今日でSeesaa移籍後100回目のTRPG
コラムです。
でもまとまりきらなかったので今日は雑感のみ。
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現実の馬に感動するために、人はまず一角獣に会う必要がある。
―――J・R・R・トールキン
トールキンの
ファンタジー観を表した言葉として秀逸な一言です。
僕なりに解釈すれば、一角獣はまだ見ぬこの世、あるいは隣りの異世界にある不思議の象徴であり、不思議に対する好奇心を抱いてこそ、現実世界こそが不思議が満ち溢れている場であることを知る……これこそがファンタジーなのだと思います。
このトールキンの言葉に対して、蓬莱学園の
デザイナー・柳川房彦(新城カズマ)はこのような注釈をつけています。
一角獣に出会うためにも、現実の馬の習性を知っておいて損はない。
―――柳川房彦
彼の云う「馬の習性」は「知」のことでしょう。
おそらく、この言葉は「不思議は知によって解明されるべき」という意味があるのでしょう。トールキンの言葉は不思議への好奇心が肯定されていますが、柳川氏からすれば不思議は無知蒙昧な原始的情緒であり、知による啓蒙の方こそ価値があるという意味に取れます。
柳川氏は自著『プロの発想法で作る! ゲームキャラクター』(BNN)の冒頭でこの2つの言葉を並べています。僕の解釈が的を得ていたなら、柳川氏はファンタジーの御大たるトールキンに挑発的な意趣返しをしたことになるかもしれません。
もちろん、柳川氏の言葉にもさらに意趣返しは続けることはできます。
彼が必要性を説く「馬の習性」とは迷信・蒙昧を振り払う知の光ですが、その反面「固定観念」「常識」を持ってしまうことにもつながります。その常識から一角獣という不思議を見たとして、はたして知による解明は起こりえるでしょうか。
もし知が常識であるならば、彼は一角獣を「馬ならざるもの」として見るでしょう。常識の該当しない存在に不安を感じ、これは
モンスターであると断ずるでしょう。無知蒙昧からなる迷信もあれば、常識を持ったがばかりに思考停止するという危険もあります。
トールキンの目を通して無知蒙昧になるか。
柳川房彦の目を通して思考停止になるか。
どちらを価値ありとみなすかは人それぞれです。
ライトノベルの歴史的変遷は伝達でしか知りませんけど、どうも80年代に隆盛したファンタジーが翳りを見せ、いわゆるセカイ系が一時期隆盛し、現在はその爛熟期にあるようです。
僕が思うに、このセカイ系の世界観は柳川氏の言葉にこそ象徴されています。セカイ系はファンタジーを知でもって解明しようと試みた挑戦的な小説なのかもしれないからです。
セカイ系の主人公は全能的な力を以て世界を俯瞰できる立場にいます。セカイ系小説は主人公の内面的な思考がダイレクトに世界を構成しており、彼の葛藤が
ドラマとしての闘争としてメインに据えられています。
すなわち、セカイ系の主人公は不思議を不思議と自然に捉えることができません。全能的な力を自覚しているがあまり、彼の価値観ではこの世界に「どうすることもできない」ことなどないはずだが、彼が信じる世界には彼の思考を越えたことばかりだという不安も抱えています。人類を皆殺しにできる力がありながら、親の心すら察することができない……。
そうして葛藤していく主人公が、最後は近親者を通して社会というものを知り、自己を克服することで救済されていく……これがいわゆるセカイ系と呼ばれるものの大雑把な姿でしょう。
セカイ系の主人公は知の啓発による自己の救済にこそ重きをおいていますが、その反面思考停止により自己をモンスターと見る危険を抱えています。セカイ系小説は90年代の自意識過剰な価値観の象徴とされているのも頷けます。
セカイ系によってファンタジーが衰退したのは、世界の不思議を好意的に受け入れるトールキンの好奇心が無知蒙昧だと否定されたのが原因なのかもしれません。ヲタク的な衒学志向によって、この世の姿に象罔(形なきぼんやりとしたもの)としたものがなくなったと意識するようになったのです。
おそらく、セカイ系は実の所読者の自意識をくすぐらせ、読者にセカイ系主人公よりも完全たる知の姿を垣間見させる……読めばなんか俺って賢くね? って意識を芽生えさせる所に魅力があるかもしれません。
そう考えると、美少女主義というのも柳川的発想による自我の克服がもたらした言葉なのかもしれません。この場合、一角獣が麗しき幻想の姫君に変化し……、
現実の少女に感動するために、人はまず姫に会う必要がある。
姫に出会うためにも、現実の少女の習性を知っておいて損はない。
となります。
美少女主義は柳川氏の言葉に従って、幻想の姫君に現実世界の少
女たちの姿を当てはめて、外見上の特徴(メイドとか猫耳とか)や内面的特長(ツンデレとか)……すなわち属性とよぱれる尺度でよって幻想の姫君をリアルに解明しようという働きがあるのかもしれません。
これによって、萌え者は自分こそが姫君の魅力を知りえる存在なのだと自意識をくすぐられるのです。
んで、このセカイ系も爛熟期に差し掛かってきたとのことです。
結局、セカイ系に惹かれた
エヴァンゲリオン世代も40近くに差し掛かり、そろそろ「人生なんかこんなもんだった」と不惑の時期に入っているからなのでしょう。彼らにとって解明されたセカイはあまり魅力的なものではありませんでした。
セカイ系はこの世代の老化に伴い、爛熟期から否定期に入り、しばらくは潜伏するものと思われます。
今年話題になったラノベと云えば涼宮ハルヒですが、僕はこのハルヒが柳川的世界観に対するトールキンの逆襲であると見ています。
ハルヒの面白い所は、全能的立場にいるはずのハルヒが世界の俯瞰者としての立場を放棄し、この世界は不思議に満ちていると標榜していることです。そして世界の俯瞰者にしてセカイ系主人公の継承者であるキョンをあれこれ不思議に引きずり出そうとするのです。
現実世界に冷笑的で、その陳腐さに鬱屈しているキョンの姿は、かつて思考すればこの世の姿が解明できると信じたポスト・エヴァンゲリオン世代の成れの果てでしょう。そんなキョンに宇宙人や未来人がいればいいのにとキョンの解明したセカイをブチ壊す異端児・ハルヒは失われた一角獣を探すトールキン・ファンタジーの申し子のように僕には見えてきます。
だからこそ、美少女主義の中で「何をしでかすかわからない」涼宮ハルヒというキャラは異彩を放っているのでしょう。