武力制圧。麻生さん失脚。外国人犯罪者が激増し、秋葉原や池袋が歌舞伎町化する。TBSは相変わらず格闘技を牛耳り、深夜アニメはお笑い芸人の冠番組に喰われて全滅。ゲーム産業崩壊……」

 とまぁ、「格差社会」「特定アジア」「ヲタク産業」の3つが悪化するってことでどですか?

 今日はゲーム世界を構築する際の試案。
 『みなみけ・おかわり』見始めたあたりから書き始めるんじゃ、書き溜めたノートをつまむしか記事になりませんな。

 TRPGに限らず物語の世界観は、

▼生活環境
 ・自身が実感できる範囲の事象
 ・キャラクターの性能に関する変化

▼国際情勢
 ・自身が見聞で擬似的に予見できる範囲の事象
 ・キャラクターを取り巻く世界観の変化

▼文化(とみに趣味)
 ・自身がイメージで想像できる範囲の事象
 ・キャラクターを動かすプレイヤーの想像力への変化

 ……の3つの要素において、読み手・遊び手が実感している日常社会から「進化している、もしくは退化している」という縦軸と、「充実していて安全、もしくは欠乏していて危機」という横軸とで区分できるのでは考えています。
 縦軸の「人智レベル」が高ければ人々は人智の恩恵を受け、高尚な精神に則った行動を取り、意識の多様性が拡大されます。横軸の「充実度」が高ければ、人々は快適な生活を営み、人々が連携して共存し、様々な文化が華やぎます。すなわち、縦軸が精神的、横軸が物質的な格差を表します。
 ちなみに、人智レベル、安全度は以下の5段階で表します。

・良化   :現実世界より理想に近づいている
・限定的良化:ある局面では現実世界より有利
・現状維持 :現実世界と大差ない
・限定的悪化:ある局面では現実世界より悪化
・悪化   :現実世界より総合的に悪化している

 この試案で『ナイトウィザード』を当てはめてみると以下のようになるでしょうか。

▼生活環境
 人智レベル:限定的良化 充実度:現状維持

 NWに於いてPCは異能を携えたウィザードとなります。侵魔・冥魔との抗戦能力を持っているという点で、PCの性能は現実世界のプレイヤー以上のものを持っています。
 だが、ウィザードは特殊能力者というだけで、彼らの存在自体がゲーム世界に深刻な変革をもたらしていません。ウィザードは侵魔・冥魔と戦うようになった前も後も、現実世界を模した世界のルールの中で生きていることに変わりがありません。その点では現実世界のプレイヤーを取り巻く世界に準拠します。
 
▼国際情勢
 人智レベル:限定的悪化 充実度:限定的良化

 NWの世界は侵魔・冥魔の侵略に晒されています。付け加えて、人類防衛の側もゲイザーのような上位存在によって人類が飼われているという点において、PCたちはプレイヤーより不自由な立場にいます。
 だが、PCたちは特殊能力や上位存在の助力などで現実世界のプレイヤーより行動範囲が広くなっています。世界各地のみならず異界にも行ける力があるので、物質的な環境はプレイヤーより良化しています。

▼文化・趣味
 人智レベル:悪化 充実度:限定的良化

 人類の守護者という明確な立場が固定されているので、NWのPCは悪人プレイが可能なTRPGよりは確実にロールプレイにおいて制限が成されています。
 だが、アーキタイプの種類が比較的多く、ハンドアウトテンプレートの導入などで、PCはロールプレイ支援システムのないTRPGよりはキャラクターとしてモチーフに富んだ存在になりえています。

◆◆◆
 
 今日はここまで。
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2007年12月18日

TRPG攻略対策・中編Ver.2

 『あいつはクラスメート!』購入。
 平成19年度版、『学園ぱらだいす』といった趣ですが、全体として学園物アニメにありがちな、ちょっと個性的な生徒が割拠する学園物のようですね。システムとしては独創的な要素は少ないので、ぶっとんだとまではいってないのがちょっと残念。
 ただ、こんなヲタクが市民権得ているような学園生活を送っていない僕としては隔世の感ありです。

 ちなみに、クラスメートNPCとしてアニメキャラのそっくりさんを出すのは学園物を盛り上げる有効手段と見ていいでしょう。学園物は人間関係がキャラクターの能力以上に大事な要素だと僕は考えています。

 前々回記事、TRPG攻略対策・中編が説明不足な所、冗長だった所と、何かと満足の行く出来ではなかったので書き直しました。こういうことは論考Blogでは滅多にないことでしょうけど、ご了承ください。

◆◆◆

 僧侶型攻略法は盗賊型攻略法とともに、シナリオ解決の手段を「GMとの対話」に求める。

 僧侶型プレイヤーはロールプレイよりもリアルプレイ(遊び手本人のゲーマーとしての立場、思惑)を尊重する。謎解きや交渉、戦闘など遊び手本人の才能が活かされる場面を好む反面、酒場での盛り上がりなど無害なロールプレイで楽しむ場面はあまり好きではない。
 僧侶型プレイヤーを分類すると、GMの幇助に積極的で、シナリオ展開を予測してパーティを牽引しようとするプリースト型と、パーティの議事進行役としてロールプレイを制御しようとするシャーマン型の2種類が存在する。

 調整を目的として対話を試みるプリースト型プレイヤーはGMに協力的である。強いリーダーシップを発揮してシナリオ進行を幇助する他、システム面でのアドバイスなどサブマスターとしての役割も買って出る。

 GMからすれば役立つ人間であるが、強いリーダーシップが時として専横となる危険がプリースト型プレイヤーにはある。僧侶型プレイヤーは典型として古株の遊び手に多く、卓上で一目置かれることに腐心している。彼がTRPGに望むのは年長者、古強者としての敬意を得ることであり、セッションの成否は自らを彩る名誉の一端に過ぎない。
 
 プリースト型プレイヤーにとって一番名誉なのは、シナリオを読み解き、GMの期待通りの解決策を提案することである。そのためにGMとのワンツーマンな展開をすることがあり、他のプレイヤーの自主性を損害することもしばしある。だが、最終的には勝利者ではなくキングメーカーとして他の遊び手に華を持たせることも多く、結果として卓の遊び手全員から敬意を得る。
 セッションの出来不出来を、GMではなく僧侶型プレイヤーに求めるようになったら彼・彼女にとって成功である。

 もちろん、僧侶型プレイヤーの実力が見掛け倒しである場合もある。セッションの円滑な進展のためのリーダーシップが自己目的化してしまった者は黒化してダークプリースト型プレイヤーとなる。プリースト型が幾多の成功や仲間の信頼に驕って黒化するケースは多い。

 シナリオの読み解きを推理ではなく、GMへの執拗な尋問や揚げ足取りで得ようとし、GMの幇助を忘れて自分勝手に振舞うなど横柄な態度を取る者や、調整などできないのにリーダーシップだけは求める無責任な者もいる。
 一番白けさせるのは、勝手にシナリオを予想してタネ明かし・批評を始めたり、自らの見識を披露してGMや他の遊び手、あるいはデザイナーを嘲笑したりするスカした態度を取ることである。
 
 プリースト型プレイヤーは増長すると他の遊び手を軽蔑する傾向があるので、GMは彼が謹厳に努めを果たすようきちんと責任ある言動を取らせることが必要である。プリースト型プレイヤーは他の遊び手に対する責任感の有無で黄金にもゴミクズにもなるので、GMは看過してはいけない。
 
 シャーマン型はプリースト型とは打って変わって謙虚な物腰である。積極的にシナリオ展開を牽引することもなければ、サブマスター的役目を買って出ることもしない。
 彼・彼女のすることは、ただ「真面目にシナリオを進める」ことのみである。シャーマン型プレイヤーにとってTRPGのシナリオとはパズルを解くようなもので、正解を導き出す知的好奇心を楽しみとしている。

 シャーマン型はプリースト型と違って勝手な読み解きをせず、できる限り質問をする。情報収集にも熱心だが、キャラクターの技能やコネを動員するよりも、地道にNPCに聞き込みをする方を好む。とにかく、シナリオ解決に直結する行動を取る傾向があり、ロールプレイはその分おろそかになりがちである。

 逆に、他の遊び手が笑いを取ろうと脱線したロールプレイをしてたりしたら、盛り上がる一同を遮ってでも軌道修正しようとする。彼・彼女にとって、脱線して盛り上がることは、皆を楽しませようとシナリオを用意してくれたGMに失礼なことに思えるためである。
 シャーマン型プレイヤーは律儀で誠実な気質の者がなりやすく、GMとプレイヤーとに主客関係を引いてしまう癖がある。その性質がシナリオをスムーズに進める潤滑剤になることもあれば、円滑すぎて何の盛り上がりもなくシナリオを解決してしまうこともある。

 シャーマン型プレイヤーは調整役としては優等生なのだが、控えめな性質が災いして遊び手としての印象が薄くなるのが問題である。悪く云えば、誰でもできる役目であり、最も忘れ去られるタイプである。
 彼・彼女は単体にさせると埋没して、キャラクターがどこにいるのかも分からない状態になりがちなので、ロールプレイが派手で脱線の多い遊び手と組ますのも手である。 
 
 僧侶型プレイヤーは総じてシナリオを掌握し、自分のペースで進めることに専心する性質があるので、GMとしては退屈なセッションにならないように、適度にダレ場を用意する必要がある。
 
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2007年12月13日

夢は甘美、されど夢見る事は甘美か 〜TRPGでリアルプレイは意識的か〜

 
 TRPGには気付きもしない些細な仕組みがたくさんあります。
 それは機械に紛れているネジのようなもので、あることに気付くのも大変ですが、それが機械の中でどんな役目をしてどれだけ必要なのか気付くのも大変です。大抵がプレイに影響しない石ころのような物ですから、ついスルーしてしまいます。
 そこをスルーせず、磨き抜かれた知恵として活かすには、愚直に考えを巡らし文字にするしかありません。

 今日は前回出したリアルプレイの話。

 TRPGに限らず、RPGはロールプレイを自然受容していることを前提にプレゼンテーションをしてないかと最近思いつきました。物語上のキャラクターの視点から、こんな冒険ができますよ、こんなストーリーが楽しめますよと誘うわけです。
 つまり、RPGはいかなるゲームを楽しませるか以前に、いかなるロールプレイを楽しませるかに重点が置かれているのです。TRPGならどんな作品にもある「はじめに」の欄を見ても、ロールプレイをする媒体としての売りを語るデザイナーの方が、ゲームとして遊び手本人にいかなる楽しみを提供するかという売りを語る人より多いようです。

 確かにロールプレイの方向性は多種多様です。
 だが、遊び手本人がプレイして得られる遊び手としての実感は、ロールプレイ同様、多種多様を売りとしているのか……。

 もちろん、あるなしの度合いは人それぞれの視点次第です。
 問題はそれに意識的であるのか。プレイしている遊び手本人は今どんな気分なのか、何を思い何を楽しんでいるか、ロールプレイを突き放して考えることがTRPGに携わっている人たちが意識しているか否かということです。

 ロールプレイを夢だとするならば、リアルプレイは夢見る行為です。いかに甘美な夢なのかを語るのは結構なのだが、はたして夢を見ようとするのは楽しいことなのか。
 恥ずかしいことではないのか。
 下らないことではないのか。
 時間の無駄ではないのか。

 夢が甘美であっても、夢見る人が苦そうな顔をしていては誰もついてこない。
 TRPGだと、例えばいかにアニメ調の萌えキャラがロールプレイできる世界を用意したとて、遊び手が操作するのに苦しむ……魔法少女物好きのコスプレ少女なんてキャラを嬉々として演じる男性など、傍目ではキモヲタでしかない……作りをしていては作品としては失敗作ではないのかということです。
 これがロールプレイ自然受容の考えでいけば、美少女萌えゲームで美少女キャラを選ぶ人は例外なく美少女ロールプレイをしたくて、自分の身などどうでもよいから、とにかく美少女ロールプレイに耽溺したい人なのだから、彼・彼女の事情なんて考えなくてもいいよということになります。ロールプレイ自然受容の前提から虚飾を剥ぎ取れば、浮かび上がるのは「遊び手とキャラの同一視」です。
 
 もちろん、遊び手が自分を忘れてロールプレイに耽溺しているだけでは問題ないんですけど、TRPGって公共の場でプレイすることも多いし、ヲタクATフィールド張られては困るのですよ。

 まぁ、ヲタクの世界はATフィールド当たり前の世界ですけど。
 そこを当たり前と思ってしまっては外に語る言葉を失います。

 自分自身が楽しければ周囲はどうだってよいと考えるのは勝手です。だが、TRPGはソリティア(1人遊び)ではなく、複数の人が時間を割き手を取り合って楽しむレクリエーションである以上、楽しさを共有するのは絶対条件です。
 リアルプレイを意識するならば、遊び手本人がロールプレイが原因で諍いを起こしたり、後で気まずい思いをしたりするのはマズいゲームです。TRPGは卓の仲間が楽しい実感を一体とできることがリアルプレイの立場からして好ましいと云えましょう。
 さらに僕は、TRPGが外に語る言葉を持つために「岡目から見たゲームプレイ」を付け加えたいと思います。すなわち、観客としてリアルプレイを見て楽しめるかも、TRPGがタコツボ環境から一歩抜け出すために必要な視点ではないでしょうか。
ラベル:TRPG
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2007年12月06日

TRPG攻略対策・中編

【注意】
 この記事は後日の記事によって本文に書き直しがされています。この記事自体は書き直し前ですので、作者としては没記事であり現在の意見とは異なる箇所もございます。よろしくご了承ください。


 TRPG攻略対策・中編Ver.2

 『とらぶるエイリアンず』購入。
 僕がいつぞや言っていた人狼型TRPGの嚆矢と云えましょう。嘘の記述が許されるキャラクターシートと裏キャラシーの存在、対立する個人目標、正体を悟られるか否かで増減するプレイヤー経験値など、ゆるい外見に似合わず、中々手強い玄人向けのゲームかもしれません。

 当分は「ぬいぐるみを持つ少女」をコテに勝ち抜く手段を考案せねば…。

 今日はTRPG攻略法対策の中編。

◆◆◆
 
 僧侶型攻略法は盗賊型攻略法とともに、シナリオ解決の手段を「GMとの対話」に求める。

 僧侶型プレイヤーはロールプレイよりもリアルプレイ(遊び手本人のゲーマーとしての立場、思惑)を尊重する。分類すると、セッション全体の幇助に責任感を持っているプリースト型と、自らの衝動がままにセッションを掌握しようとするダークプリースト型が存在する。

 調整を目的として対話を試みるプリースト型プレイヤーはGMに協力的である。強いリーダーシップを発揮してシナリオ進行を幇助する他、システム面でのアドバイスなどサブマスターとしての役割も買って出る。

 GMからすれば役立つ人間であるが、強いリーダーシップが時として専横となる危険がプリースト型プレイヤーにはある。僧侶型プレイヤーは典型として古株の遊び手に多く、卓上で一目置かれることに腐心している。彼がTRPGに望むのは年長者、古強者としての敬意を得ることであり、セッションの成否は自らを彩る名誉の一端に過ぎない。

 プリースト型プレイヤーにとって一番名誉なのは、シナリオを読み解き、GMの期待通りの解決策を提案することである。そのためにGMとのワンツーマンな展開をすることがあり、他のプレイヤーの自主性を損害することもしばしある。だが、最終的には勝利者ではなくキングメーカーとして他の遊び手に華を持たせることも多く、結果として卓の遊び手全員から敬意を得る。
 セッションの出来不出来を、GMではなく僧侶型プレイヤーに求めるようになったら彼・彼女にとって成功である。

 もちろん、僧侶型プレイヤーの実力が見掛け倒しである場合もある。ダークプリースト型はセッションの円滑な進展めためのリーダーシップが自己目的化してしまった者である。プリースト型が幾多の成功や仲間の信頼に驕って黒化するケースは多い。
 シナリオの読み解きを推理ではなく、GMへの執拗な尋問や揚げ足取りで得ようとし、GMの幇助を忘れて自分勝手に振舞うなど横柄な態度を取る者や、調整などできないのにリーダーシップだけは求める無責任な者もいる。
 
 一番白けさせるのは、勝手にシナリオを予想してタネ明かし・批評を始めたり、自らの見識を披露してGMや他の遊び手、あるいはデザイナーを嘲笑したりするスカした態度を取ることである。

 僧侶型プレイヤーは増長すると他の遊び手を軽蔑する傾向があるので、GMは彼が謹厳に努めを果たすようきちんと責任ある言動を取らせることが必要である。僧侶型プレイヤーは他の遊び手に対する責任感の有無で黄金にもゴミクズにもなるので、GMは看過してはいけない。

 また、ダークプリースト型は「勝つためなら何をしてもよい」というアメリカンマンチキンでもある場合がある。飴マンチは信頼も名誉もかなぐり捨てて、自分だけがゲームで得をすることに専心するので、彼・彼女に優遇は禁物である。一度わがままを許してしまったら際限はないと見てよい。

 ダークプリースト型は不良ゲーマーかもしれないが、ゲームで憂さを晴らしたいという未成熟さゆえの甘えでもあり、ゲーマーとしては若い気質と云える。悪辣さに憧れているが、実際には思春期に似た情緒不安定であると云ってもよい。
 彼に必要なのは知恵をすり潰し、数値的にも劣勢を強いられる本当の意味での難易度の高いシナリオなのかもしれない。
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2007年11月25日

TRPG攻略対策・前編

 TRPGには攻略法があるというのが前回の主旨ですが、当然ながらGMにはプレイヤーがどう攻略するかに対する対策も存在します。今日はそのうち、前半として攻略法1と2に対する対策を。

◆◆◆

1:戦士型攻略法(基幹システム行使による解決)対策

 戦士型攻略法は、魔法使い攻略法とともにシナリオ解決の手段を「優位性の確保」に求める。

 判定による数値的優勢を軸とする戦士型には、ダイスの出目に賭けるバーバリアン型と、元値や数値修正の高さで「振らずして勝つ」ことを目指すソードマスター型の2種類が存在する。前者が派手にダイスを振ろうとするのに対して、後者は自分が活躍する機会(専ら戦闘)が行われるまでダイスロールをせず、歓談に徹することが多い。

 バーバリアン型は成功しっこない判定でも嬉々として振る。
 ソードマスター型は出番が来るまで寝てたり漫画を読んでたりすることが多々ある。

 バーバリアン型、ソードマスター型双方とも和マンチである。前者が能力値の一点集中やダメージの高い武器(ファンタジーならツーハンデットソードやハルバードなど)などを好み、後者は技能や特殊能力の組み合わせによるコンボ技を好む。

 戦士型は数値が良ければGMが善処してくれると思っているので、シナリオの把握に欠ける傾向がある。交渉技能の判定に高い数値で成功しておきながら、何を聞き出すのか分かっていないことも結構ある。とみに交渉技能に関しては、成功すればNPCが何かヒントをくれるための技能だと思っているフシもある(ゲームによっては間違った考えではない)。
 全体的に注意力散漫なので途中で何か書物(ルールブック含む)を読み始めたら、今まで説明したシナリオ展開などは綺麗に忘れられたと思っても差し支えない。

 戦士型プレイヤーを御すには、とにかく飽きさせないことが大事である。

2:魔法使い型攻略法(妙手によって場を支配する解決)対策

 魔法使い型は状況再現システムを手段として用いるが、基本は戦士型と同じく優位性を以てシナリオを支配することを望む。しかし、状況再現システムはあくまでもゲーム世界を再現するためにあるので、彼・彼女の勝利がパーティ全体の勝利に結びつくとは限らない。仲間を残して派手に散華することすらある。

 魔法使い型には積極的に妙手を駆使しようと目論むウィザード型と、パーティの不足部分を補えばどこがで活躍できるだろうと漠然と挑むドルイド型の2種類が存在する。

 ウィザード型は必殺技を有しているが、同時に「必殺技が炸裂したらどうシナリオを支配しよう」という目論見まで溜め込んでいる場合がある。それがクライマックス時であることも多く、結果として終盤まで実力を出し渋る傾向にある。
 もちろん、目論見が外れて何も出来ずじまいに終わるケースも予測される。人間魚雷をするはずが無難に勝てたり(仲間のリードミス)、交渉の妙技を披露しようとしたらNPCがシナリオ設定によって問答無用だったり(GMのリードミス)、魔法使い型はタイミングが難しく、機会を逃すと死にキャラとなる危険がある。己のキャラが死に体となった場合、独力で役立たずから回生するのは難しい。
 なお明白ではないが、絶大な効果を出す必殺技ほど、出せる状況は限られてくるものである。

 当然ながら、魔法使い型プレイヤーは妙手のあるキャラクタータイプを選んでくる。GMは彼のキャラクター作成を注視して、彼の妙手が何であるのか理解しておかねばならない。
 ウィザード型には大技よりも、使い勝手のよい小技を複数取らせた方がよい。

 ウィザード型は明確な勝ちパターンを持っているが、それはキャラクターの性能のみならずロールプレイの設定にまで影響している。物語の登場人物めいた過剰な設定のキャラを紙面であれ脳内であれ用意しており、プレイ中はその再現に務めようとする。
 ただ、彼・彼女の行動方針は常に単体のキャラとしての成功のみに想定されていることが多く、パーティ内での調和とかポジションとかは想定の範囲外である。

 消極的なドルイド型は派手なロールプレイをしないが、自分のキャラクターを把握していない可能性があり、脇役NPCめいた自販機キャラに堕す恐れがある。そもそも、他者のキャラ作成を見てから作り出すタイプなので、プレイヤー本人もかなり控え目であると見てよい。
 ドルイド型は一発で場を支配できる大技を持たせた方がよい。
 無理に空きキャラを据えず、大抵は活躍する機会がある戦士系キャラにさせるという手もある。

 魔法使い型プレイヤーは基本的に夢想家で、一場面でしか個性を発揮できないので、化けるか霞むかのどちらかしかない。状況再現システムは単発向けのゲームほど比重がかかっているので、そういうゲームを選ぶことから始められれば理想である。
 もちろん、対極的に動くキャンペーン向けのゲームで人間魚雷のような一発屋をやられても困るわけで、そこら辺はプレイヤーの成長を待つより他はない。

◆◆◆

 今日はここまで。 

 
ラベル:TRPG
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2007年11月20日

TRPGの攻略法 〜未完成ノートその2〜

 『BLADE STORM 〜百年戦争〜』にハマってしまいました。ここんとこ、Blog書いてる時間を削ってプレイ中です。すいません。
 そんなわけで、今日もまとまりがついてないノートです。

その3:TRPGの攻略法は4種

 TRPGのシナリオ上における目標、すなわちミッションを解決するための方法を攻略法と呼ぶならば、TRPGの攻略法はおよそ以下の4種類に分類される。

1:基幹システム行使による解決
2:妙手によって場を支配する解決
3:交渉によって調整をする解決
4:アイディアによって状況を打破する解決
 
 1のシステム行使による解決は云わば「戦士的攻略法」である。

 この攻略法は、あらゆる判定の成功による数値的優勢からなる勝利である。TRPGのほとんどが判定で行動の成否を決めるルールを採用しており、またゲームに参加するキャラクターの性能や耐久性をはじめ、あらゆるデータを数値化しており、成否を決めるダイスの目に解決の是非を問う名分を与えている。この手法は客観的かつ公正であるが、遊び手の思考が反映されづらいことがデメリットとしてある。

 基幹システム行使による解決がよく反映されているTRPG作品は『GURPS』が挙げられる。キャラクターの資質すべてをCPと多大な技能によって再現しているGURPSは基幹システムの力が強力であり、数値的有利がそのままプレイに大きく影響する。

 2の妙手によって場を支配する解決とは「魔法使い的解決」である。

 この攻略法は状況再現システムを行使した解決策である。各キャラクターが個別に獲得している特殊技術・能力を行使することにより、基幹システムによる判定では得られない特別な効果を発動させ、数値的有利あるいは無条件成功を得るのが手法である。
 云わば切札の投入であり、乱発を避けるために使用条件や制限(その代表がMP)を仕組むゲームは多い。また、双方が切札を持っている場合は切札の応酬もあり、駆け引きの技術が必要となる。

 妙手によって場を支配する解決が色濃く出ているTRPG作品は『トーキョーN◎VA』と云えよう。各自3種取れる神業の効力が物語を方向付ける重要な要素であり、ゲーム的には神業の応酬を制する駆け引きが大事な技術になっている。

 3の交渉によって調整をする解決は「僧侶的解決」である。

 TRPGはゲームであると同時に、人間同士が生で語り合うコミュニケーションの場である。従って、遊び手同士による対話によって物語がシステムを用いることなく解決することもありえる。この解決策は、キャラクターがものを考えたり口にしたりすることに関してシステムとして搭載していないゲームなどでは顕著である。
 この手法はGMを直に説得できれば勝ちという超法規的処置を狙った手法である。GMはもちろんのこと、他の遊び手をも納得させる対話をしなければ揉め事の元となる。もちろん、お喋りが弾みすぎてゲームが空洞化する事もある。

 交渉によって調整をする解決は多くのTRPGで自然と発生している。さらに1や2との組み合わせで数値的優勢を補完する目的で行使されていることもある。だが、調整による解決のみを採用するTRPGはめったになく、ダイスを使わないオンラインセッションなどに留まっているのが現状である。

 4のアイディアによって状況を打破する解決は「盗賊的解決」である。

 1や2がGMが組んだシナリオの想定に沿った形、3がGMと話し合いによって折り合いをつける形での解決策なのに対して、この解決法は「GMの意表をつくこと」を以てシナリオの前提を崩す形での攻略となる。シナリオの盲点やGMの想定不足を突くのだから、反発をするGMもいる。
 TRPGのシナリオはえてして障害物競走みたいに各種障害を真正面から潜り抜ける形式になりがちではあるが、TRPGではアイディア次第によって障害を無効化することも可能である。障害物競走にシナリオの楽しさのほとんどを賭けていたGMからすれば楽しみを白けさす余計な発想とも云えるわけで、アイディアを活かすか殺すかGMの裁量による所が大きい。

 アイディアによって状況を打破する解決を盛り込んだTRPGとして『Aの魔法陣』が挙げられるかもしれない。本来なら物語展開をGMが決めていたTRPGのシナリオをプレイヤーの収束力によって方向付けるものにした新感覚の作品である。

◆◆◆
 
 今日はここまで。
 
ラベル:TRPG
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2007年11月08日

汝はデタラメな世界に迷い込んだ 〜TRPGでのデタラメな設定の考え方〜

 
 TRPGに限らず、ゲームメディアは遊び道具として各種設定をデータ化しているわけで、真っ当な学術目的で資料にしてはダメなデタラメ設定をすることも多々あります。
 そもそもゲーム化の基本は各種設定の数値化なわけで、HPという不思議な成分で生きている原生生物めいたクリーチャーを使用するという時点でもうデタラメなのだし、リアルを言い出したらキリがありません。汝はデタラメな世界に迷いこんだということで勘弁してもらうしかないでしょう。
 では、ゲームを作る側はデタラメな設定をすることを、物語として(妄想するに快感な)夢があることを願って潔しとすることが求められますが、それは作る人本人がデタラメでいいのとはちょっと違います。
 同じデタラメをつくのにも、無知を取り繕うデタラメと、現実を知りその断片的な情報を統合してからつくデタラメとでは共同幻想の質の面で優劣がつくものです。デタラメは多くつけばつくほど遊び手に馬鹿にされるものですから、何がリアルっぽく、何がデタラメっぽいかを見極め、なるべくリアルっぽいデタラメをつくのが望ましい所です。そのために、つくデタラメにまつわるリアル資料を集めることはとても有益なことです。
 
 TRPGだとコラやパロディにしづらい(小難しい長文だらけの書籍だし)ので、「ちょろいもんだぜ」なんて和みのネタにされることはなく、ストレートに軽蔑されるだけだと思いますしね。

 少し実例を。
 例えばドイツ人の名前(アルシャードで多用します)にジョニーなんて付けたら馬鹿にされるだけです。狙ってなければ完全な無知。
 ではドイツ人名を調べて、ヨハンとかハイドリッヒとか付けてみてはどうでしょう。確かにドイツ人っぽいけど、中世ファンタジーならともかく『ナイトウィザード』などの現代物では少しズレた名前でしょう。それというのも、ヨハンやハイドリッヒは近年のドイツでは些か古めかしい名前です。おっさんや老人にはいいかもしれませんが、若者につけるのは少しデタラメっぽい。
 では現代物ではどうすればよいかと云えば、近年統計された新生児の名前の上位を調べれば若者向けの名前も分かることでしょう。サーチエンジンで「Popular name German」とでも入れて検索すればそれっぽいサイトはすぐ見つかります。
 ちなみに近年ドイツで最も多い男児名はアレクザンダーやマクシミリアンとのこと。おそらく、愛称のアレックス、マックスが元でしょう。

 そんなことまで調べんで、適当でええやんと思う人もいましょう。
 だが、上述のようなことを例えばアメリカ人が日本人キャラの名前を付けるに、イ・スンヨプとか付けたら日本人にとってどんだけ〜なことです。
 そこで日本人名を調べたとしても、現代物で「姉小路五左衛門」なんて付けたら(これでもアメリカ人としては凄いけど)やっぱり変。

 ……こんなちょっとした不勉強デタラメが積み重なることによって、用意した設定が重く捉えられるか、軽く見られるか違いが出てきます。
 パロディ目的でないのであれば、軽く見られる(「気軽に受け止められる」とは違うからね。軽く見られる=馬鹿扱いされスルーされるってこと)のは得策ではありません。

 まぁ、シナリオ1つ書くにも裏を取りましょうね…という程度の話ということです。
ラベル:TRPG
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2007年11月01日

「何でもできるけど何もできない」が見つかった 〜TRPGでの消極的/積極的自由〜

 TRPGの自由を語る上で、1つ留意すべき問題があります。
 それは、「何でもできるということは何もできないことではないか」という自由そのものに関わる問題です。この問題は2002年に『ゲーマーズフィールド』誌にて鈴吹太郎氏が提唱した問題に対してRPG日本にて議論されたものです。

 「なんにもできない」とは「何ができない」のか(RPG日本)

 遊び手が自由な発想のもと、自発的に行動することを期待し、そのためにGMによる教導を控えた。だが、遊び手たちはシナリオ展開を理解せず、GMの想定とは外れたプレイをしてしまった…。
 鈴吹氏はこの体験から、過度の自由は迷走・脱線の元になるから制限する方が望ましい。何でもできることは何もできないのと一種だと述べています。

 このコラムに関しては鏡氏が分析しているので、ここで改めて解題する必要はないでしょう。コラム発表から5年が経過していますが、F.E.A.R社製TRPG作品が提供するシナリオ運営技術はほぼ鈴吹氏の思惑…それを推測した鏡氏の指摘に近い仕組みになっていると見ていいでしょう。

 さて、今日ここで取り上げるのは鏡氏が投げかけたこの言葉。

 もしどなたか「なんにもできない」ような「なんでもできる」状況をご存知なら、ぜひ教えて欲しい。

 模範解答ではないでしょうけど、見つかりました。

◆◆◆

 一口に自由と申しましても、その言葉の中には様々な意味があります。そこでアイザイア・バーリンなるラトビア生まれの哲学者は自由の観念を2つに分類しました。

消極的自由(negative liberty):他者からの強制的干渉による拘束が不在であるという自由。

積極的自由(Positive liberty):自分の行動、生き様、命そのものが自分の意志決定によって成り立っている、自分で自分を律しているという自由。

 この2種の自由の捉え方がとりあえず簡単でしょうから、これを「何もできる」かつ「何もできない」状態に当てはめていくとどうなるか検証してみましょう。

1:「消極的自由」があって「消極的自由」がない
2:「消極的自由」があって「積極的自由」がない
3:「積極的自由」があって「消極的自由」がない
4:「積極的自由」があって「積極的自由」がない

 このうち、1番と4番は矛盾しますので除外。

 鈴吹氏が懸念する「何でもできるは何もできない」は論調から察するに2番であると思います。すなわち、マスタリングによる拘束から解き放たれたプレイヤーたちだが、自ら行動する自我を持てずにいるから何もできないということです。
 だが、彼がコラムにて引き出した体験談を鏡氏は、古城探索というシナリオ目的にたどり着けはしなかったが、途上の森を探索する遊びが見つかり楽しめた以上、遊び手たちは自分たちの意志でゲームを動かしており、「何もできない」状態ではないと論破しています。

 実は鈴吹氏のコラムがおかしく感じられるのは、僕が察するに彼が引き出した体験談が、本人は2番のつもりなのだろうが、その実は3番なのではなかったのはないでしょうか。
 すなわち、遊び手たちには自ら遊び方を求めゲームをコントロールする権限は与えられていた。だがGMはシナリオ展開という強制的干渉によって拘束する予定であった…。あくまでも、シナリオという籠の中で自由に飛び回れるという意味での自由なのでしょう。
 そう考えれば、シナリオの枠外で遊んだ遊び手たちの行動は鈴吹氏からみれば無価値な失敗であり、氏にとってTRPGにとしてふさわしくないものと捉えられたのでしょう。

 おそらく鈴吹氏はTRPGでの消極的自由には否定的な考えの人なのかもしれません。悪く云えば、遊び手はシナリオを効率的に進めるマシーンであるべきだと考えているのではないか、とも映ります。もちろん、それは一面の真理です。3番はほぼF,E,A,R社のゲームが体現していると思います。
 だが、一方で鏡氏…消極的自由、積極的自由双方が備わった形式での自由……強制的干渉のないプレイヤーが、自らの意志により自発的に行動するゲームもあるよと訴えている人もいます。それも空論ではありません。

 問題は2番。鈴吹氏が本来問題にし、鏡氏が疑問を投げかけた自由の形です。

 僕はまず、「無人島に流された」状況を考えてみました。
 無人島ならあらゆる社会の束縛からは解放されます。だが、彼の今後のスケジュールは白紙。何かしようにも、彼の今までの人生で行使できた自由はまったく訳に立たなくなった…。
 彼は「何でもできるが何もできない」のか。

 これはNO。
 彼は生きるために無人島を認識し、生きるために自分の意志で行動するでしょう。水や食料、住処を得るため。脱出するため。身を守るため…。彼が持つ過去の積極的自由は失われたが、現在の環境で新しい積極的自由は得ているのです。

 次に、「暗闇に閉じ込められる」状況ならばと考えました。
 全てが漆黒の闇の空間。自分の手足すら見えない…。すべての認識できるものが喪失すれば、人は「何でもできるが何もできない」状況に置かれるのではないか…。

 これもNO。
 人は感覚での認識の他にも、イメージによる想像という擬似的な認識能力を持っています。おそらく、暗闇に閉じ込められた人も、空間が部屋であると想像し、壁や床を探そうと積極的自由な行動を取ることでしょう。

 こうなると、認識する感覚、想像する脳の双方が機能不全を起こさないかぎり、積極的自由の喪失はないというになるかもしれません。
 そんな状態とくれば、これはもう「死んでいる」状態でしかないでしょう。

 そう。死ねば何でもできるが何もできないのです。
 死んだPCはゲーム世界の法、慣習、物理法則すべてから解放されます(ファンタジーではロストしなきゃ解放されないが)が、もう世界に意志の一片も残せないわけで、何もできない。

 そんな状態がはたしてTRPG上で起こりえるのか。
 普通、PCが全滅したらそこでおしまいだし、誰か1人だけが死んでも観客として付き合うことはできます。ゲームによってはいろいろ指摘を受けた通り、幽霊プレイを推奨したり、代替キャラの使用を認めたりしてますけど。
 
 だが、遊び手本人ならどうでしょうか。
 本当に死んでたらヤバいのですが、死んだような状態になるってのはままあることです。すなわち、茫然自失状態です。状況認識もイメージもできず、頭が空っぽ、目は虚ろで何を問いかけても何も答えられないという状態……これが「何でもできるか何もできない」状態なのではないでしょうか。
 PCはプレイヤーの意思によって動く人形ですので、その操り手が上の空であるなら、PCも糸が切れた操り人形と同じで、ただの紙切れ同然の存在となるでしょう。

◆◆◆

 では、TRPGで茫然自失状態に陥る人がいると仮定して、なぜ彼はTRPGで呆然事実になるのか。それに対処するのはどうすればいいのかに関してはまた後日ということで。
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2007年10月23日

小難しいノート 〜基礎メカニズムおさらい〜

 
 昔のTRPGでよく「またやりたい」と耳にするのが『ブルーフォレスト物語(ツクダ版)』ですけど、単に独特の東洋的世界観が懐かしいのと同様に、僕からすればプレイヤー性善説で良かった時期のゲームだからって気もします。デザイナーが遊び手を管理しようと考えず、また遊び手が演出や自己主張にこだわることもせず、素直に物語を楽しむ場ってのが当時のブルーフォレストにはあったのかもしれません。

 その経験を次世代に生かすか、ただ懐古して腐らすかはその人次第と云えます。こういうゲームもTRPGにはあるんだよってのを知らない人だって多くいるんだし。

 今日はTRPGの基礎的なメカニズムについて以前から自分なりに考えたものを試案として掲示しておきます。記事としてまとまらなかった試案ばかりですが、死蔵するのもなんですし。

その1;プレイヤーとキャラクターの立場

・TRPGは仮想のキャラクターを操り遊ぶゲームである。
 卓上には遊び手本人とともに、遊び手が設計したキャラクターが存在し、独自に行動する。イメージ上のゲーム世界の中でキャラクターを操作するために、行動・状態を口述で描写したり、システムに従った行動を宣言したりする。これをロールプレイと呼ぶ。
 よって、TRPGでは遊び手本人の意思と、遊び手が設計したキャラクターによるロールプレイの意思と、2つの意思が1人の人間に内在していることになる。
 ただし、ロールプレイ上の意思には思惑はあっても判断する力がない。遊び手の意思が常に指令を下すわけだが、遊び手の意思は自らの設計やゲーム世界、システムが反映されたロールプレイの拘束を受ける。

【まとめ】
・行動の描写と説明こそがロールプレイというキャラ操作方法。
・卓上には遊び手本人と仮想世界にいるキャラクターの2つの意思がある。
・ロールプレイ上の意思には判断する力がない。本人の意思はロールプレイの拘束を受ける。

・TRPGには2つの意思があり、それぞれに自由がある。
 遊び手本人が現実世界の中で持つ自由と、キャラクターがゲーム世界の中で持つ自由である。遊び手の自由は遊び手が帰属する社会によって内容・領域が保障かつ制限されたものであり、それに現実世界の物理的摂理も加わる。すなわち「社会の常識」と云われるものだが、遊び手各人の価値観によってスタンスが異なるだろうから、最低限として帰属社会の法、慣習・道徳、物理および生物学的摂理の3つは卓上で共通認識を得ているものとする。

 遊び手に法を犯す自由はない。遊び手は法の枠内に制限された社会に帰属しているからだ。帰属社会は法を犯した者を懲罰する権利を持っている。
 遊び手は社会の慣習や道徳を犯す自由は許容されがたい立場にいる。人間関係の基本は信頼であり、多くの社会では慣習や道徳の遵守に求めている。
 遊び手は物理学および生物学の見地に従って物事を考える必要がある。TRPGでルールブックに記載されず、ゲームマスターが擬似的な設定を提示していない物理、自然現象および生物の機能などは現実世界の現象に準拠する形を取るのが、神学論争を避けるためにも望ましいと云える。

 ロールプレイ上の意思にも自由はあるが、ルールブックに記載されたシステムや世界設定によって保障かつ制限されたものである。現実世界と違い、ルールブックに記載されし情報はゲーム世界の主要部分を抜粋したものに過ぎないのだが、ゲームマスターはシナリオと裁量により、セッションに必要なだけの情報を補完することが認められ、かつ求められている。プレイヤーは自分のキャラクターの設計及び操作に自由が与えられているが、ルールブック及びゲームマスターの自由を侵犯できる自由は持ち合わせていない。

 そして、遊び手本人の意思とロールプレイ上の意思とが矛盾、反発を起こした際は常に遊び手本人の意思が優先する。また、本人の自由とロールプレイ上の自由は共通ではなく、遊び手は本人の自由を遵守させながら、ロールプレイ上の自由を判断することが求められている。

【まとめ】
・TRPGには2つの意思があり、2つの自由がある。
・どちらの自由も現実or設定上の帰属社会によってルール化されているものだ。それを遵守してこその自由。
・常に本人の自由が優先。ロールプレイで現実社会を乱すな。

その2:ロールプレイと演技の関係

 TRPGのロールプレイは演技ではない。
 ここで云う演技とは、仕草や虚言、言葉遣いなどを使い相手に事実・本心とは違う印象・情報を与えようとする対話の技術と、それを行う態度を意味し、演劇とは目的を違える。
 ロールプレイはキャラクターの操作方法だが、仮にロールプレイが演技であるならば、キャラクターの行動は遊び手の「演技された宣言」と「演技に隠された本心」の2種類とに分裂することになる。
 だが、キャラクターの行動を処理するのはゲームマスターであり、ロールプレイとして有効なのは審判たるゲームマスターに伝達された情報のみである。演技によってキャラクターの行動に本心による偽装がされることはなく、あってもゲームマスターは無視できる権限を持つ。

 そもそも、遊び手本人とキャラクターの因果は異なっており、キャラクターが受けるいかなる状況も、遊び手本人の状況に変化を及ぼすものではない。ロールプレイをして影響を受けるのはキャラクターのみであり、遊び手の身に変化が伴うものではない。同じく、遊び手が演技がキャラクターの操作にはなりえない。

 だが、ロールプレイも対話の一種なので、ロールプレイをしながら他の遊び手との間に演技で対話をすることはよくあることである。この一連の動作からロールプレイは演技と同一視されやすい。ロールプレイとは別に、プレイヤー同士の駆け引きは存在するが、それはゲームマスターが操るNPCとの対話と同じくメタ視点である。

【まとめ】
・演技は本心を偽る技術・態度だがロールプレイを偽る意味はない。
・遊び手が演技してもキャラクターは関係なし。逆も然り。
・ロールプレイでキャラを操りながら、他の人と演技で対話してる人がいて紛らわしい。

その3:ロールプレイと演劇の関係

 TRPGのロールプレイは演劇ではない。
 ここで云う演劇とは、俳優が舞台の上で、脚本に従い、言葉と動作によって表現したものを観客に見せる芸術活動と、それを観賞する娯楽を意味する。
 ロールプレイはキャラクターの操作のためにあるので、意思を正確に伝達することが目的である。演劇によって卓に歓楽を与えること、役者冥利に浸ることは「おまけ」に過ぎない。
 TRPGにおける演劇「的行為」は本場とは違い脚本なきアドリブである。演技との違いは、演出された言葉や動作を見せることで歓楽を誘うことが演劇の目的であって、本心を偽っているとは限らない所にある。
 だが、演劇もまた遊び手本人同志の対話の一種に過ぎない。

【まとめ】
・演劇は演出された言葉と動作の芸術であり、それを観賞する娯楽。
・ロールプレイは操作方法であり、意思の伝達が目的。
・・ロールプレイでキャラを操りながら、他の人と演劇で対話してる人がいて紛らわしい。
 
◆◆◆
 
 今日はこの辺で。



 
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2007年10月16日

異空間構築は慎むべきか 〜キャラクターと遊び手本人の自由の履き違えへの懸念〜

 『ナイトウィザード2nd Edition』と『シャドゥラン4th Edition
』のページ数がほぼ同じことに隔世の感あり、です。NWってそんなに情報量多い作品でしたっけ?

 今日は自由の話の続き。

 TRPGにおける「自由」とか「何やってもよい」とかいう観念は、TRPGが仮想のキャラクターを操作して楽しむ仮想環境ゲームである性質上、自由である対象がキャラクターにあるのか、遊び手本人にあるのか、明確な違いがあると思います。
 キャラクターのみに許されているはずの自由が、いつの間にか遊び手本人の自由へと逸脱してしまうなんてケースが起こらないとは限らないもので、何かに興じている人間はえてして場の空気に酔いしれて暴走しがちなものです。
 世間では相撲部屋だとか宗教団体なんかが閉鎖的な環境で、法やモラルから逸脱した行為を平然とやらかしてしまう事件が起こっています。程度の差はあれTRPGサークルもロールプレイやファンタジーに浸れる環境だけに、浮かれちゃう人ってのは出てくるし、それがサークル幹部だったりすると、その逸脱した「面白さ」がサークル内に感染して、逸脱した「面白さ」の追求に目が眩んだマッドな集団が出来上がるものです。

 TRPGの会場にモデルガンやナイフ、山○堂の模造武器を持ち込んでくる、プレイヤーにコスプレを強要する、ゲームそっちのけで漫画の回し読みする……なんてのは序の口。最悪だったのが(何度も言ってるけど)対戦格闘ゲームがブームだった際、格闘技の論議がゲーマーとして面白くなっちゃったもんだからサークル内で格闘の真似事に興じちゃい、その面白さを部外者に教えようと技をかけたら「入ってしまい」、怪我させちゃったってなケースもあります。

 このケースの場合、対戦格闘ゲームに影響されて、あの動きをTRPGで再現したい、ロールプレイで格闘家がしたいという欲求がTRPGのシステム、ロールプレイという枠組みでは収まりきれず、遊び手同士が直に拳で語り合える一体感の中でゲームに浸りたい欲求に飛躍してたのではないかと思います。
 格闘技で熱く語り合える同志たちの交友も、コミュニケーションが大きな要素であるTRPGでは大切なことのように思えてくるでしょうし、それに向けてプレイ空間を構築しようと望むのも無理なきこと。
 
 でも、それは獣道ではないでしょうか。
 
 格闘技云々は極端ですけど、例えば『ナイトウィザード』をプレイするにしても、あるプレイヤーがアニメ版に思いっきり影響されて、プレイそっちのけでキモヲタぶりを発揮なされては非常に迷惑なもの。ましてや、それを強要させるような環境になってしまったら異常です。

 横暴で傲岸不遜、人類の守護者でありながら人類を顎で使うことを厭わないあの超女王様が、アニメ準拠だからとかきくたけ設定だかとかではなく、遊び手のTRPGとしての裁量次第で寛大だったり慈悲深かったりと演技の性質が変わるのがTRPGのあるべき自由であって、遊び手本人が原作への熱情を気兼ねなく発奮できる自由ってのはお門違いではないかと僕は考えるわけです。

 いくらTRPGで自由が保障されていても、それは仮想環境中にいるキャラクターが、仮想世界という籠の中で自由に動いていいというだけのもの。遊び手本人が世間のルールや世間体から解放されたわけではなく、浮かれてハメを外すのはやはりDQNの所業として非難されるべきでしょう。
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2007年10月09日

良き観客であれ? 〜TRPGにおけるPC死後のプレイヤーの扱い〜

 今日はTRPGにおいてPCが死ぬということはどういうことか、少し考え直してみるお話です。

 現行のTRPGではセッション中におけるPC死亡後、プレイヤーはどうしていればいいのか明記している作品は僕の記憶する限りは思いつきません。ボードゲームなどではゲーム終了まで参加権を失い待機ないし退場であり、TRPGも慣例的にはそれに倣っています。しかしながら、TRPGは通例1度のシナリオで1日のプレイを終えるケースがほとんどであり、1度死んだらその日のプレイは自動的に終了となります。ファンタジーなどでは蘇生の呪文など救済処置を入れている作品もありますけど、実際は高レベルでないとお目にかかることがなく、慰み程度の存在であると云えましょう。
 
 そして何よりも、物語に直接介入する権利を失うことが大きな欠点とも云えましょう。PCが死んだプレイヤーがセッションでできるコミュニケーションと云えば、幽霊となってシナリオに影響しない雑談をすることしかありません。

 長々と書きましたが、要するにTRPGでPCが死ぬのはとっても辛いということです。早い話が、PCが死んだプレイヤーはゲームの参加者から観客へと降格処分をされるのがTRPGの通例だと云うことです。そして、大抵のTRPGイベントは観客のままで終わるものです。

 ちなみに、一番困ったのはGMがいきなり戦闘で始まるシナリオ仕掛けて、1人だけ死んじゃったケースです。使ってたのが『サイバーパンク2.0.2.0』だったから蘇生のルールはなかったんですけど、そのGMが空気読めてなかったから、死んだプレイヤー置き去りでセッション続けだしちゃったんです。
 それで、「今のチームにはメンバーが足りない。補充しよう」と、実際のセッションではよくやる「死んだPCのそっくりさんで再登場」をやろうとしたら、そのGMはおもむろにNPC登場取り出してきたりしたもんだから……。

 話を戻します。

 TRPGでは「PCの死=プレイ参加資格剥奪」を意味します。
 元々はウォーゲームであったものに「物語を楽しむ」という要素を後付けしたに過ぎないTRPGはGM操るエネミーNPCvsPCというウォーゲームのルールを踏襲しており、ウォーゲームには厳然とある「PCの死=プレイ参加資格剥奪」も踏襲しています。
 
 踏襲しただけのことだから、「PCの死=プレイ参加資格剥奪」が必ずしもTRPGにおける重要なゲーム要素とは云えないと思います。
 TRPGはウォーゲームとは違い、戦闘はゲーム内ゲームに過ぎません。あくまでもシナリオからなる物語の成否がプレイの成否を左右するってのが多くのTRPGが掲げているゲーム目標でもあります。現行のTRPGでは戦闘以外に会話によるアドベンチャーをやらせるゲームばかりで、むしろそれがメインなのだから、プレイ参加資格を賭けたウォーゲームなどはほんの一余興に過ぎないと云ってもいいでしょう。

 すなわち、戦闘でPCが死んだことなんてシナリオという大局の前にはどうだっていいこと。その日1日棒に振ること命じておきながら、ゲーム的には「残念だったね。けどシナリオ続けなくちゃ」程度のモンだっていうのがTRPGにおけるPCの死というものでしょう。
 
 最近では「みんなが楽しくプレイした」というレクリエーション活動としての成否をもゲームの成否に加えているものだから、PCが死んだからと云ってプレイを放棄したり、不服や再挑戦を唱えることは卓を不愉快にさせる行為と看做されることも予測されます。
 
 「みんなで楽しくプレイする」ゲーム目標のため、PCが死んで参加資格が剥奪されたプレイヤーも「良き観客」として楽しむべく努力しなさいというのが現行TRPGの良き姿なのでしょう。

 う〜む。
 死んでも良き観客でいろって云うよりは、ズルをしてても全員最後まできっちり参加させる方を僕なら選ぶますけど、どうなんでしょうかね。殺して参加資格を剥奪したプレイヤーは厳然とした態度で捨て置くべきなのか、それとも「君はまだプレイヤー経験点獲得のためにも観客として参加する義務がある。楽しい素振りを忘れぬように」と要求するのが正しいGMの姿なのでしょうか。
 
 僕としては、PCが死んだプレイヤーに対する処置を、デザイナーは単にウォーゲームを踏襲するのではなく、TRPGの現状に合わせて考え直す必要はあるのではと考えています。
 参加資格がなくなった奴のことなんかどうでもいいと考えるのは、自分とは違った人に対する冷血ぶりを示すことだし、それは想像力の未発達を意味することですからね。誇れる態度じゃありません。

ラベル:TRPG
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2007年10月02日

「自由」と「何やってもよい」の間は「=」か「≠」か

 鏡氏の論考を考察したいと思ったのですが、なかなかまとまらないまま気が付けば10月に入ってしまいました。9月後半は原稿を書いては破棄する連続でした。申し訳ありませんでした。
 今日は「自由」と「何をやってもよい」は違うのかという話。

 この問題の提議者であろう鏡氏曰く、TRPGにおける自由とは、ゲーム参加者が皆、「私はこうしたい、こうすべきだ、こうしよう」といった「自分の決断」によってゲームプレイに関与し、それがそのまま過程や結果に活かされることだとしています。
 僕の頭では、まだこの定義では「自由」が「何をやってもよい」に置き換わっても意味が変わらないように映ります。両者は鏡氏の中では同じ意味なのでしょうか?

 鏡氏の定義は僕の捉えた所、「自分の決断によってゲームプレイに関与し」、「それが過程や結果に活かされる」と、意志決定と結果を連結しているのが少し問題ありかと存じます。なぜなら、ゲームプレイに関与した自己決断が、素直に過程や結果に活かされるとは限らないからであり、TRPGにおいては「判定」という関門を突破できた者のみが決断を採用される仕組みを取っています。判定に挑むための条件として「技能」や「必要能力値」を指定するTRPGも多くあります。
 これら、「判定」「技能」「必要能力値」はすべてゲームデザイナーの決断に基づいて設計されたものであり、鏡氏の論法を借りればデザイナーの「自由」なのです。プレイヤーが「自分の決断を過程や結果に活かしてほしい」と願い口にするのはプレイヤーの「自由」であるが、それが実現するかどうか決めるのは判定を作ったデザイナーの自由。鏡氏が定義した「自由」には2人の立場の違う人間の「自由」が混在しており、いささかの矛盾が生じているのです。
 この説明を読む人の大抵がプレイヤーの立場から一方的に受け取るでしょうけど、まさかそこに「デザイナーの俺にも自由があるんだぜ。そこんとこ弁えろよな」というメッセージが入っているとは到底読み取れるかどうか……、それは難しいでしょう。読み取れなかった人は当然ながら、結果も無条件・無審査で思いのままと思い込むでしょう。

 もちろん、鏡氏がその矛盾に気付いていないとは限らず……いや、十分心得ているでしょうけど、単にうまい表現ができなかっただけかもしれません。あるいは僕の理解力不足もあるわけで。

 機会平等と結果平等が全く異なるのと同様の理屈でしょう。
 求めるべきは機会平等なれど、欲しがるのは結果の平等。誰もが同じ額の分だけ働ける社会を訴えども、民が求めるのはただ同じ額をくれ。怠けようが手抜きしようがこっちの勝手じゃい……。

 結局、複数の立場・役割の違う人間が共存できる「自由」は各個人にとって有限であり、お互いの決断に領域を決めて住み分け、調和を保つしか保てないということでしょうか。
 互いが自由でなければ真の自由はない。片方が自由で、もう片方が片割れの自由のために不自由(自己決断の放棄)であるならば、自由な方は己を自由を叶えるべく決断なき不自由な者を管理しなければならず、自由なき管理者とならざるを得ない。
 独裁者は独裁をする不自由から逃れられないのです。

 それを踏まえると、「自由なTRPG」は互いの自由が活かし合える調和の状態のためなら、各個人の自由は有限かつ領域分けされたものになるTRPGでありましょう。
 これに対して、「何をやってもよいTRPG」は調和のリミッターが解除され、弱肉強食の中で力ある者が独裁権を得るれっきとした管理型TRPGとなるでしょう。

 ここでようやく、自由≠何をやってもよいとなったでしょうか。

 自由を尊んで得られるのは調和。調和の中でみんなの自由。
 何をやってもよいで得られるのは独裁権。独裁スイッチで俺様の思いのまま。
 そのスタンスの違いによる誤解をなくすために、自由なTRPGを説明する際には「何をやってもよい」TRPGに期待されるエゴの限定解除という要素をきっぱり否定したが上での説明が必要となるかもしれません。
 

 
ラベル:TRPG
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2007年09月18日

妙手と発想のバランス 〜TRPGにおける卓上ゲーム化の基盤〜

 TRPGの行動宣言は曖昧で困ると云う話が出てきてます。

 キーワードリンクによる情報収集(氷川 TRPG 研究室)
 行動宣言とゲーム進行 セリフとか判定とか(Try to Star -星に挑め!)


 行動宣言が曖昧なのは卓上ゲーム化が進んでいないからでしょう。
 前回、バトルゲームの基盤として、

・ターン制(時局のルール化):「いつ」
・ゲーム盤(行動のルール化):「どこで」
・管理資源(戦力のルール化):「何を使って」
・コマンド(手段のルール化):「どうする」

 が制定されているものだと論じましたが、これは卓上ゲームの多くに共通している骨格要素です。TRPGの場合、もともとはダンジョン歩きが主体のゲームであって、シティアドベンチャーは卓上ゲームの範囲外で行われる雑談扱いだから卓上ゲームとしての基盤が整備されないまま現在に至っているのでしょう。

 だが、卓上ゲーム化未整備がよくないかと云われれば、そうとも言い切れない所があります。
 むしろ未整備だからこそ、ゲームの縛りがない自由さ、とっつきやすさが発揮されているのではとも考えています。雑談から出るウィットやアイディアによってコマンドによるデザイナー推奨行動以上の画期的もしくは面白おかしい行動が取れたりする楽しみってのは他のボードゲームでは味わえない要素ではないでしょうか。

 TRPGなら戦闘システムは卓上ゲームとしてのゲーム化が完了している箇所ですけど、一旦整備されてしまうとゲームとしての理性的行動の縛りがでてきます。システム内での理性的な最善手が優先されるのか、それとも自由な発想から生まれる最善手が優先されるのか……。

粉塵爆発はできるか。
出産直後の女性は精神力が高いのか。
屍毒は有効か。
敵の足元に敷かれた絨毯を引っ張れないか。

 ……などの諸問題に卓上ゲームとして理性的な回答……卓上ゲームのルールとして整備された状態で提示しなければなりません。ここが曖昧だと、すでにゲーム化された要素(戦闘動作、魔法など)が形骸化し「駆け引き・やり取り」の楽しさが変質するかもしれません。ゲーム化する能力がないGMの場合、不確実性の危険から防御するためにも、「ゲームとしてできない」と明言したほうがいいです。

 TRPGにおける行動宣言の曖昧さの魅力ってのは、電源媒体のみならずあらゆるゲームでは対応できない「自由な発想」をフリートークという非常に融通の利く方法で活かせるっのがあると思います。
 
 発想を活かせるということは意外な発想が発揮されるのみならず、発想が思いつかない場合でも容易に助け舟を出せるという利点があります。遊び手は誰しも探偵ではないので、何をしていいのか分からないという「お地蔵さん」状態になることも結構あります。
 実の所そういう人にコマンドを示すと、どのコマンドも出せず萎縮するものです。コマンドが有効なのかという発想ができないのですから迷うのです(自分への利益もさることながら、周囲への責任による所が大きい)。
 行動宣言が曖昧だと、「よく発想できないけど、○○について調べます」なんて「曖昧検索」もカバーできますし、ヒントなどを柔軟に出せたりもします。

 これは非常に快適だし、何よりも初心者にストレスを与えません。

 だが、ゲーム化を厳密にするにはそれなりの利点があります。
 なぜ、ゲーム化した行動宣言が楽しいかと云えば、誰もが有効手だと認知できる理性的な妙手が出せ、万人に駆け引き・やり取りを支配したことを認めさせることにあります。

 妙手を出せば勝ちってこと。
 遊び手が誰であれ。キャラクターが何であれ。

 行動宣言のゲーム化が未整備だと、妙手が妙手なのか分からなり、混乱を招きます。
 例えば、ライトニングボルトの呪文効果が未整備だとします。
 そこで、

「僕は衣服の上にフルプレート着てますから、金属鎧がアースとなって電気は地面に流れてますよね。僕って無傷じゃね?」

 なんてこと言い出せる余地が生じることになります。
 
 「水属性の敵にはサンダーが効く」という神話(「いんちき」心理学研究所)

 ここで、「そうか。じゃ〜みんなどうする?」で協議して裁定したりするのが行動宣言が曖昧な例。「ルールでは○D○のダメージを与えるって制定してるから却下。ゲームのことなんだから無視してくれ」とするのが行動宣言が厳密な例。
 もし受けた側の主張によってダメージ無効となったら、出した側はルールに従って出した妙手を言葉1つで無効化されたことになります。当然ながら理不尽な行為です。
 そんなのが罷り通るのなら、わざわざライトニングボルトなんか選ばず、プレイヤー知識で思いつく限り最も確実に相手を倒せる手段を「直に」説得できるよう考える方を選びます。そっちの方が受け入れられやすいのならば。

◆◆◆

 TRPGはゲームと遊びの間にあって、その楽しさを「妙手と発想」のどちらに委ねおうか模索している段階にあるのではないかと思います。
 『TORG』の推奨行動など、まずコマンドとして妙手を出させ、その次に妙手の内容を発想させるというシステムもあり、デザイン次第では折衷できる要素かもしれません。

 まぁ、シティアドベンチャーに関しては議論を具体化するために、一度卓上ゲーム化されたものを提示するのがよさそうなんですけどね。
 
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2007年09月10日

『らき☆すたTRPG』は作成至難 〜TRPGの根源にある駆け引き・やり取りのゲーム〜

  今日は『らき☆すた』はTRPG化するのは難しいという話。
 TRPGのゲームとしての限界を語る予定。

 TRPGに限らず、RPGではヒロイックな世界が好まれます。互換性が高いと云えばより的確でしょうか。
 一般にヒロイックがTRPG向きなのは、そこに描写されたアクションがTRPGの前身であるミニチュア・ウォーゲームで表現可能だったからでしょう。段々とアクションを単語化しコマンドとしてしていくことで、例えば戦闘動作や魔法などはコマンドとしてTRPGのシステムに組み込むことができたわけです。
 然るに、一般にヒロイックとされていない作品がTRPGに向かないのは、基幹となるゲームシステムが見つからない……何を以て遊びと成すのかが定まらず、ごっこ遊びから昇華するゲーム化の意義すら見出せない……ことと、作品内のキャラクターが見せる動作を単語化しコマンドとする作業が難しいからではないかと考えています。

 RPGを物語再生装置として捉えるならば、物語さえあればそこにヒロイックなどなくとも、いわんや戦闘がなくともRPGで表現可能に見えてきます。それは「主人公の成長による物語の伸展」という物語によくある構図にRPGが合致しているから、その構図に則った物語がRPG的に思えてくるからなのでしょう。

 だが、物語再生装置だのRPG的だのと云ったものを剥ぎ取れば、『D&D』にしろ『ウィザードリィ』にしろ、浮かび上がるのはコマンド制によるバトルゲームであり、その淵源はチェスや将棋にたどり着きます。『D&D』から昨今出た『六門世界RPG(第2版)』まで、コマンドバトルゲームによる「やり取り」が伝統的に継承され、それを以てゲーム性としているのが現状です。『Aの魔法陣』のみ、それから外れているようですが、それが本質なのか皮相なのかは後述でします。
 バトルゲームの基本は将棋・チェスと同じターン制(時局のルール化)とゲーム盤(行動のルール化)で、それに管理資源(戦力のルール化)及びコマンド(手段のルール化)を足したものです。これが何を意味するかと云えば、TRPGはセッション中に将棋やチェスのようなゲームを行うのが通例の集いであるということです。

 そこに現行TRPGの限界があるのですが、現行TRPGはごっこ遊びからゲームに昇華させるシステムとして『チェインメイル』らウォーゲームしか採用していません。世界各国で百種類以上あるTRPGが、多様性などという言葉をあざ笑うがごどく悉くチェインメイルに似通った戦闘システムにゲーム性を依拠しているというならば、ゲームとしてのTRPGの楽しさはウォーゲームが持つ楽しさの限界と等しいわけです。

 ではウォーゲームの楽しさとは何か。
 それは「駆け引き・やり取り」のゲームの楽しさであります。
 
 ウォーゲームやその淵源たる将棋・チェスの醍醐味は「駆け引き・やり取り」と云う戦術及び交渉の妙にあります。格闘技やスポーツ
と云った「優劣を競う」ゲームとは微妙に異なる要素ですが、「駆け引き・やり取り」のゲームには不確定要素(カオス)を極力廃し、ゲームにとって理性的な行動が障害なく行えるような仕組みが取られています。例えば、将棋やチェスには遊び手の肉体的差異はまったく影響しませんので、ドーピングは無意味です。
 ゲームが求めている資質……将棋・チェスでは戦略眼など……以外の要素によるゲームへの影響を悪影響として排除してこそ、初めて競技者は互角の土俵に着け、技量を比べることができるというのが「駆け引き・やり取り」のゲームの考えであり、結果こそ全てであり、そのためなら人間の資質はできる限り総動員すべきという「優劣を競う」ゲームとはゲームに対する捉え方が異なっている所です。

 つまり、「優劣を競う」ゲームは技量と同等にコンディション、メンタル、道具、環境なども左右する総合資質ゲームなのに対し、「駆け引き・やり取り」のゲームは限定資質ゲームと云えましょう。
 これは、格闘技・スポーツなどは不慮の事故による怪我や中断、誤審によるヒューマンエラーなど不確定要素によるゲームへの影響が頻発するもの故、競技者は不確定要素に備えるべく技量以外の資質も磨かなければならないのに対し、将棋やチェスにはさほど深刻な不確定要素がないので考慮すべき資質は少なくて済むというのが理由です。
 さらに云えば、格闘技やスポーツは肉体という個人差があり、有限で、消耗する資質を競っているのですから不確定要素は起こって当たり前です。それ故に結果が未知数になり、「勝負は下駄を預けるまで分からない」面白さがあると云えましょう。
 一番の記録を出した選手がファウルで無効になるってのはスポーツの世界ではよくあることです。それによって二番目の選手が優勝することも、「優劣を競う」ゲームにとってはアリなのです。これは単に記録だけが勝利条件ではないという「非理性的な勝利」と云えましょう。

 「駆け引き・やり取り」のゲームは不確定要素を極力排除していますから、ゲームにとって理性的な行動以外は取れない仕組みをしています。将棋・チェスでは、自分の番に動かし方を制限された駒を1つ動かすこと以外の事はできません。それ故、遊び手の行動にはパターンの限界がつき、結果を求めるための要素は有限となります。不確定要素が入らないので、勝利するためには「理性的な勝利」しかないってわけです。
 駆け引きに勝った者はアクシデントなく勝てる。
 それ故、結果の性質に関して「駆け引き・やり取り」のゲームが与えるニュアンスは少ないものです。純粋に優劣を競うだけでは、面白みに欠けるのです。だが、一方で勝ちを急ぐ必要がないから戦略をじっくり考える余裕があり、試合経過を眺望することが可能となります。だから、「駆け引き・やり取り」のゲームは試合経過にこそ重きが置かれる傾向にあります。

 「駆け引き・やり取り」のゲームで面白いゲームを引き出すには、いかにして結果を出すのではなく、いかにして魅力的なパターンを演出するかにあるかと云えます。妙手にこそ命ありです。

 TRPGの楽しさの淵源にある、「駆け引き・やり取り」のゲームの楽しさとはすなわち、「妙手を出して駆け引きを支配する」ことの楽しさにあるのです。これは単にシステム上のみならず、シナリオを面白くするフリートークの部分でも同じことです。単にシナリオをクリアして多くの結果(経験値)を求めることよりも、いかに妙手を繰り出してシナリオをよりドラマチックにするかの方がセッションにとって有益なことだというのが大勢の意見だと云えます。
 この楽しさを損なったらTRPGはゲーム性を完全に失うし、この楽しさでしか現状においてはTRPGは楽しめない。この楽しさに飽きてしまったら、もうTRPGは楽しさを提供できないのです。

 『Aの魔法陣』はチェインメイル風のウォーゲームが基幹ではないので従来のTRPGとは一線を画した印象がありますけど、むしろ本質である「妙手を出して駆け引きを支配する」楽しみには特化しており、TRPGの楽しさの本質からは外れてはいないと思います。

 TRPGの場合、まだ戦闘が1セッションにつき1〜2回程度であり、ゲームによっては物語の伸展に合わせて投入されるのがセオリーなのでまだ問題ないのですが、CRPGに至ってはビルドアップのためにちまちまとした戦闘を何十回と繰り返し、しかもほとんどが物語に影響することがない……いくら妙手を繰り出してもゲームを支配できないという仕組みによって、ゲームとしての意義を大きく低下させています。
 おそらく、CRPGの醍醐味はビジュアルノベルと等しい紙芝居であり、煩雑な戦闘は物語を読み進める達成感を高めるためのストレスを溜めるためにあるのでしょう。
 もちろん、TRPGとは縁遠いゲームです。

◆◆◆

 さて、TRPGの楽しさの根源を「妙手を出して駆け引きを支配する」と定めたわけですけど、それだと妙手を出す必要がなかったり、駆け引きを支配する必要のない性質の作品をTRPGにするのは正直難しい所です。
 これは『Aの魔法陣』を含めたTRPGの限界ですけど、物語やドラマのない作品をTRPGにして楽しむことは困難です。登場人物の特徴的な行動を眺めて楽しむことが主体の作品にとって、登場人物の目的と云えば「目立つこと」唯1つです。
 この「目立つ」というのが厄介でして、単に「妙手を出して駆け引きを支配する」だけでは達成できない。TRPGで云えば、ロールプレイのみで目立つことは困難であり、そこには遊び手のルックスや話術、場の環境や聞き手の興味などの総合的資質が要求される、将棋やチェスよりは格闘技やスポーツに親和性がある楽しみと云えます。
 到底、「妙手を出して駆け引きを支配する」ことに特化したTRPGでは表現しきれないものです。

 むしろ、「やったもん勝ち」の世界です。
 そこには物語やドラマに必須の連続性がなく、シナリオなど作れようがない。登場人物の個性発揮こそが主題なので、変にシナリオによって物語を作るのは作品に対する冒涜にもなりかねません。 

 『らき☆すた』はそういう意味で、TRPG化などできるはずもない作品です。『らき☆すた』以外にも、『あずまんが大王』や『ひだまりスケッチ』などの4コマ漫画はTRPGに向いているとは云えません。
 そういう意味で、僕は『フォーチュン・クエスト』はあまりTRPG
に向いた作品ではなかったかと思ってたりもします。お面をかぶって登場人物を演技することを、そんなに多くの人が楽しめたとは到底思えないのですが……。

 まぁ、大抵の人は学園物TRPGでそれっぽい雰囲気のゲームをやれば満足する程度のものでしょう。単に目立てばいいのですから。
 もちろん、目立つという総合的資質がなければ気持ち悪がられて終わりです。ゲームデザインを考える立場からすれば、誰でも安全に目立てなければ、目立つことを目的とするゲームとしては失格です。

 だから、もし『らき☆すた』をTRPGにするなら、いかに「妙手を出して駆け引きを支配する」というTRPGの目的と、「目立つ」という原作の目的を合致させるかという課題をクリアする必要があると考えます。そのためにチェインメイル風のウォーゲームが撤廃されても、何ら問題はないかと思われます。

 例えば、僕は『ひぐなしのなく頃に』をTRPGにするならば、チェインメイルよりもむしろ人狼の方が搭載するシステムとしては合致しているのではないかと考えています。
 
  
ラベル:TRPG らき☆すた
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2007年08月27日

今では住み分けられている 〜TRPGにおける「ごっこ遊び」の語弊〜

 今日はロールプレイに関わることあれこれ。

 TRPGのロールプレイを「ごっこ遊び」と表現したのは誰だかは、TRPGに勝敗はないという言葉と同様、誰が嚆矢だか定かではありません。だが、かなり古い時期から使われていたとは思います。
 TRPGの前身たるアナログゲームの世界では、例えば『ディプロマシー』などの交渉ゲームで、ゲーム内容を楽しむべくプレイヤーが外交官っぽいそぶりをしたりするのがロールプレイの源流だという説をどこかで読んだことがあります。僕もこの説で概ねいいと思い、これから「TRPG以前からロールプレイは存在していた」と考えています。

 先人たちはTRPGにも継承された交渉ゲームのロールプレイを、それを知らない人に分かりやすく表現するために「ごっこ遊び」のようなものと表現したのでしょう。ただ、一般人が想像するごっこ遊びはこいでたくが漫画で描いた通り、幼稚園児が楽しむアンパンマンごっこなどの「お遊戯」であり、それをゲームに結びつけるのは困難だという語弊からなる問題を起こしました。
 さらに演劇の脚本めいたリプレイ本が登場するに至り、TRPGゲーマーは、ひょっとしてTRPGはゲームというより芝居か何かではないかと考えるようになりました。より正確に云えば、演劇をするに近い目的を持ったゲームなのではと考えたわけです。

 ゲームとごっこ遊びの違い。
 TRPGはこの違いを曖昧にしてきたし、遊び手だって明瞭に区分したりはしてません。ウォーゲームから継承した部分を除けば、TRPGはいつだってごっこ遊びに転じることができます。

 実際はどうなのか。
 今までは「自分たちはゲームをしている」ことを前提に、1つのゲームの中にゲーム性、演技性などがどのくらいの割合で混入されているのかを問うことが主体でした。

 だが実の所、TRPGは行事であってゲームはその中の(行事内)プログラムに過ぎないとも云えます。歓談あり、創作活動ありの中、じゃそろそろゲームをしますかとゲーム盤を取り出す……そんな懇親会全体をTRPGと認識しているのが、現在のTRPGの姿ではないかと考えています。
 それというのも、TRPGでは終始ウォーゲームを意識してHPやMPを管理せにゃならんゲームというものでなく、また戦闘中までロールプレイを意識して行動を制限せにゃならんゲームでもありません。これが交渉ゲームともなると、プレイ開始から終了までロールプレイをプレイ中に貫徹するのが通例で、TRPGより密接した関係にあります(それゆえ、「やってられんわ」とぶっちゃける人もいるんですけど)。
 
 ゲームもしている。ごっこ遊びもしている。
 それがパートとしてきっちり分離しているのが現状なのではないでしょうか。それが正しいか否かではなく、進化の一過程として現状ではまあいいんじゃないかという段階にあるのでしょう。
 もちろん、これからさらに欲が出てきたり、他のゲームから外圧を受けたり、はたまた問題が浮上したりして、TRPGはこれからも変化し続けるでしょう。

 今日はここまで。
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