2009年05月10日

コンベンションに行くのが億劫だって人は行かないのが正解

 ネット開闢以前からTRPGコンベンションの荒んだ話は絶えることなく語られ続けています。どこどこのサークルは男女問題で揉めている、どこどこのコンベンションには極めつけの問題児がいる、そもそもTRPG界隈にはコミュニケーションの欠陥が著しい、エトセトラエトセトラ…。
 
 結局は「だからTRPGコンベンションやサークルは危険だ」という結論に達するのが流れですけど、かつては井上純弌などプロが率先してやっていたことだし、今でも歴戦のゲーマーが得意気に語ることなど別に珍しいことではありません。
 
 実際、たかだかゲームの集まりにそこまで人間関係こだわってるのって本人もかなり粘着質だってのに、言質を裏返せばそんな荒んだ界隈で舵取りをしている自分はなんてタフなんだという自慢があるわけで、ある種の武勇伝になっている所があります。

 だからコンベンションの荒んだ話など話半分、語り手も粘着なんだしあんまり気にすることはないと言っておきます。ただ、ブロガーとしては荒んだ話はホント注目が集まりやすい。ネタに困るとつい釣り糸を垂らしてしまうのです。

 そもそも、そんなに危険なら「まともな神経をした者の来る所じゃない」「TRPGをしなかった君たちは賢明である」と結論するのが良心ではないでしょうか。どんな荒んだ話を連発する粘着でも、いくら警告しても来るやつは来るんだし、どうせ来るなら面の厚い奴の方が好ましい、そもそも大事なねぐらをよく分かっちゃいねぇ素人に荒らされちゃ居心地が悪いから適当に悪評撒いて擬装せねばという読者への「信頼」が根底にあります。
 正直、心底TRPGに幻滅し、1人でも多くTRPGから離れるよう心から願っている人間などそうそういるもんじゃありません。粘着すれば注目引くし、ぶっちゃけ話は誰にとってもスッキリするもので、大抵はその程度のもんです。

 さて、僕もTRPGの荒んだ話でBlog活動してます。
 僕も所詮は武勇伝を垂れたい粘着ですけど、誰を挑発し誰を擁護するかは選んで垂れたいと思っている粘着です。そんな僕がBlog読者に対し、コンベンションはどんな所かと聞かれますと…、

 断じて行くべきではありません。
 コンベンションに来ないことはあなたにとって最良の選択です。

 専門誌で興味ある連中相手にやってたのとでは、時代も環境も違うのです。ネットではTRPGは多くある趣味の1つに過ぎないし、読者だってTRPGに積極的に関わっている人たちばかりではない。
 穿ってしまえば、武勇伝をマヂ信じてる情報弱者なり、人前に出るのが怖い引きこもり性質の人なりがいて、それよりずっと多数派として単に休日にコンベンションに出向くこと自体が億劫でHPが足りずに休養するしかないって人ばかりがネットにたむろして、TRPGコンベンションの荒んだ話を聞いて溜飲を下げてるってのが現実じゃないんですか?

 それはどこの趣味でも不変の現実。
 「外に向かう言葉を放とう」と宣言するのはたやすいが、業界の動向にアンテナを張ってくれる人の多くが「何だかんだ理由をつけて参加しない“興味だけ”の人」である現実を趣味文化の伝道者は見失ってはならないと思います。
 そして、その現実を前に「積極的に伝道している自分たちはエリートだ」と思い上がる趣味文化は伝道者が燃え尽きることによって滅ぶのではないでしょうか。

 コンベンションにネガティヴな発言するのは悪影響与えると危惧する良心家が出ることは分かっています。ただコンベンションは楽しいものだ、素晴らしいものだと一面だけを取り上げようとしても、光と影の何たらか、荒んだ話が絶えることはないでしょうし、情報に踊らされる人はまだコンベンションで楽しむには早すぎます。

 分かっちゃいない人たちの緩やかな黙認は、伝道師の熱弁に勝る効力があると僕は信じています。だからコンベンションに行くのが億劫な人たちを擁護したい。気力がない人、自信がない人は参加する必要ありません。黙認し、居場所を確保していただければ十分です。

 少なくとも、僕自身はただ自分がタフであることを自慢したいがためだけに荒んだ話をしているつもりはありません。そういう連中が増殖して荒んだ話の価値が下落するのはご免ですから、できれば潰しておきたいとは思っています。
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2009年05月05日

過去の思い出話でしかTRPGはアンテナを張ってもらえないのか

 
 TRPG Innovation 2009に参加してきました。
 22卓120名という久しぶりの大型コンベンション。会場の江東区文化センターもとても便利な施設で、ユニークなGMさんのもと心置きなく楽しんできました。

 何がプレイできるか分からなかったので何作か鞄に入れて来場したのですが、『スターオーシャンTRPG』なのに『スターレジェンドTRPG』を持っていってしまったのはご愛嬌。
 でも今回のコンベンションはすべてが2000年以降に新発売もしくは改訂されたゲームで占められ、半数近くが去年から先月にかけて登場した新作・改訂版ゲームでした。『ソード・ワールドRPG』がもう発売20周年ですけど、20年…いや、10年前に出ていたTRPG作品もほとんどが改訂もしくは後継ゲームによって作品としての使命を終えているのだと痛感しました。
 20年前も、そして未来もオンリーワンであり続けるであろう『クトゥルフ神話TRPG』を抜かして、第1版から数えても10年に満たない若いTRPGだけのコンベンンションに120名ものプレイヤーが集うという現状は、TRPGは未だ若さがある趣味文化だと見ていいのか最近思う所があるのですよ。

 はたして120名は多いのか。それともショボイのか…。

 去年ガイギャックスが亡くなり、先月にはアーンソンが後を追って、TRPGは1つの時代を終えました。それで、彼らの訃報記事に連なるはてなブックマークなどを見ても、TRPG関連を抜かしたネットのユーザーコミュニティは2ちゃんにしろはてなにしろ、2000年以前のまま時が止まっている人たちの声がとても多く、なんとか現役にしがみついている僕としては寂しくもあり、孤独を感じるのですよ。

 TRPGを過ぎ去りし思い出として言及した彼らにとって、彼らが知りもしなかったゲームで120名ものゲーマーが楽しんでいるという現状は彼らの認識を改めるだけのアピールになるのか…。
 それとも、もう見向くこともないであろう「残滓」でしかなのでしょうか…。

 彼らが回顧する古きTRPGの時代こそが現なのか…。
 それも新世代のゲームに興じる100人以上のリアルこそが現なのか…。

 僕は現役のTRPG者であると同時に、TRPG系ブロガーとして彼らネット住人相手の活動もしています。現場とネットとでTRPGに携わる人たちの世代が分かれ、両者の認識が決定的に断絶しているとするならば、その間で活動している僕は一体どちら寄りにすればよろしいのでしょうか。

 現場で楽しんでいるがままに、新しいデザインによる新しいゲームを軸にコラムを書き続けても、古き時代のゲームへの思い出でしかアンテナを張っていないネット住人の注目は集まりません。
 逆に10年以上前の思い出を軸にコラムを書いてても、現役ゲーマーとしての現在の自分との乖離は間違いなく起こります。正直な所、「昔TRPGはこんなに荒んでいたぜヒャッハー!」なんて武勇伝を1つかましゃ、注目を受けることは割合簡単なのではないでしょうか。でもそんな昔話で識者ぶるのはやはり「老害」と云えましょう。

 結局は、より多くの人がコンベンションに参加してTRPGの現在を知ってもらうのが一番なのですが、ネット上での活動は読者がどうしてもインドア志向の人に優しい空気の中で行うものですから、アウェー感は拭えないのですよ。

 表に出ろ、ほど過酷な要求は突きつけ辛い場ではあります。
タグ:TRPG
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2009年04月27日

MOEシステムだって!? そんなことより数値修正をだな… 〜あまり推奨しないエンゼルギア2ndのプレイ前批評〜

 『エンゼルギア 天使大戦TRPG』の2nd Editionが発売されました。
 Melma!で活動していた時代に珍しくプレイ前批評をして、その後プレイして大いに触発された思い出深いゲームなだけに、いつかこの2ndもプレイしたい所。

 んで、1stをプレイした時の相棒は伊音だったんですけど、クーデレさんな伊音さんのデレシーンである「角(デコ)を触られて照れ怒る」がダーザインLv3から4に格上げされてるんです今回。
 システム面の変化はまだ分からないけど、そんなことは人に聞けばいい…。旧版の批評で「公式NPCとちちくりあうゲーム(そんな表現使わなかったけど、まぁそんなこと)」と評した僕としてはこの微妙な変化に興味が湧くのですよ。全体的にケシカラン度も上がってるし。

 いや、このゲームは戦闘に詳しくなることよりも、ちちくりあいの方が大事だと思いますよ。他のゲームでも似たようなことはいくらでもできることと、他のゲームでは味わえない独特のシステムとでは後者の方が興味津々。

 もちろん、読者の皆さんはちちくりあいなど目もくれず戦闘で卓を圧倒する研究に専念していただきたい。Yes、間違っているのは僕1人。戦力としての性能こそがTRPG第一。マンチキン誉め言葉。セッションは戦闘コマンドを研究し尽くし、最も優れた数値修正を弾き出した者が勝ち誇るだけに存在するのである…!
 ……いや、そんなお調子者がいないと知識盗めないし。
 
 AGはアガペーの規定値オーバー=退場というシステムですから、競技ゲームとしてはなるべく特技の使用のためにアガペーは抑えておきたい所。だけどシーンに出てよいロールプレイをしないことには強化ルールの源たるパトスチップが獲得できません。
 だから、そのシーンで確実に絡めるPCのみが登場してソロでロールプレイをし、シーンの演出から空気になってしまうようなPCをなるべく登場させないってのが賢きアガペー制御術になるでしょう。AGは他のF.E.A.R社ゲームのシーンよりも独演が多くなります。
 んで、何がよきロールプレイになり、何がPCを空気にしてしまうかはシーンに登場しているNPCとの関連性の深さ、NPCへの発言する権利の重さによって決まるかと。逆に言えば、NPC1人との関わりはPC1人が独占するのが望ましいということでしょう。
 当然ながら、PC同士の関わりもなるべく省略……システムとしては処理しないテーブルトークで消化するようにしなくちゃならないでしょう。これはプレイヤー同士がロールプレイを掛け合う機会はあるべきじゃないって方針が根底にあるのかもしれません。

 AGをNPCとちちくりあうゲームと評したのは、このゲームはNPCというイメージ相手にプレイヤー1人1人が独演する立場の中でどうロールプレイをするのかが攻略の鍵だと目しているからです。

 それでも数値修正こそが正しいTRPGである、NPCとちちくりあうなど痛い真似はしたくないという方は多かろうと思います。僕も推奨プレイとは言いません。
 
 つーか、みんなちちくりあいに期待して伊音さんの奪い合いになったらどうするんですか。みんなが戦闘性能だけを考え、秘伝の数値修正を見せ付ける。僕1人MOEに走って伊音さんとちちくりあう。みんなは帰宅して1人どうしようもなく痛い奴がいたと己の武勇伝に新たな1ページを加える…。
 僕が手に入れるものは…言うまでもないでしょ。


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2009年04月21日

東洋的スタンスって何だろ?

 ここ半月、Blog執筆をお休みして『ブルーフォレスト物語』を私的に再構築すべく、当作品が表現しようとしていた東洋的世界観がどのようなものなのか、インドや東南アジア関連の書物を精読しています。
 
 でも逆に考えれば東洋的の対句になる西洋的って何じゃいって考えにもなり、昔のようにファンタジーとは中世ヨーロッパが云々と説明していたけど実際は『指輪物語』を軸にアメリカ人(デーブ、まだ早いよ…)が考えた原型を、日本でグループSNEと出渕裕が『ロードス島戦記』として結実させた「純ゲーム世界」なわけで、それと対比させて西洋的、東洋的というのも何だか馬鹿馬鹿しく思えてきます。

 ひょっとすれば、当時のプレイ現場においては伏見氏のデザインとは関係なく、東洋的=非D&D・ロードス的ファンタジーとして受け入れられていたのかもしれません。
 D&D・ロードス的ファンタジーのスタンスは現在も『D&D4e』、『ソード・ワールドRPG2.0』、そして『アリアンロッドRPG』に継承されているようですし、今プレイするにしても要はこれらの作品がならないようなことをやらせるべきなのでしょう。

 話折るけど、『ウォーハンマーRPG』はダークファンタジーではないと思います。最後は混沌が勝つ世界で局地的勝利のために頑張るってのがスタンスですけど、混沌に勝つってよりはガザ地区みたいなグダグダな世界で苦難に負けず生き抜こうってゲームであって、ダークファンタジーが演出しようとしている終末への不安ってのはあまり感じないんですよ。不安どころかすでにヲワタな世界? パンク?

 話戻すけど、D&D・ロードス的ファンタジーと言ってみたけど、それがどんなスタンスかと云えば、リプレイの『ロードス島戦記』であったり、『スレイヤーズ!』などの当時はやったラノベであったり、あるいは『D&Dがよくわかる本』のリプレイであったりした、旅の風来坊たちが酒場で困った人から依頼を受けてよし迷宮に潜るか、ゴブリンどもを成敗しようかという「冒険者」のスタンスなんだと思います。

 この「冒険者」なるスタンスも根は七人の侍から水戸黄門、三匹の侍へと継承されている時代劇お馴染みのマレ人が到来するスタンスが染み付いているだろうし、そう考えればとっても純和風なスタンスなのかもしれません。
 そう考えると、東洋的とは西洋的ではないけど和風でもないってこと? もっとも伏見氏はツクダ版青森の末尾にて忠臣蔵の時代ではないと時代劇を批判しつつも、ゲームの原風景として日本の山野をイメージしていると記してあります。

 結局、物語のスタンスは各遊び手が好みの味付けにするものだから、プレイヤーに分かる範囲内なら各人が型にとらわれないよう語り口を考えていることでしょう。型の問題だから、一般論にはしづらい所もあります。

 でも僕としては和風ファンタジーとして形成された冒険者というスタンスは青森にはどうも似つかわしくないし、『深淵』のような運命主義的なのも違う、『ウォーハンマー』のようなパンク世界でもなく、『ナイトウィザード』のような選ばれし勇者ってのもしっくりこない…。
 
 インド、東南アジアの文献を読んでいるのも、時代劇めいた純和風な曖昧さが基調のファンタジーでもなく、騎士道物語のような使命と宗教的潔癖さを基調としたファンタジーでもない、僕自身が納得できる形で東洋的なるスタンスを模索しているのです。

 
 
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2009年03月29日

忘却したコミュニティ 〜ブルーフォレスト物語のプレイモデル〜

 かつて僕が楽しんだゲームの1つに『ブルーフォレスト物語』(通称:青森)があります。伏見健二氏がデザインした東洋的世界・シュリーウェバでの冒険を楽しむファンタジーRPGです。伏見氏はその後小説としてもこの世界をテーマにし、いわば伏見氏のライフワークともいえる作品です。
 去年、グランベール社によってリバイバル版が再販され、PDF版ルール及び二次使用可能な基本システムが盛り込まれたCD-ROMが同封されるようになりました。これによってルールサマリーの製作などの手間が軽減され、GMをする身としてはありがたい道具となりました。

 ところで、このグランベール版青森の後書きにて、伏見氏はまた新しい青森を製作中であり、この再販はいわば布石であるという内容の文章を載せています。
 伏見氏の意気込みは今後も見守るとして、この旧版青森自体は現在手に取って見ると、はたして現在現場で盛んにプレイされている『ソード・ワールドRPG2.0』、『アリアンロッドRPG』などといったファンタジーTRPGと競う中、十分なプレイ環境を得られるのか自信がありません。1度や2度なら、物珍しさに集まるかもしれませんけど、純粋にゲームシステムの魅力から見てそう何度もプレイしたい作品ではないと思うのです。

 僕自身は思い入れがあるわけで、個人としてはまだ終わっていないと言えます。だが、90年代半ばに展開した価値モデルは崩壊しており、本格的ファンタジーTRPGが乱立している2009年において青森が一定のシェアを獲得できるのは至難の技だと考えています。

 そんなわけで、今日は90年代半ばに行われた青森の価値モデルについて。

◆◆◆

 旧版たる青森・ツクダ版は1990年発売の古いゲームです。
 当時はまだTRPGがまだ新型MWGとして、SLG愛好者の間でプレイされていた時期でした。やがて90年代中ごろまでにはゲーム総合情報誌、ライトノベル誌などでの販促によってTRPGが物語文化のプラットホーム的立場になると、青森もライト寄りのファンタジーTRPGとして定着するようになりました。

 この時代、伏見氏は青森をTRPGだけではなく、小説版、コンシューマーゲーム版(PCエンジン)、読者参加ゲーム版とマルチメディアとして展開していきました。しかも読者参加ゲームが草創期、コンシューマー版が過去、TRPG版が現代、小説版が未来とシュリーウェバの世界観を分離しての活動です。
 つまり、『ロードス島戦記』がリプレイ小説から小説版、アニメ版へと販路を拡大したの同じ角川メディアミックスの手法を取ったのです。

 ただ、ロードスは水野良氏の小説と高山浩氏のリプレイ小説の2枚看板であったのに対し、青森は伏見氏の個人ブランドである以上、伏見氏個人の活動の範囲で展開していきました。
 
 だが、個人の力でメディアミックスを仕切るには、規模としては個人商店レベルであり、伏見氏以外にゲームデザインに関わる人間がいなかった以上、伏見氏が活動を終えれば青森もまた生産終了品となる運命でした。
 現在、小説版は古書を探すしかなく、読者参加ゲームやコンシューマーゲームでどのような展開がなされていたのか、詳細な記録を探すのは1ゲーマーの手に余る作業です。

 要するに、2009年現在青森がどのようなゲームなのか改めて知ることができるメディアはほとんど残っておらず、2000年以降に参入した遊び手は青森がどんなゲームかを事前に知ることはまず無理だということです。そして青森はメディアミックスによる販促で好きになった遊び手たちの支持を基に価値モデルを作っていたゲームです。

 ゲームシステムとしての青森はサプリメントでも際立ったシステム拡張をせず、終始ベーシックルールを踏襲した遊びに徹底していました。代わりに世界観は歴史の縦軸をベースに拡張を広げ、ゲームとしてより物語再生装置としての幅を広げていきました。

 これによって、青森のプレイスタイルはシステムの工夫よりも物語を体感することを楽しむ方向に進み、GMが物語を披露しプレイヤーがロールプレイを披露する歓談の道具として支持されるようになったのです。

 言ってしまえば、青森は「青森の世界が好き!」という愛好者が集まって、シナリオを肴に青森世界を楽しく語り合うのがプレイスタイルのゲームだってことです。

 青森の世界を好きになる手段に乏しくなれば、自ずとゲームへの魅力を失うわけで、残されたTRPGのルルブを見ても今となっては同人TRPGと大差ない六日の菖蒲とも云えるベーシックルールでしかありません。

 もう一度、伏見氏が青森の世界でブームを起こさない限り、旧版青森が脚光を浴びることはなく、このままでは『パワープレイ』同様、使命の終わったTRPGとして記念碑にのみ残る作品となってしまいます。
 
◆◆◆

 TRPGがファンタジーメディアのプラットホーム的な立場を失った現在、TRPGをプレイする人たちは単体の趣味文化としてのTRPGを支持している人です。
 TRPGにはTRPGならではの魅力があり、例えば「本来はラノベが書きたいけど、文章力がないし表現者の気分を味わうだけでいいから」など言った他の期待感を満たすための道具とは思っていません。やはりゲームとしてのTRPGを支持し、イベントとしてのTRPGコミュニティに参加しているのです。

 現在現役のTRPGはそうしたプレイ環境に適応し、販促に期待しない作りをしている作品ばかりです。いきなり参加してもTRPGそのものが好きな人ならば順応できるよう、世界観を体現できるゲームシステムを多く搭載したゲームが主流と言えます。
 青森も現代のプレイ環境に沿った、あるいは次世代を見据えたデザインにリニューアルすれば、再生する可能性は十分にあるでしょう。

 だが、一番のネックはやはり青森がまだ伏見氏の個人ブランドであり、現在も伏見氏待ちの状況だってことです。個人ブランドのゲームは様々な人間のイマジネーションを包括するだけの母体がないだけに、迂闊に独自活動しづらい所がありますからね。

 もし僕が自分のプレイ環境でも適応できる改良版を作ったとしても、それはあくまでもフリーシステムである2DRシステムを基にした「青森っぽい」ゲームであると、こっそり身内で楽しむ程度に留まるでしょう。

◆◆◆

追伸:はてなキーワードにおいて、グランペール版青森の情報は未記載です。僕ははてな市民ではないので、どなたか記載していただければ幸いです。


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2009年03月15日

オードリーや超新塾の笑いは美少女アニメやゲームの萌えに通ずるのかも

 この前、NHK『爆笑オンエアバトル』の第11回チャンピオン大会B組予選を観ました。結果は超新塾、フラミンゴ、我が家など定番のネタを披露したグループが上位でファイナルに進出し、逆に多彩な芸を持ち今回はシュールネタで来た井上マーは最下位に終わりました。

 僕はお笑いには疎いのですが、仮にこの結果が最近の潮流だとしたら、超新塾や我が家といった「いかなるボケをかますのか」、大まかなキャラクター付けされた芸人がテンポよくボケを連発し続ける芸風が舞台ではよく受けるのでしょう。昨年末からブレイクしているオードリーもキャラクター&テンポの芸風がよく計算されているコンビです。

 逆に井上マーは芸の幅が広く、色々な種類の笑いを引き出せる人なのですが、それ故に彼の芸は客に「読む」ことを強いているのかもしれません。いわゆる「じわっとくる」芸であり、後々数寄者たちの間で「これこれ、この芸どう思う?」と話題になることでじんわりと真価が発揮される芸なのでしょう。瞬発的にこみ上げる笑いが重視されるオンエアバトルの舞台では、今回のネタは少し鈍重だったのかもしれません。

 今回の予選で勝ちあがった5組とA組の5組が決勝にて珠玉のお笑いを発揮できることを期待したいと思います。もちろん、敗退した者たちにも幸あれかし、と。

◆◆◆

 さて、今回のオンエアバトルを見て僕はこんな発想をしました。

 「美少女ゲームやアニメに見られる“萌え”の境地は、超新塾や我が家の笑いと共通するものがあるのではないか…」

 お笑い芸人を美少女キャラ、笑いを愛嬌へと変換すれば、なるほど萌えとは瞬発的な愛嬌を見せる舞台芸であると解釈できます。

 先程、お笑いにも瞬発的な笑いを出すタイプと、読み解くことによってじわっと笑いを発想させるタイプがあると言いましたが、メディアによる表現活動そのものも、直感的認識に訴える感性タイプと、思考に訴える理解タイプの2種類があると僕は考えています。
 そしていわゆるヲタクメディアでは、アニメとゲームが感性タイプ、漫画や小説が理解タイプに分類されると思います。

 アニメやゲームなどの感性タイプメディアは基本的には読み返しをせず、展開を一気に流す不可逆的な要素があります。アニメやゲームは画像と音声を同時に発することにより、思考よりも視覚・聴覚による直感的認識を以て表現とする体感型メディアであると云えます。
 感じる能力に訴える感性型メディアは、人が社会生活を営む中で学んだ経験則によるものの良し悪しを計る感情……好感度を刺激することによって支持を得ます。感性型メディアへの許容を示すのは「好き」「嫌い」だってことです。
 そして、人類は長い歴史の中で「笑い」や「愛嬌」「セックスアピール」などを好ましいと位置づけています。これらを好感覚と呼べば、感性型メディアとは好感覚を喚起することが媒体としての影響力であると云えます。

 もちろん、人間が直感的に認識できる感覚には限界があります。
 そこで好感覚が瞬時に引き出せるように「パターン」や「記号」といった好感覚の詰め合わせが発明されるようになりました。感性型メディアは基本的にパターン・記号を見せることで発揮されます。
 
 対して小説や漫画など理解タイプのメディアは読者が自由に読みたい箇所を読み、自分のペースで理解することで楽しみを得ます。感性タイプは云わば様々な認識が交錯して頭が混乱している、衝動時に発揮されるメディアなのに対して、理解型メディアは情報が整理され、頭が平静な状態の時に発揮されるメディアです。
 共に根源は感覚に訴えてはいますが、理解型メディアには人類が快適さを得るための集合知が加味され、空間認識に関する集合知としての「美」が理解型メディアの判断基準になることが多々あります。
 
 簡単に言えば、人間が知的生命体故に備わっている想像力、イメージする能力に訴えるのが理解型メディアだってことです。「美」「物語」「哲学」「ジョーク」などはイメージとして好ましく享受できる感覚なので、思考による理解が必要です。

 ここまで難しいこと言いましたけど、アニメやゲームに出てくる萌えの境地はイメージではなく、パターンであり記号です。ツンデレ、ヤンデレと云ったパターン、メイドや巫女と云った記号によってヲタクの好感覚を刺激して、体感として影響させるのが萌えアニメ、萌えゲーの手法なのです。第1話で通学中にすれ違う出会いも、7話ぐらいで海やプールで水着祭り→縁日で浴衣祭りになるのも、すべてはパターンであり記号なのです。

 オードリーのコントも「ズレた会話をする気色悪い男」と「平凡だが奇獣の扱いに慣れた男」がパターンとして定型化されたコントを見せることによって、笑いを体感させる芸をしています。記号としても、いつもピンクのセーター姿の春日をはじめ、超新塾、我が家など常に同じ格好をしています。

 なるほど、春日はヲタクにも受けがいいわけです。

◆◆◆

 ここまで考察すると、萌えがアニメを駄目にしたという意見にもきちんとした理由があるのだなと思います。とみに漫画、ラノベ原作のアニメ、ゲームはレイプとまで言われるのにも同様の理由があるのでしょう。

 漫画、ラノベは理解型メディアですから愛好者は芸風を読み解き、イメージとして愛好しているものかと思います。ところがアニメ、ゲームは感性型メディアですから、イメージは製作者側の手によってパターン、記号として勝手にまとめられてしまってます。

 レイプという言葉が全てを物語っている通り、理解型メディアの原動力たるイメージは性行為ではオナニーに当たります。それが自分のオカズが他人のイメージによって感性型メディアたるポルノに仕立てあげられたら、なるほど寝取られ感はあるでしょう。

 漫画、ラノベ原作のアニメ、ゲームが難しいのはファンサイトが理解型メディアで形成され、イメージを読み解いてファンになっているのに感性型メディアではイメージが及ばないパターン・記号として演出がされている。すなわち自分のイメージが介入する余地なし。
 しかもアニメ、ゲームから入った感性型メディアのファンは思考ではなく、ハイな状態から直感として「好き」と言っているだけ。自分のように平静な状態から「美しい」と理解するような事はしない…。

 う〜む。
 繰り返しますが、僕はお笑いには疎いので推測することしかできませんけど、井上マーの笑いが好きだって人はオードリーや超新塾、我が家のようなコントは嫌いなのかもしれません。

 今日はここまで。
 
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2009年03月05日

本格的なTRPGがあふれている

 TRPGでの気力の消耗が最近著しいのです。
 今年に入ってからプレイしたのが、『ウォーハンマーRPG』、『D&D4th・フォーゴトンレルム』、『ソードワールドRPG2.0・ミストキャッスル』と波乱に富んだ危険続きのファンタジーばかりなので当然と云えば当然なのですが、こうも緊張感あふれるゲームばかりプレイしてては虚脱感も一入です。

 考えてみれば、昨今プレイされているファンタジーTRPGは、上述の3作品を含めて『アリアンロッドRPG』、『六門世界RPG2nd』、『迷宮キングダム』など、どれも濃密なデータに趣向を凝らした独自のシステム、遊び手を油断させない緊張感ある世界観と、本格的なゲームばかりです。もちろんシステム自体も堅牢さ、シンプルさなど安定感は昔よりずっとあります。

 これら本格的なゲームはシステムの妙味、世界観の奥深さなど没頭すればするほど深みが増す、いずれも10年TRPGになりえる性質を持っています。僕がお相手したGMさんも熟練の伝道者ぞろいで、旧版を含めると10年以上伝道をし続けている人もいました。もちろん、一緒にプレイしたプレイヤーさんもいずれも一家言ある前のめりな人たちばかりです。

 おかげで三十路なのに一番初心者状態がもう何ヶ月も続いてます。
 正直、僕は今まで何をしていたのだと圧倒されることも何度かあります。5年前にコラム活動を始めた当時の不満や疑問、要求もここ1年ほどで随分解消されているような気がするのですよ。
 そう思えてくるのも、僕自身前のめりにプレイしすぎなんでしょうけど。

 しかし、こうも前のめりな情熱を使うゲームばかりだと、ゆるりと物語を満喫できる気軽なゲームはあるのか…。あったとしても需要があるのか少し心配です。そういうゲームは気軽だけどやり甲斐の少ないゲームなわけで、物足りなきを感じる要素があるのかもしれません。
 例えば、去年改訂版が出た『ブルーフォレスト物語』も本格的というよりは雰囲気の良さで遊ぶゲームでして、古いゲームなだけにシステムも古めかしい所があります。こういう今となってはパッとした目新しさのないゲームを雰囲気だけで集めることができるのか…。

 本格的なゲームが必ずしも難解なシステムではないように、雰囲気の良さで選ぶゲームも必ずしもシンプルなシステムが受けるとは限らない…。むしろ気軽に遊べるゲームだからこそ、すぐゲームの面白さが分かるように完成度の高い競技ゲームを仕込むべきなのでしょうか。

 まぁ、要は今の時代に青森が受けるにはどうすりゃいいんべと。
 
タグ:TRPG
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2009年02月22日

飛行機から空を飛びたい発想を知る 〜日米ロールプレイの出発点〜

 今日はこの記事から。

 TRPG議論のルールブック/読む価値のあるロールプレイ論まとめ(G&G, Inc. blog)
 
 改めて読むと、ロールプレイ論は往々にして迂遠です。
 本来ならTRPGというゲームを遊ぶために必要な情報であるはずのロールプレイ論なのに、あたかも人類がロールプレイを行うに至った社会的行動原理を解明するかのような壮大な論文になってしまっています。

 はたして、本当にゲームするのに必要な情報なのって首を捻ってしまいます。もちろん、TRPGの遊び手が総じてこんなロールプレイ論の学徒であるわけではありません。むしろ圧倒的少数。

 そんなわけで、今日はなぜロールプレイ論はTRPGの現場から遊離して学問化してしまったのかという話。

◆◆◆

 そもそも新型MWGの合間にゲーム世界を肴に歓談していたのがファンタジー文学好きに受けて、いつしか「ゲームで作る伝承物語」の形となって様式化したのがロールプレイだと、TRPG黎明期の変遷を研究した僕は考えています。
 要するに、TRPGは最初からロールプレイを前提としたゲームではなく、ゲーム内歓談がゲーム活動の中で物語を作るという目的を持ちゲーム化されたのがロールプレイであるのです。そこから僕は、ロールプレイはあくまでもゲームプレイの中から生まれたゲームシステムの一種として認識するに至りました。

 だが、馬場秀和氏や俵ねずみ氏がロールプレイ論を論じていた時点では、ロールプレイはまたルーツ不明な舶来文化であり、遊び手は輸入されたゲームシステムを言われるがままにプレイしていました。誰もMWGで発生した歓談からロールプレイに至るまでの変遷を体感していないまま、試行錯誤なき完成形のロールプレイを与えられたのです。
 云わば、日本人ゲーマーにはロールプレイの思考プロセスが欠如していたのです。

 これは飛行の欲求を想像し、グライダーから飛行機へと発想を実現してきた欧米文化と、空を飛ぶという発想すらなかったのにいきなり飛行機が輸入された日本人との意識差と一緒です。

 当然ながら、日本人は「なぜロールプレイをするのか」悩むようになります。アメリカでは最初に『指輪物語』があり、物語をゲーム化する方向でプロセスが進みましたが、日本人はゲーム化されたロールプレイの根源を探るというアメリカ人とは逆方向に進みました。
 これはアメリカ人が幾多の形式がある物語をゲームシステムに集約したのに対し、日本人はロールプレイから欧米人の「ロール」「プレイ」に集約された比較文化を果てしなく網羅し解題する方向へと拡散していくことを意味しました。 

 そして医学、心理学、社会学、比較文化論、演劇論などの学問が総動員された日本のロールプレイ論はゲーム活動の枠組を超え、社会文化活動としての役割と意義から説かれる壮大かつ迂遠な性質を帯びるようになりました。まさに「ロールプレイ社会学」です。

 結果として、日本において語られるロールプレイはロールプレイ社会学の研究論であり、ゲームシステムではなくなりました。ロールプレイ論の用途はゲームのためではなく、アカデミズムへの立場からTRPGを研究しようする教養人、ヲタクのために使われるようになりました。

 それが悪いわけではありません。繰り返しますが、日本人ゲーマーはロールプレイに至る思考プロセスが欠如しているのです。物語をしたいという発想なくしてロールプレイを始めた民族なのです。
 ロールプレイから彼ら……ガイギャックスやアーンソンらは一体何がしたかったのか、彼らの根底にはどんな文化が宿っていて、その文化を体感するにはどこまで淵源をたどればよいのか…。暗中模索の中で解題されたのが和製ロールプレイ論なのです。

 次はようやくアーンソンの地点まで戻った道を、彼らが歩んだのと同じように、いかに日本人が語りたい物語をゲーム化していくかのプロセスを進めばよいのです。
 
 飛行機を渡されて、彼らが空を飛びたいと思ったから作ったのだと理解するまでがこれまでの解題の成果でしょう。次は我々も空を眺め、この空を飛びたい、飛んで何がしたいのか発想する番なのです。

◆◆◆

▼参考記事
ミニチュアウォーゲームからTRPGになるまでの間にあったゲーム要素の転換

GMは娯楽文化としての立場のために負けなければならない

なぜドラゴンはTRPGの主役になりえたのか

アーンソンのプレイリポートから 〜TRPGにおけるデザインとしての戦闘と、テクニックとしての物語〜
タグ:TRPG
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2009年02月19日

嘆きの碩学世代2009

 ネットブックが欲しいのです。
 そりゃもう猛烈に。だけどケチな上に臆病な性質ではなかなか思い切った散財はできせまん。とみに電化製品は本当に必要なのか、ついつい悩んでしまう癖がついていて厄介なことこの上ない。

 今日は昔の記事がTBされたので、現在の見解を。

◆◆◆

 続・嘆きの碩学世代

 もう3年半前の記事。
 この時期はまだ仲間内でプレイしてたんですよね。
 環境は随分変化しましたし、TRPGに対する姿勢も当時とはかなり異なってきているのかなと思います。
 阿波踊りも引っ越したんでもう参加してないし。

 つーか、3年半。
 そんなに時間があって見解がまるっきし変わってないとしたら、お前どんだけ停滞してたのかよということになります。不満な点はプレイで1つ1つ検証して、現状が不満だったらまず自分を変えてみる…。

 結局、僕は世論をどうこうしたいのではなく、自分の環境が改善されれば事足りるのです。オピニオンリーダーとして敬意を受けるのはそれなりに嬉しいことですが、どこの誰か知らぬ人が勝手に僕の見解をコピぺして、さぁ我もTRPG通なりとやってしまうような影響力は正直、迷惑この上ない。

 さて、3年半が経過して、僕が永遠の敵と名指した衒学プレイヤーはどうなったのかと云えば、僕自身がそんな粘着なお付き合いをしなくなったので、現場ではトンと縁遠い存在になりました。

 実の所、TRPG界隈ごどきで教養人ぶって偉ぶる似非エリートはもはや田舎の書生崩れ程度にまで存在感は下落したものかと思います。昔と違ってネットという「大海」があって、衒学者どもが一説ぶった所で「そういうことはネットでやれ」で片がつきます。

 ゲーム総合情報誌が全盛だった80〜90年代、TRPGはファンタジーに関連する物語文化愛好者が集う場を提供しており、TRPGサークルがサブカルのサロンになっていた時期もありました。
 そこへ自己顕示欲と名誉欲に駆られた教養人崩れがサブカルでお山の大将を気取らんと入り込むことは十分ありえることでして、そういう連中の手によってTRPG業界は肥育されていったのです。

 業界としては野心的な層を飼うことは拡大に繋がるし、専門知識を揃えられる大学生ヲタクの知識はゲーマーとして一目置かざるを得ない貴重なものでした。
 何よりも物語を重視するTRPGは知識人崩れに共通した「口だけ」という性質の持ち主でもそれなりにのし上がれる業界でした。何しろゲームと云ったらドラクエ、ファンタジーと云ったらスレイヤーズやロードスしか知らないお坊ちゃんお嬢ちゃんが大量に参入してきたのが90年代の『ソードワールド』ブームです。彼らから薄っぺらい尊敬を受けることはさほど難しいことではありません。
 彼ら教養人崩れの衒学者にとって実に居心地のよい環境であったことでしょう。
 
 しかしながら、ファンコミュニティが未成熟なまま拡大した日本TRPG業界において、ゲーマーとして小集団を超えてのし上がるシステムが整えられなかったのが、彼らを堕落させる原因になったかもしれません。
 
 今もそうですけど、どんなに見識を深めてゲーマーとして完成度を高めようとも、日本のTRPGはデザイナー集団が彼らとは縁なき場所で勝手に展開します。アメリカの『D&D』のような、ファンコミュニティの手によって展開がなされるような環境は日本において無きに等しいと云っても過言ではありません。
 要するに、どんなにゲームのために勉強をし、ゲーム活動を精力的に行おうがTRPG業界ではせいぜいサークルの幹部として10〜20人程度に重宝される程度の名誉しか手に入らないのです。それが嫌なら、何とかデザイナー個人とコネを持って、彼の丁稚としてイベント等で下働きをするしかありません。

 その結果、栄達の道を断たれた衒学ゲーマーたちは一気に野心を失い、少人数相手にみみっちい権威を振りかざすお山の大将へと成り下がりました。
 僕が激しく嫌悪した衒学ゲーマーは、この野心を失って本当に崩れてしまったゲーマーなのかもしれません。結局、彼らお山の大将も長くサークルを維持することはできず、次々と僕の目の前から消えていきました。

 もし日本のTRPG業界がファンコミュニティを整備し、熱心な投稿者たちの手で展開していたら世紀末前後の冬の時代は回避できたでしょうか…。
 まぁ、2chゲーム板でよく上がる「こんなRPGがしたい」なんてスレを見る限りでは、コアゲーマーの意見をまともに聞いていたら、「船頭多くして船山に登る」の諺通りに迷走するだけかもしれませんけど。

 翻って現代、インターネットの登場によって似非教養人が「口だけ」でのし上がる環境はネット世界へと移動しました。野心的な層がいなくなったTRPGは別に遊んでいようが何の実益も実害もない「多くある趣味の1つ」に落ち着きました。

 もう以前のように、野心を失ってお山の大将に崩れてしまった衒学ゲーマーがたむろしやすい環境ではないでしょう。それどころか、野心的に活動するコアゲーマーすら不要とされているかもしれません。

 現在はデザイナーが与えたままのものを、遊び手はそのまま消費していくコンシューマーゲームの関係はTRPG業界でも完成されています。
 かつてはデザイナーのデザインを上回らんと志すコアゲーマーがシステムや世界観を改造・補完し、デザイナーが示したままよりも面白いゲームを提供しようと躍起になったものです。ですが、今のTRPGはそれほど野心的な層を飼う必要などない業界になっています。

 多くある趣味の1つであるTRPGに、デザイナーと面白さを競おうとするほどの価値など、他にいくらでも楽しみがある一般ゲーマーなどありゃしないのですから…。

 確かに腐った連中が消えたことは喜ばしいことですが、野心的なゲーマーの活動を昇華させ報いるような仕組みをまだTRPG業界が見出していない現状を省みれば、根本的な解決はまだ先送りされたままです。

 
 
 
タグ:TRPG
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2009年02月08日

どこで面白いと実感できるか 〜TRPGとボードゲームが与える期待感の差異〜

 前回、TRPGのルールブックは読み物であり、TRPG者はまず読者として1人の世界からTRPGを想定するものだと述べました。それが集団遊戯であるTRPGにとっては齟齬を生む一因になっていると、批判的な見解も示しました。

 だが、欠点があれば利点もあります。
 TRPGはプレイをせずとも、読み物として興味を引かせればTRPGを「面白そうなもの」として認知させることができます。他の非電源ゲームにはそのような期待感を誘発する仕組みに乏しく、TRPGの特性として記すべきものといえましょう。

 そんなわけで、今日はTRPGが読み物である利点について。
 あるいは、TRPGとボードゲームが与える期待感の性質の違いについて。今回はTRPGのみならずボードゲーム(以下ボドゲ)をも批評の対象にし両者を比較するのですが、ここはTRPG系Blogなので公平さに欠く懸念があります。TRPGを擁護するがために、無用にボドゲを卑下する意図はないことを了承いただきたい。

◆◆◆

 TRPGとよく比較されるゲーム媒体として、同じ非電源ゲームであるボードゲームが挙げられます。
 TRPGもボドゲもゲームである以上、プレイすることを前提として作られているのは当然の事。ですが、共に1人で遊べるゲームではありません。機会がなければ、TRPGのルルブもボドゲの駒・盤・チップ類もゲームとしての役割を果たせない「道具」になる点で両者は共通しています。

 だが、TRPGはゲームであると同時に読み物であるのに対して、ボドゲの小道具類はゲーム以外に使う役割を持っていません。せいぜい眺めたりいじったりする程度で、プレイ時以外にもゲーム活動に関われる機会をボドゲは与えてくれません。むしろ、散逸を避けるために収蔵されるのが定め。
 要するに、ボドゲの小道具類は競技ゲームとしての専門化・抽象化が進みすぎて、それ以外の用途がまるでないってことです。プレイ時以外にはただの置物同然なのです。

 対して、読み物であるTRPGはゲームである以前に読書をして楽しむことができます。TRPGのルールブックはシナリオを着想して物語を引き出せるように、自らが物語のTip集になっているからです。事実、ルールブックを読み解き、システムを理解したりイメージを発想する読書活動もまた、ゲーム活動にとって大事なこととされています。

 これがいかなる差を生むでしょうか。

 ボドゲへの期待感は対戦者が想定できることが大きく影響してきます。何だかんだ云って、ボドゲは競技ゲームですから対戦者がどう行動し、対して自分はどう行動するのか、常に対戦者を通してゲームの面白さを計ります。
 これは特にサークルやイベントに出入りしているわけではなく、対戦者のことなど思い浮かべずに、ただ面白そうだからと買ってみた人にはボドゲが与える期待感は驚くほど短命だってことを意味します。

 すなわち、ボドゲは対戦者が常時確保できる人でなければ、事前に面白いだろうなと意識することすら困難なのです。

 TRPGはいつでも取り出して、物語を楽しむことができます。
 TRPGはプレイをしていなくとも、物語というプレイに直結した楽しみを遊び手に伝えることができます。
 TRPGの面白さはプレイをせずとも伝えることが出来、例え生涯プレイする機会に恵まれずとも、購入者には何らかしらの収穫を与えることが可能なのです。

 プレイしなければ面白さを伝えられないボドゲと、プレイをしてない1人の時でも本質ではないが面白さは伝えることができるTRPGとでは、遊び手に与えるモチベーションは完全に異なるのです。

 ボドゲは買ったらすぐプレイして、競技を楽しむ環境を整えなければすぐに熱が冷めてしまいますが、TRPGはプレイをせずともじわりじわりと遊び手の中に物語が作られ、プレイするまで期待感が増え続ける性質を持っているのです。

 その代わり、ギミックもゲーム目標も単純なボドゲはゲームを成立させるコンセンサス(合意)が少なく、ルールに忠実でさえあればゲームが成立します。
 対するTRPGは前回述べた通り、読み物として1人でイメージした内容と、ゲームとして複数で行われるプレイとの間にギャップが発生してトラブルが絶えないという欠点があります。

◆◆◆

 TRPGは物語を取り入れることによって、情報媒体に宣伝をするメディアとしての力を得ました。TRPGを原作とした漫画、アニメ、小説など多方面に宣伝を行い、単なるゲームコミュニティの幅を超えた物語文化の旗手として様々な趣味趣向の持ち主を受け入れてきました。
 その結果、TRPGがどのようなゲームなのか自体、その時代ごとの環境によって劇的に変化するようになりました。かつてMWGの派生でしかなかったTRPGは物語の再現が重視され、フロアタイルやミニチュアも必須の道具ではなくなり、ストーリーテリングを基調とした対話ゲーム中心の作品も登場しました。

 対して、単体では情報を提供することができないボドゲの世界は『D&D』が登場した当時のまま、劇的な変化を遂げることなく孤立した環境を維持しています。

 ボドゲの世界からTRPGを見ると、その宣伝力は羨ましい限りです。
 ボドゲはどんなに素晴らしいゲームがあろうとも、ボドゲ自体が面白いと理解している人しか興味を示さない……愛好者だけの本当に趣味の世界でしかありません。
 TRPGはボドゲから来た人、MMORPGから来た人、ライトノベルから来た人など色々なバックボーンを持った人が集う総合文化になっています。その遊び手の多様性はボドゲでは引き出せません。

 プレイリポートなどで楽しさを伝えることは可能ですが、ボドゲを知った所でコミュニティの外にいる人にとっては遊ぶ相手がいなけりゃただの置物。遊び手を捜さなければ面白さを実感することもできません。
 物語を与えることで1人でも楽しめるTRPGに比べれば宣伝力が弱いわけで、市場の拡大には大きなネックとなっています。

 あるいは、劇的な変化などボドゲ界隈は忌まわしいと思っているのかもしれません。『クルード』など50年以上前のゲームが未だに現役でいる界隈ですから、文化など大きな看板など背負うことなく、愛好者だけでガラパゴスを築くのが丁度よいのかもしれません。

 逆にTRPG界隈は、物語文化に触れ合える交流の場を作るプラットホームとしての役割が大きくなりすぎて、もうガラパゴスには戻れないかもしれません。仮にすべての副次的な宣伝を止め、すべての物語要素を廃した無地のシステム群のみでTRPGを売り出したとしたら、市場規模は非電源の同人サークル1つ分ぐらいにまで縮小するでしょう。

 物語のないTRPGなど、盤の駒の装飾やイラストを廃した無地のボドゲをプレイするのと一緒です。そんなもん、面白いと分かっている人しか興味を示さないのです。
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2009年01月26日

気のいい人しか参加できないゲームにあらず 〜TRPGにおける善意とコンセンサス〜

 「TRPGは悪意に弱い」という言葉があります。
 TRPGはみんなで歓談をしながら物語を楽しむのが醍醐味なのですが、誰かが協調を拒めば物語が台無しになる脆弱性を孕んでいます。大抵が1人よがりで譲ることを知らない性質の人が悶着を起こしてムードをブチ壊すのが常で、悩めるTRPG者は各々解決策を模索しているわけであります。

 もちろん、信頼と強調で成り立つ世界をブチ壊す暗い楽しみってのはあります。善男善女を誑かしては罵倒し、戸惑わせ狼狽させるのが無常に楽しいという人だっていることでしょう。
 そんなのは便所の水味わってもらうしかないので論外。

 そんな確信犯を除くと、TRPGが抱える問題児の多くがTRPGにおけるコンセンサス(合意)に関する認識が不足している人たちだと僕は考えています。彼らにとってTRPGはまだ1人遊びの枠組内であり、レクリエーション活動であるという意識が希薄なのではないでしょうか。

 あるいはTRPGはコンセンサスが未整備なのか…。

 そんなわけで今日はTRPGにおけるコンセンサスの話。

◆◆◆

 TRPGにおけるコンセンサスとは、
 「ゲーム活動を成立させるために参加者が遊び方やマナー、スケジュールについて取り交わす歩調合せ」
 といった所でしょうか。
 TRPGはシステムを把握し、ロールプレイを駆使しただけではセッションは上手に遊べません。遊び手同士が連携しチームプレイをこなすことで物語は個人の妄想を超える真価を発揮します。もちろん、技術以前に好きなゲームを肴に歓談をすること自体、愛好家として幸福であることでしょう。

 問題なのは、良質なパーティは技術でも特性でもなく、たまたまメンツが全員話好きで人のいい連中だったからに過ぎないってことです。
 逆に云えば、メンツの相性が合わなかったならば、もうゲームを破綻させない理由などなくなるってことです。ゲームがどう台無しになろうが、「相手が悪かった」で誰も傷つかない。誰も失点をかぶる心配もない。
 もちろん、ルール上の欠陥ではないからベンダやデザイナーにとっても失点ではありません。勝手に崩れた卓の問題ですし、誰も知ったことではないというのなら捨て置くのみです。

 正直、TRPGの問題児はしばし「ゲームをしない」という選択肢をとります。我慢をしてゲームをするよりは、自分を譲らないまま卓を蹴る人も多くいます。
 TRPGをプレイする機会も時間も有限ですし、これだけ多様なTRPG作品がある中で呼びかけずとも卓が立つことはコンベンションでは幸運と云ってもよいはずです。その機会を蹴ってでも、コンセンサスを蔑ろにする価値はあるのでしょうか…。

 これがTRPGがまだ1人遊びの領域内だと思っている人ならば、ありえると僕は考えています。
 TRPGはGM1人、プレイヤー数人で遊ぶゲームなのは常識ですが、それはあくまでMWGから派生したRPGというゲームシステムを遊ぶための常識。それとは別に、遊び手たちの歓談から生まれる……ゲームプレイとは別の意趣から生まれた……物語を楽しむという点に関しては1人でもできます。
 そしてほとんどの人が、まずTRPGを読み物として触れます。
 他の遊び手のことなど想定せず、自分1人の世界からTRPGは始まるのです。
 
 TRPGのルールブックを読めば、TRPGが読者にどんな物語を与えてくれるかばかりが示され、物語を作るためにどんなことをしなければならないのかを示している箇所はわずかです。
 ましてや、集団が物語を分かち合うために他の遊び手とどう付き合えばよいのか、集団で作る物語の特性は何か、個人で夢見る物語と集団で作る物語との違いは何かなど、プレイ現場で繰り広げられている物語の実態をルールブックがどれほど具体的に示しているでしょうか。

 自分1人が活躍し脚光を浴びる物語しか想定せず、TRPGを自らの物語を披露し賞賛し合う品評会のようなものとゲーマーが思い込んでもおかしくない要素がTRPGのルールブックにはあるのではないでしょうか。
 そして自分1人が活躍できるよう作ったキャラクターを用意し、セッションに参加して私はこれこれこんな物語をしたいのですがやってもらえませんかとくるわけです。

 そこまで、彼彼女にとってTRPGは読み物として触れた自分1人の物語であり、システムは自分物語を再現する装置であり、GMは物語を引き出してくれるカウンセラーであり、他の遊び手は自分物語を賞賛し自己を擁護してくれるエヴァ(アニメ版だから「ヱヴァ」にあらず)の「おめでとう拍手隊」なのです。

 もちろん、そんなはずありません。
 GMにはGMの、他の遊び手には遊び手の物語があり、語らいの中から誰のものではなかった「みんなの」物語が生まれます。多くの遊び手はみんなの物語を作る楽しさを知り、そのためにどう自分を変えるべきなのかを学びます。
 自分の活躍を主張するばかりでなく、他者の活躍を引き立てること、場を和ますために他者と掛け合いをすること、連携を取ったり食い違いや誤解を解くために話し合うことなど、個人の遊びとしてのTRPGからチームプレイとしてのTRPGへと変化していくのです。

 こうやって1人の孤立したルールブック読者から、卓のメンバーの一員としてレクリエーション活動を共同構築する立場……真のTRPG経験者になるために必要な心得の集大成がTRPGのコンセンサスなのです。

◆◆◆

 現行のTRPGはコンセンサスを伝える有効なプレゼン方法をまだ見出せていないと僕は考えています。いくらルールブックでみんなの物語を説いた所で、読者は1人なのです。誰が面と向かっていない他の遊び手のことを意識して読むでしょう。読書は読者1人の世界です。

 したがって、多くのTRPG者が独自に手作りのコンセンサスを考案して実践しているのが現状です。結果、技術が集積せず継承が困難な職人技となり果てています。
 あまりに手作り状態が続いてるので、どんなトラブルも「自分がいれば大丈夫」と答える熟練ゲーマーもいる始末。ぜひとも北は北海道から南は沖縄までくまなくサポートしてくださいな。なんならクローンを50人ばかりこさえましょうか。
 やるべきはコンセンサス名人を作ることではなく、コンセンサスをより多くのルールブック読者に教えることです。

 「TRPGは悪意に弱い」などとまことしやかに語られる裏には、TRPGの物語は激しく善意を期待するお高く気取った性質があるってことです。問題児の実害のみが集積し、その度にTRPGに要求される善意のハードルはより高いものになっていきます。
 
 ゲームプレイとは別の意趣から生まれたTRPGの物語は、その成立を要求する技術もルールもありません。あるのは「成立すればどれだけ素晴らしいか」という期待と、期待に応えようとする善意のみです。
 
 コンセンサスと善意は似て異なるものです。
 善意はどんな素晴らしいものでも、個人の期待から導き出された、これも1人遊びの領域から生まれるものです。他者の異なる価値観から出された他者の善意への対策など想定外です。
 コンセンサスは互いの善意と、その背後にある期待を明確にして、この期待には対応しよう、その期待は自重するべきだと相互に紳士協定を結ぶことです。価値観の相違を尊重し、その上で協力すべき事項を明確にする宣誓なのです。

 別にTRPGは高潔な人格者だけが参加するべき遊びじゃないのです。
 その「高潔な人格」とは何? という点で結局は自分の期待感を神聖化して高説をぶる熟練者など大した連中ではありません。僕だってそんな時期があったことでしょうけど、おそらくそれは黒歴史。

 問題児を減らすためには、ひたすら善意のハードルを上げるのではなく、互いが歩み寄って過剰な期待感をいかに調節するかが大事なのではないでしょうか。もちろん、譲りすぎて自分の期待を放棄する行為もまたコンセンサスの放棄です。

 TRPGのコンセンサスを集積するにはまず、遊び手はTRPGを手にしてどのような期待をし、何を実現したがるのかを考察する必要があるでしょう。
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2009年01月05日

TRPG者の負担となっている2つの責任

 2009年明けましておめでとうございます。
 今年も回転翼は実家に帰省し、暖房と照明を奪われた大晦日と正月の夜を過ごしました。つーかコミケ参加で疲労困憊なうえに帰省ですから年越し番組も見ずに早寝でした。
 
 今日は新春ということですし、今年の展望などを。

 ここ1〜2年は決まった仲間を持たず、1人ふらりとコンベンションに出かけては見知らぬ相手と一期一会のセッションをするのが通例となっています。慣れない場所で見知らぬ相手とプレイすることを躊躇う人が多い業界の中では珍しい存在かもしれません。
 ゲームも特定のものにこだわることなく、新しいゲームや珍しいゲームに進んで参加しているものですから、10年以上のキャリアがありながら毎度毎度が初心者です。
 
 昨年は有意義なセッションが多く、気に入ったシステムも何作か出来て満足のいく1年でした。何よりもこの界隈で喧伝されているようなトラブルの類とは無縁だったのが何よりも快適でした。

 実の所、今の僕は従来TRPG者に課せられてきた「責任」から逃れる形を取っています。その「責任」とは「特定ゲームシステムを練達・伝道し業界に貢献する」責任と、「サークル活動で交友に従事し、普及に努める」責任の2つです。
 この2つの責任はTRPG者の義務とされてきましたから、その責任を放棄して、はたしてTRPGを続けられるのか正直不安でした。

 大概のTRPG者は特定のゲームシステムやデザイナーの支持者となるか、サークル仲間との交友を軸にTRPG活動を続けます。そして特定作品の練達者としてオピニオンリーダーとなっていくか、サークル活動の主催者となってグループの領袖となるかがTRPG者としての上達モデルとされてきました。

 だが、そのどちらも遊び手の献身を前提とした上達モデルです。
 TRPGは段位も大会、賞金もない……プロ競技としての性質がない遊技です。なのに業界発展のためと称して、遊び手にゲーマー以上の献身を要求してきました。より熱意がある遊び手に業界の未来、グループの未来を背負わし、あたかもTRPG業界の今後はあなたの献身的活動に掛かっているという錯覚を与えてきました。

 いわば、TRPGは「熱心に活動しなければいつでも廃れる」「熱心に活動しなければ仲間が集まらなくて遊べない」とゲーマーに脅迫をし続けて成り立っていたわけです。
 
 そして、僕がコラム活動を通してその上達・普及モデルを研究して得た結論は、満足感以上のものを与えないTRPGは別に上達しても便利屋として使い潰されるだけで、そんなモデルに付き合うぐらいなら脱落する者の方が多いであろうということです。
 TRPGがファンタジー・サブカル文化の領袖ではなく、多くある趣味の1つに成り下がった現代なら尚更のことです。

 この流れはどこかで革める必要があります。
 この流れが嫌で、業界の動向に振り回されることも、身勝手な……楽の感情にぶれている者たちが協調することない……仲間の取り持ちに失敗して仲違いをすることももう沢山だと云う男が、それでもTRPG自体は10単位で続けていきたいというのですから、第三の拠り所を探すしかないのです。

 その第三の道として、僕は業界の責任もサークルの責任も負わない…、さらには高度なゲームプレイという責任、皆を楽しまなければならないというGMの責任、過剰なまでにお行儀よくしなければならないというプレイヤーの責任なども軽減した「低責任TRPG」を模索しているのです。

 業界やサークルに関わる精神的負担はTRPG者としての幸福や上達には関係ないどころか、よりよいセッションのために要求してきた努力や心配り、求道精神すら必要なものではないのではないかと僕は思うのですよ。
 それら精神主義を廃しても、TRPGは上達ができるし、トラブルに悩まされることないゲームプレイは可能だと考えています。

 今年はこの「低責任TRPG」が主題の1つとなるでしょう。
 そんなわけで、今年もRPGコラム『うがつもの』をよろしくおねがいします。
 
タグ:TRPG
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2008年12月15日

賢狼さんのご機嫌取りにかかる経費 〜パラディンでも飲める飲料・リンゴジュース編〜

 『D&D4e』を一読しましたけど、やっぱりプレイしないことには何とも感想言えません。とみにウォーロードに関してもっと情報がほしい所。21日のHJCONで色々聞いてこないと…。

 今日はパラディンでも飲める飲物第一弾。

◆◆◆

 《禁酒の誓い》を立ててアルコール、麻薬、カフェインを絶った高貴なるパラディンとその仲間たち…。中世ヨーロッパ文化に近いファンタジーの世界では気候の問題、衛生面の問題、生活習慣の問題などで中々パラディンが飲めるソフトドリンクがないことに一堂は焦りを感じていた…。

▲「そうそう。『ウォーハンマーRPG』のサプリ、『オールド・ワールドの武器庫』では牛乳が1パイント2ペニーで売ってたよ」
●「ちょっと待て。あのゲームはそこいらにあるお嬢ちゃんがパンツじゃないから大丈夫と冒険に出れるライトファンタジーじゃないぞ。不衛生な中世欧州をこってり再現してるぞ」

 ちなみにこう注釈があります。

深酒した翌朝は、ちょっぴり腐った牛乳でいがらっぽい喉を潤そう。ミルクは長期保存する手段がないため、とても大胆な台所には腐ったミルクがたくさんある。
『オールド・ワールドの武器庫』より


●「さすがWH。期待を裏切らん」
▲「やはりこれがリアル中世なんだろうね」

 ファンタジー世界はアルプス以北の西岸海洋性気候帯なので柑橘類などの温帯植物は自然栽培が難しく、飲料にするほど出回っていないと考えられます。
 だが、逆を考えればアルプス以北で栽培されている果物なら十分出回っているのではないでしょうか。

ぐるなび海外版 - ドイツ特集 - ドイツグルメなるほど図鑑

DM「上述のWebサイトを見ると、イチゴや木苺、スグリやラズベリー、ブルーベリーなどのベリー類、サクランボにスモモやアンズ、洋梨にリンゴ辺りがアルプス以北でも育つ果物のようだね」
●「なんだ。以外とあるじゃん」
▲「ブドウは? ありそうなイメージだけど」
DM「ブドウは微妙なところ。ドイツは特別なのだよ」

 ブドウの北限はベルリンが位置する北緯53度(サハリンとほぼ同緯度)辺りだが、ドイツはメキシコ湾流の影響で年間平均気温がイタリア・トスカーナ地方と同じ10度前後という緯度からすれば温暖な気候であることによりブドウ栽培が可能になっています。
 メキシコ湾流の影響が少ないのかフランス・ノルマンディー地方やイギリスではワインの生産はほとんど行われず、代わりにリンゴ酒が普及していました。

DM「今日はその中でもリンゴ。ファンタジーの世界でも一番ポピュラーであろうリンゴを少し特集する」
▲「おお。ようやくファンタジーでも無理なく出せるソフトドリンクが登場するのか」
パ「うむ。ではさっそくながらリンゴジュースをいただこう」

DM「では給仕の娘さんは少々お時間をいただきたいと言って店の奥へと行った。しばらくすると店主の親父さんが出てきて、ジュース作りの道具を出すから手伝ってくれと言い出してきた」
●「ジュース作りの道具?」
DM「うむ。文章で説明するよりようつべで見た方がいいだろ」



●「なんか大掛かりだぞ!」
DM「いや、これが由緒正しきアップルジュース搾り機だ。実際はもう少し原始的だろうけど、大体こんな感じだね」

 コーカサス地方が原産のリンゴは紀元前から欧州に伝播しており、古代ローマではすでに接木による品種改良も行われていました。
 リンゴジュースは英米ではアップルサイダー、ドイツではアプフェルザフトと呼ばれています。もちろん、時間が経てば糖分がアルコール化し、瓶詰めして保存すれば発酵して炭酸ガスが発生して日本でもお馴染みのリンゴ酒・シードルになります。

▲「すっごい手間かかってるねぇ」
DM「そりゃあ殺菌も保存技術もない時代だもん。おそらく収穫後に村総出でリンゴを搾ってリンゴ酒やリンゴ酢を作ってたんだと思うよ。ドイツだと1年中収穫できるそうだけど、新鮮なリンゴが手に入らない場合はリンゴ酢を水で割って飲めばいいと思うよ」
●「向こうでお酢飲む習慣ってあるの?」
DM「そこまでは分からないね」

 ところで、リンゴと云えば『狼と香辛料』。賢狼ホロさんの大好物でもあります。第1巻では第3幕にてホロが町辻の露天に並ぶリンゴをねだるシーンがありますが、具体的なリンゴの描写はされていません。ただ、文倉十氏の挿絵やアニメを見る限りは日本で売られている直径10cm前後の真っ赤なリンゴです。

 『狼と香辛料』の世界はジャガイモが出回っているので大航海時代以降、ジャガイモ普及に努めたフリードリヒ大王(1740〜1786年在位)の御世、18世紀ぐらいがモチーフであると推測するとして、その時代に挿絵やアニメのようなリンゴをホロさんが入手できたかという問題があります。

 結論を申せば、当時のリンゴはもっと小ぶりなリンゴではなかったかと思います。

 今でもヨーロッパで売られているリンゴは日本のより小ぶりな200〜250g、直径6〜7cmのものが主流です。これは日本では実すぐり(摘果)と呼ばれる、1つの果実に栄養を集中させるべく余分な実を間引く作業を欧州ではしていないからだと考えられます。
 日本ではリンゴは生食が主体で、果物自体の価値も贈答品として用いられる程度に高いものがあります。したがって大きくて甘味が強く、赤の見栄えのよいリンゴが作られてきました。これに対して、リンゴ酒や酢、ジュースやリンゴ料理など加工品の需要が多い欧州ではリンゴはより身近な食材であり、数多く収穫する方を選ぶのでしょう。

 リンゴは品種改良が絶えなく行われている作物なので、当時のままの品種が今に伝わっている例は多くありません。
 例外として、ニュートンの逸話で有名な“ケントの花”と呼ばれる品種はその逸話から記念樹として今も残っています。参考Webサイトによれば、この品種は枝に実っている段階では渋くて食用に適さないが、熟すと自然に落下し、さらに完熟させることによって甘味が出るとのことです。

 “ケントの花”も200〜250g。文中でもホロさんは北の果物は固くて渋く、干したり寝かしたりしないと食べられないと言っている(第1巻112p)ので、おそらくホロさんが食べているリンゴも“ケントの花”に似た品種であろうと考えられます。

▼参考Webサイト
ケントの花 ニュートンのりんご

●「すると賢狼さんは“ふじ”の味を知らないってことになりますな」
DM「知ったらどうなるんかね。少なくとも僕は100円ショップのリンゴは食べる気にならない。どれだけセリブだよと言われても青果店で売られているのを買いたいね」
▲「いや、100円ショップの方が高いだろ」
DM「全国的な相場はともかく10個500円だからね」
パ「まめに皮を剥ける人じゃないと拷問に等しい数だけどな」

DM「ところで肝心のお値段なのだが、『武器・装備ガイド』ではリンゴ1ポンドで1gpとある。1ポンドが約0.45kgで、リンゴ1個が200〜250gとすると…」
●「…2個がいいところだな」
▲「ジャベリン1本と同じ値段だね」
DM「んで、リンゴ1個から取れる果汁は“むつ”で80〜100ccとされている。当時の小ぶりなリンゴだとまぁ60〜80ccぐらいだと思うから、約70ccで1杯1パイント(約450cc)分取るとなると…」
●「7個か8個必要だな」
▲「1杯4gpか…。ライト・ピック1本分のお値段」
パ「つーか、1レベルのモンクやレンジャーだと開始時の所持金が吹っ飛ぶお値段だなぁ。4d4gpだし…」
●「コーヒー1杯だって推定2spなんだし、どんだけセレブな飲物なんだよ」
パ「やっぱ賢狼さんを養うのは大変だな。抱き枕で勘弁しとくよ」
●「おまwwww それが高貴なるパラディンの選択かよ」
パ「高貴なパラディンだから30レベルまで童貞だって恥ずかしくないもんっ

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2008年12月06日

旅人のパンで貴方も理想のボディに! 〜D&D4ePHB購入〜

 『D&D4eプレイヤーズハンドブック』購入しました。
 みなさんお気づきかと思いますが、ハーフリングの平均身長が3.5eの3フィート(約90cm)から、4フィート(約120cm)に大幅アップしたことは革命的英断かと思います。
 もうハーフじゃなくて3/4ではありませんか。
 唄を歌い、人の財布をくすねてばかりのハーフリング族が一念発起して修業と栄養ある食事を続けて幾星霜…。とうとう奴らはドワーフにあと15pというくらいにまで上げてきたのです。それに比べてドワーフ族は穴掘りにうつつを抜かし、平均身長は3.5eから変わらず4.5フィート(約135p)のまま…。もう大柄なハーフリングは小柄なドワーフを抜けるレベルなのですよ。

 120cmといったらですね、ナデシコのルリちゃんとほぼ同じなのですよ。読者諸賢は事の重大性お分かりになられて?

 夢の
 攻略対象が全員ホビットの美少女ファンタジーAVG
 への道が大きく拓けたということですぞっ。

▼参考記事

ホビットがいかに小さいかを実感する

◆◆◆

 一般に新しいルルブが出ると、訓練されたTRPG者は真っ先に特殊技能たる特技欄を開いてマンチキンな連携技を画策するものです。だが、僕のようなおちゃらけが見るのは装備欄…。それも大抵のGMはあってもなくても歯牙にもかけない一般装備に心惹かれるものを感じるのです。
 さて、4ePHBの一般装備欄の中に1つ気になる道具があります。

旅人のパン:この魔法のパンはわずか数口食べるだけで胃袋を満たし、必要な栄養を全て供給する。そのため長旅に必要なだけの食料を持っていってもそれが重荷になることはない。

 うむうむ。これは何ともチートな、いや便利な食料。
 これで旅先にトロールを仕留めて臭い肉を煮込む必要がなくなったというのですかね。
 きっと旅先はこんな光景が…。

●「えっと…。“このパンを食べる際は一緒に水をよく飲んでください”だとさ」
▲「魔法の食料にはちょっと抵抗あるけど…。うぉっ、ホントに胃で膨れてくる。こりゃすげぇ」
●「これなら長旅でも大丈夫だ。さすがはパラディン、いいもの知ってるじゃないか」
パ「いや…。これは拙者の姉上が買い漁ってたもので…」

 そして数日…。
 パーティは険しい山脈を越え、前人未到の迷宮を目指す…。

●「なぁ…。お前出発前より頬こけてね?」
▲「そういうお前こそベルトの穴が2つ減ってるぞ」
●「やっぱり山越えの冒険は過酷だなぁ…」
DM「それでは寒さも厳しい中、今夜の野営に耐えられるか<持久力>の判定をしようか。目標値は…」
●「ちょwwww なんか目標値上がってるし」
DM「そりゃもう…。君たちは出発時と比べて格段に肉が落ちてるから」
▲「格段にって…。まだ<持久力>判定は1回も失敗してないぞ」
DM「まぁ、何か原因があるんでしょうね」

パ「あのぉ…。もしかして旅人パンのせい?」
●「道中ずっと旅人パンだったな」
▲「なぁパラディン? お前の姉ちゃんが買い漁ってたと言ってたけど、何か変わった様子はなかったかい?」
パ「そう言えば、しきりにお腹回りがどうのこうのとか…」
▲「…説明書きない?」

 “このパンは魔道師協会が独自に開発したヘルシーな健康食品です。原材料には水に浸して軟らかくした大豆を搾り、残った身を使用しています…”

タグ:TRPG D&D4e
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2008年11月25日

芸術の理解者を育てるために 〜批評と批評空間〜

 激動の2008年もあと僅か40日程度となりました。今年のプレイ回数は20に届くか届かないかといった所で、奇妙なことに『D&D』などを除いて、ほぼ毎回違うゲームをプレイしてた感があります。
 まだ結論は出ませんが、今年発売のゲームの中で高感度TOP3を挙げるとしたら、『大江戸RPGアヤカシ』、『シルバーレインRPG』、『ソード・ワールドRPG2.0』になるでしょうか…。
 残念なのは、『神曲奏界ポリフォニカRPG』をまだプレイする機会がないってことです。評判だけなら何度も聞いてるのに。
 
 今日はTRPGの批評について盛り上がっているので、シリーズを一時中断し、この僕も思う所を書いてみました。自分が批評家としてこうありたいなというより、こんな批評家に育ててもらったらいいなという希望を篭めて。

◆◆◆

 TRPGにおける批評とは何か。
 批評が市民権を得ている音楽・芸術の分野における批評とは、オスカー・ワイルドが『芸術家としての批評家』で語るように印象の結晶です。
 演奏を聴いた、絵画を鑑賞した、美味しい料理を食した、TRPGをプレイした……心に感じ入る出来事を体感したとして、それを言葉にして伝えようとしても、中々言葉にならないことってあるじゃないですか。
 凡人はやむなく、「面白い」「楽しい」「つまらない」「よい」「悪い」などと道標のような曖昧表現でお茶を濁してしまいます。

 だが、批評の切れ味は名探偵の推理に等しい…。

 芸術という煙か靄でも眺めているような漠然とした感覚を思索し、選び抜いた言葉で自分が感じた印象を言い当ててしまう。切れ味良い批評は、多くの人がつっかえていた言葉まで引き出してしまう。

 創造は「無」から「有」を生み出せるが、その「有」が何物なのかまでは作れません。それは受け手の感受性次第なのですから…。批評は感覚の世界の産物だった「有」に思索の力で確実な「意味」を与える芸術であり、批評精神こそが死ねば消失する人間の活動に不死性を与える源なのです。
 
 TRPGとて現場で完結される遊びではありません。
 実際、ほとんどのTRPGプレイヤーは自分が楽しんでいるTRPGの魅力を語れずにいます。誰もが批評精神が発揮されるほど強い主観など持ち合わせていないのですから、印象を言葉にすることができなければ、凡百の「面白い」「楽しい」などいった文句にも心躍りません。

 批評家の洞察は、多くの遊び手が印象のままで喉につっかえたままの「面白さ」「楽しさ」を言い当て、芸術の理解者という識見を開眼させる力があります。

 優れたTRPG批評家は、
 どのシステムがどのような高揚感やスリル、満足感を与え…、
 どんなロールプレイがキャラクターへの愛着感、場を和ませる達成感、ゲーム世界を彷彿とさせる夢想感を与えるか…、
 どのようなシナリオが作品の表現したい世界観を再現でき、それを遊び手に体感させることができるか…、
 どのようにレクリエーションの手法を用いれば様々な性格・経験の持ち主を継続的な遊び手に育てることができるか…、
 …などを自らの着眼点を頼りに思索し、それを明察ある言葉で表現します。

 理想的な批評はそれまで曖昧な嗜好のままでいた遊び手に、自分が感じた楽しさは泡沫の夢ではなく、不朽の価値を持った文化であることを理解させることでしょう。
 彼らは遊び手のレベルアップを助ける芸術界の導師なのです。

◆◆◆

 優れた批評家は、肥沃な批評空間に支えられています。

 批評空間とは何か。
 芸術を好む人の多くが、自らの印象を印象のままでいいや、死んで何も残らず消えても構わないと思うのなら、批評空間は発生しません。TRPGなら、生涯ただ遊ぶだけでいい、何を楽しんだか残さぬまま消滅してもいいという人たちだらけなら批評空間の余地はありません。
 
 批評空間は、物事を感じた自分の印象にどんな意味があるのか知りたい人たちが集まって作られます。ある人は人生の意義を求めるために、ある人はより多くの人と印象を分かち合いたいがために、またある人は開眼した芸術の理解者に敬意と憧憬を感じたがために、同じ印象を持った者同士が集い、情報を交換し出します。
 
 批評空間とは同じ物事で印象を持った者同士が集い、物事の当事者や責任者……芸術なら芸術家や画廊主、TRPGならデザイナーと販売者……の影響化にない私人同士が、物事の理解者にならんと互いの印象を批評し合い、議論をする交響の場です。
 批評家はこうした公共の批評空間で頭角を現した、創造主にも資本家にも属さない文化の第3権力者なのです。

 批評家が目指す所、導く者たちに求める所…、それは芸術家の忠実なファンでも、資本家のセールスマンでもなく、ユーザーのみがいる公共世界で確かな識見を持った好事家になることです。
 
 「批評精神を持ち、趣味を文化として日々その在り方を思索している趣味人」である好事家は、芸術家が必ずしもよき文化人であるとは限らず、資本家が必ずしも芸術の理解者であるとは限らないことをよく心得ています。そもそも、彼らは自分が死んだ後の芸術の行方に責任感を持っていません。芸術家は自らの魂を篭めた作品さえ残せば、資本家は財を成せば、その後芸術が廃れても構わないのです。
 だが、批評家と好事家は、彼らと違い批評空間が支える文化伝統の中でしか生きていかれません。そのために芸術家や資本家が堕落しないよう厳しく監督することが求められます。

 批評家は業界を育てる存在でありますが、芸術家・資本家が批評空間を単なる不満屋、自らの思い通りに動かぬ不平分子として敵視することは双方に有害なれどしばしば発生します。
 芸術家は優れた識者よりも、無垢な憧れの眼差しを向けるファンの声に耳を傾けがちです。それほどまでに、衝動、妄想の中から芸術を生み出す活動はナイーブなことなのです。
 
 批評家・好事家が芸術家・資本家に嫌悪されないために必要なのは、例え彼らが文化の行く末に絶望し愛を失っても、自分たちが業界を底から堅持する、あなたたちがいつでも活動できるよう応援は惜しまないという愛情の他に何もありません。
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