2008年04月28日

もってけ!TRPG 〜ゲームマーケット2008で人生最安値の購入〜

 『大帝の剣RPG』と『アニムンサクシスTRPG』、『スターオーシャンTRPG』、定価合計11800円の3冊(新古品)をゲームマーケット2008で購入しました。

 300円で。

 差し引き11500円分の儲け。
 だけどプレイすることなんかないでしょうな。結局、書棚の飾りに300円も使ったということか…いや、これらのTRPGも楽しくプレイしている人たちがいて、接点が持てるという点で300円は破格の安値と云えるのでしょうか。

 まぁ、まずは書棚のスペース工面せんとね。

 そんなわけで、ゲームマーケット2008に行ってきました。
 今回も時間いっぱいボードゲームやカードゲームを楽しんできました。僕はあまり深いこと考えず、場をかき乱しては自爆するタイプなので大勝ちかボロ負けが常なようです。1回ごとのすっきり感があるけど、とっても疲れます。
 
 だから、戦略を駆使するゲームよりも、ゆる〜い面白さを追究したゲームの方が単純に楽しめたかなとも思っています。ゲームマーケットはトイに近い原始的な遊びのゲームがとても多いのが特徴です。
 
 冒険企画局のブースでも、これまでのカードゲームとは一転、木製の人形を高い場所からバンジーさせるゲームってのがありました。長さの違うバンジーの紐をダイスで獲得して、うまく地表スレスレに紐の長さを調節するのがゲームのコツなんですけど、意外に盛り上がります。
 んで、そのゲームの紹介絵が、まよキンの子鬼がバンジーしてる絵だったんですけど、HP1の子鬼だと地面に激突はおろか紐で吊られるだけで死ぬのではないかと…。
 なにしろ正座して足が痺れたり湯豆腐で口の中火傷しただけでも死ぬかもって生き物だそうですし。

 そんなわけで、今日もたっぷり楽しんできました。一緒にプレイした参加者の皆様、どうもありがとうございます。
 
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2008年04月24日

なぜソードワールドは廃れなかったのか 〜文庫としてのTRPG〜

 『ソードワールドRPG2.0(SW2.0)』買いました。
 色々と「ああ、こうなっちゃったんだね…」と思うことはありますが、システムのバランスがとてもよいということなので、とりあえず掴みは良好のようです。

 そんなわけで、今日はなぜソードワールドが廃れなかったかという話。

◆◆◆

 旧作『ソードワールドRPG(SW)』は思えば不思議な作品でした。
 『パワープレイ(PP)』と同様、TRPGがまだウォーゲームの派生として、ウォーゲームの合間にファンタジー物語を語り合うという和製『D&D』を求めていた頃の作品であり、『バトルテック』を参考にした独自のシステムは非ウォーゲーマーから見れば些かマニアックであり、TRPGとして決して分かりやすいシステムではありませんでした。
 僕が高校生だった頃は『ロードス島戦記RPG』や『ブルーフォレスト物語』などより簡潔なシステムがあり、SWは『D&D』ほどマニアックではないが、サークルでもそれなりに技能を磨いた玄人が好んでいたという印象があります。

 さすれば、僕がPPに対して断じたように、和製『D&D』の存在意義が物語メディアの発達によって薄れた時期に合わせて、SWの使命は終わったと断ずる人が出てきてもおかしくはありません。
 
 曰く、SWはシステムも、牧歌的な冒険者物語(デザインコンセプト)も研究され、表現され尽くした感があり飽きてきた。よりバランスが取れ現在のトラブルに対処した清新なシステム、最新のファンタジー物語に合わせたハイセンスなデザインコンセプトに基づいた設定がなされたゲームが登場すれば、SWは自ずとスタンダードTRPGという大仰な看板を下ろし使命を終わるであろう……。
 TRPGサイクルの否定期によくある批判をSWも受けました。

 事実、96年にハードカバー版『ソードワールドRPG完全版』が出版されましたが、08年現在でもSWと云ったら旧来の文庫版を示す人の方が多いのが現実です。完全版は累積した用語の整理やバランス調整など文庫版より完成度の高いシステムだったはずなのですが、文庫版より低い評価に留まっています。
 同じSNEのゲームとして前年に出た『クリスタニアRPG』の方にファンが傾倒したのが主たる理由でしたが、95年の『トーキョーN◎VA the 2nd edition』、96年の『熱血専用!!』、『天羅万象』、97年の『深淵』、『番長学園RPG』とロールプレイの妙を楽しむ濃厚なデザインのゲームが露出してきた時代であり、SWの寡占状態だったプレイ環境に割り入ってきたというのもあります。

 僕が一旦リタイアした2000年前後までの間に、SWは爛熟期から否定期に差し掛かり、代わりに初期F.E.A.R社の人気タイトルが隆盛期に入ってきました。
 少なくとも、都会では。

 そしてTRPG冬の時代も過ぎ、インターネット環境が発達して趣味文化の多くが「多くある興味を引くものの1つ」になった現在、使命を終えたはずのSWはまだしぶとく現役でい続けていました。それも文庫版の方が、です。
 そして今年、『ソードワールドRPG2.0(SW2.0)』としての再生…。
 TRPG系Blog界隈はかってない反響を以てこの再生を迎えました。
 
 同じ和製D&Dを目指したPPとの差、これは何でしょう。
 僕はSWにはシステムの清新さというゲーマーの視点だけでは語りきれないブランド価値が備わっており、それがSWを不朽にしたと考えます。

 SW最大の武器は文庫版だったことです。
 TRPGを入手する場所に事欠かない都会ゲーマーには想像し難いことですが、地方のゲーマーにとってSWは注文しなくとも買える可能性がある唯一のTRPGでした。僕もまた都会ゲーマーなので、これに関してはうまく説明できないでしょう。そこは地方のゲーマー諸兄にお任せします。
 だが、実の所入手しやすさはSWにとって最重要なメリットではありません。ここから先は都会も地方も一緒です。

 SWが文庫本であることで、TRPGの遊び手は始めて自分のライフスタイルの中にTRPGを組み込むことが可能になった……これがSWが持つ最大の功績です。
 それまでTRPGと云えばボックスであったりA4サイズの巨大ムックであったりと、日常生活の中で広げるには抵抗のある「プロの道具」でした。趣味の道具とは云えTRPGは文字の集合体たる書籍…、読書感覚でTRPGに触れることができればどれだけ気軽であろうか…。
 SWが出て、始めてTRPGの遊び手は電車の中や喫茶店で、気兼ねなくルールブックを開くことができるようになったのです。実社会の中で堂々と自分の趣味を開陳できるという喜びは多くの遊び手にモチベーションを与え、業界を活性化させる効果があったのです。
 その意味では、TRPGのライフスタイル化への可能性を開いた『T&T』の功績も忘れてはならないでしょう。

 ゲーム総合情報誌やライトノベル誌に登場したリプレイはTRPGの知名度に貢献しましたが、コンシューマーゲーマーやラノベ愛好者がすんなりTRPGに入ってきたのも、SWが彼らの趣味文化に何か特別な変化をもたらすことなく参加できるような土壌を作ったからでしょう。SWはコンシューマーゲームやラノベの世界とTRPGの世界とを繋ぐ橋としては見事な形態であったと云えます。これが『D&D』だったらこんなにすんなりいかなかったでしょう。
ここまで来て、SW完全版がなぜ文和版よりも完成度が高いのに評価が低いのかお分かりいただけたかと思います。あのぶ厚いムック版は遊び手のライフスタイルに組み込むには大仰すぎたのです。

 文庫版と云えば『D&D』も一時期文庫版が出版されましたが結果は総スカンでした。D&Dは当初からコアな志向を持つマニア愛好の品であり、システムも情報もTRPGの中の高級品です。云わば文庫版D&Dは持つのも恥ずかしい廉価版なのです。何でも文庫にすれば売れるわけではないのです。
 
 文庫版TRPGは日常のライフスタイルに入り込める作品だけが成功する形式であり、SWはゲーム誌やラノベに好奇心や娯楽を求める人たちが日常に組み込んでいるライフスタイルの中に溶け込むことでブランドを得ました。
 到底、TRPG一徹者やシュミレーションゲーム流れには気付きもしないことです。

◆◆◆
 
 さて、2008年現在、文庫版TRPGは『アリアンロッドRPG』や『アルシャード・ガイア』があり、SW2.0はそれら先発と同じ市場を奪い合うという意見もあります。
 だが、それ以上に奪い合いになる真のライバルがいます。
 云うまでもなく、旧版たる『ソードワールドRPG』です。ブルーレイがHDDVDとの競争に勝ち、現在は現在主流のDVDとのシェア争いが予測されるのと同様に、SW2.0もSWが築いているシェアをどれだけ奪えるかが勝負となりましょう。
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2008年04月21日

TRPG SNSに入会

 『ソードワールド2.0』まだ買えてません。
 今日は実家で庭木の剪定してたもんでして……言い訳するほどではないかな。
 
 気まぐれTRPGニュースを見れば、このゲームへの期待感が非常に高いことが窺えます。TRPG.NETの件は未来記事が非表示になるということで一応の解決が見られました。これを以て当方も適正な処置が取られたと判断します。関係者及び読者の方々にあつく御礼申し上げます。並びに気まぐれTRPGニュースの今後の活躍に大きく期待するものであります。

 前から懸案していたTRPG SNSに参加いたしました。まだ何かするというわけではないのですが、参加者の皆様には今後ともよろしくお願いします。

 今日は報告のみです。
ラベル:TRPG SNS TRPG
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2008年04月10日

労力は課題であって経費ではない 〜TRPGのコストとプロブレム〜

 オリンピックの聖火リレーがチベット問題で大揉めです。ですが、仮に長野でも同様の騒動が発生するとするならば、中国の隣国であり多くの在日中国人を抱えている日本では、デモ活動を行うのは英仏のようにチベット問題活動家ばかりだと考えるのは問題ではないでしょうか。
 予測されるのは、愛国を訴え抗議活動を妨害するために人が集まって、抗議活動グループと衝突することです。それはそれで「絵」になる光景ですけど、軽い気持ちで「電凸だ」と出かけたら怖い愛国者にボコられたなんて惨めですから、出かける方はくれぐれも用心してくださいね。

 本来なら、そうした反発も含めての自重なんですけどね。
 まぁ杞憂であることを願います。
 
 さて、今日はこの記事から。

TRPGのコスト

TRPGのベネフィット

(ともに『まりおんのらんだむと〜く+』より)

 題名で示した通りなのですが、自分の資源(リソース)で調整がきかないものをコストと呼ぶのは問題があると思います。そもそもコストは生産活動における対価を意味するものであって、何かを成し遂げるために克服すべき課題(プロブレム)と混合してはいないでしょうか。
 簡単に云えば、コストは「○○を得るために、どれだけ支払うのか」という意味であって、「○○を得るために、どれだけ努力するのか」という意味ではありません。後者は生産活動そのものであって、生産活動をするために支払う費用ではないからです。

 その意味で、人的コストをTRPGのコストとして換算するのは間違っています。まりおん氏の用例は「まず人を集める必要がある」、すなわち参加者確保のために必要な労力のことなのでしょうが、労力自体は課題であって経費ではありません。生産活動における人的コストとは人件費、すなわち賃金に他なりません。
 もしTRPGで、参加者に給金を支払うというのなら人的コストがかかります。また、人集めに広告など経費がかさむというのなら、人的コストではないが人集めのための必要経費としてコストに加算されるでしょう。
 
 また、時間をコストに換算するのは、各人がいかなる活動に価値を見出しているかで差異があるという点において、コストに換算するのは難しいかと考えます。
 これには機会費用(opportunity cost)という言葉があます。もし該当する時間の中で最も価値を生み出す活動をしていたならばいくら儲かっていたのか、実際に行った活動を得られたであろう儲けの額に換算して、価値の損得を考えるというものです。
 例えば時給1万円で働いている人が1時間休んだとします。機会費用の考えからすると、彼の休憩は1万円の価値があるわけです。

 もしTRPGの準備時間およびプレイ時間を機会費用で考えるなら、遊び手が就業して入手した時給と比較して、TRPGにかかった時間分だけ働いて手に入れた給金額ほどの価値がTRPGにあるかと考えるわけです。
 5時間プレイしたとすると、時給900円のバイト5時間で入手できる4500円の価値がプレイ時間にあるか、または4500円の機会費用価値がある空き時間を超える価値がプレイ時間にあるのか……。
 まぁ、個人差が大きいものです。
 
 環境コストも人的コストと同様、換算できるのは施設借入にかかる経費や交通費だけであり、施設を用意する努力は課題であって経費ではありません。

 高橋志臣氏が提言した評価コストに関しても、評価を得るために支払った経費、すなわち宣伝費や遊興費こそがコストとして換算されるべきであって、「評価を得るための努力」は課題の範疇です。
 ましてや、結果として得た評価は経費ではないでしょう。経費を払って得たものです。

 結局、資金コストのみがTRPGにおけるコストの問題であって、残りは課題もしくは機会費用の範疇に入るのではないのでしょうか。
 以上が僕の意見です。

 
ラベル:TRPG
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2008年04月06日

反響に応えるという土壌 〜キャラクターを作ることと使用すること〜

 TRPGは物語の登場人物めいたキャラクターを操作するゲームです。しかるにTRPGのキャラクターが創作活動に活かせるという発想が生まれ、漫画家や小説家、ゲーム脚本家などが着想の源としてTRPGを嗜んでいるということです。なるほど、TRPGは創作活動を補助する環境開発ツールだというのも頷けます。

 魅力的なキャラはTRPGの産物と云えます。
 ですが、僕らの周囲はゲームに小説、漫画にアニメとキャラクターを売りにしたメディアが溢れています。その中でTRPGが生み出すキャラクターが持つ特性や、どのような工程の元で生まれるのか認識することは有益なことかと存じます。

 今日は、ただ作成されたキャラクターとプレイに使用されたキャラクターとの間にある差についてです。

◆◆◆

 TRPGのキャラクターは誰であろうと魅力的になり得ます。
 だが、創作活動に近い作業をこなさなければ、誰であっても魅力的なキャラクターなど制作はできません。描かれない絵、飾られない絵の魅力を語ることなどできませんから、世の名画とされる絵は例外なく描かれ、そして飾られています。
 TRPGのキャラクターも、キャラクター作成ルールに従って作成しただけでは魅力的なキャラになるとは限りません。ただ、描かれない絵、飾られない絵だろうと絵師の脳内あるいは地下室にて絵師のみには光彩を放っているように、プレイされないキャラクターと云えども、作った本人のみには十分魅力的であるものです。

 要するに自己満足なんですけど、作った本人からすればまんざら悪い思いではありません。TRPGのルールがなければ形にすらならなかったのですから。
 だが、己の創作意欲が結実した自己満足だけが、TRPGで得られる快感ではありません。プレイに用いれば自己満足とは違った、新しい快感を得ることが可能で、新しい快感はキャラクターを実体なき虚像から、実感の持てる実像へと進化させることができます。

 その新しい快感とは何でしょうか。
 ここからは、新しい快感を得たゲームと、新しい快感を得られなかったゲームとして、『Forza Motorsport 2』と『WWE SmackDown vs Raw2008』を取り上げます。

◆◆◆

 僕はプロレスが好きですから、『エキサイティングプロレス(エキプロ)』シリーズ……発売元がTHQに移って『WWE SmackDown vs Raw(SVR)』シリーズも購入しプレイしています。
 このエキプロorSVRシリーズの売りとして、オリジナルのレスラーを作るエディット機能というのがありまして、細かな外見から技、仕草や入場シーンまで事細かに作成できるのです。それで作成されたオリジナルレスラーはCAWと呼ばれ、ネットでは自作のCAWを公開したりして交流が行われています。

 ですが、最新版の『WWE SmackDown vs Raw2008』でもオンラインでは対戦しか行えず、またエディットパーツの一部が商標上使用できないということもあり、CAW表現の場としては不都合な状態です。
 CAWの楽しさはMAD動画に近いもので、漫画やゲーム、アニメのキャラを再現してプロレスする姿を観て楽しむことだと思います。結局はYouTubeやニコニコ動画を借りて動画がちょこっと出る程度で、現状ではソリティア(1人遊び)ゲームの粋から一歩も出ていません。

 さて、なぜSVRのことに触れたかと云えば、SVRのCAWは優れた……4以降は改善と改悪が混在し、手放しで褒められた進化をしていないのですが……エディット機能で完成度の高いキャラを作り出すことはできますが、それだけでは魅力的なキャラに「なる」ことはできないことを言いたかったからです。
 
 魅力的なキャラに「なる」とはどういうことか…。
 それはキャラが消費者(読者、視聴者、遊び手)にメッセージやイメージを与えるメディアとなり、メディアの世界で賞賛を得ることに他なりません。それには、作成されたキャラを披露し、その特徴を表現するという意識的素地が必要なのです。

 云わば、作成したキャラを衆目の前に飾ることです。

 SVRのCAWはキャラの個性を表現する場に乏しく、多くの遊び手にとってCOWを飾る楽しみに魅力を感じることはありません。ニコニコ動画を見れば分かると思いますが、動画を投稿する第一の理由は、衆目の反響を浴びたいという表現者なら誰もが持つ喜びにあります。反響を得られる場がなければ、反響を得る喜び自体に無頓着になりがちなもので、そうした環境では自己満足以上の感情は芽生えません。なぜなら、自己満足で事足りる世界では反響を得るための労苦や、より多くの反響を得るための戦略的視野を持つ必要性を感じないからです。
 これは同じようにエディット機能が自由自在で、完成度の高いキャラクター(車)が作成できながら、オンライン環境が整っていたお陰で存分に自作ペイント車を披露でき、高い反響を得た『Forza Motorsport 2』との違いとも云えます。
 Forzaのペイント車は反響を呼ぶ場が存在しているという点で、自己満足の発露でしかない実社会のペイント車より多彩な環境にあります。実社会のペイント車でアニメキャラをペイントしたものはあっても、野球やサッカーのユニフォームをモチーフにしたり、著名レーシングチームのレプリカペイントをしたり、挙句は企業商品やAAまでペイントしたいという環境はないでしょう。
 実社会ではそんな真似までして得る反響より、自己満足感の方が優先されます。しかるに実社会のペイント車は俗に痛車と呼ばれる、作者の萌え感情の発露の手段に留まっています。

◆◆◆

 反響こそエディットでは得られない新しい快感なのですけど、TRPGの場合イベントの場で数人の同好者相手に披露するわけですから、不愉快な反響はさほど多くありません。
 何よりも反響をすぐに活かし、リアルタイムにキャラクターを肉付けすることが可能な点がTRPGの利点です。     

 TRPGのセッションでは、キャラメイクのみでは得られないキャラクターの細かい肉付けがプレイでの行動によってなされます。
 キャラメイクではキャラの身体的特性、特技、大まかな性格、履歴書程度のプロフィールが設定されますが、出来上がったキャラクターはまだ書類上のデータでしかありません。自己満足してしまう人はキャラの肖像の多くを脳内のイメージ貯蔵庫に保蔵したまま、夢想することで満足してしまうものですけど、実の所肖像の多くは本人の想像力の遥か奥で眠っているものです。

 キャラの面白さってのは生活の中に起こる光景に、どんなことを言って、どんな仕草で、どう動くのかってのを観察するのが楽しいわけで、それにはセッションを通して1つ1つ想像しロールプレイによって形にするしかありません。
 そうして、キャラクターを実世界で動く僕たちと同様に思い、悩み、考え、行動する実像を持った存在にして、始めて二次創作の主人公としての使用に耐えうる魅力的なキャラクターへと進化するのではないでしょうか。

 TRPGで使ったキャラが面白い肉付けができたってのは、どこのセッションでも自然に発生するものです。ただ、物語で楽しんだ思い出とその過程でダベっているうちにポンポン浮かんできた(ロールプレイと素性の混成物である)キャラは、あくまでも物語を作る際にできる副産物であって、副産物が脚光を浴びることはあっても、じゃあ副産物(面白キャラ)が欲しいから主産物(物語)抜きでTRPGをやろうとしても、目的に見合ったキャラが作れるとは思えないと云うのが僕の考えです。
ラベル:TRPG
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2008年03月27日

使命が終わることの意味 〜TRPG人気サイクルから見るTRPG市場〜

 そろそろTRPG.NETのRSSアンテナでの、『きまぐれTRPGニュース』の扱いを検討してはいかがと思います。前にも日時設定のズルを指摘したこともありますが、、『きまぐれTRPGニュース』は市販品の紹介もしており、悪質なアファリエイト活動とも見られます。
 管理人のaccelerator氏はTRPG.NETとよく協議し、解決策がでない場合はTRPG.NETへのRSS送信の撤退も考慮すべきかと思います。

 今日はTRPGの使命が終わるということの意味です。

 そもそもTRPG愛好者としてTRPG作品に引導を渡す行為は、あまり善良なことではありません。その作品を研究し普及に努め、経験が知財となっているゲーマーの苦労を水泡に帰すとならば、反発を受けるよりは口を閉ざす優しさを選ぶ人の方が多いのは明らかなことです。
 よって、単に自分が好まざるゲームを中傷するがための蛮勇でしか、そのような声が聞こえなくなり、TRPG作品への批評に悪影響が出てきているのではないでしょうか。
 
 正当な批評であっても、悪意ある中傷と見なされる業界は自由がありません。遊び手が業界を賛美する声ばかりを褒め、異論を受け入れる寛容さを失ったら、業界は閉塞します。
 それでも、自分の趣味を否定される不安から、たやすく自由な環境を放棄してしまう人はいます。だが愛好者が厳しい意見を遠ざける環境は、喜びに満ちる場になるどころか、怨嗟と嫉妬が渦巻く魔境となるものです。
 なぜなら、優しい意見のみに耳を傾け、厳しい意見に耳を塞ぐ態度はポジティブではなく、不寛容に他なりませんから。
 
 批評を受け入れる寛容さのある業界なら、1つの作品が馴染まなかったと公言しても、別の作品に移行したり、プレイ環境を変えるなど本人は自由でい続けられます。
 だが、賛美しか受け入れられない業界だったらどうでしょう。作品批判はすぐに業界、愛好者への攻撃へと見なされ、異端者としてグループから追放されるしかありません。そして次第に、自分がスケープゴートにされはしまいかと周囲の顔色を窺う地獄へと変貌していくのです。

◆◆◆
 
 正当な批評が受け入れられる自由な環境のためには、それだけの見識が必要でしょう。寛容が善ですので、個人的な好き嫌いで使命の終了を断じてはならず、かつ個人の熱意や好みまで強制的に終了させる性質のものではありません。

 まず、なぜ使命の終了を判断する必要があるのか。
 それにはまずこの記事をご覧下さい。TRPGは市場流通に依存した商品である以上、消費者の人気と支持に影響される運命を持っています。

TRPGは止揚される 〜TRPG作品の人気サイクル〜

 絶版になったTRPG作品は否定期から反省期に入っている作品です。ここで爛熟期に起きた影響を検討し、来るべき黎明期への再生のために、市場のニーズを再調査して異なる価値観を持つ次世代にも通用する作品にリメイクするかが、作品再生への鍵となります。そのために、爛熟期の終了を宣言するのが使命を終えることの意味です。

 ここでいつまでも「ブームは終わっていない」と往時の流行を引き摺って「あの頃はあれで良かったのだ。変える必要はない」と頑迷な態度を続けていれば、価値観がガラリと変わった次世代への支持は得られません。
 まぁ、そういう状態を「時代に取り残された」と云います。そんな者たちがいかなる末路を歩むか、誰もが察することができると思います。
 
◆◆◆

 では、使命が終わったとは具体的にどんな状態を指すのでしょうか。

 TRPG作品にとって使命を終えることとは、市場を失うことです。
 市場は人々の生活環境を整えるために物品を交換する場です。生活環境には必需品(単体の生活に必要な物品)と奢侈品(社会生活に役に立つ物品)が必要であり、必需品を望む必需価値と奢侈品を望むブランド価値が市場に並ぶ物品を定める基準となります。
 そして、市場の運営者は消費者がそれぞれの生活環境から自由な選択ができることに合わせ、ニーズに応える競争力をつけた品物を優先的に並べます。
 
 すなわち、市場に並ぶのは必需価値やブランドがある物品ということです。TRPGの遊び手にとって生活環境とはプレイ環境のことですから、市場から途絶えたTRPG作品は個人の欲求としても、集団の流行としてもプレイ環境に組み入れる必要がないと下されたことなのです。

 具体的には、TRPG作品は黎明期に常に業界にアンテナを張り活発な言論活動をしているコアゲーマーが買い、隆盛期に各グループでGM活動をしている親ゲーマーが買い、爛熟期に親ゲーマーの影響で興味を持っているが、自らが親ゲーマーとなって伝道活動をする気がない繁殖力のない子ゲーマーが買います。
 どんなTRPGでも子ゲーマーが購入層の限界です。子ゲーマーにくまなく作品が行き渡った時点で、TRPG作品は爛熟期から否定期に入るのでしょう。

 だから、市場を失うことは決して「売れなかった」ことではないのです。「売れる層に十分行き渡った」ことを意味するのです。市場は購買層の購買意欲の数だけしか容量がありませんから、業界に不足している作品……人気が出始めた作品を優先的に陳列しますし、供給が行き届いた作品は規模を縮小し、そして絶版にします。
 なにしろ、TRPGは書籍ですから物持ちが良いですからね。子ゲーマーとならば数年経とうと使用に耐えうる品質を保ち続けるでしょう。

 また、劇的な環境の変化で瞬く間に必需価値を失う場合もあります。この場合は、親ゲーマーが十分な子ゲーマーを獲得できる前に市場が途絶えてしまいます。例えば欠陥品やネガティブ・キャンペーンを受けた作品、各種審査協会から止められた作品などです。メーカーが事業に失敗して、十分に販売できないまま解散することもあります。

 だが、それ以上に劇的な変化として、技術革新によって物品そのものの必需価値が消滅したり、革新された技術に合わせて世の中のルールが一変し価値を否定されたりすることがあります。
 例えば人力車がそれに当たります。自動車の拡充によって人力車は移動手段としての必需価値を失ったのみならず、車道が自動車に合わさったルールで運営されるようになり、人力車は自動車と同じ世界で活動すること自体ができなくなりました。

 市場を失うということは、これらの諸事情が影響して人々の生活環境にそぐわなくなっていったということです。

◆◆◆

 最後に、再生のための手順を提示しましょう。

 遊び手に十分行き渡ったので市場から退いた場合、必需価値は満たされましたが、ブランドは持続しています。ただ、否定期のプレイでその作品が提供しうるゲームプレイはほぼ出し尽くされます。
 
 TRPGはまずシステムから消耗し、続いてデザインコンセプト、最後にゲーム世界が持ちこたえます。この3要素のどれがどれだけ消耗し、どれだけ持続しているか再検討することが作品再生の匙加減です。

 『D20メタルヘッド』はデザインコンセプト、ゲーム世界を堅持し、システムのみを変えました。
 『トーキョーN◎VA』や『天羅万象』はゲーム世界のみを活かし、デザインコンセプトを従来のサークル中心からカジュアル中心のプレイ環境に合わせて作り直しています。
 ゲーム世界まで変化されたとなると作品自体が変化していますので、菊池たけし、井上純弌ブランドとか、デザイナーブランド内での変化と見ていいでしょう。例えば『天羅万象』、『テラ・ザ・ガンスリンガー』、『エンゼルギア』の設定が『天羅WARS』に継承されたこととかです。
 逆に3種すべてを堅持したまま、データを加味修正しただけで再登場したものもあります。『パワープレイ・プログレス』がそれに当たります。

 劇的な変化で市場からの退場を余儀なくされた作品は必需価値はまだ残っているでしょうけど、ブランドが十分発揮できなかった可能性があります。これらの作品はまず、新しいベンダを見つけて再出発するしかありません。

 『戦国霊異伝』は発売元がイエローサブマリン内ブランド、キラメキだっただけに流通経路が限られており十分に購買層を拡大できないまま絶版になりました。だからブランドは残っており、やがて復刊.comにて復刊され、さらに『幕末霊異伝MI・BU・RO』とさらなる展開をすることができました。
 逆に『蓬莱学園の冒険!』は著作権の移行が不明であり、人気作であるにも関わらず現在市場が途絶えたままです。

 存在意義が否定されるほどの変化を受けた作品の再生は容易ではありません。なにしろ、今まで活動していた環境にもう居場所がないのですから。
 こうした作品は、市場を新たに開拓するしかありません。

 TRPGにはまだ存在意義が否定されるほどの作品は登場しませんので、人力車の喩えで続けましょう。
 もし人力車の車夫が業界再生をかけて、もう一度タクシーとシェア競争をさせてくれと運動したらどうでしょう。おそらくタクシーとの規模・利便性の差で負けることは必至でしょうけど、それ以前にもう生活環境は市場の勝者・自動車に合わせてルール変更がされており、道路は自動車のルールの元に作り変えられています。その中で人力車が活動するのは不便であり、渋滞で迷惑を引き起こし、危険です。
 もはや人力車はタクシーと同じ土俵で活動すること自体否定されているのです。それ故、自動車の往来が制限された観光地での観光車両として再生し、かつて健脚が自慢だった人力車夫は観光ガイドとして再出発しました。

 TRPGが存在を否定されるほど技術革新がされるとしたら、まずオンライン環境の進化が予測されるでしょうか。もしネットランが可能になったらTRPGは仮想空間を舞台にした擬似ライブRPGに進化することもありえます。
 TRPG自体が反社会的行為として国や組織から弾圧される可能性もあります。『D&D』が出た当初、シーフが活躍する『D&D』はキリスト教精神に反する反社会的な存在とネガテイブ・キャンペーンが発生したことがありましたが、同じことが日本で起きないとも限りません。

 ほら、日本には怪しい著作権シールを売って儲けたいと目論む人たちが多くいますし。

◆◆◆

 TRPGの使命が終わるということは、決して悲劇ではなく、むしろ役目を十分に果たしたという結果でもあるのです。そして再生のために必要な反省への歩みを始めることなのです。
 
 使命が終わったから努力が水泡に帰したと落胆するのは早計です。ゲームプレイで培った経験は反省的視野となって次世代のゲームにも役立ちますし、そうした積み重ねが総体として優れたゲーム感覚として次世代のリスペクトを得る要素となるのです。

 本当に努力が水泡に帰すのは、往時の栄光を引き摺って自分自身のゲーマーとしての使命すら終わらしてしまうことではないでしょうか。

◆◆◆

追記:2008.3/29

その1:『2D6で1』のstealth氏から、『戦国霊異伝』に関する情報に誤認があるとの意見を戴きました。関係者の方々に謹んでお詫び申し上げるとともに、訂正記事を引用させて戴きます。

一言だけ

実誤認があるようなので申し上げますと、「有限会社キラメキ」はイエローサブマリン内部のブランドではありません。
『戦国霊異伝』初版はキラメキから直接出版されております。
イエローサブマリンの内部ブランド「マジカルミステリーツアー」から発売されたのは、キラメキ制作の『アコースティックリ−フ』であります。
ちなみに『幕末霊異伝MI・BU・RO』をディベロップしたのは「番長学園!!」のTEAS事務所です。


その2:冒頭の『きまぐれTRPGニュース』への指摘の件で、『TRPGのススメ?』の紅茶檸檬氏からアフィリエイトではないという指摘を受けました。誤解を招く表現をしてしまったことをここに謹んでお詫び申し上げます。

hatenaでアフィリエイトのお話ー
ラベル:TRPG
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2008年03月22日

『パワープレイ』に捧げる挽歌 〜TRPG作品が使命を終えるとき〜

 春分の日を利用しまして、かねてからやりたかった秘密プロジェクトを始動しました。もうすでにお気づきの方もいらっしゃるかと思いますが、今後はそちらの方でもまったり活動していきますので、よろしゅうご贔屓にお願いします。
 
 今日は1つのTRPGが使命を終える時の話。
 
 2007年は『ナイトウィザード』、『シャドウラン』、『六門世界RPG』、『ナイトメアハンター・ディープ』、『マルス2nd』など改訂版が多く登場し、今年に入ってからも『深淵』、『セブン=フォートレス』が装いを新たにし、それにD20システムで『メタルヘッド』、『ワースブレイド』が続きます。

 その一方で、再販の声もかからず忘れ去られたTRPGもあります。
 もちろん書籍形態のTRPG、持ち出せば何年経とうがプレイできますし、そのTRPGが「ある」限り、使命を終えたなどと宣言するのは早すぎると思う方もおりましょう。
 だが、「ある」にも関わらずプレミアもつかない。中古品が安値のまま放置され、TRPG系Blogなどで懐古する者もおらねば、再販の声も聞かれない。プレイ歴3〜5年の若手の間では断絶状態。そんなTRPG作品は自然発生的に再起することは至難であり、使命を終えたと断じてもいいのではないのでしょうか。

 今回はそんな使命の終わったTRPGの1つとして、『パワープレイ』を挙げたいと思います。高校時代によくプレイしたゲームの1つです。

 『パワープレイ(以下PP)』は和製『D&D』を目指した作品でした。
 そのシステム構成は『D&D』とほぼ同じで、種族&職業、能力値と判定、戦闘システム、魔法、モンスター、成長、その他の諸ルールで成り立っています。まだ状況再現システム(作品の特色を出すための特例ルール)が存在しない、原始的なダンジョン探索ゲームをするためのTRPGです。

 PPの特徴は以下の3つが挙げられます。

・複数個のD6を振らせるが、1つでも1の目が出れば失敗(ランダム性の強い判定)
・魔法や武器には能力値制限があり、能力値を上げて段階的に習得する(ビルドアップを前提とした作り)
・経験値が「(レベルの合計)×(プレイ時間)×100÷(人数)」(ダンジョン探索を目的とした経験値)

 僕は、この3つの特徴全てがカッコで示す通り、新和版『D&D』での基調プレイ……プレイ時間のほとんどをダンジョン探索に費やし、ランダム性が高い危険な戦闘や探索に挑み、できる限りじっくりと時間をかけて探索をしつつ生存することをゲーム目標とし、その褒賞としてキャラクターをビルドアップし、さらに脅威度の高いダンジョンに挑む……をするためにデザインしたものと考えています。

 だがPPが世に出た91年はもう『D&D』の時代ではありませんでした。89年に出た『ソードワールド』、『ロードス島戦記コンパニオン』とリプレイ集によって、TRPGは物語再現装置としてゲームメディアとしての道を猛進しており、TRPG業界にはライトノベル誌やゲーム総合誌などから多くの物語好きな層が参入してきました。
 この層がTRPGで特に好んだのが、ゲームブックのように対話と描写で物語を進めるアドベンチャーであり、物語を語り合うストーリーテリングでした。
 このダンジョン巡り主体からストーリーテリング主体へとプレイスタイルの流行が変化したことは、PPの特色を根底から揺るがすものでした。TRPGには、HPなどの資源管理を行わない安全な時間が多くなり、その代わりストーリーテリングを行う時間が飛躍的に拡張されていきました。プレイ時間=タイムサバイバルという前提で作られていたPPにとっては「ゲームと見なしていない場面で経験値が貯まる」という事態に陥りました。

 さらに、リプレイの隆盛と定着によってキャンペーンにも物語的展開が導入されるようになり、キャラクターのビルドアップはキャンペーンの主体ではなくなっていきました。そもそも『D&D』にしても迷宮専門だった赤箱から野外での物語付き冒険が楽しめる青箱、異世界冒険や領地経営など個人を超えた冒険向けの緑箱、そしてイモータルに至る黒箱とレベルアップをするに従って冒険の規模自体がスケールアップしていったのに対して、PPのレベルアップはどこまで行ってもキャラクターの増強のみでした。

 云わば、時間が続く限り赤箱状態で楽しむことがPPの存在意義と云えましょう。PPはホビージャパンの作品だけに、RPGマガジン誌による支援を受け、同誌読者をターゲットにしたファンタジーとして一定の地位を築いていました。
 そして、RPGマガジン終焉とともにその使命を一端終えました。

 だが、この当時はまだTRPG作品としてのブランドは残っており、2000年には『パワープレイ・プログレス(以下PPP)』として改訂されています。PPPの執筆陣には『スター・レジェンド』の銅大氏や田中天氏など、現在も活躍する人たちがいます。

 PPPはPPのシステムに加えて、独自のゲーム世界を作れるワールドメイキングの設定が追加されました。これは『AD&D』や『ソードワールド』などのファンタジーTRPGで当時頻繁に行われていたサークル内オリジナル世界でのプレイを前提にした作りをしているもの思われます。
 だが、2000年〜01年の間にも、PPPにとっては不幸なことにTRPG業界はまたしてもプレイスタイルの劇的な変化が起こりました。99年発売の『ビーストバインド 魔獣の絆』以降、試行錯誤が続いたシナリオ運営技術化の動きが2000年の『天羅万象・零』、01年の『輪廻戦記ゼノスケープ』、『プレイド・オブ・アルカナ 2nd Edition』、『テラ:ザ・ガンスリンガー』、『ダブルクロス』などによってハンドアウトとして結実。手作りオリジナル世界が優勢だったTRPG業界は、一気にデザイナーブランド中心の業界へと変化しました。TRPGは作品ごとに独自の世界観を打ち出すことが当たり前になり、PPPのような自作を基調にしたTRPG作品はまったく需要が絶えてしまいました。
 また、シナリオ運営技術の確立によってプレイ時間は「できる限り時間をかけて遊ぶもの」から、「遊び手の都合に合わせて管理するべきもの」へと意識変化が起き、PPと変わらぬ経験値配分であるPPPは益々時代にそぐわなくなっていきました。

 その他の諸因もありますが、かくしてPPPは次々と最新技術を搭載した後発ゲームによって人気を保ち続けることもできず、2008年現在は絶版状態にあり、再販の予定もありません。
 そして2007年末、物語の強いカジュアルプレイを重視しながらゲーム世界を自作する『りゅうたま』の登場によって、PPPはその使命を完全に終えることになりました。

 PPそしてPPPが廃れていった原因は、いずれも時代を読み違えたことにあるかと思われます。どちらも当時主流だったプレイスタイルを踏襲し、泥臭さをなくした作りをしています。だが、時代にとって最先端技術ではなく、どちらかと云えば懐古的であったのが問題であり、単に時代時代の原始的楽しさを洗練したのみでは、ゲームとしてのトレンドは掴めなかったと云えましょう。

 僕もPPはよくプレイしたし、作者の山北篤氏は尊敬すべきデザイナーだと認識しています。だが、現代になって氏の業績が業界に痕跡を残していないという現状を顧みれば、厳しい評価をせざるをえません。
 
 確かに昔を懐かしむ気持ちはありますが、TRPGの遊び手を取り巻く環境は日々変化しているもので、10年前には誰もが自然に遊んでいたスタイルが現在ではプレイすることすら困難になることがままあるのです。
 TRPGは今の遊び手がプレイ可能な環境にも適応できなくなったら、その使命を終えるのです。ここ1〜2年の間に再販されたTRPGも、今遊び手が置かれているプレイ環境に適応できるか否かで、今後の運命が左右されるものかと存じます。

 

 
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2008年03月17日

昔の記事を掘り出して見る

 たとえ1晩でも幼子が群れをなす家は戦場です。
 1人なら目が届きますし休息もできます。だが、2人以上となればそれぞれが無軌道に散開しますし、片方は食べるのにもう片方は残すという無統制ぶりを見せる。それでいて片方が泣き出すと連鎖的に全員泣き出すし、1人起きれば全員起きる。
 
 そろそろ自分が書いた過去記事を再確認しないといけない段階に入ってきました。自分が過去にまったく違う意見を云っていたか、同じ意見を復唱していなかったかなど、150近くのTRPG雑記を書いているだけに記憶が曖昧になってしまいまして。

 だけど、5年10年書き続けても同じこと云い続けるのは、正直「まったく改善されていません」ってことを示しているってことで、政治経済や思想などの長いスパンで語る問題ではなく、自分のプレイ環境という短いスパンの問題を語っている立場としては少し恥ずかしいことなのではないでしょうか。
 その一方で、昔の言動がまるで別人みたいに変動しているってのもあまり歓迎されはしないとも考えています。

 僕としては、新しい知識や情報、環境の変化で表面的な意見や主張は変化するものであっても、見識から培ってきた総合判断、哲学は初期から熟成されることはあっても変質することは滅多にないかと思います。初期の文には初期の文なりに、荒削りながら今の自分の考えに合致するエッセンスがあったりして、それを再発見するのはとても嬉しいことです。

 そんなわけで、今日は何点かテーマごとに再読をしているものをピックアップしておきます。

▼TRPGマッチョに関する記事

悪人の告白と楽しむための守備範囲
 TRPGのマッチョイズムに毒された者の心境

僕は偽初心者卓を立てたことあります 〜ダメサークル視点での上級者と初心者〜
 TRPGマッチョのサークル運営術。

人は呼んでほしい。狗はいらない
 TRPGマッチョの初心者オルグ術。TRPGマッチョには偽マッチョもいます。

▼キャラクタープレイに関する記事

喧嘩番長でロシアンフック 〜TRPGとコンシューマーでのインタラクティブ性の違い〜
 ロールプレイとキャラメイクでは得られる面白さは違うわけで、そこは再度考察せねば。

キャラクタープレイをまとめてみた
 当時はトークゲームに関する見解がなかったので、これも再考が必要か。

萌えない者の辛苦 〜萌えTRPG、パチモンPCとの付き合い〜
 考えの根幹は今も同じ。だが、かと云って僕がキャラクタープレイを無条件否定していると思われるのは心外。どこかで補完せねば。

クラウザー2世は1万人に1人、根岸クンは100人に1人 〜ロールプレイとのろけ話の違い〜
 これも根幹は変わっていない。自己完結からいいキャラは生まれない。

萌えキャラって自分自身じゃないの 〜性差によるイメージの違い〜
 はてなデビュー作。TRPGは時として「他者」をも作ろうとする。

『らき☆すたTRPG』は作成至難 〜TRPGの根源にある駆け引き・やり取りのゲーム〜
 TRPG→らき☆すたは自然にあるけど、らき☆すた→TRPGは難しい。紅茶さんトコで取り上げられたことだし、そろそろ補完記事書かねば。
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2008年03月09日

初心者がまず構築すべきTRPGドクトリン

 ブレーキをかけながらアクセルを踏み込むさんとこにて、論客としての僕が紹介されました。取り上げていただきありがとうございます。

 率直な感想云いますと、他のお三方とは違った視座に立っていることは論客としては非常に重要なことです。確かに僕はTRPG論客ならず、TRPG者論客なのかもしれません。それを最初に指摘したのが馬場秀和氏なわけで。まぁ純粋にシステム論議するよりは語りやすいからなんですけどね。

 今日はTRPG攻略法をもとにした、TRPG初心者が訓練を受けるに必要なシステムの基礎です。

◆◆◆
 
 TRPGの初心者か否かについて、1つの明確な基準があります。
 それはあなたがTRPGグループの中で何ができるのか、具体的な長所を自覚しているか否かです。自分に何ができるか無知な人は何年プレイしようが、グループの中では間に合わせのモブ(人格を留意する必要のない重要性の低い人物)です。大抵の人は軽視される環境に不満を感じ、待遇を改善すべく精勤しますが、その際基調となる思考は「自分はいかにしてグループの中で存在感を示すか」です。いかなるグループも、グループの活動を維持するために必要な人材が優遇されます。
 
 TRPG初心者は、まず「自分はグループの中で何ができるか」と考えることを第一歩としてください。

 TRPGに接した人が一様に感じるのが、「なんか難しそうで近づき難い」という障壁です。これは未知の環境に放り込まれた者が共通して抱く感情であり、イメージが飛び交うTRPG環境では漠然と混沌が常態であります。

 TRPGは1人の遊び手が主役を演じれば脇役も演じ、ルールブックを駆使してウォーゲームを勝ち抜くこともあれば、巣の知力や機転を利かせて謎やパズルを解くこともあり、あるいは社交術を活かして円滑な交渉をすることもあります。
 考慮すべき事項もウォーゲームの勝利、シナリオの成否、レクリエーション活動の充実具合と、部長と課長と平社員の役割を同時に引き受けるかのような多様な思考が求められます。これにGM業、さらにグループの運営業までこなす必要が生じれば、1人1人がTRPGを独立して運営していけるだけの力量が問われることになります。

 なぜ、TRPGは各人に独立運営能力を求めているか。
 それは「TRPGは好きなゲームを好きな時に、遊び仲間を特定せず楽しむ」ことを前提に活動を維持しているからです。TRPGは各ゲームごとの支持者のみで分離して活動するには遊び手の絶対数に不安があります。
 なぜならTRPGは熱狂的愛好者の堅信的活動……いわゆる信者・中毒者の犠牲によって運営されている奴隷商売を行っていません。ほぼすべての愛好者が多くある選択肢から、その日の気分でTRPGを愛好しているという弱い結束のもとで成立しています。

 初心者の方は、「TRPGは好きなゲームを好きな時に、遊び仲間を特定せず楽しむ」環境であることを認識しておいて下さい。これだけであなたは戦場の地の利を得ます。
 では、こうした環境の中でいかに自分の居場所を求めましょうか。

 TRPGに参加できる年齢であれば、これまで実社会で何かしらの組織の元で、何人かでグループを組み活動した経験があるかと思います。そしてグループ活動に成果を出すに、「自分はこうすればお役に立てる」「自分はチームの中でこんな具合に動く」という自分自身の得意な役割を講じたことがあるか考えて下さい。

 TRPGという複雑な環境に戸惑う人は、いかにして異質な環境に順応すべきか考えてしまうものですが、忘れてください。複雑な環境ですが、そこに生きている人はごく普通の人ばかりです。
 あなたは実社会で通じている性格から自分の長所を見出せばいいのです。
 
 人によっては、グループ活動など精力的に活動したこともない。すべて右から左に流しても問題なかったから、グループの中で存在感を示そうとも、そのために自分の長所など考えたこともないと云う人もおりましょう。
 活動維持費を徴収しているわけではないTRPGのグループとしては、そのような低意欲な人に居場所を与え続けるほど甘い環境ではありません。
 世にグループは、その活動の維持に精力的な人から人材としてカウントするのが習いです。活動に消極的な人など、人以下の消費物として使い潰されるのが世の常だと肝に銘じておいて下さい。もちろん、ただ精力的なだけで存在感を示せない人もモブとして、使い潰されるのは一緒です(トイレットペーパーとメモ用紙ぐらいの差はありますけど)。
 たかが趣味の世界で使い潰されるなど、愚の骨頂です。

◆◆◆

 TRPGという環境で活動する第一の心構えは「自分の長所を発揮する」ことでグループ内での存在感を示すことです。その長所は、今までの実生活で培った性格から編み出すべきでしょう。
 ここでは、グループで活動するに武器とすべき長所……資質的特性を「TRPGドクトリン」と表現します。ドクトリンとは軍隊では、各軍隊の存在意義から編み出した特性のことを指し、ドクトリンが発揮されるように戦術を組み、戦略を練ります。

 まずはあなたのTRPGドクトリンを決めましょう。
 TRPG活動に精力的な人は、次に示す8種のTRPGドクトリンのうち1つ以上を発揮するよう活動しています。まず、あなたのTRPGドクトリンがどのタイプにあるのか、自らの実生活から一番実感の持てるものを選択してください。

【TRPGの行動指針8種】

1:成功確率を読んで、勝負に出る
2:有利な状況を作り出し、勝てる勝負を作る
3:ここ一番の得意技を繰り出す
4:補佐役としてチームの欠点を補う
5:チームを鼓舞し、目標に向かって牽引する
6:常に目的を見定め、脱線しないように軌道修正をする
7:打開策を講じ、楽して成功する道を探す
8:明るいムードを演出して、チームを活気づける

 あなたがTRPGで行うべき仕事は、TRPGドクトリンで定めたあなたの長所を生かしてチームのお役に立つことです。チームの成功はTRPG活動そのものの成功に寄与し、あなたに様々な恩恵……仲間の信頼、充実した時間、素晴らしい物語の体感、そしてあなたがTRPGを選んだことが間違いではなかったという満足感……になります。

 ドクトリンが決まれば、それを発揮すべく運動能力を構築しましょう。TRPGは各ドクトリンに対応した役割分担が、チームという単位では職業、クラス、テンプレート、アーキタイプといった物語上での配役構成に似た形で提示されています。団体競技で云うポジション、軍隊では部隊編成に当たるもので、多くのTRPGはそれぞれ違ったドクトリンの元で強化された別兵科の者たちが組み合わさって協同するコンバインド・アームズで成り立っています。

 TRPGの運動能力とコンバインド・アームズに関しては次回。 
 
 
ラベル:TRPG
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2008年03月06日

ガイギャックスはRPGの神様になられた

 すでにご存知でしょうけど、『D&D』デザイナーの1人、ゲーリー・ガイギャックス氏が4日に逝去しました。氏の多大なる功績を称え、ここに謹んで哀悼の意を表するものであります。

 これで僕らはTRPG始祖とは世代ではなく、時代が隔たってしまったのでしょうか。彼一代の流行で終わるのか、それとも時代を越えた輝きを持ち続けるのか、それは遊び手それぞれの敬意によって変わってくるものかと思います。

 イモータルの道を歩み始めた魔術師モルデンカイネンに乾杯!
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2008年03月03日

外に語る時代ではなくなった 〜TRPGブロガーがアニメ版ナイトウィザードに冷淡だった一因〜

 昨年10月〜12月にかけてTVアニメ『ナイトウィザード The ANIMATION』が放送され、ロードス以来のTRPG原作アニメということで僕もその動向を注視していました。やはり原作設定の多いTRPGと云う媒介を1クールで説明しきるのは至難の技でしたが、頭を抱えるほどの逸脱や作画崩壊(OPを含め何度かハラハラしたけど)もなく、まぁまず無難に終えた感はあります。

 TRPG愛好家の間では久々の露出にさぞ湧き上がっているかと思いきや、意外と冷淡です。放送時に合わせて、『ナイトウィザード 2nd Rdition』が発売されたのですが、そんなに騒ぐほど話題になったというほどではありません。
 ナイトウィザード愛好家の元に行けば、それなりの熱い盛り上がりを体感できたかと思いますが、それでないごく普通にTRPGをプレイしている環境では、正直アニメ版は別次元の話でした。

 様々な諸因はあるでしょうけど、アニメ化がTRPGの販売促進に繋がったかは正直微妙ではないかと思います。結論を出すにはまだ早いのでしょうけど、ナイトウィザードで活動している方々の実感も聞いてみたい所です。

 そんなわけで、今日はTRPG愛好者が外部露出に冷淡になったのかを問い、その諸因の1つを推察します。

◆◆◆

 かつて『ロードス島戦記』が世に出て、TRPGの存在が知れ渡った時代、日本においてTRPGの背景たる西洋ファンタジー自体が認知されておらず、TRPGは新しいゲームであると同時に、新しい物語文化の伝道者としての役目を求められていました。そもそも、当時はゲームに小説のような物語が織り込まれ、ゲーム中に物語られること自体が異質の存在でした。

 すなわち、当時のTRPG愛好者は世間一般の人より物語世界のイメージが豊富であり、イメージ格差の是正をするために盛んに外部に自分たちの文化を語る必要がありました。
 この時代、TRPGは紛れもなく文化の発信者でした。TRPGは物語世界の文化では最先端技術でもあったのです。

 翻って現在では、映画、漫画、アニメ、小説、そしてゲームと物語文化を演出するメディアは多種多様になり、またインターネットの登場によって文化の伝播が格段と容易になりました。これによって、TRPG愛好者はゲームを紹介するのに一々物語世界を解説する手間から解放されました。チェインメイルが何なのか、ゴブリンとはどんな生き物なのか、十分にイメージがついてから参加してくる人が多くなり、それ以前にゲームを遊ぶのに物語世界を把握する必要性が認知されるようになりました。

 現在では、TRPG以外のメディアに精通し、TRPG愛好者よりも物語世界のイメージが豊富な人など、それこそ市場を成すほどいるでしょう。ある物語文化を楽しむにTRPGは文字(小説)、ヴィジュアル(視覚メディア)、コミュニケーション(オンライン)のどれもアンティークな存在になり、「物語文化の体験」というかってはTRPGが最先端技術だった時代は趣味文化の多様化によって拡散されるようになりました。物語文化を体感するに、TRPGは最先端から選択肢の1つに成り下がりました。

 今の時代、物語文化の最先端技術の座を降りたTRPGは逆に文化の受信者となっています。むしろTRPGの方が他メディアの影響を受け、流行のメディアを再現するようアンテナを張ることが求められています。
 TRPGが外部発信から内部受信の文化になった時期はおそらく、冬の時代と呼ばれた2000年前後と、F.E.A.R社が旗手となって現在のスタイルが新生された2005年頃の間、5年の間かと思います。

 TRPG系BlogはTRPGを知らぬ外部に宣伝活動をするよりも、TRPG愛好者の間で啓蒙活動をするBlogの方が多くあります。僕のBlogもその走りであるわけですけど、要するにBlogを開くほど発言に意欲のあるゲーマーの興味が外よりも内に向いているということです。
 これは当然の事で、TRPG系ブロガーと云えども数ある趣味の中にTRPGがあるに過ぎず、異文化の良さを十分知っているからです。趣味文化が多様化し、それぞれが認知され住み分けられるほど成熟した日本では、それぞれの趣味が市民権を持ちやすく、「○○こそ優れている。××はダメ」という文句がつけづらくなっています。
 今の時代、TRPGが優れた文化であることを宣伝しても、より市場が広く熟練した見識者がいる他メディアによって返り討ちに遭うことは目に見えています。

 TRPGの良さを外部に伝える必要性を感じるのは、趣味文化が多種多様になった現在では簡単なことではないのです。趣味文化が未成熟な時代は、それぞれの井戸の中で、俺たちの趣味こそ天下一と主張し合うことこそが趣味人の在り方でした。それぞれの趣味文化が今よりずっと閉鎖環境にあったからです。その不便さから、外に向かう言葉が必要だったのです。
 だが、それぞれの趣味が独自に発展し、それらがインターネットによって容易く伝播し合える現代では趣味を持つに閉鎖環境に置かれることはなく、いつでも外の世界を窺い知ることができます。そんな開かれた世界になった時代に、TRPGこそ優れた趣味だと訴えた所で、すぐ他の世界と見比べることが可能なのです。

 こんな時代ですから、TRPGが他メディアに物語を提供した所で、TRPGがアニメ業界に貢献した、TRPGはアニメ業界に恩を売った、アニメ業界はTRPG様の善意によって優れた作品を得たなどと思う人は誰もいません。いわんや、アニメ業界に御恩を与えたのだから、アニメ業界からは恩に報いるべく参入者が来て当然ではないかと考える者は今や妄動の徒と云えましょう。
 
 TRPGはTRPG、アニメはアニメと趣味の世界はそれぞれに成熟し別次元で住み分けられているのが現在なのです。それが分かっているからこその冷淡ぶりなのでしょう。
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2008年02月24日

TRPGが「ある」 〜物品としてのTRPGの認知〜

 『さよなら絶望先生』の小森霧ちゃんは100万人にお兄ちゃんいるでしょ言われてうんざりしているそうだが、それは100万人が霧ちゃんを妹にしたいと思っているということなのでは。
 確かに引き篭もりの妹とくれば、少女を自室に飼いたいと願う監禁王子な方々には理想の存在ですし。近所にも「ウチの妹引き篭もりで困っています」と言っておけば、実はメイド服で鎖につないで監禁して、それなんてエロゲなマネしようが(アホの考えであろうが)無問題に思えますしね。なんて罪深い。混沌の手先め。
 
 アホ話はここまで。

 今日はTRPGが「ある」ことについてです。

 TRPGは物品として「ある」ことが即ちゲームとしての意義があるとは見なされません。誰がどう見たって書籍ですし。遊び手がゲームを「する」ことによって、初めてTRPGは書籍からゲームに成り得ますよね。
 それがあるから、今まで僕は「TRPGはゲームか」という問題自体に些か違和感を感じていました。僕がTRPGのルールブックを示して「これはゲームです」と証明することは「では、実際にゲームをしてみましょう」と付随することで可能です。でも、ただ立て札に「これはゲームです」と銘打って飾った場合、一体誰がTRPGをゲームと認めるのでしょうか。見物客がTRPGを知っていることをただ願うのみではありませんでしょうか。

 愛好者としては、TRPGが「ある」だけでゲームと認知され、さらに欲を出せば支持される世の中を願います。だけど、書籍やサイコロ、紙片だけではTRPGを連想させるのは難しい所。書籍、サイコロ、紙片と云う専門の趣味で取り扱う道具としてはありふれたTRPGの道具類は、連想して導き出すには優先順位はとても低いことが予測されるからです。
 TRPGを優先的に連想させるには、書籍とサイコロ、紙片がある光景はTRPGなのだと連想させるだけの刷り込みがなされてないといけませんし、対象が広範であればあるほど、大規模な宣伝と目撃、体験によって身近にあるものだということが実感できるものでなくてはなりません。
 TRPGが物品として「ある」ことのみでゲームとして認知されるということは、社会的認知の問題でありTRPGがゲームだということを証明する必要はないということなのです。対象がゲームを知らなくとも、遊ばなくとも。
 
 TRPGが「ある」だけではゲームとして認知され辛いのは道具類が専門の道具として認知されにくいというだけではありません。逆に、道具として先鋭化し過ぎたが上の実態としての専門性の高さにもあります。

 簡単に云えば、何でもかんでも文字とイメージで表現し過ぎているってことです。視覚に訴えるギミックはフィギュアにしろフロアタイルにしろ、書籍形態にした時点で取っ払われ、サイコロも6面体以外は普及していないからと敬遠される傾向にあります。
 それが悪いかはともかく、視覚ギミックをそぎ落とす方向に向かったTRPGは遊び手に読書力とイメージのための連想力を強く求めるゲームとなりました。それによって、TRPGは普及よりも練達の方が重要視され、かつ遊び手にとって具体的な存在になりました。TRPGが「ある」ことに関しては曖昧模糊なモヤモヤしか浮かばないが、TRPGを「する」ことに関しては具体的なモデルが提示できるというわけです。

 今のTRPGは遊び手が読解し、イメージし表現する事を当たり前とし過ぎています。それが訓練を要することだと云うことすら認められないぐらい。
 TRPGは原始的な道具と違って、様々な機能を1つに集約した結果、工業機械のように専門知識を通しての視野でないとその役割すら認識できない代物なのかもしれません。
 
 僕らTRPG系ブロガーも、TRPGを認知させる事ことの難しさから、TRPGを観念的に「する」ための清談に逃避してしまいがちです。論考記事が賑わうのは結構ですが、TRPGを扱うメディアの一端を担う者たちが、TRPGの社会的認知に背を向けた隠者ばかりでは困るということです。
 もちろん、本来ならそういう事は販売側がするべきことなんですけどね。エンドユーザーが好き勝手やってるだけだと自認しているスタンスの人にまで、お前らもうちょっと論客としての自覚持てと言うのもおこがましい限りで。

 ちなみに僕は、TRPGはボードゲーム並みに専用遊戯道具を揃えても、80〜90年代のようにユーザー確保の妨げにはならないと思います。80年代の頃はシミュレーションゲーム、90年代にはカードゲームやミニチュアウォーゲームと同居しており、ボックスやカード、ミニチュアを揃える事はゲーム活動とは別の、コレクターとしてのステータスがありました。新参者はゲーマーとして以前に、収集家の集いとしての壁に遭遇するわけで、そこに参入の妨げがありました。
 
 2008年現在、TRPGはコレクタブルゲームとはどれとも距離を取っていますし、弱肉強食の要素……たくさん投資した者が単純に強くなるという状態でなければ専用遊戯道具を作るのも悪くないかもしれません。
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2008年02月19日

脳を気遣う歳だから 〜大人になってTRPGをやる意味〜

 TRPGを楽しむために根源的に必要なことは何でしょう。
 物語、演技、対話、戦闘、パーティなど色々あるでしょう。
 肝心なのはそれら仕組みの諸要素が「快感」を生み出せるか…。すなわち、快感の根源たるエンドルフィンを分泌できるかにかかっています。

 今日は大人になってTRPGを楽しむ意義について。

 TRPGのみならず、ゲーム全般、そして遊び事全般を通してそれを楽しむ人と楽しんでいない人とでは精神状態は大きく異なっています。TRPGのゲーマーなら、ついつい部外者から「何が楽しいの?」と聞かれてムキになってしまう青い時代を経験した事でしょう。

 曰く、我は奇行なす異端者ではない、と。
 でも、大人になれば逆の立場で多くの趣味人を見下してた事を悟ることでしょう。そのジレンマに苦しみ、ついには全ては幼児性の成すことであったと趣味から卒業してしまう人もいるものです。
 俗に「バカバカしくなった」と呟く状態なんですけど、TRPGを楽しむという自己実現の欲求が、ジレンマに苦しむ事からくる脳の疲労によって減退し、エンドルフィンを分泌せしめる欲求になりえなくなったのです。

 こうなると、必要なのは休養です。鬱状態です。

 では、成熟した大人であるはずなのに趣味人な人はどういう精神構造をしているのでしょうか。幼児性の抜けない未熟な精神の人たちなのでしょうか。もちろん、口さがない人はそう揶揄する事でしょう。羨望と嫉妬が混じった目線を向けて。

 だが、僕なんかは幼稚などと揶揄されても傷ついたりすることはありません(面前でお前は幼稚だと言い出す人のDQNぶりに薄気味悪さを感じる事はありますけど)。また、ああ俺はヲタクで結構と開き直る気にもなれません。
 僕は20代前半から後半までリタイアしていましたので、その間に僅かながら成長があったのでしょう。

 この歳になって選んでいる趣味だから、そこには理性的な理由があるのだと思っています。具体的には、脳の活性化を促すために古来からエンドルフィン分泌活動として行われていた「遊び」をしており、その中でも持続性の高い高次的・社会的な欲求を満たせうる遊びとしてT創作的要素、想像的要素の強いTRPGを選んでいる……となるでしょうか。

 エンドルフィンは脳で働く神経伝達物質(神経を動かす燃料みたいなもの)で、これが出ると鎮痛効果があり幸せな気分になれることから脳内麻薬とも呼ばれています。
 エンドルフィンは脳の中にある報酬系と云う神経に多くあります。報酬系は欲求が満たされると元気になる神経で、これには食欲、性欲、体温調整欲と云った動物的な欲求のみならず、愛や充実感、希望と云った社会的、高次的な欲求にも作用します。報酬系神経は知覚、思考、記憶などを司る大脳皮質を保つために重要な神経だとも云われています。一方で薬物依存などの状態を生み出すのも報酬系神経が影響しています。

 今の僕にとってTRPGはお茶を飲んだり音楽を聴いたりと、脳を健全に保ち精神を安寧にさせる行動の中にあるってことです。

◆◆◆

 TRPGの根源に関わる「遊」について良質な考察がされているWebサイトを発見。僕もただ今精読中です。

 〈遊〉について
 
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2008年02月14日

TRPGの延長線上にTRPGの討論はあるのか

 TRPG LINKにきまぐれTRPGニュースを追加しました。
 最近活躍が著しいaccelerator氏のTRPG系ニュースBlogで、僕もよく利用させていただいております。
 あと、過去ログの件数を増大。

 今日はTRPGの討論についてちょっと気付いたこと。

 TRPGの原理、メカニズムに関する論考、討論はしばしば空転し、論客の疲労によって霧散してはまたぶり返されるという無限回廊の様相に陥りがちです。このループによってせっかく論じられた資産が実用性を失い、結果として討論自体が存在意義を失うことを危惧する人は1人2人ではないかと思います。
 討論と銘打っていますが、実際は有志座談会であり、何かプロジェクトを企画しているわけでも、会議後に総括声明を発するわけでもない。参加者は匿名で、討論相手との面識もなければ、討論結果が今後のプレイに影響することもない。言いたい放題かまして、相手の意見は黙殺した所で何ら問題はない…。
 その程度のものですから、影響力を持とうと思う方がどうかしています。
 「お前らが論議している問題は、俺様がとっくの昔に論破してるんだぞ」と口吻飛ばした所で、「そんなもん、誰も見ちゃいねーんだよ」で終わるのが関の山。正直、論客同士が意見交換して見識を深められればそれでよし、というものなのでしょう。

 ではTRPGの討論は役に立たないのか、無駄なのか。
 そこで有益を主張するか、無益を主張するかが常道ですが、僕はここに第3の道が存在するのではと考えています。すなわち、有益無益の問題ではなく、むしろ別の次元の基で繰り広げられているのではないのか…。

 楽しいから。

 RPG日本の鏡氏は著名なアマチュア論客であるが、彼などは討論そのものが楽しいと主張
したことが何度かあったような気がします。実の所、TRPGの討論はお互い何も賭けていない以上、総括・結論にこだわる必要がなく、むしろやり取りの妙を楽しむゲームに近い代物です。
 
 実は、普段TRPGで行っているトークゲーム(Conversation Gameとした方が正しいかもしれない)の延長線としてTRPGの討論があるのではないのか。いや、討論という舞台で論客をロールプレイするTRPGをしてはいないか…。
 それが今日言いたかった事です。TRPGのトークゲームのように、修辞の凝らしたうまい文章表現が上手なロールプレイのように評価され、物語を構築し共有することを楽しむように、討論することで議題を構築し共有することを楽しんではいないだろうか…。

 それが的を得ているのか、的外れなのか、僕はまだ解答を持ちえていません。
 だが、僕らTRPGの遊び手は有益無益の次元から遠く離れた、楽しむために積極的に対話し討論するTRPGのトークゲームを知っているし、各々がTRPGをバックグラウンドとしているはずです。
 その慣れ親しんだ環境のままに、討論というゲームを楽しんではいないか…。

 いかがなものでしょう。
 
ラベル:TRPG
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2008年02月05日

一本道の歩き方 〜TRPGにおける一本道の種類とトークゲーム〜

 先月、1月27日にHOBBY-JAPAN社屋にてHJ-CONに珍しく回転翼名義で参加しました。GM及びパーティの皆様には楽しいプレイができましたことあつく御礼申し上げます。
 
 D4+5の2回攻撃、やりすぎ。D&D脳(笑)

 今日はTRPGにおける一本道の話。

 一本道と云えばGMの想定したシナリオ展開を外れないセッション形態のことを意味します。迷宮探索がメインだった時代においては入り口と出口が1つずつで、迷宮をくまなく探索する意味がなく、まっすぐ出口に向かえばそれでよしと云うシナリオのことを指していました。
 これが物語の追体験がメインとなったここ10年ほどのTRPGでは、物語のプロットが迷宮の変わりになり、GMが構成作家よろしく組み立てたシナリオ展開を遊び手たちはメタの立場から追体験するという遊び方が主流となりました。この段階での一本道とは、物語の構成に分岐がなく、終始1つの価値観で統一されているシナリオのことを指します。

 老練なゲーマーは多分前者しか知らないと思います。
 『D&D』は価値観が不統一なシステムですし、そのせめぎ合いがトークゲーム(対話のやり取りを対局ゲームとして見立てた遊び)の主題でした。初代は3つ、『AD&D』以降は9つあるアライメントがD&Dの世界を構成していると云ってもよく、アルコンでもデヴィルでも、D&Dの舞台に立つ者はすべて己のアライメントとどう付き合うのかが存在意義です。
 そんなD&D時代のトークゲームを知る者からすれば、遊び手の価値観が統一されて当たり前の一本道など容易に想像はつかないでしょう。
 だが、この「構成の一本道」は『ナイトウィザード』のような最近の作品に限って登場するものではありません。

 構成の一本道の場合、GMは「遊び手がこの場面ではどう考え、どのような行動を起こすか」まで設定します。遊び手もメタ視点ですから、GMの構成に「面白い」という信任を持って、彼の設定に従います。このような形式は『D&D』ようにPCの価値観が不統一になるよう仕組まれたゲームでなれば、どのゲームでも可能です。なべても『サイバーパンク2.0.2.0』や『深淵』のような、作品自体が1つの哲学に基づいてデザインされているゲームにおいては、哲学が遊び手個人の価値観より優先されると云ってもよいでしょう。

 『サイバーパンク2.0.2.0』が出てきましたが、このゲームは、

1:スタイルは実像をしのぐ(結果よりも在り様が問われる)
2:態度がすべてだ(誰もが自己を剥き出しにしている)
3:エッジを極めろ(どんなことでもギリギリの真剣勝負)

 という哲学を誰もが体現しなくてはならないゲームでして、その哲学の下に個人の価値観があります。極端な言い方をしますが、この哲学に従わない判断をしたPCを、GMは容赦なく切り捨てても構わないのです。その容赦ない世界観の中で、いかに哲学を貫くかがこのゲームにおけるトークゲームの主題と云えましょう。

 『サイバーパンク2.0.2.0』はデザイナー側が価値観を提示していますが、GMが自由に価値観を想定してよい(受け入れられるかは別にして)ゲームも多々あります。ぶっちゃけ、価値観など無着手なゲームなどいくらでもあります。
 
 『ナイトウィザード』の場合、表立っては強い価値観を提示していませんが、キャラクター属性の典型に基づいて設計されたウィザードのテンプレートがPC個人の価値観を具体的な形に統一させています。 すなわち、遊び手全体を統一させる価値観には希薄なれど、個々のキャラクターの価値観は一定にできているということです。ハンドアウトによるセッション運営技術に従って運営するのならば、それでも十分構成の一本道が可能となります。
 
 要するに「遊び手がこの場面ではどう考え、どのような行動を起こすか」を規定する「構成の一本道」には、『サイバーパンク2.0.2.0』のように誰であろうと構成を遵守すべきというゲームもあれば、『ナイトウィザード』のように必要な立場に立たされた者が遵守すればよいというゲームもあるということです。さらに、誰でもいいから遵守すればいいというゲームだってあるでしょう。

 どのゲームが一本道を遊ぶのにちょうど良いかは好みの差があるでしょう。具体的には「構成の対象が広いほど、GMの期待に応えなきゃならない要素が多い」ということを留意してください。
 
 例えば、『ナイトウィザード』はPC枠とハンドアウトによって、自分がどのタイミングで、どんなテンプレートとして、どのNPCとどう関わるべきなのかを読み取るべきであり、GMも必要な場面までに遊び手に理解させなきゃなりません。そのために遊び手本人同士がメタ視点の立場から協議しても何ら問題ありません。
 
 GMの中には自分がメタゲームをしていることを理解せず、「遊び手がこの場面ではどう考え、どのような行動を起こすか」に関して強い構成を要求するシナリオを書きながら、物語のサプライズを期待してそれらをできる限り秘密にしてしまう人もいます。
 そんなシナリオを書くGMが決まって想定するのは「プレイヤーたちが自分のシナリオを推理してくれる」という甘い目算です。そして、その目算の根底には構成作家としての自己愛があります。
 タネ明かしをしたくないGMと呼びましょうか。
 俗に吟遊詩人GMと呼ばれている方々です。

 構成を完璧に実行しようとすれば、遊び手に委譲することが不安になってきます。もし彼が裏切ったらどうしよう…、もし彼女が理解してなかったらどうしよう…、そう悩み続けた挙句、もう全て自己完結しちゃえばよいやと至ってしまうGMが出てきます。
 
 そりゃプレイヤーに伝えて実行させるよりは、自分の口で語った方が正確に構成は実行されますよ。実際それをやっちゃう人も、それこそどこにでもいたものです。超人NPCが全部自分で解決しちゃうアレ。
 まぁ、「TRPGシステムを書式にした構成作家きどり」であって、お世辞にもGMではないですな。それでGMだと言い張るのなら、

 GM(笑)

 とでもしておきます。
 
 世のGMには「遊び手がこの場面ではどう考え、どのような行動を起こすか」にまで考えを巡らしてシナリオを組む場合、プレイヤーとの語り合いの中で、いかにプレイヤーたちが上手にアクトできるように演出指導ができるかということを第一にマスタリングをして下さい。
 物語を朗読する楽しみなど、GMという役割の中ではほんの少量に抑えるべき調味料に過ぎないことです。食材に相当するのは遊び手と語り合い、物語を構築するトークゲームにこそあるのですから。 
posted by 回転翼 at 09:01 | TrackBack(1) | TRPG雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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