2007年08月23日

廃鉱の村 〜コミケ72感想〜

 コミケ72行ってきました。
 その代償として足首を負傷、肩と背中が筋肉痛を起こし、首から下は満身創痍状態となりました。おっさんの体にはきついです。

 さて、今回も同人TRPGを何作か購入。
 いつもながら、リプレイ本に回すお金がないので同人TRPGシステムやサプリメント中心です。つーか、普段からリプレイとか買わないし。
 でも、それだと素通りで終わるサークルばかりになるのがは少し寂しいところ。昔に比べると、リプレイやシナリオ集のみのサークルがメインになっているって感はあります。とみに同人サプリメントはぐっと減ったでしょうか。

 そもそも、同人サプリの多くは海外TRPGの未訳サプリを翻訳したもの(価値は絶大)が中心なわけで、国産TRPGの場合は各サークルごとのオリジナルルールを集約した至ってローカルな代物。んで、それが例えば『ソードワールド』なんかに大戦格闘ゲームばりの必殺技を出せるシステムとか、もうバランスよりも思いつきで作ったっていう手作り感が結構面白いもんなんです。
 海外TRPGの場合はコアなサークルが地道に活動していますが、海外TRPGに対する裾野が狭まっている……未訳海外TRPGへの関心が少なくなっている現状では、同人を機に新たな発見は望み辛いと云ってもいいでしょう。

 国産の方に関しては、もう期待しない方がいいかも。
 ローカルルールの多くはHPで掲載できる程度の内容なので、そちらに移行したのが第一の理由でしょうけど、ローカルルールそのものの意義の低下や、それを同人にしてマーケットで交流しようという流れが断絶したこともあると僕は考えています。

 昔は井上純弌が『セーラーTORG』とか作ったり、岡田伸らのグループが『サイバーパンク2.0.2.0』の良質サプリや『ファイティングファンタジー』のGURPG版なんか出してたりしてましたけど、そうしたセミプロがプロになって同人TRPGからいなくなり、同人TRPGがアマチュアだけの世界になると、一気にローカル化した感があります。

 なんか、もうスルーしても何ら影響しないになってきました。
 昔は捨て置けない貴重な情報があちらこちらにあったんですけど、残念ながらリプレイやシナリオは基本的にはスルーしたって問題ないものです。

 読まなかったからって、僕のプレイ環境に一体何の差が生ずると云うのでしょうか? プロの作品でさえ参考程度なのに、先日まで縁なき他所様が内輪で催したゲームプレイの結果としてまとめられたに過ぎないリプレイやシナリオを意識せざるを得ない環境にあるというのでしょうか。

 なんか志という点で、コミケの中でも低迷しているジャンルかもしれません。TRPGより規模が小さい旅行とか趣味とかのサークルの方が、まだ知らない人に情報を提供しようという意志を感じます。

 つーか、どこのサークル行っても、
 「○○のリプレイです」
 なんて分かりきったことを判を押すように云う。
 そんなのは玄人なら一目瞭然なのだし、素人はそもそも該当システムもリプレイが何なのかも知らない。
 その後はこちらが切り出すまでだんまり。CRPGで街の入り口にいる「ここは○○の街だよ」というあのウザい町民と一緒で、味気ないにも程があります。漫画じゃないんだし、短い時間で要点を読みきれるわけないので少しはセールスしてほしいところ。
 エロ同人誌はエロがよければいいので売り子が素っ気なくても無問題ですけど、趣味系サークルがつまんなそうにしてるのは正直、購買参加者(「客」ではない)としては近寄りたくない空気漂ってます。

 暇で嫌気さしてるのは分かるけどさ。

 まぁ、逆に売り子2〜3名が「これ面白かったんだよな」「そうそう」と購買参加者置き去りにして盛り上がるのも勘弁してほしかった。引きました。思いっきり。

 結局、総体としてはコミケでのTRPGは至って地味かつ資源に乏しい「廃鉱の村」に成り果ててしまったのではという思いを新たにしました。
 この状態では、これからも他のジャンルの「ついで」として1時以降に覗くのが続きそうです。
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2007年08月11日

今は紳士ライン 〜ロールプレイする意味についてあれあれ〜

 最近、ニコニコ動画観てて『グランド・セフト・オート』に対する視点ががらっと変わりました。以前はプレイヤーが怪獣のように街中でやりたい放題するゲームだと思ってたんですけど、やりたい放題なのは街の方だということを自覚。

 カオスモード……。
 RPGこわい。
 あれほどまでPCが危険に晒され続けるの、TRPGはない。
 かなり嫉妬。

 今日はそもそもTRPGはロールプレイなんかする意味あるのかなんて、色々考えてみる話。

 TRPGにとってキャラクターは能力値やクラス・数値修正の集まりではない。映画や小説の登場人物さながらの役割があるのだと訴える作品は少なくありません。すなわち、ウォーゲームから分離した物語再生装置であるTRPGライヴの中でも、PCはフリートークの中でその設定が常にロールプレイという形で反映されるってことです。

 云わば、TRPGにおける仮想人格の相互認知保障に関する紳士協定。
 アニメで云えば、配役と中の人が違っていても配役の方で認知してもらえますかってことです。泉こなたの設定が書かれたキャラクターシートを持った人が、平野綾ではなく中田譲治だったとして、どうしてもギロロ伍長が気味の悪い演技をしているようにしか見えなくても、聴いてる仲間は中田譲治が泉こなたをロールプレイしていると認めてくれるかということです。

 いや、この喩えは悪かった。
 それはそれで面白いから。

 実際、演じるキャラと中の人との容姿・性格・声色がかけ離れてるなんてことはよくあること。TRPGの場合、面と向かい合い生演技を披露されるのだからどうでもいいってことではない。
 しかも昨今の国産TRPGはカバーやサンプルキャラに少年少女がてんこ盛りで、ゲーム世界も高校だったりして、現在のゲーマーたちとは年齢がかけ離れている場合が多い。もちろん、年齢以上にかっこよさ、可愛さという点では越えようのない壁があることは云うまでもありません。
 正直、かなり無理しなければ、ルルブで謳っているような「物語の登場人物さながらの」キャラを演じることなんて無理。大抵はなあなあで終わってしまうことの方が多いです。

 それでもTRPGゲーマーはよく耐えています。
 席を立って、「ウゼェ!! このピザ野郎っ。女子キャラなんかやるんじゃねぇ」と殴りかかるどっきゅんな方にはまだお目にかかってないし、僕もまだ未遂で終わっています。

 そういう実際の面もそうだけど、自分の設定したキャラクターで物語を作りたいという願望が、30年経ってもまだ廃れていない。建前でもよぉみんな捨てていないなって思います。
 むしろ昔よりこだわってる?
 
 それでも時折TRPG畑から、MMORPGに遊び手を奪われたなんて意見を目にします。僕も昔、『ラグナロク・オンライン』やってたんでそうなのかなと思って色々な人に尋ねたけど、TRPGに比べてMMORPGが優れているなんて答えは聞きませんでしたなぁ。そもそもTRPGからの参入組からして皆無。昔TRPGしてたけど人の繋がりが切れちゃってなんとなく途絶えちゃったという人はいたけど、自分からTRPGから鞍替えするべくサークルもコンベンションも絶ってきましたという人には出逢ってません。

 なんか、TRPG業界にはMMORPGへの一方的な憧れってのがあるのではないのかな。曲りなりにもCGによって外見にペルソナがかけられる。性別も自称でよい。そういう見た目のペルソナがあることはロールプレイに苦慮しているTRPGゲーマーにとっては憧れるのかもしれません。
 代わりに、ロールプレイに関する紳士協定など微塵もありません。
 やはりMMORPGはゲームというよりコミュケーションツールみたいなもので、物語の登場人物さながらのキャラを設定してロールプレイしようだなんて世界ではありません。

 MMORPGがTRPGから遊び手奪った?
 ないない。

 TRPGも元はウォーゲームだから、もう物語のためのキャラクター作りなんかやめて、MTGでデッキ組むみたいに「俺的必勝キャラ」なんて性能だけ考えてキャラメイクしたらどんなに目に快適なTRPGができるんだろうなと僕なんかは何度も考えます。所詮は駒じゃないか、と。

 だけど、それでやることってFPS(ファーストパーソン・シューティングゲーム)のアナログ版ってだけかもしれません。『バイオレンス!』なんて実際そうだし。『グランド・セフト・オート・サンアンドレアス』みたいなのが出来ると期待したんですけどね。

 とりあえず、現在のところは、

・設定だけならどんなファンタジーも一応は許される
・ロールプレイは分かってもらえるならよし。分かってもらえないなら説明するか軽い演技で悟らせる。それでも分かってもらえなかったら諦める。ヘビーな説明や演技は慎む。
・他人のキャラは最低限としてキャラ名とクラスだけ認知すればよし。相手には相手の演じたい物語があるんだし、相手が応じない限り自分の物語には巻き込まない。
・とみに性別はマネキンの形と同じ。TRPGのキャラはSEXしないと心得た方がよい。自分のPCがイケメンで、相手の女性PCとは恋仲との設定がシステム上あっても、ラヴを試みるのは相手プレイヤーに攻撃しかけるのと同等の侵害だと思った方がよい。相手プレイヤーが中2でない保証などどこにもないのだから。

 という紳士なラインが妥協点なのかな。
 
◆◆◆

追伸(8/12):最近めっきり投稿量が減った原因として、翌日こたえるというのがあります。夜24時に構想練り始めて26時に執筆開始、28時完成なんてことをしていれば疲労するのは目に見えているのに。
 そんなこったで、題名も「あれこれ」ではなく「あれあれ」になっています。どうもすいません。
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2007年07月23日

亡霊に囲まれています 〜TRPGをやめることの意味〜

 SHIBUYA-AXにて催されたSONATA ARCTICAのライブに行ったら、KAMELOTやLINKIN PARKも今年来るそうで先行予約をしていました。なんてこったい。
 ライブの件は次の機会にでも書くとしましょう。

 今日はTRPGをし続けるが上の苦悩と苦痛の話。

 TRPGとて所詮は娯楽、遊びであり辛くなったら止めたらいいとはよく云われる言葉です。だが、いざ止めるとなると今まで培った人脈・交友関係をも切らなければなりません。趣味で培った人脈など薄いものでして、2〜3年経ってまた始めようかという時には、かっての仲間はみんなバラバラ。音信不通はおろか本名すら知らないまま付き合っていたものだから、そのまま永久の別れとなることすらザラです。
 TRPGという趣味自体を続けるか止めるかよりも、そういった別れをしていくことが辛い。
 TRPGはソリティアではないのだし、飽きたり疲れたりしたら物置にしまっておけばいいものではない。CRPGは筐体やメモリーが壊れない限り何年も待ってくれています。だが、TRPGは人と人とのやり取りがすべてです。TRPGを止めても時間は止まってくれません。その合間に仲間たちはどんどん離れていってしまいます。

 いつでも過去と同じように再開できるのなら、TRPGは所詮ゲームと言い切れましょう。だけど、いつだって昔と同じようには再開できないのがTRPG。世代が違う、好みが違う、経験が違う……再開するたびに新天地で一からプレイ環境を再構築しなければなりません。
 その事自体は苦痛ではないんですけど、お互い知り合っていく努力の中で、またこうして知り合った人とも別れていくものだなという寂しさが、100人単位の別れを経験した僕にはいつも付きまといます。

 過酷なんでしょうかね。僕が歩んだ道は。
 
 そうした別離の悲しさ、自分だけ取り残されたという寂寥感を乗り越えなければ、10年20年とプレイし続けるなんてことは到底できる相談ではないのかもしれません。
 積み重ねた時間を顧みれば、TRPGは遊びでもゲームでもなく、まさしく「選んだ青春」であったわけです。
 
 僕は国産TRPGの8割以上、海外TRPGも何作も持っていると自負している者ですが、その半数以上は僕と同じようにTRPGに苦悩し、挫折して去っていった「かつての仲間たち」が形見として譲ってくれたものです。
 そういうものに囲まれて生活してると、残存思念とか亡霊とかを感じざるを得ません。
タグ:TRPG
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2007年07月17日

いつ、どんな段階でどのシステムを学ぶか 〜TRPGのルール習得の段階〜

 TRPGはアナログゲームですから、ルールのすべてを人の手で使わなくてはなりません。最近のCRPG攻略本ほどではないけど、ゲームの設定資料集程度はある分厚いルールブックを読み解く必要をプレイヤーに求めています。
 実際には、何かゲームが出れば持ちゲームとしようとする人がまず把握し、その人がGMとして教導役をしてくれるわけで、TRPGの基本的な流れを知っている人なら問題なくプレイできるわけです。
 だから、好きなゲームでもルールをよく把握していないプレイヤーってのがTRPGでは当たり前になっています。コンシューマーで云えば「ぬるゲーマー」に相当する人たちですけど、TRPGはゲームの良し悪し以前に遊び手の良し悪しにゲームの面白さがにじみ出る性向がありますから、いい仲間と適度に練られたシナリオがあればいいプレイと見なされます。  
 
 それでは、TRPGは特にルールを覚える必要のないゲームかと云えば、それは違います。TRPGは経験を積むほど「やりたい事」が増えるわけで、それを叶えるために自ずとシステムを研究するようになります。
 今日は「いつの段階からTRPGゲーマーはルールを覚えようとするか」です。

◆◆◆

 まずは上達段階レベルから見たゲームへの興味具合です。TRPGの遊び手はどの段階でどんなことに興味を示し、熱心に活動するのか考えてみました。
 僕の考えでは、ざっとこんなものです。

Lv1(入門者):TRPGの基本的な流れ
Lv2(初級者):物語に参加し、自己の創作物を披露する
Lv3(中級者):該当TRPGで達人的なキャラ作成、ゲームプレイをする
Lv4(上級者):物語の完成度を高める
Lv5(伝道者):TRPGで味わった楽しみを伝道する

 TRPGで本格的にルールを覚えようとするのは「Lv3:ゲームを共にする仲間への集団帰属の欲求」を求める中級者以降であると僕は考えます。
 Lv2とLv3との間にある遊び手の意識の変化として、TRPGの社会化があります。Lv2の段階ではまだTRPGは「自分のやりたいことをやりたい」という個人的欲求を叶えるための道具です。だが、Lv3になる遊び手はパーティを組む仲間との連帯意識が芽生え、仲間やGMとの調和を重んじたチームプレイの楽しさを求めるようになります。
 そうなると、「チームのために役立ちたい」とか「チームの中で確固たる重要性が欲しい」という意識が働き、そのためにそれまでは自己表現の履歴書に過ぎなかったキャラクターを他者から評価を受けるべく、該当ゲームで有能なキャラにすべく強化していくようになります。
 
 逆に、「Lv2:ゲームの参加者として楽しみを享受する欲求」の段階では、システムを覚えようという意識はLv1から上達した段階からひとまず停滞します。
 この時期はむしろロールプレイに関する演技や表現、シナリオを読み解く物語の技術、パーティでの和の取り方など、パーティゲームとしてのコミュニケーションや自己表現といったシステム以外の要素に比重が行くからです。

◆◆◆

 次に、melmma!時代に示したTRPGシステム要素の概略図から、どの段階でとのシステムを覚えていくのか見ていきましょう。すでにmelma!時代のコラムは消えてるかもしれませんから、ここで概略図を再掲載します。

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◆RPGを構成するシステム要素

 TRPGは基本的に、「基幹システム」、「状況再現ルール・設定」「世界観設定」の3種によって構成されている。


【基幹システム】:ゲームを運営する最低限のシステム。ゲーム中に誰もが行う行動を判定する「一般判定システム」や、誰もが、「どんなゲームでも変わらぬ醍醐味」だと認識している要素に関する「基本状況再現ルール」の2つが基幹システムの中身である。なお、「基本状況再現ルール」のもっともたる具体例は戦闘システムである。

【状況再現ルール・設定】:そのゲームの世界観によって起こりえる(他のゲームでは発生しない)様々な特色ある状況を再現するためのシステムやお約束。『クトゥルフの呼び声』での正気度とか、『スペオペヒーローズ』のヒーローポイントなど、ゲームの特色を再現するルールが多く、他のゲームに持ち込める互換性に乏しい。

【世界観設定】:シナリオを構築するための資料。多くの場合、基幹システムとは別箇に製作されている。状況再現システムを作る思想基盤となっていることが多いが、逆に際立った特色のないRPGでは状況再現ルールも少ないだけに淡白な作りになることもある。

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 TRPGシステムは要約するとこの3種に分類できます。

 すべてのプレイヤーがまず覚えるのは、「基幹システム」のうち、「一般判定システム」です。一般判定システムはTRPGで使用するダイス・トランプといったランダム発生要素……コンシューマーにとってのジョイスティックの使い方を体現したシステムです。これを覚えなくては、TRPGをプレイしているという感覚が湧きません。

 「基幹システム」のうち、「基本状況再現ルール」はLv1〜Lv3までの間に習得していきます。例えば戦闘の場合、Lv1はコマンドを明言する状況判断を、Lv2は「見せ場」の中でいかに自己をアピールするかという自己にとっての有効手を、Lv3はチームプレイの中での有効手を習得し、ようやく完成します。

 「状況再現ルール・設定」は「これを使えばゲームで数値的有利が得られるルール」と、「これを使えばゲームに活気が出たり、楽しみが増えるルール」の2種類あります。前者はLv2〜Lv3、後者はLv3〜Lv4が習得します。
 後者の方は『クトゥルフの呼び声』の正気度のように、win-loseのゲーム上では不利に働くシステムなのに、happy-unhappyの関係ではloseになった方がhappyになる反比例した性質のシステムです。こういったシステムは悲劇を題材にした物語を扱った、win-loseを第一目的としない物語再現装置の色が強いゲームにTRPGなどに使用されます。

 最後の「世界観設定」は少し特異なシステムで、ゲームで行使するならLv43〜Lv5といった上級者、伝道者が覚え、その使用用途のほとんどがGM技術です。だが、TRPG入門者がまず興味を示すシステムがこの世界観設定なのです。
 世界観設定はここではシステムの一部としていますが、大抵が設定資料であり読み物です。ともすれば付属品として軽視される要素ですが、一番の役割はゲームプレイ以前にある「ゲームを楽しもうとするモチベーション」を作成する道具であり、コンシューマーゲームと違って「操作感」に乏しい……基幹システムの単純行為にさほど肉体的快感を得られないTRPGに「魅力」という精神的快感を与える重要なシステムであると僕は考えています。

◆◆◆

 ここまで、遊び手の欲求段階やTRPGシステムの役割から、習得の具合を論じてきました。
 だが実の所、いかなる上級者、伝道者であろうとTRPGのシステムを完全に覚える必要というのはないのかもしれません。なぜなら、TRPGは複数の遊び手が助け合いながらプレイするものですし、最終的にはパーティの総体として「どんな楽しみ方がしたいのか」という点のみに絞ったシステムのみ機能していればいいのです。
 
 本当の意味で、システムのすべてを諳んじる必要があるのは、せいぜいデザイナー側にいるデバッガー程度のものでしょう。
タグ:TRPG
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2007年07月08日

TRPGのWIN-LOSEとHAPPY-UNHAPPY 〜TRPGの裏で影響しているパーティ要素〜

 
 TRPGは「勝敗がないゲーム」と最初に云った日本人は誰だか僕にも分かりません。ただ、『D&Dがよくわかる本』にて黒田幸弘氏も明言しているので日本TRPG初期(新和版D&D発売時を基準)においてからそういう論説は存在していたようです。86年発売当時はRPGはおろかソリティアゲーム(1人遊びゲーム)自体がマイナーな存在であり、プレイヤー間のwin-loseの関係から離れた形式のゲームを出すのには先進性に問題があったのかもしれません。ましてや、D&Dを売り込むメインの購買層たるウォーゲーム愛好家たちは競技性の高い……win-loseの格付けに厳格なゲームを好む人たちです。彼らに対し、「勝敗がない」と明言することは曖昧な表現で遊び方を誤解されることを防ぐ効果が期待されるわけだし、悪くない手段ではあっただろうと思います。


 だが、ミニチュア・ウォーゲームから派生した『D&D』は単にプレイヤー間の競技ではないのでプレイヤー間による勝敗の位置づけがないというだけで、プレイヤーvsDMによる競技になる可能性も孕んでいました。おそらく、自由度の高いTRPGは製作過程において『ディプロマシー』のように狐と狸の化かし合いになる「荒れた」プレイが頻発したのでしょう。新和版D&Dのダンジョンマスターズハンドブックにも、プレイヤーはモンスターと戦っているのであってDMと戦っているのではない、唯一の目的は楽しむためにあるのだからと強調してあります。
 実の所、D&Dはプレイヤー間の勝敗はなくとも、「生き残るor死ぬ」と云う点でwin-loseの関係は残っており、しかも大局的には楽しむことが目的という大前提があるだけに誰もゲームの成否を断ずる存在がなく、裏面にある「勝った気分」「負けた気分」だけが残るわけです。

 この時点でTRPGが売りにしてきたwin-winの関係というのはゲームがシステム的に保証しているものではなく、遊び手の相互理解によって発生する、ジャッジメントとは別の役割であったことに気付くべきであったのかもしれません。「TRPGに勝敗はない」とは明確な勝者敗者の格付けが目的のゲームではないというだけであって、誰もが平等に勝った気分を味わえることではないのです
 さらに、皆で楽しむという大前提によってwin-loseの形式は表面上はなくなったが、経験値配分などによる活躍の評価査定、死によるゲーム脱落などによってwin-winの形式は否定されており、実際にはhappy-unhappyの関係に転化しているわけです。

 TRPGにだってうまくいかなくてマズい思いすることがある。

 「TRPGに勝敗がない」という言葉はそれを伝えきれなかった感があります。TRPGがウォーゲーマーだけの狭い層に受け入れられたマイナーゲームだったら、大した影響がなく浸透したかもしれません。
 だが、D&Dと同年に発売された『ドラゴンクエスト』によって想定外の層にRPGの存在が知られました。ドラクエは完全にloseのない「好きなペースで進める双六」めいた形式のソリティアゲームであり、多くの人がこれをRPGだと認識したが上にTRPGに触れています。さらにTRPGがライトノベル誌やゲーム総合情報誌にリプレイによって売り込みをした経緯から、ゲームとは無縁のライトノベル愛好者たちもTRPGに参入してきました。
 要するに、日本におけるTRPGの発展は想定外の層が参入してきたからに他ならないのです。彼らはウォーゲーマーなら弁えているであろうwin-loseまの形式……競技ゲームの実態を十分に把握しておらず、むしろ物語再現装置としてのTRPGを望んでいました。
 
 物語再生装置としてのTRPGはいわばライヴであり、ファンが集まる以上happy-happyの形式が自然です。

 TRPGがwin-winではなくhappy-unhappyであることに無自覚だった人たちは、このhappy-happyが目的で参加してきた人たち相手に失敗を重ねることになります。ウォーゲーマーたちが自然に受け入れていたwin-loseはビデオゲーム・ライトノベル出身者たちには異文化であり、「負けは仕方がない。これがゲームだ」という常識は、happy-happy目当てで参加した人にとって「楽しみを奪った」ことになります。

 だが、loseは結果ですから覆すことはできませんけど、unhappyはあくまでも心象ですからゲームとは関係ないパーティの参加者同士として庇い合うことは可能です。「今回のゲームは芳しくない結果だったけど、僕たちはゲームを楽しめたのだからいいではないか」と宥める技術が生まれ、そして必要とされてきました。
 これがゲーム管理者/ゲーム競技者、ストーリーテラー/ゲーム演出者に続く第3の役割であるパーティ主催者/参加者の骨子であると僕は考えています。
 
 ゲームに成功し、シナリオに成功すれば勝手知ったるゲーマー同士……すなわち身内同士ならうまくいきます。だが、ヨソからのゲストを交えた「外に開かれた」活動としてTRPGを位置づけたいのであれば、パーティとしても成功しなければなりません。主催者側はもてなしの心を、参加者側も楽しみ方とマナーを心得なくてはなりません。
 
 最近、『アルシャード・ガイア』のサプリメント、『エブリデイ・マジック』に掲載されたシナリオクラフトのシステムが、製作者側が目指している「いきなりセッションがやれ、単発でもキャンペーンでも思いのまま、気の合う仲間が集まればGMなしでも遊ぶことができる」システムであるのか、やや否定的な立場から注視しています。

 僕が理想とするGMなしでも遊べるTRPGとは、コンベンションだけではなく、それこそ何か遊ぼうかという仲間がいれば嗜好・経験を問わず、とにかく集めるだけでプレイが可能。GMはジャンケンで決めて、TRPG未経験者が請け負っても問題なし。そして、短時間に参加者全員がTRPGの基本的な流れ……空気を読めて、いち早くゲームを楽しみ合う環境を構築できること、しかも経験者の熱意ある教導を必要とせずに。
 云わばTRPGのパーティゲーム性の強化です。

 その点を弁えると、シナリオ作成と運営に関する手法であるシナリオクラフトは従来のGM課業への補助輪であり、そこには「気の合う仲間」の存在が不可欠になるでしょう。それこそ、全員がTRPG未経験者で初見の間柄でもプレイ可能だとは信じられません。
 『エブリデイ・マジック』にしても未経験者が学習する目的で使用するのもよしと云っているであって、未経験者でもhappy-happyになれるとは書いていません。そもそも、学習を受け入れる未経験者・初心者は「入門者」(F.E.A.R社が想定している初心者)であって、ただどんなゲームか経験してみたいという「初訪問者」(僕が想定している初心者)とはニュアンスが違います。

 そこら辺が勘違いされ、このシステムさえあれば誰でもTRPGを主催でき楽しめるなどと喧伝されたとしたら、案外このシステムは失敗に終わるかもしれません。思わぬ層からの参加者が、思わぬ批判をしてくる可能性は「TRPGに勝敗はない」の語弊を見ても、十分ありえることです。

 TRPGは一部の物好きのみに知られているマイナーゲームだと捉えるのは早計です。『ナイトウィザード』がアニメ化される(TRPGではなく、エロゲ原作だと思うんですけど)ことですし、いつ想定外の層にTRPGが知られるは予測できないところがあります。

 某有名2ちゃんねるスレッド紹介Blogに、RPG風の運営をするコスプレ喫茶を扱ったスレが掲載されたのだが、2ちゃんスレやBlogコメントにも、驚くほどにTRPGを知っている人が書き込みをしており、それも該当コスプレ喫茶より好意的に見ているのを見て、TRPGの振興を目的として活動しているアマチュアとしてはまだ捨てたもんじゃないと勇気を与えられた思いです。
 だが、その評価に応えられる体制が今のTRPGにあるのか、一抹の不安があります。
 
 『ナイトウィザード』アニメ化はTRPGの名を再び世に知らしめる効果があるある反面、想定外の認知によって業界が荒れることも考慮しなければなりません。

 しつこいようですけど、『ナイトウィザード』はエロゲでもあるんですからね。それに、昨今のアニメはエロゲ原作のキャラクターエピソード集がハバをきかせています。
 現在のエロゲはビジュアルノベルと銘打った紙芝居が主流ですので、エロゲの骨子たる「キャラ萌えビジュアルノベル」の要領でTRPGに参入してくる人がいないとは限りません。

 そのとき、TRPGは正しくその本分を伝えることができるでしょうか。言葉の面でも、準備する必要があります。
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2007年06月14日

TRPGの三方一両損 〜欲求の妥協点としてのTRPGのハイテク化〜

 
 何年も前の話になるのだが、『ブルーフォレスト物語』で停戦協定に出向いた姫様が戦争継続を願う政商の手に捕まったので救助するってシナリオを作ったんですけど、誰もその依頼に賛同しなかったって展開がありました。
 
 PC衆の立場から考えれば、一介の冒険者に過ぎない身分としては戦争は飯の種として重要なことであり、停戦なんてとんでもないというのがその理由でした。中には1人ぐらい偽善者ぶって平和のためにと反戦運動家めいた言動を取る人がいるかと思ったけど、1人もいなかったのが当時としては不思議なことでした。

 それ以前に、依頼を断れば物語が伸展しないわけで、このメンツはゲームを放棄して一体何が楽しいんだかさっぱり分かりませんでした。
 だが、後でディスカッションをして、TRPGがインタラクティブな物語を楽しむゲームならば、依頼に難色を示すという行為にも物語的な意義があり、依頼を断った先にも物語が展開されてもいいのではないかという意見が出てきました。
 このメンツはリプレイやライトノベルからTRPGに参入してきた人ばかりで、TRPGを物語再現装置として捉えているから、キャラクターを動かす動機を物語上の役割に求めていたのです。これに対して、ファミコンなどのゲームメディアの延長として始めた僕はゲームクリアを楽しみの最上級にしていたので、依頼内容なんか名目に過ぎなかったわけです。
 目の前にゲームをちらつかせれば、ゲームを楽しむという目的のために躊躇せず飛び込むものだと思い込んでいたのです。けど、物語を楽しみたいという人の動機はあくまでも自分たちを登場人物に仕立て物語の再現であり、そこらへんでモチベーションの違いが明確に出たわけです。『ブルーフォレスト物語』はどちらかと云えば物語再現装置として楽しむゲームなので、僕の方が少し勉強する必要がありました。

◆◆◆

 ゲームを楽しむ動機は人それぞれあって、とみにプレイヤーとGMとの間で違いがあると色々厄介なものです。単純に「ゲームプレイ」と「物語再現装置」との違いにしても、お互いがより高等なゲームや物語を期待してたりすると、その埋め合わせに時間を食ったり、上手くいかなければそのまま分からずじまいになったり、衝突したりもします。

 これまでは、どちらかが引き下がることで調整してきたわけで、ゲームシステムごとにこれはゲームプレイ中心だ、これは物語中心だと割り振っていたんですけど、それでいいのかなと僕は思うんですよ。
 僕すらすれば、F.E.A.R社のゲームは一見物語中心に見えるのですが、その実は明確なゲームクリアの観念が存在するゲームプレイ中心のTRPGでもあるように見えます。物語派としてはシーンアクトによって物語の演出ができる反面、全体としては王道展開に従わなくてはならない。ゲームプレイ派としては、フェイズによってゲーム目標が明確に示された反面、狡知によってゲーム展開を有利にすることは難しくなった。GMとしてはプレイヤーを誘導しやすい反面、逆にプレイヤーを放牧することができず、絶えず管理下におく必要がある。

 云わば三方一両損的な作りをしているのがF.E.A.R社のゲームなのかもしれません。全員がある程度欲求を我慢する仕組みなのかなってことです。

 僕としては、そんな高等なテクニックや物語、セッションハンドリングをこなすべくハイテク化したTRPGばかりではなく、もっと原始的な欲求……奔放にキャラクターを動かし、シナリオを肴に語り合う程度の欲求に応えられる低欲求・低モチベーションなTRPGもほしいところです。

 云ってしまえば、世界を救わなくてはならないなどという物語のストレスや、シナリオを解いて迷宮を踏破し戦闘に勝たなくてはならないというゲームプレイのストレスを耐え忍ぶだけがTRPGではないのではと思うのですよ。 
タグ:TRPG F.E.A.R
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2007年05月27日

TRPGの上達段階レベル(試作モデル)

 
 TRPGにおける上達モデルをただ今構想中です。
 骨子はTRPGを楽しめるまでの5つの関門 〜欲求の複雑さのランク〜で示した欲求段階説です。まずは原始的・動物的欲求を満たすことから始まり、そこから人間感情的欲求、群体的欲求、社会的欲求、超人的欲求へと段をおって身につけるのがいい上達方法なのではと考えたわけです。
 すでにお分かりの人もいるでしょうけど、元ネタはエーブラハム・マズローの自己実現理論です。僕は自分が用いたい環境の中、自分の言葉で語れない限り学説の引用は控えるべきだと考えていますので、マズローに関しては参考としてのみ留めておいてください。

 さし当たって、図式はこのようになるかと考えています。

Lv1:ゲームの参加者として「動く」欲求

Lv2:ゲームの参加者として楽しみを享受する欲求

Lv3:ゲームを共にする仲間への集団帰属の欲求

Lv4:ゲーマーとしての実力を認められ、尊敬を受けたいという欲求

Lv5:ゲームを通して夢や可能性を追求し、創造的活動や自己の成長をしたいという欲求

 野球で喩えるならば、ボールやバットをいじる喜びから、野球選手としてゲームを全うする喜び、チームとしての一体感を得る喜び、名選手としてリスペストを得る喜び、そして道の追求者としての精神的境地を悟る喜びへと、欲求の段階があるということです。

 んで、この欲求段階説には法則が1つあります。
 それは、「低レベル欲求を満たさぬまま、高いレベルの欲求を満たそうとするならば、そのレベル差があればあるほど、対象の本質を見失う」ということです。なぜなら、レベルが上がるごとに欲求の内容が抽象的・観念的なものになるからであり、抽象的・観念的なものは触れない、体感できない、実体として認識できないものだからです。 それが過ぎれば「妄想」となります。
 キャッチボールも満足にできない人が名選手になる夢を見ても滑稽なだけですし、ましてや自分の野球人生を顧みようとするならば、「大したことね〜」と挫けるだけだと思います。

 何事も基礎が大事。基礎ってのは物事の最も原始的な要素なのです。
 ではTRPGにある原始的な基礎って何なのでしょうか。
 実の所、TRPGがゲームなのか否かということすら曖昧模糊としている現状だと、かなり抽象的・観念的な欲求に走り過ぎていると僕は考えています。妄想でしかTRPGを語れないというのであれば、それは廃人環境であると云えましょう。いい環境とは云えません。
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2007年05月20日

GMは空気をつくるもの

 
 TRPGならずとも、遊び手に能動的行動を促すには興味を持たせ誘導させることが第一です。人生の余興であるゲームに必要不可欠たる義務など存在するはずはなく、「○○しなければならない」という理由でゲームに参加させることなどできるはずもありません。
 『ナイトウィザード』のように「世界を救わなければならない」と煽り文句が前面に出る世界観のゲームもありますけど、あくまでもクライシスを演出するゲーム世界の雰囲気付けであって、遊び手が緊迫する必要はまったくありません。変に危機感を煽ると遊び手が萎縮しますし、なまじ経験のある遊び手ともなるとクライマックスフェイズまで必要最低限の行動しかとらず、いたって刺激のない事務的なセッションになってしまいます。

 遊び手がわき目もふらずシナリオ解決だけに専念してしまうと、僕がGMをしているとするならば、決して好ましい状況とは思えません。なぜなら、シナリオを解くというのは受動的行動……すなわち受け答えをすることなので、遊び手一同がそれに専念してしまうと、能動的有働を取ったのはシナリオを提示したGMのみということになってしまいます。こういう状況では、セッションを楽しくできたかの判断がGM1人の出来具合に偏重するものです。
 いわく、「お前は俺を楽しませてくれたのか」ということ。
 これを喩えるならば「GMの筐体化」とでも呼びましょうか。

 TRPGはゲームセンターの筐体ではなく、1人の遊び手としてプレイヤーと対等の位置にいます。プレイヤーがGMに楽しませてくれることを要求するならば、GMだってプレイヤーに楽しませてくれることを要求して当然です。まさか、たかだか300〜500円程度の参加費が免除されているんだからGMはお客じゃなくて従業員だなんてケチ極まりない考えの人なんかおりやしまい。
 具体的には、プレイヤーはロールプレイとゲーム世界の演出……ゲーミングによってGMのシナリオを軸にゲームを盛り立てる必要があります。

 だが、それが徹底できてないのが辛い所。
 シナリオがなければセッション開催はかなり難しくなりますけど、プレイヤーがロールプレイやゲーミングをせんからといっても一応セッションらしきものはできます。ライブで観客がステージを盛り立てようがマグロだろうが一応流せるのと一緒で、プレイヤーがGMを楽しませる必要ってのがプレイヤー側には希薄なのがTRPGの現状です。

 だけど、ライブでもただ鎮座して音楽を聴いているだけよりも、ステージに詰め寄って飛び跳ねてたりした方が一体感・臨場感という点においてより有意義な時間を過ごせるもの。
 この「一体感・臨場感による有意義な時間」こそがTRPGならずともライブイベントには欠かすことができない提供品であると僕は考えています。
 僕の友人なんかはCRPGをするより2chで遊んでいた方が楽しい(いわゆるVIPPERなんだろうね)って人がいますけど、スレの展開に無軌道ながら連続性があって、ちょっした物語を体感しているな気分になるのでしょう。ν速系Blogでまとめ読みしている僕とは感覚が違うんだなと思います。下らん娯楽と見る人もいるでしょうけど、多分彼の方が1つ人生有意義に過ごしています。

 ではプレイヤーが自主的に盛り上がってくれれば満足かというと、それも少し違います。盛り上がり方がゲーム世界やシナリオにそぐわなかったり、なによりも他の遊び手に不快感を与える性質だったりしたら、それは盛り上がるのではなくハメを外すというもの。
 結果は「スベる」だけ。空気読めってこと。

 結局、プレイヤーが盛り上がるための空気はGMがお膳立てする必要があるわけで、その煽り方に関してもGMは意識的になんなきゃダメということなんでしょうな。

 今日はこのへんで。

 
タグ:TRPG
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2007年04月29日

30半ば、ピザで勇者

 30過ぎのおっさんにとって10代半ば、ヤング・アダルトのPCを扱うのは少し辛いところがあります。もちろん、無理にロールプレイせず無個性キャラで行けば負担はないのですが、最近になると自分がロールプレイするのはおろか、他人がヤング・アダルトを演じるのを聞いているのもいささか苦痛に感じることがあります。

 TRPGの中には『アルシャード・ガイア』、『ナイトウィザード』、『エンゼルギア』、『アリアンロッドRPG』、『ダブルクロス』、『無限のファンタジア』と云ったヤング・アダルトを基調とした作りの作品が多く、(語弊はあるが)とっつきやすいということもあって、シェアは大きいと云えましょう。『ソードワールド』など無個性的な作りの作品も、誰彼が強制することがなくてもヤング・アダルトなパーティになることが多々あります。
 コンシューマーと違って、数時間ほどの時間資源を先行投資するTRPGの場合、必ずしも自分が好きなゲームが遊べるとは限らず、しかもオフラインでの付き合いですからイヤとばかりもいられない。不承不承、好みに合わないゲームをすることもままあります。それでもプレイ仲間が証に合えば融通がきくもんですし、楽しくプレイできます。
 
 ただ、ゲームの作品傾向が違えばプレイ仲間の心構えも違うものでして、ヤング・アダルト向けTRPGをプレイすれば、自ずとヤング・アダルトPCのロールプレイをしたがる人が集まるのも自然なことです。当然、プレイヤーもヤング・アダルトかそれ同等の人も多いわけで。

 よく最近のRPGはアニメ調の青臭い餓鬼どもが愛や正義を叫んで世界を救う展開(僕はテイルズシリーズしか思いつかんけど)ばかりで食傷だという意見を聞くけど、コンシューマーならまだそういうゲームを選ばなければいい。TRPGは「そんなの」を熱意を以てプレイする人と面と向き合って付き合う必要があり、演じているご本人の頭の中自体も「そんなの」である場合もままあります。

 他者として接してみると、「そんなの」なキャラはまず第一に「でしゃばり」かつ「鬱陶しい」連中であることが目に付きます。ロールプレイとしては難易度が高いキャラであり、扱いがうまくいかなければ煩いだけの存在となります。

 僕も以前、「そんなの」なプレイヤーがヒロインの扱いに無頓着だった(自分のキャラ設定を披露することに精一杯)ので戴いたら怒られたことがあります。面目潰したのは悪いけど、そのシナリオは彼が師と仰ぐ人物が悪に染まって裏切りをするという展開で、裏切った師とのやりとりで彼はテンパッており、ヒロインが放置されかねない状態でした。
 
 「そんなの」キャラを演じるに一番未熟な「かっこいい台詞をしゃべるのに精一杯」状態に陥ったわけで、彼には主役は重荷でした。
 いいとか悪いとかの問題ではない。
 「そんなの」なキャラは「無垢な善意が大人社会の矛盾に立ち向かう」というテーマが付きまとい、色々と価値観・倫理観に向き合う機会も多い。「世界を救う」という役割のために、こと人命に関しては多くの責任と配慮を求められる。
 他のPCよりもより多くの判断と配慮が強いられる立場にあるのが「そんなの」PCです。決断力がなければ物語は空転しますし、配慮がなければ自分だけの世界に浸るひたすらDQNな存在となる。

 確かに物語としてはよくあるキャラであるわけですが、はたしてTRPGとしてはどうか、と思うのですよ。対話に練達した玄人向けのキャラであって、間違っても「そんなの」なプレイヤーが扱うべきではないキャラではないでしょうか。

◆◆◆

 ちなみに僕は以前、『ナイトウィザード』をプレイした際、成り行きからいわゆるPC枠1を受け持つことになり、勇者として悪に立ち向かうキャラの作成を求められました。だがここで「そんなの」らしい青臭い少年少女を演じきれる自信はありませんでした。
 
 そこで、「30半ばのピザなおじさん」というとても演じやすいキャラを勇者にしました。14、15の子供でも務まる役目、ピザな親父でも務まるでしょうしね。
 けど発表した途端、GMの足元が崩れ落ちる音がしたような気がしました。
 
 悪かったね。主役がトルネコで。
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2007年04月15日

お金で殴り合ってた時代を回顧

/.   /|| ∧_∧
| ̄ ̄|  ||(Θ-Θ=).  おお、うがつものも更新されてる……
\  ̄\_ | l ̄\と )
二二二二二「二二二|.


/.   /|| ∧_∧
| ̄ ̄|  ||(ΘДΘ=).  ……
\  ̄\_ | l ̄\と )
二二二二二「二二二|.


        ビタン!!
/.   /||   ∧_∧
| ̄ ̄|  || (( (ΘДΘ#).  ……TRPGネタじゃねーー!!
\  ̄\_ | l )==( と )
二二二二二⌒)⌒(⌒二二|.


 
 すいません。
 最近、F.E.A.Rゲーマー釣るよりAA貼ってた方がアクセス数が安定するということに気付きまして……。毎回貼ろっかな?
 それでもBlogのネタとしては殴りあったり胸倉掴んだりする話が手っ取り早いって所もあるんです。
 そんなわけで、今日は典型的な殴りあうプレイ、お宝の配分についての小話。

 昨今のゲーマー諸兄は獲得した財宝をいかに配分するかで揉めた経験などまずないでしょう。
 そもそも財宝=経験値だった『D&D』新和版の時代ならともかく、『ソードワールド』の時代から、別に苦労して大金稼がなくてもシナリオを解けば経験値が入るようになり、お金が冒険の動機たりえなくなった感はあります。さらにF.E.A.R社のゲームによって特技・超能力の性能が装備品を上回るようになって、装備品を揃えるべくお金を工面する必要性も大きく薄れました。
 お金自体が日本のTRPGにおいて必要ないものとして扱われているし、そうなるようにデザインがされてたりシナリオが提示されてたりするのが現状なのでしょう。
 それを寂しくも思うと同時に、プレイ前の金の貸し借りや依頼人との交渉でシナリオが阻害され、(物語を語りたい)GMにストレスを与えてきたことが影響して今のようになっていったことも考慮し、これも1つの道かなと認識しています。

 それでも、『サタスペRemix+』や『迷宮キングダム』なんかは生活の糧に関してがめついプレイをしていただいた方が「らしい」とは思うんですよね。
 
 んで、冒険が成功してパーティ一同の前には財宝が詰まった宝箱が1つありました。普通ならここでシナリオ成功となり、GMが適当に「みんなにそれぞれ○○与えます」と宣言してお開きとなるんですけど、ここからが殴りあうプレイの本領発揮なんですよ。

「待て、これは全部俺の金だ!」

 この一言。
 このあまりにも身勝手で強欲な、それでいて人間臭い一言。これを楽しめるかどうかで、そのメンツが殴りあう仲間なのか殴りあわない仲間なのかが分かります。
 殴りあうプレイだとここで一悶着して楽しいですけど、殴りあわないプレイだと、この一言で「君はよいロールプレイをしなかった」などとダメ出しくらって終わりになってしまうでしょう。

 僕はもう随分、お金の配分で楽しんだプレイから遠ざかってますから、この楽しさを伝えるには今日の所は時間が足りません。
『AD&D』プレイヤーハンドブックのアライメントの欄にある、各性格ごとの冒険者が一同に集ってお宝の配分について主張している例文は今から見ても面白いんですけどね。

 それでは今日はこのへんで。
 
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2007年03月25日

TRPGという1つのセカイ 〜成長過程における族風俗としてのTRPGとその転換期〜

 「TRPGをいつまで続けられるか」というTRPG系の論客ならば思わず釣られてしまうであろう問題があるけど、僕は「最初の山場は21〜23歳」と考えています。

 この21〜23歳という山場は、学生運動・族風俗としてのTRPG活動の終焉を意味するものです。
 よりサブカル的表現を用いるならば「TRPGというセカイ」の終焉と呼びましょう。

 学生運動と云えば昭和40年代の安保闘争を思い浮かべるでしょうけど、ここではTRPGを含めたサークル活動や単なる男女の仲良しグループなど、学生という社会的立場に依った熱動的集団行動一般という意味で用います。
 端的に云えば、「○○族」というもの。太陽族、ヒッピー族、暴走族、竹の子族、ヲタク族といろいろありますけど、大抵は社会風俗や世相が大きく影響していると思います。

 んで、TRPGも族風俗なのかと問われれば、僕はYesと答えます。少なくとも、15年〜10年前、僕が学生だった頃のTRPGは『ドラゴンマガジン』などに影響を受けたファンタジー系サブカル愛好者が部活動的なサークルを形成した「族文化」でした。

 これはTRPGに限った話ではないけど、中学生ぐらいになれば自分を取り囲む社会の成り立ちについて興味が湧いてきて、その中から激しく刺激を受けた文化に自分が影響されることを受け入れるものです。そして、社会の存在を認知し、今度は自らの社会的立ち位置を考えるようになる高校生の頃は、自分が影響を受けた存在の社会的立ち位置を気にするようになり、盛んに同調者を探すようになります。
 TRPGゲーマーのうち、大抵の人はTRPGを高校時代乃至大学時代に見知り、そこから活動を開始しています。そのうち、高校で知った人は先輩筋から紹介された例が多く、大学で知った人は高校時代にTRPGを知りながら、それがサークル活動で行われていることに気付かなかった、あるいはそこまで身近ではなかったという例が多く見受けられます(僕の経験では)。

 若者が社会に刺激を受けるうちに、自分が好きな社会を見つけその社会に順応するために熱動的な活動をする……それこそが学生運動・族風俗の本質であり、TRPGもまず始まりは学生運動・族風俗として捉えられると考えたわけです。

 ところが、社会の中で生活していく世界システム……セカイと、今まで順応を試み続けてきたセカイとが食い違うことを知る時期ってのが訪れます。
 学生時代はスポーツが、音楽が、TRPGが自分を中心とした社会のすべてだった。だけどセカイはスポーツや音楽で食っていける人はほんの僅かであると示している。現実は就労しなければ生活できない。今まで順応していたセカイは誰かの庇護の下成り立っていた、巣箱の中のセカイだった。成鳥となり庇護の必要性が無くなったとき、彼彼女はセカイの転換を求められる……。

 これが、「21〜23歳山場」ということです。
 今、僕たちがいるセカイではTRPGで生活することはほとんど無理です。生活手段を得るために、それまで唯一セカイであったTRPGをどう再定義するか……これによって以後のゲーマー人生が左右されます。

 まずはセカイの否定。すなわち「卒業」。
 今までのセカイを過去の遺物と断じて、新しいセカイに転向するわけで、大抵の人はこれを選びます。対象の歴史が浅ければ、老いても活躍するかっこいい年寄り……伝説が少なければ、その率はさらに上昇します。
 
 続いてはセカイの衛星化。すなわち「趣味」。
 生活するためのセカイもお気に入りのセカイも共存させる。だけど生活の方がメインで、お気に入りの方は時間に空きができたら楽しむ程度に留めようという発想なわけで、僕なんかはこれ。
 この「趣味」を選んだ人はとりあえず最初の山場は越えるけど、その後も男女交際、結婚、子供、老後への不安など事あるごとに山場が出てきて、その都度「卒業」するかの判断を迫られるというあまり胃にはよくない状況に陥る脆弱性があります。
 TRPGは金銭のコストは微々たるものですけど、時間というコストは莫大ですから、やっぱり趣味にするのは辛い面があるかもしれません。

 三番目はセカイの惑星化。すなわち「道楽」。
 生活のためのセカイなど副次的なものに過ぎない。人生は好きなことで楽しむためにあるのだから、そのために生活向上のための資産をロスしてもいいじゃないか……。そう考える人も多い。僕の友人衆にはサッカー観戦を道楽として、そのために会社員を辞めて自営業を始めた人もいます。
 ある程度生活が安定してから道楽に走る人だっていますけど、対象の道楽が50〜60歳の人がカムバックできる環境であるかどうか……、これもその道楽の歴史の深さ、伝説の多さが影響してくると思います。

 それを踏まえると、あの歳でRoll & Role Stationなんぞで何不自然なくゲームをしている鈴木銀一郎はただ存在しているだけで偉人と云えましょう。別に作品の量でも質でもない。ゲーマーとして現役でいるというだけで業界としてはありがたい存在です。
 
 最後は、あくまで今までのセカイを貫こうという「職業化」です。これに関してTRPGはとっても狭き門ですけど、頑張れというしかないです。

 ちなみに番外として、今まで同調してきたセカイを防衛するために生活のためのセカイを侵略者として破壊しようとする「中二病的」や、新しい生活のためのセカイに再影響されすぎて、今までのセカイに憎悪を抱く「高二病」というのもあるけど、これらは順調な成長を踏んでいない人の例だから、あまり参考にはならないでしょう。

 だけど、セカイ系アニメやライトノベルはこんな「オトナなんてみんなインチキだ。侵略者だ」な中二病と、「夜の校舎窓ガラス壊して回りたい」高二病な人が主役であることが前提としてあるので、そこは押さえとかないと。

◆◆◆

 セカイ系ラノベや少年少女が主役のCRPGもそうだけど、この手のメディアの登場人物が中二病・高二病的性質がある……モンスターを殺戮しておきながら、敵役に「なんで殺し合わなきゃいけないんだ!」などと叫んだりするアレ……のは、やはりセカイ系は中学生・高校生対象の物語であるからなんでしょうね。
 
 ちなみに、僕が思うにセカイ系ラノベの最高傑作はヘルマン・ヘッセの『デミアン』と『車輪の下』。

 ただ、現実にコンシューマーゲームとアニメを嗜むにはそれなりの経済的基盤と時間配分の自由が必要であり、やはり大学生以降でないと自由にゲームやアニメ観賞はできるものではありません。そんなんで本来中学生・高校生向けであるセカイ系を知るとならば、後発的に中二病・高二病になっちゃう危険ってのはありますよね。あるいは中学・高校時代に潜伏していた中二病・高二病が覚醒するとか。
 それだと最初の山場での鬱はすさまじいものになりそう。

 TRPGには『アルシャード・ガイア』、『ナイトウィザード』、『エンゼルギア』などの菊池たけし、井上純弌両氏の作品が中二病向け、『ダブルクロス』などが高二病向けのゲームメディアとして、大人の方でも安全性の高い中二病・高二病体験ゲームがあります。
 1人では鬱になってしまう、「なんで殺し合わなきゃいけないんだ!」的中二病ヒーローや、「殺りたくて殺ってんじゃないんだ!」的高二病ヒーローが体験できる……しかも今年で31周年、節度を以て迎えてくれるおじさんゲーマーが数多くいて、貴方の恥を優しくフォローしてくれます。

 そこらへんは、健全という面では疑問だがF.E.A.R社のゲームはいい仕事していると思います。
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2007年03月19日

人妻が勇敢なわけ 〜出産後のCRH増減による恐怖心の抑制を大真面目に考察してみる〜

 TRPG系Blogの管理人の過半数(実体は知らないから過小な表現)は現役のTRPGゲーマーでしょう。当然ながら、GMとしてシナリオを用意したりセッションの準備をしたり、あるいはルールブックを読んで勉強する時間が必要となります。
 僕も今日、『ウォーハンマーRPG』のGMをしたのでBlogは1週間もお休み。楽しいセッションをして参りました。

 だけど、そんな事情Blog読者の皆様には了承してもらえるかは疑問です。記事更新が滞っているのに毎日訪問してくださる方々には誠に申し訳ないです。
 時間がなくて活動が滞った場合、やはり謝るべきはBlog読者の皆様の方になってしまいますね。Blog活動を充実させるためにゲームの回数を減らす、あるいは完全にリタイアしてBlog活動に専念するって方法もある(数人の気心知れた仲間に謝ればいいだけなのでそっちの方がある意味気楽)けど、それこそ本末転倒というもの。

 言い訳になってしまいますが、適度にプレイしないとネタがなくなってしまうので、今後も不定期にある程度のゲーム休みをいただくことをご了承ください。
 
◆◆◆

 今日はここから。
 クイーンズブレイド 第6シリーズプレビュー第2回(ホビージャパン ゲームBlogより)

 元ネタである『ロストワールド』はTRPGゲーマーの間でも隠れた人気がある場取るゲームでした。だけど、なぜか『クイーンズブレイド』の方は歯牙にもかかりません。まぁ、「なぜか」も何も美少女脱衣バトルゲームではむっつりが多いTRPGゲーマーがついていかれないのも事実。
 つーか、美少女主義で盛り上がれるのは山本弘(リプレイ小説で女性PCにセクハラする人)にしろ、清松みゆき(ビキニアーマーなんかシステムに盛り込む人)にしろ、直接プレイヤーに接しないプロだからこそできる所業なんでしょうな。
 僕ら現場の者がそれをやったら「女性プレイヤーが逃げる」という法則が発動すると云われ、それによっていかなる制裁処置も行われるであろうという恐怖を常に抱えています。男は黙って紳士的にマッチョとトロールをやってろということでしょうか。

 さて、リンク先には『武器屋カトレア』なる人妻がいます。
 
 TRPG一筋の皆様はご存知ないかと思いますが、いわゆるエロゲの世界では人妻・義母系ゲームがごまんとあります。「年頃の娘がいるけど外見20代半ばの美人母」などという人妻がごく普通に出てきて、ごく普通に攻略できるというわけで、ある意味エルフよりもファンタジーです。

 さて、このママさんはママさんであるが故に戦士としての特性があるとあります。曰く、

 「女性は出産後、副腎皮質刺激ホルモン放出ホルモン(CRH)が分泌されることにより恐怖心を感じにくくなるそうです。
クイーンズブレイドのキャラクターで唯一出産経験のあるカトレアも恐怖に対する耐性を持っています。
」(斜線部引用)

 知りませんでした。ホントなの?
 こういう時はぐぐってみるのが一番。

 人間はストレスを感じると、ストレスに対抗するために脳の視床下部から副腎皮質刺激ホルモン放出ホルモン(CRH)が分泌されます。そのCRHが下垂体で副腎皮質刺激ホルモン(ACTH)になり、そこから血流に乗って副腎に到達して、というステロイドになります。また、交感神経に達したCRHはノルアドレナリンを分泌し、それが副腎の髄質に達してアドレナリン、ノルアドレナリン、ドーパミンなどのカテコラミン物質を分泌するようになります。

 このカラコラミン物質が血圧上昇、発汗、血糖値上昇、心拍上昇などの変化をもたらし、筋肉への酸素・エネルギー供給を急激化させ、戦闘などのすばやい行動を促進させるわけです。また、コルチゾールはカラコラミン物質の発動を促進させる効果があります。
 
 だが、コルチゾールはカラコラミン物質を抑制する効果もあり、過剰な分泌は慢性ストレスの原因ともされています。また、強いCRHの分泌は同じ視床下部の働きによって発動している卵巣の働きを弱め、生殖ホルモンが現象して排卵障害を起こすようです。一方、交感神経の方も過剰な交感神経の活性化は副交感神経の停滞を招き、血流が悪くなり子宮や卵管を傷つけることになります。
 
 簡単に言えば、CRHの分泌は妊娠時の体によくないってことです。生理学ではストレスが不妊の原因であることが立証されているようです。
  よくアドレナリンの分泌が戦闘にはいいといいますけど、結局はストレスを感じているわけだし、とみに女性にはデメリットもあるというわけですな。サイバーパンクTRPGには反射神経増幅サイバーウェアが存在し、プレイヤーのほぼ全員がイニシアティブのために内蔵しますけど、やはりサイバーパンクの法則にしたがって「代償」も用意する必要がありそうです。

 さて、本題に戻って、「出産後の女性はCRHを分泌して恐怖心がなくなるのか」という点。

 ぐぐったらここがでました。

 母は強し(潟Tンジャパン 健康コラムより。文中第106回)

 文によると、米ウィスコンシン大学のスティーブン・ガミー助教授がCRHの増幅が行動にどう影響するのかマウスで実験したようです。
 その結果……、

  子供を生んで6日後の母マウスに、CRHの分量を集団ごとに変えて一日一回、四日間連続で投与します。その後、母マウスのカゴから子供を出し、代わりに馴染みの無いオスのマウスを入れます。CRHをほとんど与えていないグループの母マウスは、馴染みの無いオスに対し、猛烈に攻撃を加え、排除しようとします。それに対し、CRHを多く与えた母マウスは、怯えてほとんど攻撃を行いませんでした。中間の集団では、攻撃回数の明らかな減少が見られ、CRHと母マウスの行動には、明らかな関係が伺えました。

 はい?
 この実験結果を読むと、CRHが少ないマウスの方が恐怖心が少なく、CRHが多いマウスほど怯えて行動不可能になるようです。このコラムでは「出産直後は、CRHの分泌が低下し、子供を守るという本能に合わせて、恐怖心を感じにくい状態になっている事が、母は強し、といわれる所以なのでしょうか」と締め括っており、むしろCRHの減少こそが恐怖心の克服に作用しているとしています。

 逆ですがな。
 実の所、ぐぐったら「CRHが増えたから強くなる」意見と、「GRHが減ったから強くなる」という意見がどちらともあり、まだまだ謎の多いことなのです。
 CRHの分泌がカラコラミン物質を分泌して人間を緊張状態に置くのは確かですから、その緊張状態が恐怖心の抑制に繋がると考えるのが「CRH増加」説の根拠なのかもしれません。
 一方で、出産によって妊娠時に増加していたCRHが正常に戻ることによってストレスが減少し、それによって恐怖心に強い脳になっているといのが「CRH減少」説の根拠なのでしょう。

 今回のカトレアのケースで考えるならば、「カトレアが恐怖心に強いのは出産をしているからだ」ということを前提とするならば、彼女のCRHは妊娠時の増加からピークを越え、正常値に減少している状態のはずです。従って、彼女が出産ゆえに恐怖に耐性があるのはCRHが増加しているからではなく、むしろ減少しているからと考えるのが自然ではないでしょうか。

◆◆◆

 しかし、書き始めた時は人妻だったのに、どうしてこんな展開になるのでしょうか。なんともはや。

【参考にぐぐった記事】

・妊娠しやすいカラダづくり
 http://www.akanbou.com/ninshin/ninyousei.stress.html

・カテコラミン、コルチゾールをもっと知りたい人に
 http://www2.health.ne.jp/library/0700/w0700057.html
 http://www2.health.ne.jp/library/0700/w0700058.html


 
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2007年03月06日

ビターな味を楽しませるには 〜TRPGの鬱展開〜 その1

 最近、『アルシャード・ガイア』の原点にはアリスソフトがあるのではないかと勝手に考え、『夜が来る!』と『Only You −リ・クルス−』を再プレイ。そのせいでBlogをサボってました。
 
 つーか、『Only You』(98版)は20歳前後ん時プレイしたから結構TRPGでシナリオ作る際の原点になってます。当時は『サイバーパンク2.0.2.0』も嗜んでいたので、アリスソフトの容赦ない鬱展開はとても参考になりました。
 あと、『遺作』とか鬼畜なのも。

 それというのも、命懸けの偉業を達成するために自己犠牲や高い代償を厭わない姿勢を貫く(2.0.2.0の言葉では「エッジを極める」)のがサイバーパンクの流儀なれば、GMたるもの高い代償について具体的に提示できる必要があります。
 金にも名誉にもならない偉業などはどこのゲームにもあります。エッジを極める2.0.2.0の世界では、「金にも名誉にもならない」ということは、自身はおろか恋人の臓器まで抵当に入るほどの莫大な借金を負い、村八分にあうほどの不名誉をかぶることを意味します。ビデオゲームの王者になるために恋人も友人も失った『ドッグファイト』のように。

 サイバーパンクTRPGはサイバーウェアによって増強が気軽に出来るゲームだから、『ロボクラッシュ』(昔、コンプティーク誌にて催された読者参加ゲーム)みたいなロボットバトルになってしまう傾向ってのがありました。
 2.0.2.0の場合、サイバーウェアの通貨に伴いEMP(エンパシー。人間性の意)の数値が低下して、PCが徐々にモンスターと化していく仕組みです。けど、現在と違って2.0.2.0が出た当時はロールプレイに制限がかけられることについて自覚的なプレイヤーはまだ少数であり、多くの人はただ戦闘でやられるのはご免だからと、無自覚にPCを戦闘マシーンにしていました。
 あまりに「代償」に対して無関心なんですよね。

 考えてみれば、従来のTRPG、例えば『D&D』ではゲームの成否はゲーム目標を達成して経験値を得るか、パーティが全滅して経験値獲得の機会を失うかの、クリアかゲームオーバーのどちからしかありませんでした。それは物語調のシナリオがついた『ソードワールド』の時代においても変わらず、AVGを基にしたシナリオをクリアするか、戦闘に負けてゲームオーバーになるかのどちかに、謎解きが分からずそのまま試合放棄するという「詰み」が加わった程度です。
 クリアかゲームオーバーかしかない世界では過程で払った代償は綺麗に流されます。「終わりよければすべてよし」なわけで、瀕死の重傷を負っても、莫大な借金を負っても、恋人が死んでも無問題になります。あるいは、恋人のためにPCが死ぬことに何の意味もなくなります。恋人を見殺しにしても生きて経験値を得ることがゲーム目標ならば、誰でも恋人を見捨てます。

 クリアでもゲームオーバーでも詰みでもない。大きな犠牲と不本意な評価……、それでも自分の中で何か達成感があるというサイバーパンクらしいビターエンドを表現するには従来のTRPGにはないコツを編み出す必要があったのです。

 そのコツに関しては次回にて。

 ちなみに、『アルシャード・ガイア』で鬱展開アリにするのは僕のスタイルであって誰もがするべきことではないです。
 
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2007年02月24日

F.E.A.Rレーベルか、F.E.A.Rスタイルか 〜TRPGの区分に対する提案〜

 
 前々回のTRPGの敷居の高さについて、紅茶檸檬さん鏡さんにゃあさんさんがそれぞれ言及さなれています。いずれも卓見であり、とても参考になりました。とくに、にゃあさんのまとめかたは僕のようなボンクラにはありがたい限りです。

 今日は鏡さんのこのコラムについて少し意見を。

 カテゴリーを生む違和感

 いわゆるF.E.A.Rゲーという呼称が明確な定義がない乱暴な群体呼称であるのは仕方ありません。F.E.A.Rだってすべてを同じ方向性でデザインしているわけではなく、ゲーマー側だってすべてが同じ遊び方をしているわけではないので、違和感を感じるのは自然なことです。

 だが、F.E.A.R社製TRPGと云えども卓やメンツが異なればまったく異種の遊び方をしているのかと云われればそれも違います。
 無からTRPGの遊び方を模索してきた黎明期ならまだしも、それ以降のゲーマーは累積された経験を情報交換しあい、あるいは伝授され、サークル単位で遊び方が整合していきました。さらに情報誌やリプレイ本、今世紀に入ってからはインターネットメディアによって個別に情報の整合が行われてきました。

 それによって、遊び手によって細かな差異はあろうが、全体的な要領については全国津々浦々、誰もが似たような感覚を持てる程度には情報が整合されているのがTRPGの現状です。
 F.E.A.Rゲーという呼称にしたって、作品の違いによってプレイスタイルやシナリオの方向性に差異はあろうが、遊び方の根っ子で他の人と似通っている部分があって、その経験上の感覚が共通項として語られているのでしょう。

 この経験上の感覚を平易に信じれるのは曖昧さが特徴の日本人ならではの感覚かもしれません。これが欧米人なら、自分がインターネットを通して語りかける見ず知らずの他者が、自分と類似性の高いプレイをしているなどと漠然と思ったりはしないでしょう。
 日本人は曖昧さが特徴的な民族ですし、曖昧な経験上の感覚が空気という群体感覚として飛び交うこともあれば、風習・慣わしという形で制度化されることもあります。これを論理で対抗することは大変な労苦が必要です。
 たまに外部からの衝撃があって、180度変化してしまうこともありますけどね。GURPSやTORGは黒船的衝撃を与えましたしね。
 
◆◆◆

 さて、問題の1つに明確な定義がないとのことなので、不肖この回転翼がTRPGの区分について1つ定義を提案しようと思います。

ジャンル:TRPGで取り扱う物語世界の全体像を区分したもの。
(ファンタジー、SF、現代伝奇物など)

カテゴリー:TRPGの特定ジャンル、あるいはジャンルを問わず、物語のテーゼを区分したもの。
(ライト、ダーク、コミカルなど)

レーベル:TRPGをデザインしている組織・集団によって区分したもの。レーベルが提起した遊び方が準拠される場合でも用いられている。
(グループSNE、F.E.A.Rなど)

ブランド:特定のデザイナーによって区分したもの。
(鈴吹太郎、井上純弌など)

スタイル:TRPGのジャンル、レーベルを問わず遊び方の方向性によって区分したもの。Charles Ryan氏のような区分法はあれど、明確な区分ができていない場合もある。
(パワープレイ、キャラクタープレイ、ストーリーテリングなど)

 こんなもんですかね。
 この定義でいけば、「F.E.A.Rレーベル」と云えばF.E.A.R社製品を総括した呼称になるし、その中に「鈴吹太郎ブランド」「井上純弌ブランド」と細分化され、さらに鈴吹太郎ブランドの中に『トーキョーN◎VA』、『ブレイド・オブ・アルカナ』と個体作品が細分化されることになります。
 なおかつ、『アルシャードff』、『ブレイド・オブ・アルカナ』、『アリアンロッドRPG』を並列することで「F.E.A.Rファンタジー」というジャンル呼称ができますし、これに他者のファンタジー作品を足して総体としてのファンタジーという呼称ができます。
 ハンドアウトやシーン制、PC枠と云ったF.E.A.R社が中心としているシナリオ運営技術を採用している作品を総じて「F.E.A.Rスタイル」と呼称することだってあります。おそらく、一番用いられているのはこの定義ではないでしょうか。

 細部に亘る定義は間に合わせのBlog記事では済まないでしょうし、曖昧な日本人の口には合わないかもしれません。だが、鵺のように曖昧なままで語られているF.E.A.Rゲーという存在をちょびっとは区分できたかと思います。


 ちなみに
タグ:TRPG F.E.A.R
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2007年02月11日

ルールにはないルール 〜TRPGの物語は敷居が高い〜

 紅茶檸檬さんとこのBlogで見たアライメント診断を受けた結果、僕はカオティック・イービルとのこと。薄々気付いていたけど、改めてお前はデモイックだと言われると妙に納得がいきます。確かに首ナイフ問題など、TRPG系Blogで悪と混沌を広めることに加担してるし。

 今日は「システムの簡略化はGMの負担を減らせるのか」というお話。

 TRPGは慢性的なGM不足です。
 これはGMがゲーム運営、裁量、シナリオ運営、プレイヤー間の仲介と仕事が多いこと、把握すべき情報量が非常に多いことなど、総合的に「敷居が高い」のが原因とされています。

 ならば簡単なシステムにすればいいのでしょうか。
 煩雑なデータ、再確認が容易ではない数値修正、時間と手間がかかる判定、面倒な計算、余計な記述箇所……そういったTRPGを「時間と手間がかかるもの」たらしめるものは、何かあるごとに生き字引のようにシステムを読み解くよう要求される分、プレイヤー以上にGMに負担のかかる存在です。

 そういったものを廃し、GMが一々ルールブックをプレイ中「再検索」することがないよう、憶えやすいスリムなものにすればきっとGMの負担は減り、その敷居は大きく下がるに違いない……。

 ほんとかしら。

 実の所、TRPGのルールは戦闘に使うルールが8割で、その前提としての判定システムを足せば一応用が足せるようにできています。元々はウォーゲームの派生なのだから、戦闘以外は雰囲気付けたる刺身のツマでも良かったわけで。

 だから戦闘をしなければTRPGはとってもシンプルなものになります。
 戦闘を楽しむために作られたゲームで戦闘しないで遊ぼうねというのは頓珍漢な話。だけど、TRPGはラノベ誌などからリプレイ小説を通して参入者を集めている経緯もあって、ファンタジーの語り部会ができる物語再現装置としての役割を期待して参加してくる人もいたわけです。そういう人たちにとって、TRPGはリプレイ小説のようにおしゃべりができることが第一であって、シミュレーションゲームの真似事をする気などさらさらありません。

 されど、無軌道な放談では彼らの期待する「物語」など脱線するばかりですから、次第にシナリオ運営技術が「ルールにはないルール」として育まれるようになりました。現在においてはF.E.A.R社のハンドハウトや『Aの魔法陣』の物語運営システムとして、「時間と手間がかかるもの」の中に組み込まれることがごく当たり前になっています。

 昔はTRPGにとって物語はおまけでした。
 だからシステムとしてはスカスカで、そこはルールなんかなく好きにお喋りしてればいいものでした。だけど、ラノベにしろゲームブックにしろ、ただのお喋りより1ランク上の「物語の精度」を求めるようになって、ただのお喋りが一転、アドベンチャーゲームばりのシナリオプロットとゲームブックばりの描写、ラノベばりのキャラクター、挙句は演劇ばりの演技まで貪欲に物語の裾野を広げたせいで、「ルールでないルール」であるシナリオ運営技術がどんどん必要になり、結局は「審判&ルールブックの生き字引」という従来のGMとは別のところで負担がかかるようになりました。
 
 要は、審判と生き字引としての努力が必要だったGMに、さらに吟遊詩人と議長の役目をプラスしたのが現在のGMということです。
 なるほど。敷居が高いわけです。

 結局、1ランク上のことを要求すれば自ずと技術が堆積して、気が付けば敷居の高いルールがまた出来上がるということなのでしょうか。

 戦闘が存在意義であるがために戦闘システムに偏重しているTRPGにおいて、戦闘が主体ではない遊び手が戦闘以外のスカスカで負担のかからないところで遊ぼうとした。だけど色々要求を高めていくうちに、物語も存在意義となって、物語が存在意義であるがために物語システムも戦闘システム同様の存在となった。
 
 もしTRPGがまた敷居を下げるべく、負担のかからないスカスカの新天地を見つけるとしたら、「戦闘をしない」というのと同様に「物語をしない」ということにも着手しなければならないのかもしれません。
 『Aの魔法陣』は物語作りをプレイヤーに委譲することですでにその道に入っていますが、物語の負担を大幅に削減するならば、いずれはシナリオ作成の意義がまったくないTRPGすら登場するかもしれません。  
タグ:TRPG
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2007年01月25日

ホビットがいかに小さいかを実感する

 今日はSVR2007発売日。だけどXBOX買うのを戸惑ってる僕がいます。
 今週加湿器を買ったものですから。今年はもう乾燥し過ぎ。

 新年早々TRPG業界は衰退しているのかなんて重たい話題が賑わっているので、僕はあえてそういう話題には踏み込まないことにします。こういう祭りだと煽ったもん勝ちになりそうですしね。

 今日はホビットの話。

 ファンタジーTRPGではエルフ、ドワーフ、ホビットが三大異種族として君臨しています。『D&D』がウォーゲームの背景として『指輪物語』を取り入れたのが事の始まりで、やがて指輪に影響を受けたアメリカ人が多く参入するに従って、ファンタジーの聖典としての指輪がファンタジーTRPGの「原作」となり、指輪をどこまで再現できるかがTRPGの商品価値みたいなものになっていきました。
 わざわざハーフリングと名前を変えてまで、指輪の主人公種族であるホビットを出さないわけにはいかなかった……。それくらい指輪の影響力は当時のアメリカには大だったようです。

 これに、『D&D』に影響を受けた『ウィザードリィ』によってノームが追加され、人間を含めたこの五大種族がファンタジーTRPGにおける定番種族となっていきました。

 さて、『D&D』誕生から今年で31年。
 TRPGゲーマー内における指輪物語への需要はどうなっているのでしょうか。
 こと日本においては、ファンタジーTRPGならば必ず指輪物語を踏襲しなければならないという状況ではないと思います。指輪は数あるファンタジーの1つでしかなく、むしろドラクエやFFのようなゲームメディアの方がファンタジーの「原作」として優先されているのかもしれません。
 あるいは、『ロードス島戦記』などのTRPG母体のファンタジー作品によって、今のTRPGゲーマーはエルフやドワーフといった存在を「元はファンタジー小説にあったものをゲームで再現している」とは思わず、始めからゲーム世界の設定として認知しているのかもしれません。

 もし、今のTRPG業界にとって指輪物語を踏襲する必要性は薄れていると仮定するならば、アニメ互換によって生き残れるエルフはともかく、ドワーフやホビットはファンタジーTRPGから消える運命にあるのではないかと僕は考えています。

 日本のファンタジーTRPGは美少女ゲームの影響が強くあります。
 エルフやドワーフと云った指輪種族の他にオリジナルの種族を作ろうと考えた場合、アメリカ人はハーフオーク、トロール、ゴライアスといったガタイのあり戦闘に有利なマッチョ種族ばかり考えます。
 多分、WWEの影響かも。

 だが、日本人がまず手を出すのがネコ耳、天使、自動人形。まず美少女キャラとして通用することが必須条件になります。TRPGデザイナー自体が美少女ゲーム業界との関わりが強いし、TRPGゲーマーと美少女ゲーム愛好者との互換性は高いだろうと踏まえてのデザインなのでしょう。
 
 そこのあなた。
 『戦国ランス』やりながらウチのBlog読まないように。
 こっちで上杉謙信といったら『戦国無双Empires』ですからね。闘争愉しんでます。池田重成とか田村清頼とか長続連とか、マイナー武将ばかりが僻地にいるばかりに最強キャラになるあのゲームです。
 ちなみに現実の上杉謙信にも女性説があるとのこと。

 話をホビットに戻します。
 前書きの説得力はともかく、僕の身の回りではホビットをやる人はとんと見かけなくなりました。『D&D』でも人間8割でたまに狙ってエルフとハーフオーク。ノームなんて、どこに行っても「ノームのPCやる人とは初めてですよ」と云われる始末。7割がた消えかかってる存在です。

 ホビットはノームと違って、不人気。
 2D6で1さんの記事ほど過激な拒否反応ではないにしろ、一様に「絡みづらい」と思われるふしがあります。ホビットそのものが、受け狙いの奇抜な行動と場を読まないお笑い芸人のような発言ばかりするルーニーな種族であるという認識が強くこびりついています。
 
 まとわりつかれるとこれほど迷惑な連中はいない。
 まるでヘタリア人のように……!
 
 伝統を重んじる身としてはこのままホビットが汚名まみれでTRPGから消えるのは忍びないわけで、なんとか日本のTRPGでも生き残れるようにしなければと考えるわけです。

 そんなわけで、考えたのが「エルフ的変化」とも云うべき、美少女ゲームに登場できるようホビットを再設定することです。
 そこで……、

 攻略キャラクターが全員ホビットのファンタジーAVG

 なんてのはどうかと思い立ったわけです。
 異種族ですから成人しても90cm。
 双子ありツンデレあり委員長あり。全員ホビット。
 
 ……すんまへん。バカです。
 いわゆるホビットと呼ばれる種族の平均身長は『D&D』や『パワープレイ』によれば約90cm、平均体重は約20sとのこと。実は身内に子供ができるまでこの大きさに実感が湧きませんでした。
 ……人間だと3歳児くらいなんだそうで。

 こりゃちちゃい娘だぞ萌えろとはいきませんな。
 ちなみに大きなお兄さんが喜ぶ10歳児の平均身長は文部科学省によれば140cm前後とのこと。そんなに伸びるもんなんですか。これではエルフの平均身長……『D&D』だと135cm〜165cm……と大して変わりがないではないか。

 ここで、いわゆるアニメやゲームに出てくる低身長美少女の身長はどのくらいあるのか、データがあるものを提示しましょう。

デ・ジ・キャラット(ブロッコリー社マスコット):143cm
芳乃さくら(『D.C.〜ダ・カーポ〜』):140cm
周防院奏(『乙女はお姉さまに恋してる』):140cm
イリヤスフィール・フォン・アインツベルン(『Fate/staynight』):133cm
美浜ちよ(『あずまんが大王』2年次):133cm
観月しおり・さおり(『はじめてのおるすばん』):133cm
エヴァンジェリン・A・K・マクダウェル(『ネギま!?』):130cm
高町なのは(『魔法少女リリカルなのは』とらハ3でのデータ):129p
鳴滝風香・史伽(『ネギま!?』):128cm
河合砂沙美(『魔法少女プリティサミー』):125cm
ミント=ブラマンシュ(『ギャラクシーエンジェル』):123cm
ホシノ・ルリ(『機動戦艦ナデシコ』):122cm
イリス・シャトーブリアン(『サクラ大戦4』次):121p
草鹿やちる(『BLEACH』):109cm
 
 ダメだ。
 みんなホビットとしてデカすぎる。
 あの剣八兄貴の肩乗り女房であるやちるですら、ホビットの成人男性より背が高いのです。

 やっぱり美少女化は無理か……?
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2007年01月22日

TRPGを楽しめるまでの5つの関門 〜欲求の複雑さのランク〜

 TBSのバラエティ番組『リンカーン』で、おぎやはぎの小木が子供向けの野外遊びを創作してメンバーで遊ぶというコーナーがありました。メンバーは全員ゲームなんか興味がないであろうおじさん芸人ばかりなんですけど、TRPGゲーマーとしても常に意識している「初心者にゲームを教える」という問題に対して結構いいサンプルになっています。

 主催者(TRPGでいうGM)の小木は綿密なルール説明など考えておらず、勢いで「○○ゲームだ」と引きずり込む人なもんですから、メンバーは最初「何をしていいのか分からない」と小木につっこむだけなんです。けど、試行錯誤していくうちに「何が楽しいのか」というのがつかめてくるにつれて、最後はそこそこ楽しいものになっていくのが今までの大まかな展開です。

 そもそもリンカーン自体が、芸人が好き勝手に思いついた企画を見切り発車で行う番組ですから、旅行や食べ物番組みたいに期待感あふれる顔した芸人など1人もおらず、むしろ「こんな屋外に連れ出して何やるんだ」と怪訝そうな顔する人ばかりです。

 そもそもゲームは食べ物や旅行という原始的欲求を満たすものよりも1ランク複雑な「遊ぶ」「楽しむ」欲求を満たす活動ですし、「腕比べをする」「みんなで楽しい思いを共有する」というさらに難しい欲求を満たすべく複雑な遊び方を規定するものです。
 
 TRPGは物語世界を体感し創作し、仲間と共有するという難度の高い欲求を満たす効用が多いものですから、システムだけでなく遊び手の技量・創作意欲・面白さも加味しなければ十分に楽しめない仕組みをしています。
 では完成度の高いシステムと熟練のGMがいればTRPGは誰でも自然に楽しめるものかと云えばそうでもありません。TRPGが提供できる複雑な欲求を理解し、それを求めることができるモチベーションが受ける側になければなりません。

 それは食べたりくつろいだりすることよりも複雑な心境を要する要求であり、原始的な生活より一歩も二歩もはみ出した思考をさせなければ到底そこまで欲求がたどりつけるものではないです。
 TRPGの場合、

1:ゲームを楽しむ行為の楽しさ
2:ソリティア(1人遊び)ではないパーティゲームを楽しむ行為の楽しさ
3:イベント形式のオフラインゲームを楽しむ行為の楽しさ
4:TRPGを楽しむ行為の楽しさ
5:TRPGの1作品を楽しむ行為の楽しさ

 の5つのモチベーションすべてが満たされていないと満足に遊べないゲームだということです。いわゆるTRPGゲーマーといえども5まで達している人ばかりでもありません。TRPGなら不特定で楽しめるが、他の人を楽しませるほどの「芸」など持っておらず、与えられたTRPGを受け取るだけのファンに過ぎないという4止まりの人の方が多数でしょう。

 それで、欲求のランクが低い人が高い欲求を満たすべく用意された場に置かれるとどういう心境になるのか……。該当者は場に満たされた高い欲求を把握しようと思考をはじめ、その行為に強いストレスを感じます。強いストレスを感じれば人は好奇心よりも警戒心を抱くものです。
 それがリンカーンでの小木のゲームに、芸人たちが怪訝そうな顔をする理由なのでしょう。彼らは小木の企画に欲求を感じるまでの間、ずっとストレスを発散させていたのです。そして欲求が理解できることでストレスが快感に変化し、ゲームを楽しめたというわけです。

 TRPGの場合、ルールブックは大抵が3まで欲求が達している人を前提に、まず数あるオフラインゲームの中でTRPGをする楽しみを説明することから始めています。TRPGの教本の場合でも2までは達している……アナログゲームをやりたいという人以上を前提にしています。
 
 理想的には1未満、まったくゲームに興味がない人から教えられるのがいいんですけど、そこまでモチベーションがない人がかかるアンテナともなるとテレビCMのようなサブリミナル効果がある威力の高いメディアがない限り難しいかと思います。
 
 逆に、欲求のランクが高い人が低い人と同席するのにも、理解するのと同様に理解させることにストレスを感じるものです。なんでこいつは燃えないんだ、なんで欲求を感じないのだ、不能者なのか、バカなのかと秀才らしいストレスを感じるわけです。
 TRPG業界の中でも、特定のTRPG作品に深く入れ込み、その特定作品を普及させ啓蒙することに燃えている欲求ランク5の人が、作品を問わずTRPGというゲームを楽しめれば満足というランク4の人に憤ることはままあります。さらに混成コンベンションともなると、TRPGでなくともボードゲームやミニチュアウォーゲーム、TCGでも楽しめればいいという人だっているわけです。

 そんな環境にいちいち憤ってては神経すり減らし、ストレスで病気になるのは間違いありません。僕自身、そうしてリタイアしたゲーマーを知っているので他人事ではありません。
 
 まず人が抱える欲求には段階というものがあり、それはその人のストレス次第でバイオリズムのように可動するものであることを肌で覚えることが、多様な欲求にストレスを感じないようにするために肝要なことだと思います。
 
 流行と伝統とが交差し、革新的な新しい作品と古き良き作品とが両立するTRPGという業界で10年20年と長くゲーマーを続けるには、高邁な理想よりも変化に対応できるねばり強さが必要です。

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2006年12月21日

無用の用だってあるさ

 師走とくれば大掃除なわけで、忘年会シーズンに備えて12月前半は大掃除に忙殺されます。特に実家の大掃除は屋根の掃除から庭のコニファーの選定まで多岐にわたります。
 それにしてもコニファー……それも最もポピュラーで、最大10mは達するゴールドクレスト……は半年で50cmも伸びるんもんですから、人気だとか見た目とかで安易に選んでは後で後悔するぞということです。

 ……などと月曜夜に書いていたらSeesaaがメンテナンスで時間切れ。
 しかも翌日は屋根に上ってデッキブラシで苔落とし。

 こんなことだと頭ん中が真っ白になります。
 だから今日は方向性まったくなし。

 『アリアンロッドRPGアイテムガイド』を購入。
 嗚呼。なんだかんだ云って、今年はD&Dとアリアンばかりの年でした。
 こういう装備品ガイドが出るってのは嬉しい。装備品ってのはデータの中でも分かりやすい項目だから、そんなにヘビーじゃないゲーマー(僕。持ち込みGM経験なし)にもありがたいものです。
 
 実の所、PCを強化する手段として特技・技能で強化するか装備で強化するかとなると、僕は断然装備の方を支持します。
 特技・技能は組み合わせによって効果が倍増するもののあれば、シナリオ次第によってはまったく使い道がなくなったり……内陸しか舞台に選ばないGMのもとでドレッド・パイレートをプレイするとか……して、その選択には十分な研究が必要なものです。

 第一、アリアンロッドのスキルは大抵カタカナだし、説明も2〜3行なのでイメージつきづらく実感に乏しい。ROの影響なんでしょうけど、これでは「自分の遊びたいキャラクター像を投影できるように作る」というキャラ作成動機が湧きません。ロールプレイで使用したいってほど面白味が湧かないわけで、それなら数値修正的に最善手を選んだ方が無難に活躍できるぞ、と。

 特技・スキルをただの強化、数値修正だと思えばそんなこと特に問題ないんですけど、僕の場合、『GURPS』や『蓬莱学園の冒険!』や『PENDRAGON』といった、キャラの性格がキャラ作成の仕方によってプレイヤー本人の気質などお構いなしに出来上がっちゃうゲームが好みでして、自分の「素」とは違う異質なキャラをロールプレイするのが楽しいわけです。
 だからキャラクターがTCGのデッキを紙面に表記した程度の役割しかないのなら、TCGの方がメリハリがあって楽しいんじゃないのかなと思ってしまうのです。

 アリアンロッドの場合でも、数値修正だけ考えていればいいかもしれないって思うんですけど、やはり何らかしら「遊び」もほしいわけでして、そのために真っ先に「ダンサーやらせてくれ」と僕らしくないわがままを要求してしまいました。そのおかげで楽しめたし、長続きしました。
 ただ戦闘で最善手が打てるだけのキャラ作ってたら2、3回で飽きていたかもしれません。

 TRPGには勝敗があるかないかなんて論は昔からありますけど、TRPGは「勝ちにいく」よりも「遊びにいく」ことの方が大事なんだと僕は思います。
 TCGと違って最善手に多様性がない……ウォーゲーム以来の特徴なのだが、ウォーゲームは題材となる戦争を模擬するのが目的だから、至上のシミュレーション結果としての最善手が凛然と存在し、プレイヤーはそれを目指して鎬を削る……わけだから、勝ちにいこうとするなら誰がやろうと和マンチキャラで画一化されて当然だし、それならキャラ作成なんかなくてもテンプレートのみでいいんじゃないでしょうか。

 ウォーゲームはウォーゲームで割り切って、後はキャラなんか放っておいてプレイヤー同士シナリオを肴におしゃべりしてればいいやという人もいるでしょうけど、僕はそういうのは性に合わない。
 キャラクターという玩具で遊んでないと飽きっぽくなるという点で、僕はTRPGで「遊びにいってる」人なんだなと思います。
 
 ……ああ。そういえばROで遊んでた頃も中途半端な能力値振り分け(TRPG出身なだけに人間としての平均以下は気が引ける)をして、何かと苦労をした……VIT27のハンター作って、「アコを作るのだけはやめとけ。向かんwww」なんて云われた……もんです。

 ……作ったよ。思いっきりINTアコをね。
 おかげで万死に値するっいうか万死して迷惑かけまくりでしたよ。

 
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2006年12月12日

まじないとしてのリプレイ本渡し 〜本当にリプレイ本を渡すべき相手〜

 TRPGのゲーマーは、TRPGに興味を持った素人にリプレイ本を渡す風習があります。これは「どうかTRPGに興味を持って、コンベンションに参加してくれますように」との願いをかけたおまじないの意味があります。

 本来、リプレイ本を渡すのは相手に「私はただのファンであって、君に技術や醍醐味を伝授できるエキスパートではない」という意思表示をするための社交辞令でした。
 これは音楽やスポーツなど、プロの活動家と素人のファンが分離している業界では共通した行動と云えます。音楽が好きだという人が知人から音楽の魅力を教えてくれと聞かれたとき、CDを渡すか楽器を持ち出すかの違いと似ているかもしれません。TRPGの場合、ほぼ99%のゲーマーがアマチュアながら、その専門知識の多さから技術指導・普及に熱心なエキスパートと、一消費者として気ままに遊ぶことを望むファンとゲーマーが分離しています。

 だが、社交辞令というのはしばしば換骨奪胎がおこるものでして、中身に込められた意味が忘却されながら、形式のみが無意味に行われることがあります。

 かつてはリプレイが契機となってTRPGに参入してくる人もいました。
 それはリプレイが80年代の発明品であり、当時RPGそのものの情報が、『コンプティーク』などのゲーム総合情報誌や、『ドラゴンマガジン』などのラノベ誌による雑誌メディアに限定されていたことが背景にあります。総合誌にリプレイが掲載されれば、情報量の少ない時代、読んで興味をもってくれる人も結構いました。
 リプレイがTRPGの勧誘に役立つというのはこの時代に培われた常識感覚です。

 総合情報誌への売り込みは功を奏して、多くの新規参入者を得ることになりましたが、それは同時にシミュレーションゲーム上がりの旧来愛好者たちがコンシューマーやライトノベルと云った異種の文化に晒されることを意味しました。彼らはこの異世界から参入者を招いたアストラルゲートと呼ぶべきリプレイの威力に惑わされていきます。
 リプレイ本自体が読み物として面白かったこともあり、TRPGゲーマーたちはリプレイ本がTRPGの入門書なのかライトノベルの一種なのか冷静に見極めることができなくなり、その時点で本来の意味が忘れ去られました。本来なら自分の指導でTRPGの魅力を教えられるエキスパートですら、リプレイ本を渡すことがTRPGの魅力を伝えることができると思うようになったのです。
 
 そして、いつしか「リプレイの読み物としての面白さ」が、「TRPGというゲームへの伝道と指導に役立つ」というよく考えれば結びつかない2つの要素がゲーマーの間では結びつくという、ある意味お花・的な思考が定着するに至りました。

 かくして、リプレイ本を渡すという行動はTRPGの普及のために役立つ神聖な行為として讃えられるようになりました。書店のライトノベルコーナーにリプレイ本があると、あたかもTRPG業界の健在ぶりが誇示されているかのように嬉しさを感じます。そして、リプレイ本を買う人はいずれもTRPG愛好家ならびに予備軍として集会に足を運ぶ人たちであろうと思い込んでいます。

 このBlogはラノベ好きの方々も見ていらっしゃると思いますのでお知らせしますが、もしあなたが書店でリプレイ本を手にした時、近くに心の中でガッツポーズをしているような人を見かけたら、その人はTRPGゲーマーです。あなたがTRPGゲーマーではないことを知ったら鬱で卒倒するでしょうから、訳知り顔をしてやり過ごすことをお勧めします。

◆◆◆

 さて、ここで冒頭の一節を読み返してください。
 この一節は明らかに矛盾しています。

 「TRPGに興味を持ってくれますように」という願いを篭めてリプレイ本を渡していますが、渡している相手は「すでにTRPGに興味を持っている」人なのです。実はTRPGゲーマーがリプレイ本を渡すときは、ほとんどがTRPGに興味を抱いた人への返答としての行動なのです。
 
 もうすでに興味を持ってくれてるんだから、ルールブックやダイスを見せ、できるならプレイに誘って教えてもいい段階です。
 確かにリプレイはTRPGの存在を世に知らしめ、人々に興味を持ってもらうようにする役割は十分あります。だが、それはリプレイを書いて出版するプロの役割です。
 アマチュアであり、TRPGの現場に立つ市井のゲーマーがやるべきことは、興味を持ってその道の人を尋ねてきた人たちを現場に誘い、TRPGの楽しさを実地で教えることにあります。

 そういうことを理解せず、ただリプレイを渡すことがTRPGの普及に役立つとお思いの方、そう主張する方々……僕はあなたがたのTRPGへの情熱は大いに賞賛するべきだと思います。
 だが、少し間違っています。

 あなたがたがリプレイ本を渡すべきなのは、TRPGに興味を持ってあなたを尋ねてきた、同心円の縁(ヘリ)にいる人たちではなくて、その外にいるTRPGの存在を知らない人たちなのです。

 TRPGの同心円の外を見渡して、リプレイ本がどのような扱いを受けているかもう一度注視する必要があるんじゃないですか? 書店でリプレイ本を手に取る人がTRPGゲーマー予備軍なのか、ただのラノベ愛好者なのかよくよく見極めなくてはなりません。

 今までリプレイ本のおまじないは効いて当然でした。
 端から興味のある人に興味が湧くようにおまじないしているのだから。
 もし効かなかったとしたら、それはTRPGの実体を教えなかった渡し人本人の怠惰に幻滅されただけのこと。

 本当にTRPGの普及に情熱を持っているならば、ここは興味を持ってくれるかどうか分からない、思わず祈りたくなるほどTRPGに縁のなかった人にこそ、願いを篭めてリプレイ本を渡すべきです。

 まず手始めに、自分の趣味において最も理解がほしい相手であり、なおかつTRPGについて絶望的に興味がないであろう、あなたの親にリプレイ本を渡してみてはいかがでしょうか。

 ゲーマー諸君、リプレイ本を親に渡すべし。

◆◆◆

 ちなみに、リプレイ本が初心者の教本として役立つなんて意見はまったくのデタラメです。つーか、誰が主張しようとも、いざプレイとなればリプレイ本が持ち出される機会なんてほとんどありません。せいぜい、リプレイと同じ舞台でGMが街の光景をリプレイ本朗読して知らせる程度で、それすら該当する一節を探し出して朗読するよりは、適当に憶えて自分の口で言い直す方を選びます。

 なにより、プレイが終わって無事新規参入者がTRPGゲーマーになったとしても、「リプレイがあったこそこの出会いがあった。ありがとうリプレイさん」とリプレイ本に感謝するゲーマーなんていやしません。
 大抵が自分の教え方が良かったと思いますから。

 だから「おまじない」なの。
 受験や就職で成功して、散々願をかけた神社仏閣にお礼参りをする人ですか? 
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2006年12月09日

人それぞれ、それぞれの人 〜TRPGは何をもって個々の違いを示しているか〜

 皆様、大変長らくお待たせいたしました。
 ようやく熱も37度を下回り、なんとか活動を再開できる環境になりました。12月ですので忙しいのは当然でまだまだ本調子ではないですけど、なんとか以前のペースでやっていきたいので、よろしくお願いします。

◆◆◆

 「TRPGの楽しみ方は人それぞれ」
 よく聞く言葉です。
 その言葉の中身をいったいどれだけの人が考えたのか、さっぱり見えてこない言葉でもあります。大抵、大した意味などなく用いられているんでしょうけど、そんな言葉だからこそ無意識の感覚が篭められているのでしょう。
 今日はなんでTRPGは人それぞれなのか考えてみます。

 TRPGってのは他のゲームのように心の住み分けがうまくいかないゲームだから、よく遊び方に対する姿勢で揉めます。この「心の住み分け」ってのは、例えばボードゲームでも読みや駆け引きが重要なゲーム、資源管理・運営が重要なゲーム、運の強さが重要なゲームと色々あります。そうした多種多様なゲームの存在を認めることが「心の住み分け」です。
 簡単に云えば「ボードゲームって色々あるよね」ってこと。
 ボードゲームなら、『プエルトリコ』と『サンファン』は同じ舞台を使いながら、前者はシミュレーションらしく高い戦略眼が要求され、後者はカードゲームらしく素早くコンボを固める判断力が要求される、まったく異種のゲームであることを意識しなければなりません。
 
 ところが、TRPGの場合はボードゲームほど多種多様な遊び方をしないものです。物語の再現というメディア要素が強いTRPGは、ゲームシステムの多様性以前に、TRPGで再現できる物語に多様性が求められてきました。似たようなシステムで似たような遊び方をしようが、扱う物語が多種多様ならばそれで十分事足りたのです。
 それ故、ゲームシステムとしてのTRPGに関しては他のゲームほど区別を意識する必要はありませんでした。
 言ってしまえば、「どんなゲームだろうと、TRPGはTRPGだ」「どんなTRPGも根っこは同じだ」ということです。システムの違いによるゲーム性の違いに対して、TRPGゲーマーは驚くほど無頓着です。
 どうせどんなTRPGも、普段と同じようにプレイしてりゃ〜間違いないだろうにと、大抵の人は思ってプレイします。

 そして、よく間違えます。
 TRPGはゲームで遊び方の違いが見分けられないもんなのです。
 
 こういう普段の感覚でやったら失敗したとしても、「ああ、これは違う性質のゲームなのだな」と思うのが他のゲームでしょうが、システムの差異に無頓着なTRPGの場合、「ああ、これはGMの嗜好が僕とは違うのだな」という方向に行きます。
 すなわち、「ゲームが合わなかった」ではなく、「遊び相手と合わなかった」という発想をするということです。間違いないと思ってたのが間違っていて、それでゲームの違いなんか意識していないとしたら、残りは遊び手の違いでしか違いを区別することができないでしょう。
 
 言い換えれば、「遊び手の相性が合えば、どんなゲームも同じように遊べる」のがTRPGだと云うことです。システムよりも扱う物語の性質で違いを判別してきたTRPGゲーマーにとって、物語の実務を担当するGMこそが多様性を生み出す差異であると認識しているのです。
 同じシナリオを扱ったとて、GMが違えばまったく違うセッションが楽しめる。あるいはGMが同じでもプレイヤーが1人違えば……。いや、遊ぶ相手も同じでも……。
 
 人それぞれに違うゲームが味わえる。
 そのことにTRPGゲーマーは何ら不思議を感じません。
 素晴らしいこととさえ思っています。
 「同じシナリオなんだから、全国津々浦々どこの誰がやってもある程度のパターンしか遊び方なんか生まれない」なんて誰も考えません。

 確かに素晴らしい発想ではあるんですけど、それは一方で「遊び手の経験こそがTRPGのすべてなんだよ」と言っているようなものです。それですら、TRPGは遊び手自身の資質向上に役立っているとかポジティブな見方もできますけど、穿ってしまえば「経験がなければ誰とも分かり合えず、何も理解できない世界」とも云えます。

 素晴らしき人それぞれの世界。
 人ができていなければ同じ趣味を持つ資格がないのです。
 人が合わなければ、同じゲームの愛好家であっても理解し合える要素なんかどこにもないのです。あいつは異星人だったと喧嘩別れするしかないのです。
 それくらい、この世界では人それぞれの経験が重視される世界ですし、人それぞれの経験に揺るぎない自信を持っている世界だと云えます。
 この世界では「人それぞれ」という言葉は、「人それぞれなんだから、お互い妥協しようよ」という意味ではありません。「人それぞれなんだから、もう距離を置くしかないじゃないか」という意味です。なぜなら、人それぞれに妥協できる点がないほど違う経験が備わっており、それはゲームの多様性を引き出すには欠かせない要素であり不可欠とされているから……。

 実際にはそんなことないのに。

 僕は、「TRPGは人それぞれ」という言葉を聞くたびになんか不気味な感覚を感じていたんですけど、この言葉の裏にある「それぞれの人が分からなきゃ、TRPGは分かり合えない」ことを意味しているようで、そこに怖さを感じたんです。
 一昔前、TRPG系Blogでも問題児告発がちょこっと盛んになってだいぶ気に病んだことがありました。なにしろ僕がそのはしりでしたし。
 肝心なのは、そこから何を学び、どう自分を克服していったかでしょう。言いたいことだけ云って、ああ気が済んだとBlogを畳まれては残ってBlogを続ける身としてこれほど迷惑なことはないです。
 他人をコキ下ろすなら、返す刃で自分もコキ下ろされることをTRPG系Blog書きの人は忘れてはなりません。日本の問題ゲーマー四天王の1人に君臨する(かもしれない)僕が云うのだから間違いないです。
 下手にBlogで告発しても、結果は黙ってりゃいいのにという評価しか返ってこないことの方が多いもんです。

 そりゃTRPGとて人付き合いだから、何かと気に喰わないことはあります。
 だけど、そんなんは一声お説教したら許せる範囲のもんです。徹底的に分かり合えないってほどのものではありません。
 そんな完全無欠な経験を積んだゲーマーなんかいやしませんて。

 「人それぞれ」ってのはやはり尊重し合おうという意味の方が健康的でよろしいと思います。もう譲れない一線超えたから距離を起きましょうなんて、なんともさみしいじゃないですか。たかがその人間のちっぽけな欠片でしかない論と論との諍いでさ。

 前々回紹介したプレイヤー診断が結構流行ったようですけど、たぶんほとんどの人が「こんな診断なんかで俺様の経験は測れやしまい」と思っているでしょう。診断結果を公表したBlogを廻って、自分では一番数値が低かった要素が一番の人と出くわし、はたしてこの人と同じTRPGで楽しんでいけるのだろうかと考えるまでに至ったでしょうか。
 
 実際には問題なく遊べても、意識的には無理です。

 やっぱりゲームの遊び方を「人」によって分別するやり方はあまり好きではありませんね。それが厳密になれば、絶対的に分かりあえないものってができてしまうのではないでしょうか。
 そのためにも、少しはゲームによって遊び方の違いが出てきてもいいんですけど。


 
posted by 回転翼 at 14:58 | TrackBack(0) | TRPG雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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